【悲しみの向こうへ】
≪13≫



 ―――かつて、養父の葬儀の後のことを、思い出す。
 KCの筆頭株主の変化、それと、海馬剛三郎の自殺。二つのことを関連付けて考えることはあまりに容易だった。だから、海馬がやったことはたった一つだけだった…… つまり、【事件の前後を入れ替えること】。
 剛三郎はかつて幼かった息子を交通事故で無くし、その後、養子として迎え入れた兄弟とも不仲続きだった。軍需産業を日本国内で行うことには風当たりが強く、老いは容赦なく彼を蝕み、孤独へと追いやる。日本人の成人男性の自殺率が最も高まる年齢と、剛三郎の年代はほぼ重なっていた。海馬は準備していたコネクションと金とをふんだんにバラまき、同時に、己自らがメディアにも登場することで情報操作に追い討ちをかけた。不仲だった義父が自殺し、それでも健気に跡継ぎとして振舞う若干15歳の少年。そのイメージを簡単に定着させるには、海馬自身の若年に見合わぬ冷徹な様子が邪魔をしたが、その部分には弟の存在が手伝ってくれた。蒼白な顔で兄の背後にたたずみ、時に、フラッシュにおびえたようにその服の裾にすがる幼い弟。メディアを騙すことは実に簡単だ。剛三郎が教えてくれたように振舞えばいいだけだったのだから……
 KCは、海馬瀬人その人のものとなった。追い落とし滅ぼすべきものは頭上にはもうない。あとはひたすら、己のものとなった城塁の中で戦い続けるという新しい日々が訪れる。まだ若く経験の浅い少年を大人たちは侮ったが、海馬は、その愚かさに十分すぎるほどの報酬を持って答えた。利用するものとされるもの。喰うものと喰われるもの。その図式を幼い日から、それこそ、骨の髄にまで叩き込まれていた彼だ。生きるためにでなく戦うものたちの手腕はいかにも手ぬるく、また、甘い。
 そう、戦うのは、生きるためだった。
 獅子や虎が生まれながらに強いのは、それが、生きる術であるからだ。駿馬の疾駆に一人とて叶うものがないのなら、それが、たった一つ彼らの生きる道であるからに相違ない。
 常に、背後にはぽっかりと深淵が口を開き、虎視眈々と海馬の姿をうかがっていた。その若い命を啜り、倣岸さと誇り高さとを汚辱に堕とす機会を狙う死肉あさりたちが、その闇の中にひしめいていた。
 間違いなく、海馬は悟っていた。もしも己がどこかで一歩でも道を踏み外そうものなら、己は間違いなく、養父と同じ道を辿る。誇りは穢され、生き様は貶められ、そして、卑小さと哀れさという耐え難い名だけが墓標に刻まれる。そう、バベルの塔の頂上から己の父を追い落としたとき、海馬はまったく同じ玉座に座ることを選んだのだ。頭上にはダモクレスの剣が冷たく光り、踵下には深淵のハデスより凍りつく風が吹きつけるその場所に。
 後悔など、愚か者のすること。同情と安逸とが生ぬるくよどんだ場所で、己の涙の味を楽しむことができるものだけに許された堕落のこと。
 たった一度でも悔いたなら、あとは、墜落だけが待っている。ゆえに、海馬瀬人はけっして悔いない。振り返らない。引き返さない。
 なぜなら、彼が振り返ったならば、そのときには彼は既に―――

 ……。

「薙ぎ払えッ!」
 オオオォン、と咆哮がそれに答えた。白い龍が、その顎にまばゆい雷火を咬んだ。そして一瞬の後、恒星の焔、青白い熱線が放たれて、一瞬のうちに、目の前にひしめいていた闇の眷属たちを焼き払う。
 轟音、爆風。海馬はためらうことなくその只中へと駆け込んだ。伸ばされる牙が鈍い音を立てて腕のディスクに防がれる。海馬は手を伸ばし、座り込んでいた少女の細い腕を掴み取る。
 黒眸が、一瞬、呆然と見開かれた。海馬の姿がそこに映りこむ。海馬は、力を込めて、その身体を引きずり上げた。
「立て、桂ッ」
「あ… あっ」
「走るぞ! 道を拓け、ブルーアイズッ!」
 オォン、と《青眼の白龍》が応えた。鋭く伸ばされた指先のほうへと、再び、《滅びのバーストストリーム》が放たれる。コンクリートの壁が赤熱し、一瞬の後、飴のように鉄骨が融け落ちる。頑丈なはずの壁が砂糖細工のように崩れ去っていく。
 海馬は、半ば、言葉の身体を引きずるようにして、走り出した。
 後背を護らせるために一体の《青眼の白龍》を残した。彼女の力添えがあってのことか、追ってくる魍魎たちの姿は無い。足をもつれさせがちの言葉を、途中から海馬は、半ば抱き上げていた。足音と、乱れた息だけが響き渡る。誰もいない夕暮れの街。
 広い場所にたった二人ではあまりに不利だ。どこか、建物のなかに立てこもらなければならない。海馬はなんのためらいもなく、桜の並木が左右に立ち並ぶ坂道を、駆け上がることを選んだ。夕暮れが葉桜を透かして降り注ぎ、融けた飴のように赤い光を注ぐ道を、ただひといきに、駆け上がっていく。
 だが、さすがに校舎が見え、その下足室へと飛び込んだ辺りで、さしもの海馬もスタミナが切れた。言葉を放り出すようにして、砂で汚れたすのこの上に膝を付く。激しく肩を上下させてあえぐ海馬に、ようやく己を取り戻したらしい言葉が、「か、海馬さん!」と慌てた声をかける。
「大丈夫ですか!? あ、あんな無茶して……」
「む、ちゃは、貴様、の、ほうだ」
 海馬は、喘ぎ喘ぎ答える。なんとか、靴箱を背にして、座りなおした。
 埃っぽい下足室、汚れたガラス越しに、光が降り注いでいる。耳を済まして索敵しようにも、己の呼吸と鼓動がうるさすぎて話にならない。満足にしたうちもできなかった。海馬は拳で額の汗をいまいましげにふりちぎる。
 ほとんど泣き出しそうな顔になった言葉が、側にひざまずき、海馬の顔を覗きこんでいた。黒い瞳いっぱいに己の姿が映っている。黒い水晶のような目。
「なぜ、……ひとりで、戦いに出ようと、した」
「え……」
「貴様が、…そのような愚かな、ことをしたから、…この俺が、こんな様をみせねばならんことに、なったのだ」
「す、すいません。すいません! 私なんかのために…!?」
 違う、とも、そうだ、とも言いがたく、あいまいに出そうとした返事が、喉に詰まった。おもわずむせこむ海馬の背中を、言葉の手があわててさする。
 言葉の手は、小さくて冷たい。少女の手だ……と海馬は思う。
「だって、その、私、海馬さんへの状況報告を武藤さんたちに頼んで、そうしたらもう、やれることは無いと思って」
 埃を吸い込んでよわよわしく咳をする海馬に、言葉は、なにか喉を湿すようなものはないかと探す。見つかったものといえば、彼女がつねに疲労回復のために携帯している、あまったるいレモネードくらいだった。
「私はあの怪物たち相手には相性がよかったみたいですし…… あの、他のみなさんが危険なことをするまえに、ちょっとでも敵の数を減らしておけばいいって思ったんです」
 言葉が口元に水筒の口をあてがってくれた。海馬は奪い取るようにしてその手から水筒を取り、一息に飲んだ。甘ったるい、だが、さわやかで優しい味がした。
「莫迦が」
「え」
 飲み干して、顎にこぼれた滴をこぶしで拭う。海馬は水筒を乱暴に付き返した。
「貴様が姿を消せば、遊戯だのピコ麻呂だのといった連中が浮き足立ってしまう。そうなれば足並みがそろわず、逆にまともに指揮をとることがむつかしくなってしまう。そのような単純なことも分からんのか、この愚か者が!」
 海馬にどなりつけられて、言葉が、一瞬、身体を縮めた。我知らず海馬はどきりとする。言い過ぎたかと思ったのだ。だが。
「そう、ですね」
 すぐに言葉は身体の力を抜いた。逆に、肩の力が抜けたように。
「そう…… そんなこともあるんですよね。ごめんなさい、私、気付かなくって」
 莫迦みたいですよね。そう言って言葉はくすりと笑った。何故だか妙に気弱な風に見えた。海馬はひどく落ち着かない気持ちになった。
 逃げるように視線を外し、見回すと、誰もいない下足室へと真っ赤な光が降り注いでいた。陰影のコントラストがひどく強い。ゆるやかに動く影は木立ちのものだったが、無音のままで影だけがゆらめく光景はどこかしら奇妙に非現実的だった。無音。誰もいない、夕暮れの学校。
 言葉を見ると、長い髪のひとすじひとすじが、精巧な作り物のように夕日に照らされている。しみ一つない真っ白な膚、大きな黒いひとみ。だが、制服や頬は埃や汗にまみれ、スカートのプリーツがよじれていた。どれだけの間、単身、戦い続けていたのだろうと思う。
「怪我はないか」
「はい。…その、海馬さんのほうが、心配です」
「貴様ごときに案じられるほど、柔な身体はしておらんわ」
「そう、そうですよね。ごめんなさい。私ったら」
 言葉が、少し笑う。笑みこぼれる様子が可憐だった。こんなにも埃に汚れ、汗にまみれていても、言葉の表情は透き通るように清廉だった。その様をひどく不思議に思う。
「早くEDFに戻り、ピコ麻呂どもと合流せねばならんな」
「……」
「だが、ここに立てこもったほうがいいか、それとも、動いたほうがいいか……。判断材料が足らん」
 海馬はイライラと爪を噛んだ。だが、その手にそっと手が添えられる。冷たく白い指。
 言葉だった。
「なんだ」
「海馬さん、手が」
 言葉にいわれて手を見ると、手の甲のあたりが熱を持ち、青黒く腫れ上がりはじめている。さっきディスクで相手の攻撃を受け止めたときだ、と海馬はいまさら思い当たった。
「ごめんなさい、私、あんまり手当ての心得がないんですけど。…ちょっと待ってくださいね」
 言葉が立ち上がり、早足に、近くの水道へと走っていく。その後姿を、海馬は、半ば呆然と見詰めていた。
 長い黒い髪。
 たおやかな体つき、しなやかな四肢。
 柔和しい、優しい姿をした言葉。自分よりもひとつ年下の少女。
 ハンカチをぬらして戻って来た言葉は、真剣な表情で、海馬の手の傷を冷やそうとする。その表情を上から見下ろしていると、胸の中のどこかが奇妙に疼く。海馬はひどく困惑した。それはいままでに、ほとんど覚えのない感情だったから。
 似たものを知らないわけではない。それは、己の最愛の弟に対する気持ちだった。
 こちらをみあげるひたむきな黒い瞳。小柄な、未成熟な身体で、必死で後をおいかけてくる弟。
 だが、言葉は、己の弟ではない。生涯をかけて愛し、護ろうと誓った唯一の肉親ではない。では、この感覚はなんだ? 海馬にとって、それは、ほとんど理解を超えた感情だった。
「私の考えですけれど…… 出て行くよりは、校内で待ったほうが確実だと思います。時間を稼ぎたいんだったら」
「理由をいえ」
「私たちには地の利があります。校内がすこしばかり変化していたって、それは変わりません。校内だったら水や薬だって手に入るし、隘路に入れば包囲される危険もない…… 相手の数が分からないんだったら、ここにいたほうがずっと安全なはず」
 判断としては的確だ、と海馬であっても思うような答えだった。
「下足室あたりは階段が多いから、足場が取れなくて、私には戦いにくいんです。できればもうちょっと校内のほうに入りましょう。頑丈なドアもありますし、屋上のほうにいったほうが安全かもしれません。…その、痛くないですか?」
「……」
 ハンカチ一枚で海馬の傷を手当てすることを諦めたらしい言葉は、一瞬だけ、濡れたハンカチと晴れ上がる傷とを哀しそうに見る。だが、次の瞬間にはなんのためらいもなくそのハンカチを床へと置く。さりげなく裾を払う動作は、青古江をいつでも一瞬で抜けるように気遣っているのだと分かった。
「保健室にいって、せめて消毒でも。たいしたタイムロスにはならないはずですから……」
 海馬は黙って言葉を見つめていた。その青いひとみ、ぶしつけなまなざしにやっと気付いて、言葉は、傍目でもあきらかなほどにうろたえた。
「す、すいません。なんだか私、いろいろ偉そうなことを言っちゃったみたいですね」
「……ふん。その通りだな」
 海馬は、立ち上がった。もとより痛みなどまったく感じていなかったはずなのに、手の上に残った言葉の指の感触だけが、変にくっきりと残っている。
「貴様のごときにそのような口を聞かれるとはな。だが、判断としては的確だろう。まあいい、保健室とやらに行くぞ」
「は、はい!」
 裾を払いたちあがる。言葉もあわてて後に続いた。二人は、並んで歩き出した。
 必要なことを話しきってしまうと、もう、雑談をするようなことなど何もなかった。ただ黙々と二人で歩く。ほとんど無意識に真横に並ぶことを避けていたのは、どの方角から敵が現れてもいいようにするためだった。少なくともそのつもりだ、と海馬は己に対して言い聞かせていた。
 まるでセロハン越しに照射されているような光は、廊下にも降り注いでいた。二人の影が黒々と伸びた。足音だけが響く。
 ……やがて、口を開いたのは、言葉だった。
「海馬さん」
「なんだ」
 ふと、足音が止まる。言葉が立ち止まっていたのだ。
 振り返る。言葉が、腰に手を当て、黙り込んでいた。海馬はわずかに眉を寄せた。
「なんだ。愚図愚図している場合か。何かあるのだったら早く言え」
「……」
 言葉は、迷いを断つように、ふるりと首を横に振った。髪に光の環が揺れた。そして、眼を上げた。
 漆黒のひとみ。
「海馬さん。あなたはどうして―――」

 ―――私を、助けに来たんですか?

「……なんだと?」
「助けてもらって言うのもおかしいけど、あきらかに判断ミスです。なんでそんなことをしてしまったんですか」
「何を……」
「だって、さっき海馬さんがいったこと、おかしかったもの。すごく矛盾してました」
 言葉が単騎で突出すれば、他の仲間たちが浮き足立つ。それでは足並みがそろわない。言葉が戻らなければ、皆の連携に乱れが生じることになる。
「でもそれって、海馬さんも同じです。…ううん、海馬さんがいなくなったほうが、きっと、ずっと大変なはず。だって海馬さんは、強いだけじゃなくって、戦術やいろいろなことでも、他のみなさんの要なんだもの」
「何が言いたい」
「私を助けるために、海馬さん、っていう大事な人を浪費するのが、とても、間違った判断だったんじゃないか、って言いたいんです」
 言葉は、今度こそ、間違いなくくっきりと海馬を見上げた。
 海馬は息を呑んだ。そのひとみは、深淵のように黒く、無機質に美しい。
「海馬さんは、私を、助けに来るべきじゃなかったんです」
「ふざけたことを……」
「いいえ。私、なんにも間違ってない。海馬さんが取った判断は、一番間違ったやりかただったんです。そのせいで海馬さん、こんなにも危険にさらされてる」
 知っているはずでしょう、と言葉が言った。
「このあたりに現れる闇は、みんな、人の心の闇に呼応してる。だったら、私の傍はいちばん危険な場所のはずです。だって、私の心は、汚くて、真っ黒で、救いようがないくらい狂っているもの。……」
 胸がざわつく。海馬は奥歯をかみ締めた。射るような目で言葉をにらみつける。
「狂っている? 危険だと? 誰がそんなことを判断した。貴様ごときの浅慮の結果だとは言わんだろうな」
「―――その通りです」
 言葉の、色の薄いくちびるが、うっすらと、笑みの形を作った。
「そう。だって、誰も知らない。言ってないもの。私がどんなに汚くって、悪くて、狂った人間なのか」
 息を呑んだ。
 海馬の青いひとみを見つめて、言葉は、ほんの少し笑った。なぜだか、胸を掻き毟られるように、寂しい笑顔だった。
「私――― 人を殺しました。西園寺さんって人を」
 海馬の、知らない名前だった。
 いや、聞いたことはある。だが、価値のないモノとして意識の片隅に葬り去られた名前。言葉の《友》だったはずの少女の名前だった。
「西園寺さんを、私は、殺しました。それからお腹を裂いて、その中を確かめました。どうしても知りたいことがあったから」
「―――何を、だ……」
「西園寺さんが言ってたことが、嘘だったって」
 言葉は微笑む。寂しそうに。
「私には、恋人がいたんです。誠くんって人。誠くんは、浮気で、意志も、心も弱い人だったけど、でも、私にとっては恋人だった。誰よりも大事な人だったんです」
 でも、と言葉は言う。
「誠くんは、西園寺さんとも浮気してた。セックスしてたんです。だから西園寺さんは、誠くんの赤ちゃんがお腹に出来たって、言ったんです」
 思考が止まっていた。
 今まで、ほとんど一度もなかったことだった。海馬は呆然として言葉を見下ろしていた。白い頬をした、儚げな少女を。
「私も、いっぱい、いっぱい、誠くんと寝ました。とても恥かしい、いやらしいことをたくさんしました。だって、そうしないと誠くんは他の女の子を見てしまうから。身体で引き止めようとしたんです、誠くんを」
 言葉はそっと胸に手を当てた。やわらかにふくらんだ、その胸に。
「私は、こんな男好きのする体つきをしているから、誠くんを私に夢中にさせて、引き止めることが出来たんです。私は女の人として西園寺さんに勝ったはずだった。でも…… そうじゃなかった」
「……何、を、言っている」
「悔しかったの。辛かったの。誠くんを盗られてしまうことが。だって私、何もなかった。せめて身体でくらいは誠くんの一番にならないと、私、なにも持っていなかったのに」
 言葉は顔を上げた。泣き笑いを浮かべていた。海馬の知っている、桂言葉だった。
 何も、狂っているようには、見えなかった。
「だから…… ね? 私、西園寺さんにあんな惨いことをしたのは、嫉妬だったの。独占欲と憎しみだけだったの。私は、ただの肉の塊なんです。男の人をひきとめるためには、性欲の捌け口になるくらいしかないみたいな」
「桂…っ」
 声を詰まらせた海馬の襟を、ふいに、言葉の手が掴み、引き寄せた。驚くほどに強い力だった。思わずよろめいた海馬は、次の瞬間、かすかに甘い香りを感じた。やわらかく濡れたものがくちびるに触れていた。歯の間を割り、内側へと入ってこようとする。
「―――ッ!?」
 まったく意思の入り込まない、ただの反射だった。
 海馬は、思わず、全身の力を込めて言葉を突き飛ばしていた。口の中に、ぱっと鉄の味が広がった。血だった。己の血なのか、言葉の血なのか、分からない。
 予想していたのだろう。かすかにたたらを踏んだだけで、言葉は、倒れもしなかった。体重を持たないかのような動きで、ふわりと遠ざかる。長い髪が揺れる。
 言葉はかすかに微笑んだ。透き通るような表情だった。
 ささやく。
「私のこと、軽蔑してくれましたか?」
 思考が止まるのを、海馬は感じる。
「大嫌いになって、くれましたよね?」
 泣き出しそうに笑い、そして、言葉はふいに頭を下げた。その場にまったくそぐわない動作だった。
「海馬さん、ありがとう。……」
「ことの」
「……さようなら」
 きびすを返す。
 長い髪が、妖精のヴェールのように、軽やかにゆれる。
 次の瞬間、言葉は、ためらいのない足取りで、まっすぐに駆け出していく。その背中が見る間に遠ざかる。海馬は思考が止まっているのを感じている。首には言葉の細い腕の感覚が、くちびるにはやわらかい感触と鉄の味とが、二つながらに残っている。
 
 断ち切るかのように、チャイムの音が、鳴り始めた。





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