闇は豊穣、闇は虚無、闇は死、闇は力。 ここがどこであるのかも正確にはわからぬその場所で、男、すなわち、黄金の髪のDIOは、しかし、己の褥たる闇こそは思うがままに存在しうるを知り、見苦しく取り乱すようなことは一度も無かった。 魔王を名乗る男からの取引の持ち掛けにはいささかの不快をおぼえたとはいえ、異世界、あるいは異次元の存在である、『己の知らぬ力』を持ちうるものたちと出会える機会というのはいかにも好ましい。 DIOは己の求めているものを知り、そして、それを手に入れるためならばわずかほどの躊躇も憶えぬ男であった。 100年前、己の義兄弟であった青年の中、正確にはその血肉の中に、己の力となりうる可能性を見出したとき、いままで己として生きてきた肉体を捨てることにすら、まったく躊躇をしなかったように。 力あるものは、正義を軽蔑する。秩序と呼ばれるもの、善と呼ばれるもの、愛と呼ばれるもののすべてを、軽蔑する。 それらが真の力を得るがためには足かせとなるのみを知っているからである。 だが同時に、力のあるものはプライドを軽蔑し、悪を軽蔑し、残忍を軽蔑する。それらもまた、力を得る前には、差しさわりとなるものに他ならないからだ。 故に、DIOは傲岸不遜な男であったが、それ以上に、求道的な男であった。真の力を持つものなら、それが何者であっても、軽んじることは決してしない。 たとえそれが――― DIOがその身体を掴めば、たやすく砕けて壊れそうな、繊細ではかない姿をした、心を持つビスクドールであっても…… だ。 次元の混沌は、夜の闇というよりもむしろ、夜と昼が生まれる前の、原初の闇に似ている。 目の前に呼び出した硝子の鏡に、とりどりに、さまざまな世界が映し出されては、また、移り変わる。 結界に閉ざされた夢幻の隠れ里、機械人形たちが争いを続ける観客の無い舞台、次元の狭間で同じ輪廻を繰り返す呪われた村。 それらの全てを手の中に、DIOは、珍奇で希少な本をながめるかのように、好奇心をもってすべてを眺めていた。 と、背後から音がする。DIOは、振り返らなかった。そこで何が起こっているかを知っていたからだ。 部屋の中央、豪奢なベットの上に置かれた古びたトランク。その蓋が開き、なかで眠っていた存在が眼を醒ます。 どことなく倦怠の色をにじませた声が、DIOの後ろから聞こえてきた。 「なにをしているの? DIO……」 「退屈しのぎだ」 「いつまでたっても、あきないわね。らしくもないわぁ…… ずっとそうしていたの?」 DIOの後ろで別珍と絹の触れ合う音がして、やがて、とん、と小さな靴がテーブルを踏んだ。黒いエナメルの靴、 そこに飾られたコサージュも、DIOならば二本の指でつまめてしまうほどに小さい。 銀の髪と、葡萄酒色のひとみを持ったビスクドール。美しい乙女のすがたをした生ける人形は、異界を映す鏡、そして、一本のワインとグラスが置かれたテーブルの上に、優雅な仕草で腰を下ろした。 これもまた、異界の存在。DIOにとっては興味深い存在のひとつ。 心を持つかのように振る舞い、力を持つ、生きた人形――― 水銀燈、という名のビスクドール。 彼女がトランクの中に入り、短いまどろみを楽しんでいた間、DIOはずっとこうして異界のさまを眺めていたのだ。 その手元を切れ長な目で覗き込んで、水銀灯は、無頓着に尋ねる。 「面白いものは、見つかったかしらぁ?」 「面白い、といえば面白い。だが、つまらないといえばつまらないな」 どこの世界でも、人間というのは似通った存在らしい。DIOは手を止めて、グラスに注がれた紅い液体を舐める。 水銀燈が初めて、好奇心の色を目に浮かべた。 「そんなに退屈なんだったら、わたしの世界を見せて頂戴」 「ふん? ……何か気がかりを残してきたのか」 「違うわぁ。ただの、暇つぶしよぉ」 DIOが手を離した硝子の鏡に、水銀燈の小さな、とても小さな手が触れる。映し出されたものをみて、DIOがわずかに真紅の眸を眇めた。そこに現れたのは古き都ロンドン。闇夜に浮かび上がる時計塔。 「まるっきり、変わってしまったわね」 水銀燈はつぶやく。 「嫌な世界だわぁ…… そっけなくて無骨で、そのくせ、乱雑で。お父様が私を作ってくださったとき、この世界はもっと綺麗だったのに」 ふん、とDIOは軽く鼻で笑った。「なんなのぉ?」と眉をつりあげる水銀燈の声に険が混じる。 「人形も、長く生きればもうろくするのか、と思っただけだ」 「あらぁ、私をそういう風に言うからには、理由があるんでしょうねぇ?」 DIO……? 水銀燈はテーブルの上に立ち上がると、傲然と細い顎をもたげて、DIOの真紅の眸を見上げる。その姿は…… おそらくは彼女にとっては不本意なことに…… DIOにとって、軽く不快な感覚と共に、懐かしさをおぼえさせるようなものだった。 「俺もかつて、この街に住んでいたことがあった。汚らしい、どぶと汚水の臭いがする、薄汚い街だったさ」 もっともお前のように、キャビネットの硝子の向こうに納まっていた人形には、知れぬ世界だろうがな。 そう言って、DIOはかるく手を横に振った。硝子から光と幻が失せ、ただの、黒曜石の鏡のようになる。 DIOの話のいくらかが、興味を引いたようだ。水銀燈は興がっているような顔をする。 「あら、わたしだって知っているわぁ…… あのころ、ロンドンには、たくさんの貧民たちがいた。みんな汚らしくって、卑しい、ジャンクばっかり。馬車の窓から見たものよ」 あなた、貧民の生まれだったの? 水銀燈はくすくすと笑いながら言う。 「面白いわぁ、とっても意外で。”帝王”DIOが、元は小汚いロンドンの裏路地生まれだったなんて!」 だが、答えるDIOの声もまた、たっぷりと余裕を含んだものだ。 「お前だって、一皮剥けば、ただの木と漆喰で出来たガラクタに過ぎないだろう。それに、”身体が”という意味だったら、この身体はみすぼらしい貧民のものではなく、生まれながらに高貴の血を受け継いでいるはずだぞ?」 がらくた、の一言で水銀燈は露骨に機嫌を損ねたようだったが、続きの話が興味を引いた。 「続けて頂戴」 「ふん…… 簡単な話だ。俺は、俺にとってより相応しい力を持った身体を得るために、 ”ヒト”として生きていたころの肉体を交換した。俺のために準備されていた、より相応しい肉体は、たしかに、貴族とやらの血のもとに生まれたはずだ」 「ああ…… あなたはそうやって、この星を奪ったのということね」 DIOの肩にある、星型をしたあざ。それは本来は、違う名前を持った、DIOと義理の兄弟のようにして育った青年の身体にあったはずのものだった。 100年前の記憶がかすかに脳裏にちりつき、すぐに消える。水銀燈は漆黒の翼をちいさく動かし、DIOの肩へと降り立った。人形一体の、わずかな重みが、肩に感じられる。 「自分から望んでつぎはぎのジャンクになるなんて、莫迦みたいだわぁ……」 水銀燈は、さも可笑しそうにいいながら、DIOの太い首に残る縫い目をたどる。小さい、とても小さい指の感覚が首に触れる。 「ジャンクとはな。違うといっただろう? より俺に相応しい肉体ならば、それは、はじめから俺のものになると決まっていたということだ」 この肉体のほうが、より、完璧だから、俺はこちらを選んだまで。DIOは傲然と言い放った。 「俺のものになるべく存在していたものを手に入れても、何も、間違ってはいないだろう」 「……あなたって、本当に、おもしろいヒトだわぁ……」 水銀燈のドレスが耳元でかすかに音を立てて、高価なアンティークドレスから古い香水の香りが立つ。古い薔薇のかぐわしい香り。 「そうね、でも、私の意見も同じかしら。私にもあるのよ、お父様が私のものにするために準備してくださったのに、まだ、他の人形たちに預けたままの宝物が」 「それを取り戻すまでは、お前は、”ジャンク”のまま、といったところか?」 あざけるDIOに、水銀燈は、けれど、しゃらしゃらと銀の鈴を鳴らすようにして笑っただけだった。 もしも過去の彼女を知るものがいたら驚愕しただろう。だが、彼女にとって、この男の側は意外なほどに心地の良いもの。 彼が口にする言葉ならば、”がらくた”という侮蔑であっても、他の無知なものたちが口にするような侮辱としては感じられない。 「そうねぇ、私も近いうちにあなたと同じになるわぁ…… 私の星を取り戻すの」 ねえDIO、と水銀燈はささやく。純血種の猫の狡猾な媚態。 「あなたのグラスから、私にも飲ませて頂戴」 「俺に、人形遊びの趣味は無いがな」 「違うわぁ、私は、あなたのパートナーでしょう?」 DIOの、広くたくましい肩に腰掛けた水銀燈は、背中の羽をたたみ、作り物の小さな手で白蝋の頬に触れる。 永遠に不老、美しい若者のまま変わることのない美貌、血に濡れた真紅の唇。 「だから、私はその葡萄酒だって飲めるわぁ…… とっても美味しそうだもの」 「可笑しな人形だ」 いや、とDIOはつぶやいた。 「可笑しな女だ」 「失礼ね、私は”人形”でも、”女”でもないわぁ」 水銀燈は、自分の手元に近づけられたグラスを、両手で持つ。そうしてその中に充たされたもの、吸血鬼の葡萄酒をひとくち口にすると、うっとりと微笑んだ。 「私は”淑女”よ。ねぇ、DIOぉ?」 吸血鬼+球体関節人形+古城… なんで耽美にならなかったんだろう…(本編が) ←back |