【悲しみの向こうへ】
≪11≫




 夕焼け。
 赤く、紅く、朱く、暮れていく。蝕まれて融け崩れていく雲。侵食されてゆく空。空気の匂い。
 何故だろう…… とハルヒは思った。遠くから聞こえてくる学校のチャイムの音が、奇妙にひずんでいるように感じられる。気のせいよね、たぶん。そう思って首を横にひとつ振り、それから、歩き出した。
 側を、魔理沙が付いてくる。今は飛んではいない。肩に箒を背負っていた。並んでみると魔理沙のほうが自分よりも少し背が高い…… おさまりのあまり良くない金髪を、感情豊かな飴色の眼を、ハルヒは横目でうかがう。一瞬だったつもりなのだが、魔理沙は気付いたらしかった。
「なんだよ?」
「なんで付いてくんのよ」
「心配だろ、ハルヒ一人じゃさ」
「余計なお世話よ!」
「残念ながら、余計って言われるおせっかいのほうが、ずーっと焼き甲斐があるんだよなぁ?」
 魔理沙は笑う。奥歯まで見えそうな笑顔は少女らしいとはとてもいえなかったが、生き生きとして、魅力的だった。ハルヒは思わずそっぽを向いた。魔理沙といると、たまに、調子が狂わされてしまう。彼女は誰もを自分のテンポに引き入れてしまうところがある。ハルヒにとっては一番苦手な種類の人間だ。
「学校に行くのか」
「ええ。ほかに、怪しいとこないもの」
「怪しいってどういう意味なんだよ?」
「……」
 ハルヒは口をつぐんだ。表情が悔しげに歪む。魔理沙はしばらく黙ってポリポリと頬を掻いていた…… やがて、何かが思いついたように、ニッ、と笑みを浮かべる。
「な、ハルヒ」
「何よ」
「コレ、見覚えあるか?」
 ピッ、と魔理沙は二本の指を立てた。そこには一枚のカード。いつものスペルカード…… と思いかけていたハルヒは、だが、それがまったく別の代物だと気付いて、思わず眼を剥いた。
「それ、海馬のじゃない!?」
「ああ、そうさ」
「あんた何考えてんの!? そんなのかっぱらったら、あいつ、世界の果てまで追いかけてくるわよ。冗談抜きで」
「いや、海馬から借りたんじゃないんだよ。落ち着けってば」
 魔理沙は、慌ててパタパタと両手を振った。
「コレ、最初から持ってたんだよ。私が」
「……なんですって?」
 魔理沙は困ったようにガリガリと頭を掻く。どういう意味かわからない、という様子だった。くるり、くるりと指先でカードを玩ぶ。手品師の鮮やかさをもった指さばき。
「んー、なんかこう、すっきりしないのは分かってるんだよ。あいつがコレを手放すはずが無いし。でもさ、私もどこでこれを入手したのかわかんなくって」
「……」
「海馬の野郎は別になんも気付いて無いみたいだっただろ? じゃあコレ、もしかして、あいつが持ってるのとは違うブルーアイズのカードだとか」
「そんなもの、世界のどこにもないって言ってるわよ、あいつは。見つかったら抹殺決定よね」
「じゃあ、隠さないとダメか。偶然とはいえ、コレ、けっこうマジで欲しかったんだよなー」
 ―――うなじの毛をちりつかせるような、違和感。
 こんなことは無かった。あるはずが無かった。まだ起こらないことに対してそんな風に感じることのナンセンスさを、ハルヒ自身のひねくれた聡明さがあざ笑う。だが、心の奥底に響く声に耳を済ませたとき、まったく違う答えを感じるのもまた、事実だ。

 これは、変化。
 望んでいた、そして、得られなかったもの。

 ハルヒの視線に気付いて、魔理沙は顔を上げる。金色のまつげをまたたく。ハルヒの表情の痛いほどの真剣さ。
「え、えーと……?」
「魔理沙。あんた、あたしと学校に来なさい」
「さっきと、言ってること、逆じゃないか?」
「そんなこと、どうでもいいじゃないの」
 ハルヒは、大またで歩き出した。魔理沙があわてて付いてきた。目の前には坂道がある。北校の校門へと続く心臓破りの坂道。
 左右に植わった桜の並木から、濃密な香りが立ち上がる。影が躍る。チャイムがまた鳴った。何重にもワイプした異常な音。
 あたしはこれを知っている…… とハルヒは思う。思って、硬く硬く、拳を握り締める。汗でぬめる手のひらに、一瞬、血の感触が錯覚され、すぐに消える。
 長い坂道に伸びる影。自転車を押して下れば、ほんの一分もかからない坂道。登っていくときには少し息があがるほどの傾斜。途中で、振り返る。街並みが見下ろされる。
「この世界って広いよな」
 魔理沙が何気なく言った。
「何ソレ」
「幻想郷は狭いんだよ。ここだと、空の果てってないんだろ。魔力体力あとえっと気力が続く限り飛んでも、世界の果てなんて無いわけだ」
 ちょっとうらやましいなあ、と魔理沙は言う。「別に」とハルヒはつっけんどんに答えた。妙に落ち着かない気持ち。
「自分でいけない世界だったら、どんなに広くたって意味無いわ。自分がいないどこかで面白いことがあったってわかんなかったら関係ない。逆に悔しいだけじゃない」
「そんなこたあ無いだろう」
 魔理沙の答えは意外に真剣だ。
「面白いことが無かったら、探しにいきゃいいんだろ。遠くにいけるんだったらこっちからでかけりゃいいじゃないか。歩けば犬も棒に当たる」
「ここに無いモノが遠くにだったらあるって?」
「事実、その通りじゃんか」
 ハルヒはふと、足を止めた。
「なんだ?」
 魔理沙が眼を瞬く。飴色の目。可愛らしい顔立ちの魔法使い。既視感。
「―――あんた、考えたこと無い?」
「何が」
 魔理沙は首をかしげた。柔らかい巻き毛が揺れた。ハルヒは喉の奥が詰まったように感じる。変な切迫感を押し出すように、怒ったような早口で、一息に言う。
「自分はすごくちっぽけで、この世界はむちゃくちゃに広くって、それで、自分はその中の平凡なたった一人に過ぎない。自分は、《誰にも選ばれていない》。そういうのがすごく怖いって思ったことはない?」
 たった一人にしか、告白したことの無い思いだった。
 彼にならわかると、そう思ったから、《言ってしまった》。不覚だった。理解されないものだと、あるいは、理解を中途半端に示されれば、逆に自分が傷つくだけだと知っていたのに。
 だが彼は、その思いを受け止めてくれた。少なくともハルヒはそう思った。
 だから今は、この言葉は、以前ほどにハルヒの心に爪を立てない…… だから言える。魔理沙はおそらく納得しないだろうと思ってはいた。だが彼女は予想したよりは真剣な顔で聞いてくれる。しばらくたってから、「んー?」と首をかしげた。
「世界中の人間はたくさんすぎて、自分はその中のたった一人に過ぎない……?」
「そうよ」
 魔理沙は、しばらく考えていたようだった。やがて言う。
「私は逆にうらやましいな、そんな思いが出来たハルヒが」
 ―――不意を突かれた。
 まるで予想外の答え。とび色の眼で見つめ返すハルヒに、魔理沙は、奇妙に苦笑まじりな口調で答えた。
「私の故郷の幻想郷ってさ、すごく狭いんだ。果てから果てまで飛ぶことも、住んでるやつ全員と知り合いになることも出来る。面白い場所だぜ。変なやつ過激なやつ妙なやつ、少なくとも退屈はしない。私は好きだ。いい場所だぜ」
「だったら……」
「でも、それだけなんだ。幻想郷って」
 魔理沙の声に、奇妙な寂しさが、滲んだ。
「全部を知っちゃったら、そこまでで終わりじゃないか。私は自分が《平凡》って思うくらいに私に似てる相手を見つけられなかったし、たぶん、これから先も無理だ。だから私はハルヒと逆だった。自分のことを考えて、こんなにバカみたいに好奇心が強くてむちゃくちゃな人間が、あんな狭い場所にすら一人いたんだよ。ってことは、幻想郷の外には、私が産まれる前の過去や、死んだ後の未来には、きっとむちゃくちゃで面白いやつがたくさんいるはずなんだって思ってた。それこそ、私程度なんてありふれてる、って言えるようになるくらいな。―――でも、私はそいつらに会いに行くことは出来ない」
 それに気付いたときは、悔しかったよ、と魔理沙は笑った。苦笑いだった。
「言ってみたらあんまり逆じゃないか。あのさ遠くから見たら、色々な色を混ぜすぎた絵とかって、灰色とかに見えないか?」
「何よそれ」
「灰色の世界ってのは、広すぎる世界を、遠くから見すぎた結果じゃないかって意味。虫眼鏡で見ればいろいろ面白いものがありそうで、面白い。実際、今のお前はそうじゃないか」
「……なに、そのきれいごと」
 一瞬、返事をする声が、詰まりかけた。
「あたしは、あんたみたいに思ったり出来ない」
「同じく。だから、私は今ハルヒにそういう話を聞けて新鮮だったし、嬉しかった。お前みたいなやつには幻想郷にいたら絶対に会えなかったから。自分を平凡だと思ってる奇人変人なんてさ、絶対にいないぜ、あそこには」
 長生きすると面白いことあるもんだな、と魔理沙は笑った。ハルヒは、反論しようと思った。だが言葉が出てこない。
 代わりに思い出してしまったのは、意味が分からなかった、後から思い出しても悔しさしか感じられなかったはずの、言葉だった。

  ……ハルヒ。よく聞けよ、憶えておいてくれ。
  お前にとってどれだけイヤで、うっとおしくて、無かったことにしたい過去の体験でも、俺にとってはそいつが全部《涼宮ハルヒ》って人間の構成要素なんだよ。
  まだ小学生だったのにお先が真っ暗になって絶望したお前も、奇人変人だった中学生のお前も、強引でわがままな今のお前も、どれをひっこぬいちまっても、《今の涼宮ハルヒ》を消すことになっちまう。
  お前は本気でそうしたいって思うかもしれん。だがなあ、それじゃ困るし、正直、ちょっと寂しいと思うやつだっているんだぞ? しかも、複数だ。
 
 はっと、胸を突かれたような気がして、振り返る。
「ハルヒ?」
 魔理沙が数歩ばかり先に言ってから気付いて、声をかけてくる。だがハルヒは、半ば呆然と、眼下にひろがる町を見ていた。
 夕暮れに照らされる町――― 平凡な地方都市。角砂糖のようなビルの群れと、切った紙を並べたような家の屋根。
 すべてが赤く染まる。夕暮れ。
「どうしたんだよ?」
 魔理沙の声がする。
「あ……」
 過去を、否定してはいけない。
 他の誰に許されたことであっても、《涼宮ハルヒ》だけは、それをしてはならない。
 ふいに、ハルヒの足が強く地面を蹴った。ハルヒは走り出した。魔理沙が眼を丸くする。
「おい、ハルヒっ?」
 返事は無かった。魔理沙は一瞬ためらい、それから、きゅっと唇をかみ締めて、走って追いかけてくる。
 埃くさい下足室。誰も居ない廊下。踊り場の窓から夕日の降り注ぐ階段。
 息を切らし、そのドアを開ける。激しく肩を上下させるハルヒの後ろから、魔理沙がそこを覗き込む。窓からの夕日に照らされた部屋。
 ―――あたしの場所。
 ハルヒの場所。
「なんかが間違ってる」
 ハルヒはつぶやく。魔理沙は、それを聞きとがめる。
「何かって、何が」
「分からない。でも…… こんなの間違ってる、絶対に」
 ハルヒは奥歯を硬くかみ締め、むしろ、自分に言い聞かせるかのように、つぶやく。
 地平線の向こうに半ば夕日が沈み、薄暗い光に照らし出されているのは、狭苦しい部室棟の一室。
 机の上にパソコンが置かれ、出しっぱなしのオセロが転がった部屋には、今、誰の姿も無かった。ハルヒは己の居場所だったはずの場所を、苦い思いに満ちて眺める。
 そこには、今、誰もいなかった。そこにいるはずの人々のひとりとて、いない。

  お前は本気でそうしたいって思うかもしれん。だがなあ、それじゃ困るし、正直、ちょっと寂しいと思うやつだっているんだぞ? しかも、複数だ。
  ここには、何があったって、本気でお前と会わなきゃよかったと思ってるやつなんていない。
  嘘じゃない。
  朝比奈さんだって、古泉だって、もちろん、長門だって。
  それに俺も。

 なのに、そんなことを言った彼は、今はいない。
 古泉は、まだ、傍に居る。けれど、朝比奈みくるは消えた。長門有希はこの手で倒してしまった。そして彼は、どこにも、居ない。
「―――なんで?」
 ハルヒは、呆然とつぶやいた。
「なんで、誰も居ないの?」
 魔理沙は、様子がおかしいハルヒを、いささか呆然として見ていた。だがふいに、背後を振り返って、その瞳を見開いた。
 影が長く伸びる。
 ハルヒの影が、長く、長く、伸びていく。隣に並んだ魔理沙の影を追い抜いて、はるかに長く。
「おかしいじゃない。ここは、あたしのSOS団の場所よ。あたしの場所よ。みんな、ここにいなきゃいけないのに」
「おい、ハルヒ……」
「どうして、こんな間違いが起こってるの……」
「ハルヒっ!」
 ふいに、肩を、掴まれた。
 ハルヒは振り返るなり、怒鳴ろうとした。だが魔理沙のほうがずっと速かった。一瞬の迷いすらなく、片手を振り上げる。

 パン、と音がした。

 乾いた音。ハルヒは片手で頬を押さえた。呆然と魔理沙を、見つめ返した。魔理沙は痛いほどに真剣な顔をしていた。
「お前、自分の影を見てみろよ」
 魔理沙は、冷静極まりない声で言った。
「こんなことがお前の望みなのかよ?」
「あ……」
 ハルヒは、振り返った。
 そこには、己の影がある――― 長く長く、異様なまでに、長く伸びた影が。
 影が揺れた。かすかに踊った。そして、元の通りにもどる。
 まるですべてが【錯覚】だったかのように。
 だが、そんな勘違いで自分をごまかそうとするほど、ハルヒは、愚かな人間では無い。呆然と今は元の通りとなった己の影を見つめる。隣の魔理沙のひとみが、横からの光を受けて、山猫のように強く光る。
「なんか今、起こりかけたぜ」
「そん…… そんなの」
「たまにあるんだ、こういうの。霊夢のやつもガキのころにたまにやってた。本気で、壊したいって思うと、自分の結界を変な形にゆがめたり伸ばしたりしちまうんだ」
「―――ッ」
「おい、ハルヒ」
 魔理沙が、ためらいがちに手を伸ばす。頬に当てていた手に、手を重ねられて、ハルヒは初めて、自分が今にも泣き出しそうな顔をしていたと気付く。
 健康的な体温を持った手。かすかに汗ばみ、どこかしら、日なたで乾かした草のような匂いのする手。
「私が言えた話じゃないが、今のお前、私は結構好きだぜ」
 魔理沙の目は、真剣だった。琥珀色のひとみ。
「自分勝手だろうがなんだろうが、過去に鬱々としてようが、そういう結果が今のお前なんだったら、私はそいつが悪いことだとは思わない。割と頭いいくせに、神経質で躁鬱っぽいとこも面白いぜ。だいたい私が知ってるお前は、《仲間を取られて腹を立てて、探し回ってるお前》だけなんだから」
 だから、と魔理沙は言った。
「いきなり昔に戻る結界とかを張ろうとしたら、ぶんなぐってでも止めさせてもらうからな。悪いが私も自分勝手なんだ。気に入ってる仲間を、そんな適当な理由で無くしたくない」
 じんじんと頬が熱くなる。
 呆然と顔を見つめると、魔理沙は、八重歯を見せてニッと笑った。カッと顔が熱くなった。ハルヒはとっさに魔理沙の手を振り払った。怒鳴り返す。照れ隠しのように。
「もう殴ってるじゃないっ」
「おー? あー、そうだったか」
「だいたい今の何よ。あたしのどこが神経質で躁鬱よっ。くどいてんの!? 悪いけどあたし、百合には興味ないからねっ」
「別にくどいてなんか…… あーもう、なんでハルヒまでアリスとかパチュリーみたいなこというかな」
 魔理沙は困ったようにガリガリと頭を掻く。なんだこいつ。にらみつけると、お手上げ、というゼスチャーをしてみせる。さっきとも落差がなんとも情けない感じ。
 だが、おかげで、頭が冴えた。
 ハルヒはふるりと頭を横に振る。黄色いリボンが揺れた。大またで歩いていって窓を開け放つ。埃っぽい部屋に、夕方の風が、吹き込む。
「―――そうね」
 魔理沙の言葉が、何かの糸口を、導き出した。
「たしかに、あんたの言ってることにも一理あるんだわ。あたしたちはみんな寄せ集めだけど、今は仲間。だから、過去をどうこう言っても仕方ない」
「前向きになったな」
「あんたの手柄じゃないからね」
 哀しいことがあると、思うことがある。
 【全てをやり直したい】と。けれど。
「叶いすぎた夢は悪夢に終わる」
「何だそれ?」
 魔理沙がぱちくりと眼を瞬いた。「さあ」とハルヒは答える。
「たぶん、有希が読んでた本か何かのエピグラフじゃない」
「はぁ……」
「どんなに欲しがったって、夢は所詮夢。寝てる間の暇つぶしか、起きてるときの暇つぶし以上の何者でもない」
 夢は、時に慰めとなり、麻酔となる。痛みに満ちた道筋を慰撫するための。
 だが、それにおぼれてしまえば、果てに待っているものは破滅でしかない。
「ムカつくわ」
 ハルヒは小さくつぶやいた。「はぁ?」と魔理沙が金色の眉を寄せる。
「いちいち、腹立つやつがいるのよ。そいつがあんたみたいなこと言ってたの。ただ、魔理沙の何倍もまどろっこしくってダルそうな口調でね」
「誰だ? 知り合い?」
「もっと、近い関係」
 会わせてやるわ、そのうちね、とハルヒはつぶやいた。そして窓から身を乗り出す。そのまなざしは、決意を込めて強く、そして、迷い無い。
 視線の先には、屋上が、ある。




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