【悲しみの向こうへ】
≪14≫



「喝ぁ―――っ!!」
 ピコ麻呂の一喝が、裂帛の気合となって目の前を薙ぎ払う。人間のかたちをとりかけていた脆い影が四散した。近寄ろうとする雑魚どもをすかさずハートマンが蹴散らし、さらに、背後から迫ろうとするものたちへとストーム1が銃弾を叩き込む。狙いは、敵ではなかった。足元に設置した指向性地雷。攻撃を受けて作動した地雷が、轟音と共に無数の鉛玉をまきちらして炸裂した。火薬の臭い、焔の臭い、水のおもてを熱が薙いだような奇妙な臭い。
「海馬ッ! 桂っ涼宮っ!!」
 ピコ麻呂は駆ける。目の前に立ちはだかるものたちを、手にした独鈷が容赦なく叩き伏せていく。脳髄に直接金串を突き刺し、かき混ぜるかのような不快な音が響き渡っていた。硬く奥歯をかみ締め、ピコ麻呂は、ただ前へと走る。長い坂をあがりきったところに学校がある。校門の部分で一瞬だけ立ち止まり、あたりをせわしなく見回した。琴姫が声を上げる。
「ピコ麻呂様、あそこに!」
 赤すぎる夕焼けを受けて歪むようなシルエットの中、立ち木の姿が見える。そこに、誰かがいる。確かに、少女の姿を見分ける。黄色いリボン。ハルヒ。
「涼宮ッ、無事か!?」
「ぴ、ピコ麻呂……っ」
 急ぎ駆け寄るピコ麻呂と琴姫に、ハルヒが、顔を上げた。勝気な面差しが土ぼこりに汚れていた。二人を見た瞬間、くしゃりと顔が泣き出しそうに歪む。琴姫があわててその側に膝をつき、背中に手を当てた。だが、ハルヒは歯を食いしばっただけで、涙のひとつぶもこぼさなかった。
「どういったことじゃ、この状況は……」
 坂の上から見下ろす街、木々が濃く茂った真夏の街並み。そのそこかしこより、油煙があがるがごとくに、無数の影が立ち上がってる。赤い光を受けた屋根の間に、人の影をひきのばしたようなものが、ゆっくりと、物音も立てずに、徘徊している。
 ここ数日には姿を多く見たはずの奇妙な存在、揺らめく影が実体を持ったがごとくのやつばら。だが、彼らはわずらわしい雑魚ではあっても、ここまでの数も、力も、もっていない存在であるはずだった。だがいまや影の怪異どもは無数に増殖し、ゆっくりと、この街そのものを蝕もうとしていっている。
 だが、そもそも【この街】とはなんなのだ? ここは確かに日本、それも、EDFの支部があった街と見えた。だが彼らはあくまで、ニコニコ中枢部へと向かう船の船上より、行く手を阻むものたちを阻止すべく進んだだけだったはずだ。
「涼宮さん、他の方々を知りませんか。海馬さんや言葉さんは?」
「あいつら…… あの中に……」
 ハルヒは震える指で校舎を指す。屋上にはりめぐらされた緑のフェンス。
「それより、ほかの皆は無事なの? こなたは? 遊戯や、リョウや、ロックマンたちは?」
「こなたさんや遊戯さんは一緒です。古泉さんや谷口さんと一緒に、少し離れてついてきているはず…… リョウさんやロックマンさんは、どうしても居場所がわからないんです」
 だが、そのように言うのなら。
「だが、姿を消したのは我らのほうではないのか……?」
 ピコ麻呂は困惑の目で周囲を見回した。足元に踏みしめる夏の日に焦げた土を、葉が濃く茂った木々の梢を、毒々しいまでに赤く咲いた夾竹桃の花を見る。ここは、夏の学校。こんな場所にあるはずがないところ。
 琴姫が、ふっと、視線を落とす。ハルヒの顔が蒼白になっていた。己の身体を硬く抱きしめ、小刻みに震えている。「どうしました!?」 あわててその両肩に手を置く。だが、ハルヒの震えは収まらない。
「あたしのせいかもしれない…… あたしの」
「なんじゃと?」
「見たの、あたし…… いるはずのないやつのこと……」
 いるはずのない?
 意味が分からず、ピコ麻呂は、問いただそうとした。だが。
「―――ッ!?」
 ふいに、ハルヒが裂けんばかりに眼を見開く。栗色のひとみのなかで、黒い瞳孔が針の先となった。とっさに、弾かれたように振りかえる。そこには。
 忘れられ、打ち棄てられたボールのようなものが、ひとつ。
 いや、毛皮だろうか。短い毛並みが見えた。
 いや……?
「消えなさいッ!」
 ハルヒが叫んだ。悲鳴のような声だった。
「あんたなんて、嘘よッ! ニセモノじゃないッ! 消えてよッ!!」
 顔を両手で覆う。絶叫する。琴姫もピコ麻呂も、呆然として動けない。
 それは首だった。
 眼を開いたままの少年の首が、ぽかりと虚ろげな目で、こちらを見ていた。
「消えて……!!」
 ハルヒがそう叫ぶと、【首】が、哀しげに眼を瞬いたようだった。そして、消えた。
「な」
 その首は、もう、どこにも存在していない。
 最初から、そこに【存在していなかった】かのように。
 ハルヒはこわばった指をゆっくりと下ろす。息が荒く、顔は蒼白だったが、冷静さを取り戻していた。琴姫があわてて側によりそう。
「す、涼宮、今のは一体」
 ピコ麻呂が呆然と問いかける。ハルヒは奥歯を硬く食いしばった。
「幻覚よ。……ううん、違う。妄想だと思う」
「妄想、だと?」
「思い出したの。あたし、これを見たの初めてじゃない…… 北校にいたときに、同じものを見たの。こういう化け物どもを」
 ハルヒの指が、土に爪を立てた。じゃりっ、と音がした。
「こいつら、誰がやってんのか知らないけど、悪質な嫌がらせなの。人が怖がってるものを真似て、こっちの気持ちを弱らせて、取り込もうとする……」
「魑魅魍魎の類だと?」
「……」
 ピコ麻呂が呆然としていたのは、ほんの一瞬だった。次の瞬間、弾かれたように顔を上げる。
 魑魅魍魎、悪鬼悪霊のたぐい。ピコ麻呂が本来の意味として戦う相手としていた存在たち。それに類似したものなら、このものたちがどのように振舞うのか、見当がつくように思えた。そして、思い当たったその想像は、まるで、鉄さびを噛むかのような嫌な予感を伴っていた。
「琴姫…っ」
「は、はい」
「涼宮を頼んだ。ここに結界を張れ! ストーム1殿たちと合流するのじゃ!」
「は、……で、でも、ピコ麻呂様は!?」
「わしは海馬殿と桂殿たちを探しにいくっ。ここに待っておれ!」
 怒鳴るなり、ピコ麻呂は走りだす。鐘の音が響き渡る。まるで誰かの哄笑のように、無邪気で悪意に満ちた子どもの笑い声のように、幾重にも重なり合って。


 ピコ麻呂は、無我夢中で走った。
 思い出していたものは、青い瞳だった。ほかに類のない、純度の高すぎる青。その色を持った無機質なふたつのひとみ。
「海馬殿、桂殿……っ」
 少年と、少女。年若い仲間。心のどこかに常に引っかかっていたもの。哀しげに澄んだ黒眸と、凍りつき、非人間的な純度を持った青い瞳。
 いかに歳若だろうと、彼らが熟練の戦士であり、心強い仲間であることに間違いはない。それを言うのならばKBCはまだほんの少年であり、高町なのはにいたってはやわらかい手をした子どもでしかない。仕方のないことだというのは重々分かっていた。今は戦時であり、彼らの力を借りねば先に進むことが出来ないのだから。
 それでも、だからこそ。
 息を荒げ、ピコ麻呂は、ガラス越しの赤光に照らされた廊下を駆け抜ける。空気の流れを感じた。ピコ麻呂は感じる。直感というよりも確信だった。
 彼らは、屋上にいる。



「―――これで、大丈夫なはず。痛みはありませんか、ハルヒさん」
「……」
 ひいらぎの生垣の影からそっと身を伸ばし、琴姫は、そっと周囲をうかがった。周りには塩と酒でつくった申し訳ばかりの結界。魔よけの力が強いというひいらぎの影を選んだが、正直なところ、これがせいぜい【気休め】以上の効果があるかというと……
 ハルヒは、強情な子どものようにくちびるをかみ締めて、じっと黙り込んでいた。白いソックスが泥に汚れていた。印象的なひとみには、うっすらと涙が見える。琴姫は気遣わしげにその顔を覗きこむ。
「ハルヒさん、だいじょうぶですか」
「……」
「安心してくださいまし。ピコ麻呂様がきっと、すぐに皆様を連れ戻してくださいますわ。すぐに、皆様と合流でき……」
「そんな、簡単じゃない」
 ハルヒの声が、琴姫の声を、はっきりと断ち切った。
「え」
「分かってるの、あたし。だって、【コレ】を知ってるって言ったじゃない。だから分かってるのよ、これが、どれだけ危ないものかって」
 琴姫は、少し黙った。ハルヒの声はかすかに震えていた。
 勝気で明るく、わがままだけれど、本当はそれ以上に繊細で神経質なハルヒ。まだ15歳の少女。
 どれだけ無鉄砲に振舞っていても、彼女が、まだ不安定な年頃だということは、琴姫にも重々分かっていた。まったく戦いの心得も覚悟もない一般人であり、また、不可解なことが起こっても己の心を保ち続けられるような心の柔軟さも持たない。突き崩されれば、ただ、脆い。そんな彼女の不安と恐怖が、痛いほどに伝わってくる。
「ハルヒさん」
 琴姫は、無理やりにならぬように細心の注意を払いながら、そっと、ハルヒの手をとった。
「知っているというのは、どのようなことなのです。一体、これはなんだというのですか?」
 ハルヒは、顔を上げた。
「―――だから、これは、誰かの悪い冗談なの……」
 刹那、その表情はふたたび、泣き出しそうに歪んだ。
「あたし、一度、巻き込まれたことある。そのときは逃げられたけど、今度はどうしたらいいのか分かんない。だって、今回は、キョンも、みくるちゃんも、みんないないんだもの……っ」




「海馬ッ、言葉ぁっ!」
 ピコ麻呂は、熱に歪んで斜めになっていたドアを、蹴り開けた。
 とたん、視界が一気にひらける。見当識をうしないそうになる。
 眼前に開けたのは、広い、ひろい空。雲ひとつなく、濡れた紙にインクをにじませたように、一面に赤くにじむ濃淡だけがひろがっている。そこに何か巨大なものが立ちふさがっていた。視界を隠している。
 それが【何】なのかが、分からない。ただ、【おそろしいもの】としか表現のしようがない異様なものが、目の前に立ちふさがっている。
「おのれっ……」
 ピコ麻呂は独鈷を固く握り締め、片手で印を結んだ。術式のためというよりも、己の心を奮い立たせるためだった。
 奇妙な影は、靄のようになかば透き通っている。その向こうに、お互いをかばいあうようにして、フェンスの傍に追い詰められている人影が見えた。海馬と、言葉。
 前に立っているのは、おそらく、言葉だった。泣き出しそうな顔をして、すがるように、己の刀の柄をにぎりしめている。その背後に赤い服を着た誰かが見える。……赤い?
 ピコ麻呂は眼を見開く。
 血まみれになった海馬が、半ば虚ろな目で、フェンスに、よりかかっている。




「巻き込まれたって、ハルヒさん、それは」
「……頭が痛い。なんか、おかしいの。さっきまでぜんぜん考えたこともなかった。ううん、”忘れさせられてた”の……」
 キョン、みくる、それに、たしか”ユキ”といったか?
 どれも琴姫の知らない名前だった。ハルヒの友だろうか。だが、だとしたらいっさいその名を聞かなかったというのはおかしい。あやふやな記憶を辿って、二つまでは聞いたことがあると思い出す。小柄で泣き虫なみくる、無感情で無口な有希。二人ともハルヒに近しい人間、同じSOS団に所属していた仲間だ。
 だが、”キョン”とは、誰だ?
「あたし、巻き込まれたことがあったの。こういうわけのわかんない場所に。学校が毎日おなじ授業と同じ時間を繰り返してて、校内が異様に広くなってるの。しかも、みんながみんな頭がおかしくなってて、誰もそれに気付いてなかった」
「それは……」
 ハルヒやこなた、言葉たちとであったときの、あの学校のことではないのか。
「それを”望んだ”子がいたから、そんな風に空間が歪んでたの。キョンはそう言ったわ…… 願いをかなえる力をある、他人の嫌がらせするために生まれてきたみたいな連中が、このあたりをチョロチョロしてるって。そいつらは不安を持ってたり怯えたりしてる人間につけこんで、願いをかなえるの。それも、絶対に叶っちゃいけない種類の願いをよ」
 話しているうちに、気力を取り戻してきたらしかった。言葉にハルヒらしい強さが戻ってくる。琴姫は、くっ、と奥歯をかみ締めるハルヒの横顔を、不安な気持ちで見つめた。
「叶ってはいけない種類の望み。それは、呪いのようなものなのでしょうか?」
「……かもしれない。あんたたちの言葉だったら、そういう風にいうのが分かりやすいのかも」
 あたしは言われた。
 ハルヒは、そう、かみ締めるようにつぶやく。
「”あなたが、いなければ、よかったのに”って」
 それは、強い憎しみの言葉。
 琴姫は、思わず、問いかける。
「誰が、なんでそんなひどいことを?」
 ハルヒは吐き棄てた。
「あたしのせいよ。有希は悪くなかった、絶対に!」
 


「ピコ麻呂さん、聞いてください……」
 衝撃から、半ば、立ち直れないままのピコ麻呂の耳に、声が届いた。言葉の声だった。
「こ、言葉、これは一体」
「いいから、聞いてッ!」
 悲鳴じみた声が、鞭打つように響いた。ピコ麻呂は我に帰る。
「ピコ麻呂さんから、何が見えます!? コレは一体、何”に見えるんですか!?」
 ピコ麻呂は一瞬、何が起こっているのかと怒鳴り返しそうになった。だが、とっさに判断力を取り戻す。闇の向こうへと眼を凝らした。
 巨大な影のようなものの中に、何か、人影のようなものが見える……
 一瞬ソレは、ほんのちいさな、子どもの姿のように見えた。長い黒髪の、だが、おそらくは少年だろう。切れ長な印象の目がどこかしら海馬に似ているように思う。だが。
「これは、誠くんのはずです。私の、誠くんなんです。ねぇ、そうでしょう!?」
 言葉が、半狂乱の声で叫んだ瞬間、目の前のものが、姿を変える。
 今度見えたものは、少年――― 短い髪、肩の薄い頼りなげな姿。面差しは整っているが、どこか、気弱そうに見えた。そして見覚えのあるデザインの制服。
「そ、そうだ」
 その姿を見極めた瞬間、少年は、ピコ麻呂のほうを振り返った。薄黒いひとみ。意思を持たない、非人間的な双眸が、ピコ麻呂のほうを向いた。



「ゆき…… ちゃん、ですか」
「そう。キョンが言ってたの。あたしは、願望を実現する力がある。あたしには、思うがままに、世界を滅ぼしたり、作り直したりする力があるんだって」
 想像を、絶する話。だが琴姫にとっては理解しがたい話、というわけではなかった。
 同じループを繰り返す惨劇の村に生まれた巫女。すべてのものの境界を変容させうる力をもった人外の乙女。そのような存在が存在しうるのだったら、無意識のままに創造主と破壊神の力をもちあわせた少女の存在も、ありえないものではない。
「でも…… あたしの世界は広くなって、なにもかもを思い通りにすることはできなくなった。有希はあたしの望みがあったから現れたのかもしれなかったけど、あたしの思い通りになる人形じゃなかった。だからあたしの望んだ世界を有希は望まないようになって、でも、有希には想いの叶うような未来なんてそのままじゃありえなくって」
「ハルヒさん、落ち着いてください」
 琴姫は、責められたように早口になるハルヒの背中を、慌ててさすった。だが、ハルヒは首を横に振り、悔いるような口調で続ける。
「―――有希は、生まれてまだたったの三年だったの。あたしたちと一緒で、でも、好きな人を好きなままでいていい未来なんて想像できなかったの。だから、あたしごと何もかも壊しちゃえばいいなんて思いつめて、あんな風になっちゃって。それで」
 つんのめるように、ハルヒは、声を詰まらせる。
 眼を上げた。ハルヒはまるで、大切な仔犬に死なれた子どものような顔で、琴姫を見た。
「あたしは、【世界を開いた】。あたしだけじゃ、もう、どうしようもなかった。でも、あたしをそのことに気付かせるために、キョンと、みくるちゃんが」
「……それって」
 琴姫は悟る。
 自分たちが知りえないどこかで起こっていた、ひとつの戦いの物語を。
 ひとりの少女がいる。彼女は、まるでノートに夢物語を書く子どものように、好き勝手に世界を書き換えていた。自分の望みどおりに何もかもが起こり、どのような不可能であっても起こらないということはない。だが、彼女の狭い世界のなかで、その物語に逆らい始める存在がいる。
 彼女の世界は矛盾を孕み、ぎくしゃくと軋みはじめる。それでも箱庭をあきらめられない少女は、思い通りにならぬ物語のたびに、すべてを壊し、望みどおりのことが起こるように作り変えようとする。
 だが、やがて少女は知る。
 自分の人形だとおもっていたものたちが、本当は心を持ち、その心までは己の手では書き換えられないということを。
 悲劇、喜劇、惨劇。少女は、自分ひとりでシナリオを綴ることの不可能と傲慢を知る。
 他者と出会うならば、何が起こるかもわからず、理不尽と不可能に満ち溢れた未来を、受け入れなければならない。
 ―――その代償が、どれだけ大きいとしても。
「あたしは、有希を取り戻したい。そのためには、あたしの一人の力じゃぜんぜんダメだった。有希はきっとまだ悪い夢を見てる。……でも、この世界は」
 ハルヒは、ゆっくりと、周囲を見回した。そのひとみいっぱいに、赤くいびつな夕暮れが、ねじれた風景が写りこむ。
「……あのときの、狂った世界にそっくりなの。どうなってるっていうのよ……?」



 海馬の足元に、一枚のカードが落ちていた。
 《青眼の白龍》。彼の最愛の僕にして、その誇りであり、意思であるもの。だが、海馬はそのカードに手を伸ばさない。彼の目は、打ちのめされた幼子のように、死んでいる。
 言葉は、震える足を叱咤して、まだ立っていた。だが、もう限界だというのは一目でわかる。長い髪が引きちぎれ、焼け落ちた髪が、肩の辺りにかかっていた。
「海馬さん、聞いてください」
 言葉は言った。その状況に不釣合いなほど、優しげな声だった。
「ピコ麻呂さんも、言ってくれましたよね。あれは誠くんなんです。私の、誠くん。……あなたの、モクバさんなんかじゃありません」
 何が起こっていたのか? ピコ麻呂は呆然と彼らを見詰める。
 フェンスが溶熱し、飴のように曲がっていた。海馬の”かたち”が不自然だった。彼の身体が、壊れた人形のように、欠けているように思えた。
 何と戦ったのか。何が襲ってきたのか。龍の爪がえぐったようにアスファルトが砕け、恒星の熱に焼かれたようにガラスのごとく融解していた。
「大丈夫、あんなものは全部、ただの悪い夢なの。海馬さんは…… 瀬人さんは、悲しみなんかに負けたりしない。あなたはとても強い人だから」
 だから、と言葉は言った。顔を上げて、ピコ麻呂のほうをみた。
 何かが抜け落ちたように、透明なひとみをしていた。
 だが、その瞬間にピコ麻呂が感じたのは、胃の中身が逆流するような強烈な違和感だった。覚えがある表情だったのだ。身体が総毛立つ。
「誠くんも、誠くんの思い出も、私だけのものです。だから私は、私で…… 独りでいきます」
 影の中から、少年がふらりと歩み出す。言葉はゆっくりと少年との距離を測る。二人は、まるでダンスを踊るように、お互いのまわりをゆるやかに巡った。言葉と彼は、ここでダンスを踊ることなど叶わなかったはずにもかかわらず。ピコ麻呂どころか他の誰も知らぬことではあったのだが。
 言葉は、ふいに、淡やかに微笑んだ。

「海馬さんは、知らなくてもいいんです。こんな気持ち」

 その足が、軽やかに、夏の日に焦げたコンクリートを、踏んだ。
 言葉は、一毫の迷いもなく、ただ一直線に駆けた。抜く白刃は神速。誰一人として、きらめく光となったその速度を見分けることもあたわない。
 その切っ先は、吸い込まれるように、少年の胸へと突きたてられる。
 
「ことの―――……ッ!!」
 
 悲鳴。
 それを断ち切るように、己の愛と悪夢を力を込めて貫いた言葉は、まっさかさまに、フェンスの向こうへと落下していった。






 谷口は見る。
 そこで起こったことの全てを。

 ひとりの少女が、つぶれた虫のように、地面に叩きつけられている。
 誰かがゆっくりとそれに歩み寄り、彼女を膝に抱き起こす。彼女の顔の半分が、なくなっている。
 別の少女が、胃の中身を吐く。吐きながら泣く。
 血と脳漿にまみれた髪を、空しく指が梳く。汚れた髪に、いつものしなやかなすべらかさが戻れば、その儚げな笑顔も還ると信じているかのように。
 だが、その髪は、指に絡みつき、ずるりと抜け落ちる。
 長い黒髪の先端に、肉片と皮膚とが、付着している。


「……ぅ、ぐぅ……っ!」
 ふいに口元を押さえ、うずくまる谷口に、「おい、大丈夫か!?」とリョウが焦った声を上げた。あわててアリスが駆け寄り、その背中をさする。だが、谷口はしばらくの間、土気色になった額に脂汗を浮かべ、その場にうずくまっていた。
「ちょっと、何があったのよ。どうしたっていうの!?」
「……う……」
「何が見えたんだよ?」
 KBCまでもが、慌てた様子で、心配げに横にしゃがみこんでくる。谷口は口元を押さえたまま、黙って首を横に振った。
 反射的に、”その時間枠”に続く通路を閉じてしまった。自分以外の誰にも、何も見えなかったことだろう。だが、谷口は目よりも奥の場所に、何が起こったのかの像をはっきりと焼き付けてしまった。あまりといえば、あまりにむごたらしい出来事。
 ループエンド。
 すべてのループの、発端となった出来事。
「横になれ。頭を下にしないと、貧血を起こす」
 リョウに言われるがままに、あわててアリスがハンカチを地面に敷いてくれる。谷口はその上に横にされる。うっすらと眼を開くと涙が滲んだ。アリスの使っている香料なのか、かすかに、甘くて埃っぽい匂いがした。
 役得ってやつかな。そんなことを考えて、ようやく我を取り戻した。リョウが顔を覗きこんでいた。なんでアリスじゃないんだ。それがオレらしいってか?
「悪いが、急がざるを得ない。何が見えたか教えてくれないか」
「ああ……」
 谷口が、次元の”スキマ”を開き、視ようとしたもの。
 それは、すべての事件の発端だった。
 ピコ麻呂たちが闇の狭間で何かと出会い、その結果、時間がループする奇妙な空間が作り出された。
 何が起こったのかを、離れた場所にいた谷口は知らなかった。そしてこれが、その結果だったのだ。
 谷口は、呻くように言った。
「原因は、分かった。―――言葉さん、それに、海馬の野郎だ」
「なんだって?」
 言葉が何をやろうとしたのかは理解できた。彼女はおそらく、あのとき、半ば本能的に悟っていたのだろう。目の前に立ちはだかっている敵の正体に。
 己の心の闇を映す鏡。己を責めさいなむ過去そのものがその正体。正面から独りで向かい合い、勝てる相手ではない。
 ならば、己ごと滅ぼしてしまえば、すべてが消える―――
 訥々と答えた谷口に、アリスもリョウも、KBCをも、絶句した。
「な、なに、それ!」
 やがて、最初に我に返ったのは、アリスだった。
「そんな理由で、言葉が、自分から飛び降りたっていうの!? 言葉は、そんな莫迦なんかじゃないわ!」
「同意。おい谷口、なんかの間違いじゃねえのか?」
「……」
 谷口は黙った。なおも口の中にわきあがってくる、胃液の苦い味を飲み下そうとしながら。
「いやだが、谷口が見たってことは、なんにしろそういうことが起こってたのは事実だといわざるを得ない」
 リョウが間に割ってはいった。動揺などもうカケラもない。起こったことを知った瞬間にすべてをわきまえ、割り切った口調で、谷口へと振りかえる。
「おい谷口、負担をかけて悪いが、原因がわかったってことはその先にも進めるんだろう。俺たちにも手伝える段階まで進めてくれないか。時間がないんだろう?」
「……ああ……」
 肘を突いて起き上がる。貧血のせいなのか、ひどいめまいがした。目の前が明滅する。だが、そんな苦痛よりもなお強く、頭の中に繰り返すのは、言葉が最期につぶやいた言葉だった。
 


 海馬さんは、知らなくってもいいんです。こんな気持ち。
 ……永遠に。


 どういう事だ? そして、どういう意味?
 だが、それを読み解くよりも前に、さらに深くに進まねばならない。
 谷口は、眼を凝らした。見えるものよりもさらに深く、深く。
 ―――もつれ、よじれた、因果の果てへと。








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