【未来への咆哮】
《1》



 ソドムの町を逃げ出すとき、後ろを見ることを禁じられていたにもかかわらず、ロトの妻は後ろを振り返り、そして、塩の柱になってしまった。
 そんな言葉が場違いに頭をよぎって、少女は、立ち尽くしたまま動くことができなかった。
 轟音、爆炎、硝煙、そして、砕け散って降り注いでくるガラスの破片。
 聳え立つ摩天楼の谷間で、凍りついて動けない少女の向こうから、異常なほどに巨きなものが、八本の脚をうごめかせながら迫ってくる。まるで、ミニチュアの街を覗き込む巨人。けれど、それよりも先に、きらめく光の驟雨となって降り注ぐガラスの破片が、少女の命を断ち切るだろう。
 鬼蜘蛛が放った攻撃で左右のビルのガラスの窓がすべて割れ、人々の上へと、刃の雨として降ってこようとしている!!
 「あ…… あっ」
 彼女は、思わず、声を上げかけた。きらめくガラスがレーザーや爆炎を照り返して七色に光る。
 水晶の雨。悲鳴を上げながら逃げ惑う人々の上へと、自由落下の速度で降りそそいで。
 ―――助けて!
 思わず彼女が声を上げかけた、その瞬間だった。

 《……から、愛してる―――ッ!!》

 ごおん、と、空気が激しく震動した。一瞬のうちに降り注いでいたガラスの破片が、すべて、すさまじい震動により、分子のレベルにまで分解される。
 少女は思わず振り返る。背後から放たれた空気の震動。……歌?
 振り返った少女の目に、一瞬、地下鉄の駅ロータリーの上に立った少女の姿が見えた。二つに分けた髪が暴風に吹き散らされ、ネオンブルーの色彩があざやかに輝く。
 彼女は最期まで搾り取った歌の残滓もそのままに、鋭く、叫んだ。
 「ロックさんっ、今です!」
 「うん!」
 青い、誰かが、側を駆け抜けた。
 呆然と見守るしかできない少女の側を駆け抜けて、少年がひとり、人間にはとうてい不可能な運動能力で、放置されたままでひしゃげた車のボンネットを踏む。
 強く脚がたわみ、屋根を踏み、そして、脚がビルの壁面を捉えた。
 駆け上がる。重力の拘束を無視したかのように、垂直のビルの壁を、強く蹴り、それによって新たな足場を得て。そして、少年は空中で猫のように身体を回転させると、巨大な蜘蛛へと向かい合った。その片腕が熱と光を掴んでいた。
 「……《チャージショット》、いっけ―――ッ!!」
 かっ、と光が、きらめいた。
 放たれたものは、純粋なエネルギーの波動。それが巨大な蜘蛛の顔にあった複眼へとあたり、瞬間、まばゆく赤熱し、次の一瞬にはその内部構造までを完全に破壊した。
 蜘蛛は空しく脚をばたつかせながら、崩れ落ちる。
 轟音と共に、己の脚が掴んでいたビルのバルコニーと共に、アスファルトへと崩落していく。
 頭上から塩のように白いものがきらめきながら降ってくると思えば、それは、粉砕されたガラスの欠片だ。膚に当たって痛いが、とうてい、ダメージを受けるほどではない。
 助かったの……? 少女は呆然と地面にくずれおちようとする。と、誰かが側へと走ってきて、少女の腕を掴み、ささえてくれた。ネオンブルーの爪。
 「まだ、危ないです。もうちょっとだけ走って!」
 「な、なん、なん、ですか、あなたた」
 「EDF地上部隊のものです。今、残存している住人の避難誘導を行ってます」
 戻って来た青い少年は、片腕が人間の形をしていない。油断なく左右へと視線を向けながら、
 「ミクさん、急いで!」と鋭く言う。
 「はい! ……みなさん! こちら、EDF地上部隊です! 非武装民間人の避難誘導を行っています!こちらへ!」
 少女は、茶色い髪の彼女は、ミクと呼ばれた少女の腕にすがりつき、ようやく立ち上がる。
 だが、同時に、恐怖のあまりに凍り付いていた涙が、どっと溢れ出してきてしまう。
 少女は泣きながらミクの腕にすがりつく。
 「お願いです、どこかで見ませんでしたか? あの人を…… プロデューサーさんがいないんです!!」
 「そ、れは……」
 思わずためらいかけるミクに、だが、青い服の少年が連続してエネルギー弾を打ち出しながら、「早く走って!」と叫ぶ。
 「まだ、次が来る! はやくシェルターにみんなを!!」
 「分かりました。……お願いです、立ってください!」
 泣きながらすがりついてくる少女を、ミクは、半ば強引に立ち上がらせる。どこかで片方を落としてしまったらしい金色のパンプス。血まみれの素足。
 「こっちに、暫定的にシェルターとして使っている映画館があるんです。急いで!」
 ミクは彼女の腕をひっぱり、走り出す。ヘリコプターが飛来するかのような激しい音が聞こえる。飛来してくる飛行型のバグ。
 「走ってください、すぐ、そこなんです!」
 泣きながら、少女は頷いた。そして、よろめきながら走り出す。他の人々も誘導に従っているようだった。目の前に、丸いドーム型の屋根を持った建物が見える―――
 ―――今は、多くの人々を収容している、コンサートホールが。


 

 収録人数4000人のミュージックホール。デジタルフルミキシング機能を持ち、非常に大規模なパイプオルガンのセット、大電力を必要とするコンサート用スピーカーなどにも対応可能なクラシック・演劇・ライブなどの汎用を目的とした施設。
 だが、今はほとんどの席が外され、地面には傷ついた人々、家族とはぐれた人々が、お互いに身体を寄せ合ってすすり泣いている。ミクに片腕をかかえられたまま、少女はホールの片隅へと連れて行かれ、そこの床に座らされた……
 「すいません、補給が間に合っていなくって、毛布やお薬が足りないんです」
 ミクは、ひどく苦しそうに言う。
 「痛いですよね。でも、我慢してください。お水ときれいな布を持ってきます」
 「……さん、は」
 少女は呆然とつぶやく。「え?」とミクは聞き返した。
 少女の虚ろになった目から、ぼろ、と涙が零れ落ちた。
 膝丈の白いワンピースから見える足は、どこで切ったのか、膝から下が真っ赤な血にまみれていた。顔も体もすすにまみれ、勿忘草色をしたボレロが引きちぎれている。肩までの淡い茶色の髪、おとなしそうな顔立ち。少女はぼろぼろと涙を流しながら、ミクのうでにすがりついた。
 「はぐれ、ちゃった、んです。プロデューサーさんと。わたし、だから、プロデューサーさんをさがして、わたし……」
 「……」
 ミクは、黙った。やがて少し優しい声を作って、「お名前は、なんと?」と問いかける。
 「萩原、雪歩、です」
 「分かりました。雪歩さんを探している人がいないか、聞いてみます。だからここで待っていてください」
 ね? と念を押されて、こくりと少女は、雪歩は頷いた。ミクは彼女の傍を離れ、走り出す。その表情は苦しそうに歪んでいた。
 人々のあいだを走り抜ける。負傷したEDFの兵たち、逃げ損ねた一般市民たち。防音の強い施設の中だから、外の戦況が伝わってこない。だからこそココを選んだのだと分かっていて、けれどもミクは、胸を掻き毟る焦燥が抑えられなかった。
 ドアを開けて、臨時の司令室になっている部屋へと飛び込む。そして、「ロックさん、海馬さん!」と声を上げた。
 「初音か。大人しくしろ!」
 「……!!」
 海馬は腕を捲り上げて、その腕に何本ものニッパーやドライバーを挟み込んでいた。側のコンソールに置かれた青いヘルメット。振り返ったロックマンは、ちょっと途方にくれたように笑った。茶色い髪、幼げな表情。
 「今、ちょっとバスターが動作不備を起こしちゃってるんだ。だから応急手当をしてもらってて……」
 「動作不備だと?」
 海馬が、いらだった声を上げる。
 「これは、故障だ! こっちの腕は使い物にならん。スクラップも同然だ」
 肘の辺りから、ロックの腕が、半ば分解されている。グリスの焦げる臭い。広げた指の向こうで、パーツを分解された腕の中で、配線が焦げ付いているのがミクにも見えた。海馬は何本かのコードを乱暴にニッパーで切り取り、フォームウレタンを吹き付けると、絶縁テープを包帯のように巻きつける。修理とすら呼べないような乱暴すぎる応急処置。
 「初音ッ。戦況を教えろ。避難民どもの規模と攻撃状況!」
 「あ……あ」
 ミクは、あわてて、近くのコンソールへと駆け寄る。通信傍受をこの中で最も得意とするのはミクだ。傍受されないように暗号化されたデータを拾い上げて、瞬時に解析する。ミクは思わず泣きそうになる。
 「西市街、被害甚大。撤退を始めています。レンジャー2・4・5、MIA。南市街は戦況を有利に進めていて、残存兵力は軽微。現在、中央市街の避難民は地下に潜伏中。航空部隊は有利に戦況を進めています」
 そこまで一気に言い切って、そして、振り返る。海馬は苦い顔で舌を鳴らした。
 「寄せ集めの、無能な義勇軍めが。俺たちがいなかったら、どうしているつもりだったのだ」
 EDF本来の兵力では、とっくに街ごと殲滅されていてもおかしくない状態。「避難民の状態!」と怒鳴られて、ミクは、「はい」と泣き声交じりに答える。
 「現在、このホールに避難している人数は、およそ400名…… 非武装民間人が7割。残りの3割も、戦闘不能状態。戦力としてのカウントは不可能です」
 「補給が足りんな」
 海馬は苦々しくつぶやく。
 「弾薬が圧倒的に足りない。銃さえあれば民間人どもを前線に立たせることも出来るんだが」
 「海馬さん、何言って……っ」
 「ただの仮定の話だ。EDFのバカどもは、竹やりで戦闘機が落とせるとでも思っているのか? ……初音、このシェルターの警備状況は!」
 「そ、外にEDFのみなさんがいて、警戒と反撃を行っています」
 答えもせずに、海馬は持っていた器具を乱暴に床へと放り出す。そして、おいてあったデュエルディスクを腕に装着しながら、大またで部屋を出て行く。ミクは半ば泣きそうになりながら、テーブルの上に腕を乗せているロックマンの側へと歩み寄った。
 片腕がフォームウレタンと絶縁テープで固められてしまっている。ロックマンはちょっと苦笑して、「失敗しちゃった」と言った。
 「チャージショットを連続で打ちすぎたから、中身が熱でやられたらしいんだ。ちょっとだけ冷却期間を置けって海馬さんに言われてる」
 「ちょっとだけって……」
 「こっちも、撃てるんだ。いちおうね」
 ロックマンは左手を上げて、ぐっと手を拳にしてみせた。力強く笑う。
 「大丈夫、僕らは地球を守るために頑張ってるんだ。僕も、もうちょっとだけなら、がんばれるよ」
 ミクさんはどうなの? そう問いかけられて、ミクは、思わず、ぎゅっと唇を噛む。その表情がみるみるゆがみ、目に涙がいっぱいにあふれた。ロックマンはうろたえたような顔になる。「どうしたの……」と問いかけるよりも、ミクが手を伸ばし、すがりつくようにしてロックマンに抱きついたほうが先だった。
 ミクは、声を上げてしゃくりあげる。ロックマンは思わず硬直しかけるが、すぐに我に帰って、「どうしたの」とミクの背中をそっと叩く。ミクはしゃくりあげながら言った。
 「……酷いです。こんなの、ひどすぎるよ」
 「ミクさん……」
 ミクは、思い出していた。茶色い髪の女の子。白いワンピースを血まみれにして。
 わたしのプロデューサーさんと、はぐれちゃったんです。どこなんですか? プロデューサーさんはどこにいっちゃったんですか?
 ミクをそっと抱きしめながら、ロックマンは苦い思いをかみ締める。避難してきた人々の殆どは、この都市をターゲットにした正体不明の魔王軍のものたちを相手に、なす術もなく逃げ惑うだけの一般人だった。
 今も皆、身体をお互いに寄せ合って、震えながら戦いが終わるのを待っている。ロックマンは、航空部隊へと回された仲間たちを信じていた。上空からの補給を断てば、勝機が見える。だが、それまでのあいだ、このホールを護りきることができるんだろうか?
 動かない腕がもどかしく、ロックマンは、硬く奥歯をかみ締める。戦わないといけない。守るべき相手が目の前に居る。けれど、こんな腕で、どうやって戦える?
 ミクはしばらく肩を震わせていたが、やがて、静かに息をすると、顔を上げる。袖でごしごしと顔を擦ると、赤くなった目元で、ちょっとだけ恥かしそうに笑った。
 「―――ごめんなさい、ロックさん。見苦しいとこ見せました」
 「ミクさん」
 「私、まだ戦えるから…… 出来ることがないか、海馬さんに聞いてきます」
 ロックさんは休んでいてくださいね。私、代わりにはなれないけど、がんばります。ミクはそう言うと、立ち上がり、駆け出していく。ロックマンがかけられる言葉を見つけるよりも先に、ネオンブルーの髪がドアの向こうに消えていく。
 ぽつん、部屋に残される。今も通信機は絶え間なくノイズを吐き出し、戦況を報告し続けている。だが、そのノイズはひたすらに絶望を掻きたてるだけ。焦燥を高めるだけ、というものに、ロックマンには思えた。
 「……くそっ!」
 思わず、左手で、壁を殴りつける。がうん、という虚ろな音が、ノイズの満ちる空間に響いた。




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