【悲しみの向こうへ】
≪12≫



  
 休憩室のソファの上に、こなたが寝かされている。長い青い髪が丁寧に分けられていた。子どもっぽくか細い体つき。細い腕の向こうに、華奢な骨格が感じられる。小鳥のように細い骨。眼を閉じた表情のせいで、ほんの小さな子どものように見える。
 言葉は手を伸ばし、ひたいに張り付いていた髪のひとすじを、そっと取り除けてやった。毛布をかけなおす。冷たくすべらかな手で頬を撫でて…… そして、立ち上がった。
 ちゃり、と腰の得物が、鍔鳴りをした。
「どこへ行くつもりなんだ」
 部屋を出た瞬間、硬い声がする。言葉は振り返った。遊戯だった。
 厳しい顔で、言葉をにらみつけている。夕暮れのような紫色のひとみ。厳しい表情をうかべた小柄な少年は、だが、言葉の目には、その硬さの分とおなじくらいに脆く見えた。言葉は淡く微笑む。
「少し表へ。狩りに行きます」
「何を言ってるんだ…… 今は皆、掃討に手を回せない。桂さん一人で敵と戦う気か?」
「はい」
「―――ッ!?」
 まるでマントでも羽織るように学生服を肩にかけているのはいつもどおりだが、今日は、その腕に火傷のあざが焼け付いている…… と言葉は思う。通したくても服に袖が通らないだろう。気の毒に、と言葉は思った。こなたが倒れたのも、遊戯が負傷したのも、言葉のせいだといえるだろう。正確に言えば、言葉一人ならば戦えるはずだった戦いに、彼ら二人を同行させてしまったからだ。
 海馬の言うとおりにデータの摂取を行ってくれたことは、二人に対して感謝していた。だからこそ、こんな結果に終わってしまったということが、申し訳なくて仕方が無い。
「私ひとりのほうが安全なんです。さっきのことで分かったでしょう?」
「敵に、俺たちの攻撃が通らないということか? だが……」
「ひとりのほうが身軽なんです。それに、私がここにいたって何も出来ないじゃないですか。琴姫さんみたいに手当てをしてあげられるわけでもないし、こなたさんみたいにみんなの気持ちをなごませてあげることもできない」
 言葉の口調は淡々としていた。自分自身の言っていることが真実だと信じる、素朴な愚劣さ。
「私のとりえは戦うことなんです。だから、それを生かさないと」
「桂さん……」
「ここにいても私は役に立たないかもしれないけど、ちょっとでも敵の数を減らせば、こなたさんや遊戯さんへの危険を減らすことが出来る。そうじゃないですか?」
「君がひとりで危険な目にあってると思ったら、俺たちも心配なんだ」
 遊戯の口調に、言葉は、真っ黒い眼をすこしだけ見開いた。だが、すぐにその目を細め、くすり、と笑みを漏らす。
「心配、だなんて――― あんまり、言い馴れない台詞は言わないほうがいいですよ、遊戯さん」
「……っ」
「それに、遊戯さんなら分かるはずです。私には、これしかない」
 言葉は、腰の得物に、手を当てた。
「もしもこれを奪われてしまったら、私、何のためにここにいるのかわからなくなっちゃう。それがどれだけ辛いか遊戯さんなら分かるでしょう? もしも、遊戯さんがそのカードを取られてしまったら? あなたが決闘を失ってしまったらどう思います?」
 遊戯は返事をしなかった。
 できるはずがなかった。
「ここにいるのは安心だけど、ちょっと、つらいです。だってみなさん、何にもしない私にだって優しいんだもの。親切すぎます」
 言葉は苦笑した。愛らしい、寂しい笑みだった。
「だから――― 行ってきます。こなたさんのこと、よろしくお願いしますね」
 丁寧に頭を下げて、そして、言葉は歩き出す。遊戯はその後姿を見送ることしかできなかった。
 長い黒髪、雪白の膚、漆黒のひとみ。セピアを基調とした制服。優雅で儚げな、モノトーンの、後姿。
 絆を持たない魂、と遊戯の心の中で誰かがつぶやいた。この世の誰からも絆を持たれることを拒んだ、孤独な魂。
 遊戯はキッと唇を噛むと、きびすをかえした。言葉が行ったほうとは逆の方向へ。足早に歩き出す。胸の鎖が音を立てた。
 階段を駆け上り、作戦本部のある二階へ。ドアをあけはなつ。開けるなり怒鳴った。
「海馬っ。海馬はいないか!?」
 長身に、傲然とした青い瞳。海馬はこの場所に置いては作戦立案メンバーの中に加わっていた。だから、ここにいるはずだ。そう思ったのだが。
「遊戯さん?」
「おお、武藤君。どうしたのかね」
 帰って来た返事に、思わず、拍子抜けしてしまう。
「琴姫さん…… ストーム1?」
「大丈夫ですか? どうしたんでしょう。どこか痛むんですか?」
 琴姫が、心配そうに側へとやってくる。琴姫は遊戯よりもいくらか背が高かった。額に手を当てられて、思わず赤面しそうになる。
「ああ、いや、そうじゃないんだ。海馬はどこにいる? 話したいことがあるんだが」
「海馬くんならおらんよ。さっき、遊戯くんたちのもってきてくれた情報を開示してくれるなり、飛び出していってしもうた」
 ストーム1が答える。淡々とした口調。遊戯は絶句した。
「あいつも、行ったのか?」
「現場を見んと確信がもてないと言っての。すぐに戻るように言うたのじゃが、ピコ麻呂殿が止めても、まったく聞いてくれんかった」
「じゃ、じゃあ、ストームさんたちは」
「すぐに追いに行くべきじゃと思うての、今は手配じゃ。首尾が上手く行き次第追いに行くつもりじゃが」
 ガシャン、と音がした。拳銃の銃身をスライドさせる音だった。
「海馬くんのもってきてくれた情報の意味が大きすぎた。今は各地のEDFへの連絡を行っているから、実際に出撃するまではもう少し時間がかかる」
「―――桂さんも、行ってしまったんだ」
 遊戯は、声を絞り出した。琴姫が、「えっ」と眼を見開く。
「言葉さんが……?」
「ひとりだと危ない。だが、俺じゃ彼女を止められない。ついていっても足手まといになるだけなんだ。だから」
「落ち着きなされ、武藤くん」
 再び音がする。対人用にはあきらかに口径の大きすぎる拳銃の動作を確かめ、ストーム1はホルダーへとそれを戻した。通常装備のアサルトライフルに加えて、彼は、非常時のための拳銃を常に携帯していた。マン・ストッピングパワーが大きすぎて、通常の用途ではあきらかに無用の長物だというサイズの銃。遊戯は一瞬、海馬のことを思い出した。
「ワシらも同じことを考えとるんじゃよ。海馬くんを追わねばならんが、今、彼を追いかけたところでなんにも出来やせん。威嚇攻撃されて追い返されるのがオチじゃ。言葉ちゃんなら分からんが…… 二人が合流していることを祈らんとならんの」
 だから、と熟練の老兵はゆっくりと言う。
「彼の役に立てるだけの装備を固め、確実に援護ができるようになってから、追跡する。それがワシらの結論じゃ」
「……」
 正論だ、と遊戯は思った。
 何の役にも立てないのに、ただ心配だから、ただ放っておけないからという理由で付いていって、足手まといになる。それこそ海馬が一番嫌う行動のパターンだった。海馬は、無能な人間、己の身の程をわきまえない人間を何よりも嫌う。その徹底しすぎた実力主義の冷たさを、遊戯は、痛いほどに知っていた。
「遊戯くんも、準備をしておいておくれ」
 ストーム1は、今度は、ホルダーに装填されたクレイモア地雷の確認を始める。
「手数がそろったら、すぐにワシらも後を追う。それが大人のやり方じゃよ」
 違う、と思った。だが、何が違うのか、まったく分からない。
「ああ……」
 遊戯はあいまいに頷く。頷こうとする。
 だが、そのときだった。
「何それ……?」
 後ろからふいに、声が、聞こえた。
 ハッと、弾かれたように振り返る。「こなたさん!?」という琴姫の悲鳴が先に聞こえた。こなたが、ドアにすがるようにして立っていた。顔が真っ青だった。倒れそうになるこなたを、琴姫が、慌てて駆け寄り、抱きとめる。
「泉さん……?」
「何それ、何それっ。王様、ひどいよ! そんなの無いよ!!」
 こなたは悲鳴のように叫んだ。はだしのままの傷つきやすそうな足。「落ち着いてください」と必死でなだめる琴姫の腕の中で、こなたは、激しくもがいた。
「だって、王様って社長の友達じゃなかったの!? あたしは言葉ちゃんの友だちだよ!」
「泉さん、落ち着いてくれ」
「だって、だって……!」
 こなたの声は、半ば、泣き声だった。しゃくりあげるように肩が震える。琴姫に肩を抱きかかえられたまま、床へと座り込む。ぱた、ぱた、とリノリウムの床に涙が落ちた。
「―――役に立つだけが友達じゃないもん。友達だったら、絶対に心配なはずだもん!」
「だが、泉さん、今のままじゃ俺たちは海馬たちの役には立てな」
「王様、そんなに嫌われるのが怖いの!?」
 殴られたような、衝撃だった。
 思わず、遊戯は絶句する。身体が凍りついたように感じた。いつの間にか手を止めて、ストーム1が二人の様子を静かに見ていた。こなたは何も気付いていないようだった。泣きじゃくり、肩を震わせながら、声を絞り出す。
「社長もね、言葉ちゃんもね、素直じゃないキャラだよ…… こっちがいっしょうけんめいやっても、イヤだったらこっちのことキライになるよ。そういう子たちだよ」
 でも、とこなたは声を絞り出す。
「でも、それって逆だよ。みんなそうだったんだよ。社長も、言葉ちゃんも、周りの人みんなにひどいめにあわされてきたんだよ。どんなに相手が好きだって、がんばったって……!!」
 遊戯はふいに思い出した。
 海馬のことを。
 幾度となく見た、その、孤独な後ろ姿。長身痩躯、腕を組んで彼方をにらみつけるまなざし。
 友情などくだらないと唾棄するように言い放ち、信じるものは己自身だけだった。だが、彼は少なくとも誠実な男ではなかったか。決して己自身の信念を、その頑なな思いを裏切らない男ではなかったか。
 いつ見たのかわからないその印象が、ふいに、モノトーンの儚げな少女に重なった。一人、白刃を携え、歩き去る少女。……黒い瞳の言葉。
「あたしたちまで、そんな酷いことしなくたっていいじゃん! どんなに社長や言葉ちゃんがあたしたちのこと嫌いでも、ピンチだったら助けに行けばいいじゃん! 仲間だからって、大好きだからって言えばいいじゃん! ―――そうじゃなかったら、友達の意味無いよ!!」
 一息に叫ぶと、こなたは、ふいに、むせ返った。
 激しく咳をする。琴姫があわててその背中をさすった。ストーム1が立ち上がり、ソファの近くに置かれていた水のボトルを手渡す。ひゅうひゅうと喉の鳴る音がした。頭のどこかで遊戯は思い出していた。こなたは、闇の放つ瘴気に喉を焼かれていたのだ、と。
 ―――ふいに、視界を覆っていた膜の一枚が、はがれおちたような気がした。視界が一気にクリアになる。呆然とした。
 自分は、なんとくだらないことで、悩んでいたのか。
 立ち尽くす遊戯は、ふいに、耳元でくすくすと笑うような声を聞いた。他の誰にも聞こえない声、もう一人の自分の声だった。
《泉さん、よく言ってくれたね。ボクも、いいかげんキミのこと殴りたくなってた頃だった》
 やりたくっても無理だけど、と楽しげに言う。遊戯は思わず情けないことこの上ない顔になる。
「相棒……」
 一見気弱く思えるほどに優しい少年の声は、静かに、言った。
《泉さんは、いい子だよね》
「……」
《もう一人のボクは、海馬くんや、桂さんのこと、友達だと思う? ……仲間だって?》
 遊戯は、しばらく、その言葉の意味をかみ締めた。
 ―――やがて、深く頷いた。
「ああ」
 胸の鎖が鳴った音で、気付いたらしい。こなたが顔を上げていた。目が涙でぼうっと曇っている。やがて、掠れた声で、「もう一人の遊戯くんと話してた?」と問いかける。
「殴ってやろうかと思っていた、と言われたぜ」
 遊戯が言うと、こなたは、眼をまたたいた。目の下にちいさなほくろがひとつ。手を伸ばし、そのあたりを拭ってやる。青ざめていた頬に、ゆっくりと、血の気が戻ってくる。
 琴姫は終始無言だった。何を思っているのか言いかけて、けれど、くちびるを噛んで声を飲み込む。振り返り、ストーム1を見た。老兵は緑色のミラーシェードの向こうで、すこし笑ったようだった。
「どうするんじゃ、遊戯くん、泉くん」
「俺は」
 遊戯は、言葉に詰まりかけた。だがこなたのすがるようなまなざしに気付いて、迷いは、一瞬で吹っ切れた。
「―――海馬を探す。桂さんを追いかける。泉さんはどうする。俺と、来るか」
「え……」
「彼女は消耗しとる。足手まといになるかもしれんぞ」
 ストーム1の口調は淡々として冷静だった。事実だけを伝える口調。
「いいんだ」
 だが、遊戯の返事もまた、完結だった。すべて心に決まっていた。
「泉さんが足手まといになるような俺だったら、最初から行っても無駄だ。絶対に、泉さんが邪魔になるような無茶はしない」
「なるほど、彼女がお前さんのリミッターか」
「ああ。……どうする、泉さん」
 遊戯は振り返った。こなたが、呆然としたような目で、遊戯を見ていた。
「あ、あたし、……いいの? ほんとに、王様の、邪魔になるかも、しれないのに」
「キミが守れないような状況に陥るくらいだったら、行かないほうがマシだ。逆に言うと、泉さんがいないと、俺はひどいミスをするかもしれない」
 ほんとにね、と遊戯の頭の中だけで声がした。もう独りの自分が少し笑っていた。思わず遊戯は顔をしかめる。
 それを見て、こなたの表情が、ふにゃりと緩んだ。
「―――あ、今…… 相棒くんが、なんか、言った?」
「え?」
 こなたが琴姫の腕をそっと押した。琴姫が心配げな顔で手を離す。こなたはよろめいた。遊戯は思わず腕を差し出す。その腕に、こなたがすがる。
「あたしさ、相棒くんともよく話すからさ。なんか、そんな気がしたんだ、今」
 顔を上げて、こなたは、ちょっと笑った。どこか臆病な笑い方が不思議で、胸のどこかが握り締められたような感覚を遊戯は憶えた。
「もしね、あたしが相棒くんみたいに王様のサポートができるんだったら、あたしも行く。それでいいかな。できると思う?」
 遊戯は、一拍の後、深く頷いた。
「ああ」
 ストーム1が立ち上がった。振り返った二人は、伝説の老兵を見る。止められるか、と同時に思ったようだった。思わず腕でこなたを庇う遊戯と、その腕を握り締めるこなたと。だが、ストーム1は咎めはしなかった。
「……子どもの論理、じゃな」
「ストーム1、それは」
「悪い意味じゃあない。若者が希望をもてん世界では、ワシらが戦う意味もない。キミらがそう言ってくれると思っておったよ。それでこそワシらも後塵を帰すことができる」
「ええ、本当に」
 琴姫も同じように言った。少し、微笑んでいた。逆に遊戯はめんくらった。無謀を咎められて、止められると思っていたのに。どうして?
「EDFの隊員は、無断で死ぬことを許されない。助けられる仲間を見捨てることもまた然り」
「どういう、意味……」
「ワシらも、海馬くんや桂くんが心配じゃったということじゃて。だが、大人のできることには限界がある。じゃから……」
 すうっ、とストーム1は深く息を吸い込んだ。
 一喝した。
「行ってこい。ワシらが駆けつけるまで、彼らを死なせるな。絶対に!」






 ―――もうずっと前から、死に場所をさがしている気がしていた。
 大切なものを何ひとつ持たず、流れるときの中でぼろぼろに摩滅しながら、ただ、生きるためだけに生きているのは、あまりに哀しかった。
 悲しみと戦うためだけに生きつづけて、こんなにも磨り減って、いまや己は一本のナイフのようだ。触れるものはすべてずたずたに切り裂かれる。それだけのために息をしている。誰かを壊すために。
 一度振り返れば、おそらくは打ちのめされて、二度と立ち上がれなかった。己の生きた道はもはや血みどろだ。己の血、他人の血、愛するものの血、何もかもが血だらけ。
 どうすればいい。もっと、戦えばいいのか。もっと、研ぎ澄まされればいいのか。折れるまで戦えばいいのか。
 大仰なものなど何も望まない。ただ、答えが欲しい。
 この生き様の答えは、どこにあるというのだ。

「どこにあると思う?」

 少女がひとり、屋上に立っている―――
 長い黒髪が風に吹かれている。顔にかかる一筋の髪を片手で押さえて、少女は、うっとりと微笑んだ。
「私にはわからない。そういう考え方自体、とても不思議だわ」
 もう答えなんて、とっくに分かっているくせに。
「ねえ、だったら、終わればいいのに。悲しいの、嫌なんでしょう。生きるのも嫌なんでしょう」
 なら、終わりにすればいいんだよ、と少女はかぎりない無邪気さでささやいた。
「可哀想にね。涼宮さんの気まぐれがなかったら、とっくに目的も達成できてたはずなのにね」
 同じ計算式を、同じ条件で演算する。答えは当然同一になる。何度繰り返しても、同じことだ。
「―――まぁ、機械的な計算じゃなくって、実地で観測データを得られるのは貴重だけど」
 でもなんだか変な気分になりそう、と彼女はつぶやいた。風はやまない。長い髪がうなじを撫でる感触を楽しみながら、彼女は指をフェンスにかける。
 同じ夕焼け、同じ時間軸、同じ設定環境、同じ登場人物。
 性能が限られた彼女という端末では、本来なら摂取不可能なほどの観測データの量。やりがいを感じるのは事実だ。だが、実際のところ、彼女がここに存在しているのも、本体からの命令を無視してデータの摂取を続けているのも、最終的なところではバグにすぎない。変な感じ、と彼女は小首をかしげる。片手を胸に当てた。
 胸ポケットには、ラミネート加工されたしおりが一枚、収められている。ホログラフのフィルムがパッケージされていて、さまざまな角度から光を当てると、どことなく古風なイメージの宇宙船の像が浮かび上がる。デジタルリマスターされた古典SF映画の公開記念グッズ。どこで手に入れたものなのか。価値はともかく、希少なものであるのはまちがいなかった。
 本来の持ち主にとってはともかく、彼女にとって、何の意味も無いデバイスではあったのだが。
「まぁ、面白いから、いいか」
 ポケットから手を離し、くちびるに一本の指をあてる。彼女は、にっこりと微笑んだ。そして、読み込んだデータを元にして、空間を充たしている方向を持たないエネルギーたちに、指令を出し始める。
「じゃあ、やりましょうか。何回目か忘れたけど、とにかく、リテイクよね」
 チャイムが鳴る。一度目のチャイムは正常。だが、二回目のチャイムはわずかにワイプする。三度目は、そのワイプを倍化したものとなる。ひずみは影響しあって大きくなっていく。
「今度は何が見られるのかしら。楽しみだよね…… ねぇ?」
 彼女は、朝倉涼子は、まるで親友と待ち合わせをしているように楽しげに、ベンチに腰掛け、背もたれによりかかる。
 その口調は、まるで親しい友へと語りかけるかのようだ。
 だが彼女の傍には、その言葉を聞くものは、誰一人として存在していない。




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