【悲しみの向こうへ】
≪16≫




「焼き払えッ、滅びの爆裂疾風弾っ!」
「きゃ……!!」
 眼を圧倒するような眩い光に、瞬間、眼を焼かれそうになる。ミクはとっさに動けなかった。両腕で顔を庇っただけ。瞬間、脳を焼くエラー音の警報を錯覚する。だが。
 痛みなど、感じなかった。
 ミクが、ネオングリーンのひとみを開くと、目の前にはロックマンが立ちふさがっていた。舞い散る木の葉が次々と燃え落ちていく向こうに、モクバと名乗った少年が、その幼げな顔立ちをゆがめているのが見える。
「止めてくださいっ、いきなり攻撃なんてっ」
 ロックマンは叫んだ。彼がとっさに展開させたリーフシールド、それが、少年の攻撃を防いだのだ。
「黙れよっ。邪魔をするなっ! ブルーアイズ!」
 オオン、と声が答える。瞬間、白い龍の身体がその巨体からは想像も出来ないしなやかさでうねった。太い尾が三人のいた場所を薙ぎ払う。とっさに、三人はその場から飛びのいていた。ミクを片脇に抱えたマリオが、器用に片手を地面につき、くるりと姿勢を入れ替える。ミクはすくんだ身体で乱暴な舌打ちを聞いた。
「なんだ、あのガキはぁッ!? 年上の話ぁ聞きもしねえで……」
「そ、そん」
「ミクっ歯ぁ食いしばってろ!」
 連続して、青白い焔の弾丸が地面に叩きつけられる。マリオの動きはすばやかった。人間離れした跳躍力で、右へ、左へ、または上へ。足場足場すべてを利用した動きに、「ちょこまかしやがって…!」と苛立つ声が聞こえる。
「ようし、鬼さんこちらッ、てなっ!」
「ふん、騙されるか… よッ!」
 マリオが下品に中指をたてて挑発するが、しかし、少年のほうが一枚上手だった。身体をするりと入れ替えるようにして、青眼の白龍が広げた翼の下に隠れる。翼に弾かれたスペシウム光線が四散する。ロックマンがその向こうで悔しそうに顔をゆがめた。だが、同じ足場に留まることは一瞬とてない。すぐに飛び立ったその足元を、強靭な爪が薙ぎ、次いで、焔が焼き払う。目隠しにばらまいたリーフシールドに燃え移り、まるで、蛍の群れのように乱舞する。
「な、なにが、これって……」
「黙ってろッ。悪いがネギ嬢ちゃんにかまってられる相手じゃねぇ、こいつはぁっ。強えぞッ」
 マリオの攻撃は一撃必殺、その強力な蹴りさもなくばアッパーが本来のものだ。飛び道具は得手とは言いがたい。少年はどうやらそれをすでに見切ったようだった。マリオにたいする攻撃は牽制に限り、指差す方向はロックマンを完全に狙っていた。必至で走り、跳び、避けようとする彼の後を、白い龍の爪がひたすらに追う。
「くっ!」
 薙ぐ、噛み千切る、焼き払う。
 次々と追いすがる巨大な龍を前に、ロックマンは必至で応戦した。放ったエアシューターがすんでのところでブレスを吹き散らし、ビームで、また、チャージショットで応戦しようとする。だが、白く輝く龍の体躯に、少年ロボットの身体はあまりに小さい。ならば、その背後に控えた少年が司令塔か。マリオが歯をくいしばり、片手に火球を握り締めるが。
「てめぇ、こんガキャ! ファイヤーボー…」
「F・E・ブリザード!」
「くぅっ!?」
 すさまじい冷気が巻き起こり、ブレスに熱された大気との温度差で、嵐さながらの暴風を巻き起こした。吹雪に含まれた氷片はさながら剃刀の刃に等しい。ミクは思わず身体を縮める。長い髪がぐしゃぐしゃに吹き散らされ、とっさに顔を庇ったマリオの腕には次々と氷片が突き刺さった。鮮血がしぶきをあげる。
「マリオさんっ!」
「てめ…… やりやがったな、このクソガキ……!!」
 ギリッ、と食いしばった唇から、血が滴った。口ひげをぬらしていた。ミクはハッとする。マリオの足が凍りつき、地面に縫いとめられている。動けない!
「ロックさ……!」
 ロックマンは、かろうじて氷結を免れていた。だがヘルメットにも、手足にも、白い霜のように無数の氷片がまとわり付く。まるで割れたガラスが突き刺さったように。さらに少年は片手で顔を覆った。残された片目が、カッ、と見開かれる。
「邪魔なんだよっ。…《止まれ》ッ!」
「!!」
 瞬間、ミクは、視界の色彩が反転するような錯覚を覚えた。知っている。あれは、《邪気眼》だ。…間違いなく!
 マリオは、膝をついで立ち向かおうとした姿勢のまま、動かなくなる。足は地面へと凍りつき、身体は魔力で縛られていた。ミクは己の無事を悟って、全身が凍りつくような気がした。すべての攻撃から、マリオが、庇ってくれたゆえだ。
「マリオさん… マリオさんっ」
「消えろぉ!」
 ミクが治癒の歌を歌い上げようとする、その瞬間、少年が叫ぶ。白い龍が白焔を噛んだ。そして、次の瞬間、閃く白光が正面から吹きつける。ミクは裂けんばかりに眼を見開いた。だが。
 真正面からの、超高温の焔は、立ちふさがったマリオの体に吹き付けて、しかし、その肉体を焼き尽くすことは無かった。
「な……に?」
 少年が、眼を見開く。ミクはうめくような声を聞いた。
「……はン、このマリオ様に、よくも足止めなんざかけてくれやがったなぁ…?」
 その身体、さながら鋼鉄の障壁。
 絶対零度の熱、ついで、青白い恒星の超高温。双方を受けて壊れぬものなど無い。だが、彼はその不可能をやってのける。
 その身体を鋼鉄と化したマリオは、まるで、堅牢なトーチカのように全ての攻撃を防ぎきっていた。少年が息を呑んだ。まるで恐怖にかられた幼子のように、「なんでだよッ!?」とヒステリックな悲鳴を上げる。
「ブルーアイズ!」
 オォオン、と咆哮が答えた。ふたたび、顎が焔を噛む。《滅びの爆裂疾風弾》。正面からマリオのことを焼き尽くそうとする。一度、二度。
 ミクは、思わず悲鳴をあげそうになった。とっさに地面を蹴って前へと出ようとする。だが、「このアホがッ!」と一喝されて、凍りついた。
「前ン出るなネギ嬢ちゃんッ! ぶっこわれんぞッ!」
「で、でも……!!」
「ぴーぴー囀んなッ! こちとら熱ィんだよッド畜生ッ!!」
 鋼鉄の肉体が、鉄でも溶解するような温度に焼かれる。身体のもろいミクが前に出れば一撃で堕とされる。「ごめんなさい、ごめんなさい!」と悲鳴を上げ、ミクはせめて、背後から癒しの歌声を降り注がせた。だが、癒えた肉が、次の瞬間にはもう焼け爛れ融け落ちていこうとする。治せば治すほど焼き尽くされる灼熱地獄。
 なんで…!?
 ミクは、意識をそらさぬよう、必至で癒しの歌を紡ぎながら、思っていた。
 あの子は、どうして、こんなことをするの!?
 彼は言った。自分のことを、海馬の弟と。そして、彼は確かに海馬とまったく同じ行動を取っていた。白い龍を従えているということまでをも。
 その幼い面差しをこわばらせた少年は、白い龍に命じ、そして、同時に己もまた敵を追い続けていた。ロックマン。ばら撒いたリーフシールドの木の葉に隠れながら、少年を狙おうとめまぐるしく射撃を放ってくる。少年は歯を食いしばり、絶対零度の吹雪で、また、呪縛の視線で凍りつかせようと試みる。ロックマンの攻撃がヒットする。その髪を、顔を庇った細い腕を、傷つける。
「キミはっ、なんでっ、こんなことをッ!?」
 ロックマンが、叫んだ。少年は叩き返すように怒鳴りつけていた。
「うるさい、うるさいうるさいッ! お前らなんかに分かるもんかッ!!」
 まるで、癇癪を起こした子どもだ…… だが、そう思いかけて、ミクはハッとした。握り締めた両手の拳。踏みしめた細い足。それが、かすかに震えている。まるで必死に恐怖に抗うように。
「キミは―――」
「黙れっ! 邪魔すんなッ。オレはっ、兄サマを……っ」
 
 殺さないと、いけないんだ!

 瞬間、少年が攻撃の手を緩めた。青眼の白龍が苦しげに咆哮を搾り出す。MPが切れたのか。だが今、彼は何を言った? ミクは思わずマリオの背中の影から前へと踏み出そうとした。ロックマンが歯を食いしばり、その右手のバスターにエネルギーが集中する。ブーストナックル。彼が、この隙を見逃すはずが無かった。だが、同時に。
 ミクは、見てしまう。少年の手の中に、青白い燐光を放ちながら、何かが集中していこうとしているのを。正体をさとって眼を見開く。あれは。
「ロックさん、危な……!!」
「……消し飛べ……っ」
 ニュークリア・V
 ミクの目は、そのあまりのエネルギー量に、一瞬、盲いた。彼女の身体を核の熱が焼かなかったのは、立ちはだかったマリオの身体がなおも、彼女の前に在り続けていたからだった。
 瞬間、熱でもなく、光でもなく、圧倒的な量のエネルギーが、あふれ出す。音を立ててミクのヘッドセットが壊れた。火花をあげて小さく爆ぜ、爆風に吹き飛ばされていずこかへと消えていく。長い髪が爆風に引き毟られた。
 長いような、一瞬のような、時間が過ぎた。熱が去り、爆風が消える。あまりの光量との落差のせいか、あたりへと闇がおりたように思えた。おそらくは、それはただの錯覚に過ぎなかったのだが。
「う……」
 ミクは、意識を取り戻す。視界にノイズが走り、一瞬、音が聞こえなかった。人間であれば耳である場所に手をやると、そこに火花が走り、内部部品へのジャック部分が露出しているのを感じた。ヘッドセットを毀されたのだ。痛みに声が漏れた。
 マリオは。ロックマンは?
 とっさに、最初に思ったことがそれだ。目線を動かして仲間たちを探そうとする。だが。
 ミクは、全身に、氷水をかけられたかのような感覚を憶えた。
「マリオさん……」
 倒れている姿が、すぐ傍にある。揺り動かそうと手を伸ばしたが、恐ろしくて触れない。焼きすぎたステーキのようにくすぶる肉の塊。
「ロックさん……!」
 壊れたヘルメットが転がっていた。うずくまった白龍のうしろに、力なく投げ出された彼の手が見えた。火花が爆ぜる。
「あ……あっ」
 ミクは、呆然と、目の前の少年を見た。彼は荒い息に肩を震わせながら、地面にうずくまっていた。消耗が激しいのだ…… ロックマンの攻撃に肩を砕かれたのか、右手で押さえた左の肩から、ちからなく左腕がぶらさがっていた。だが、ミクに気付いてハッとあげた目には、まだ、激しい憎しみが強い光を灯している。すくみ上がるミクを、少年は、憎悪のこもった眼でにらみつけた。
「まだ、一匹……」
 よろめくように、立ち上がろうとする。だが、少年はそのまま膝が砕け、地面へと倒れこんだ。ミクは呆然と口を覆った。何故? 頭の中には、その問いかけだけが繰り返していた。
 いまさら、いや、はじめから気付いていた。あの少年の姿には見覚えがある。海馬がペンダントに写真を持っていた。《もう1人》のほうの遊戯がこっそりと教えてくれたことがある。海馬くんって弟のモクバくんにだけはホントに甘いんだよ。そんな風に可笑しそうにくすくすと笑いながら。
 だがその少年は、今、全身を血で染めた凄惨な姿で、ミクたちの目の前に立っている。その憎悪は、指一つ触れることなくとも、切り裂かんばかりに強い。
 ミクは、全身から力が抜けそうになるのを感じた。だが、必死で己を奮い立たせる。
 ミクは、弾かれるように立ち上がった。
 マリオの側に膝をつき、倒れ付した彼を庇うようにして、キッと少年をにらみつける。両腕を広げた。少年はあきらかに怒りのこもった目で、細い体のVOC@LOIDをにらみつけた。
「やめて…… やめてください」
「邪魔すんな…… ぶっこわされたいのかよ」
「嫌です! わたしも、みなさんも、そんなのは嫌!」
 ミクは声を張り上げた。そうやって己を奮い立たせていないと、闘志がくじけてしまいそうだった。
 けれど、どうしよう。どうすればいい? 攻撃力の決して高くない自分では、彼を倒す術が思いつかない。多数の敵を掃討すること、そして、味方に対して援護を加えることならミクには出来た。だが、ここまで攻撃力の高い相手をたった一人で相手にすることなんてできない。少年はミクがおかしな動きを見せたなら、すぐにでも叩き潰しにかかるだろう。必死に頭を回転させても、会話を引き伸ばし、なんとか隙をうかがうほかに方法が思いつかない。
「あなたは、海馬さんの弟さんですよね? なんでこんなことを…… どうして、海馬さんを傷つけるなんてこと、言うんですか」
「傷つけるんじゃない、《殺す》んだ……」
 少年は、顔をゆがめた。まるで己自身がひどい痛みを感じたかのように。
「どうして!? 海馬さんは、あなたのことをとっても大切に思ってます! とっても、とってもいい方です。それを、殺すなんて……」
「違うッ!」
 少年は叫んだ。ミクは、すくみあがった。
 ミクをにらみつける稚い面差しには、憎悪よりも強い、痛みのようなものがあった。彼の背後で、うずくまっていた白い龍が、ゆっくりと翼を動かした。力を、取り戻しつつあるのだ。
「―――あの人は、アイツは、死なないとダメなんだ。ほかに、あいつを救う方法なんて無いんだ」
 ミクは、ただ、呆然と少年を見上げるしかなかった。
「どうして?」
 青い眼の海馬。傲岸不遜な男。だが、ミクの知っている中においては、仲間を思う心を確かに持っていた少年。
「海馬さんは、いい人です。優しい方です。それをどうして、あなたが、殺すなんて」
「あんなもの…… 優しさなんかじゃない」
 少年は、かみ締めるようにつぶやいた。拳が握り締められる。指が掌に食い込む。
「人殺しは、死なないと、いけないんだ……!」
 少年が、手を上げる。それに答えて白い龍がゆらりと頸をもたげた。
 ミクは凍りつく。頭上から見下ろす青い眸。その顎が焔を咬んだ。死の予感がノイズのように意識をよぎった。ミクのもろい身体は、その一撃に耐えられない。
 ミクはすくみあがりそうになる両腕を必死に広げた。マリオを庇おうとした。己の身体が次の瞬間木の葉の一枚のように燃え尽きるのを予感する。

 だが。
 バチッ、と奇妙な音が響き、その瞬間、世界の色が、変わった。

 少年はその手を振り下ろそうとした姿のまま、白い龍は焔のブレスを放たんとしたまま、全てが、停止する。ミクはとっさに硬くつぶっていた眼を細く開いた。すべてを見る。信じられず、頭が一瞬付いていかない。
「え……?」
 白い龍の少年の背後で、地面に倒れ付していた少年ロボットが、ゆっくりと身体を起こした。油の切れた機械のようにきしみながら、しかし、確かな動作で。
 ロックマンだった。ヘルメットが脱げ、露わになった幼い面差し。その視線が戦士だけが持ちうる精悍な隙のなさで、油断なく少年をにらみつけていた。
 ―――タイムストッパー。
「ロック、さん……」
「危なかったね、ミクさん」
 バチッ、とロックマンの身体から火花が散った。激しいダメージで体中が軋んでいた。顔をゆがめながら立ち上がり、そして、ミクのいる方向をにらみつけたまま停止している少年を見る。
「あまり長く持たない。急がないと」
「は…… はいっ」
 マリオに蘇生アイテム、ロックマンにも回復アイテムが使われ、ミクも急ぎMPを回復する。時間は短い。戦況を立て直す余裕はあれど、他の暇などまったく無かった。起き上がったマリオは盛大に顔をしかめながら、「Fuck!!」と履き捨てて折れた歯をペッと吐き捨て、乱暴に口元を拭った。
「さんざんやりやがってこのクソガキャ…… ネギ嬢ちゃんがひんそーな身体してると思って狙い打ちにしやがって」
 だが、時間が無いことは分かっていても、ミクにはどうしても迷いがあった。少年を見る…… その頬に一筋の涙が伝い、白く光っていた。表情は苦悶と悲しみに歪んでいた。
「このガキ、いったいなんなんだよ? 海馬のヤロウのコピーかなんかか?」
「違います、弟だって言ってましたよ。マリオさん、敵とはいえ人の話は聞かないと……」
「うるせーよ、兄よりも優れた弟なんざいねえんだッ。だいたいこのガキの能力、完全に海馬のヤロウのコピーじゃねえか―――」
 マリオは、乱暴な手つきで、青眼の白龍のほうを指差した。
「―――あの、でっけえ白トカゲまでだぜ!?」
 ミクはふいに、いままで感じていた違和感の正体を、自覚する。
 邪気眼、F・E・ブリザード、ニュークリアV。
 そして、さらには、《青眼の白龍》まで。
「……ロックさん、マリオさん。やっぱり、何かおかしいです、この方……」
 ミクがつぶやくと、二人が振り返った。ミクははっきりとした確信ももてないまま、不安なまなざしで、少年を見る。
 怜悧な印象が確かに海馬に似た、けれど、はるかに幼く、また、あどけない双眸。
「時間がねぇんだ、ネギ嬢ちゃん。言いたいことは三行でまとめろ」
「え、ええ、あ、う」
「急かさないでください、マリオさん。僕にはまだ余裕ありますから。……どういうことなの、ミクさん?」
 ミクはうろたえながらロックマンを見る。彼はなだめるように笑みを浮かべてミクを見てくれている。だが、露わになった面差しからも、露出した内部の部品からも、絶えず小さなスパークが飛んでいた。時間は、無い。何故ロックマンがそのように言ったのかと、ミクは、頭が混乱しかけるのを感じるが。
「ま…… まって。10秒待ってください。今、照会します」
「あン?」
 ミクは眼を閉じ、両手で《耳》のあった部分を押さえた。一瞬、視界が暗くなる。光学的データの解析にまわすべき計算資源を別のタスクへとまわしたのだ。ミクの中で、データ解析のためのエンジンがフル回転した。ジャスト10秒。データが照合した。ミクは眼を見開き、そして、口元を覆う。
「どう? やっぱり、ミクさんの思うとおりだった?」
「さっきから話が見えねぇよ! メカ同士でイチャこいてんじゃねえっ、俺にも事情を説明しろや!」
 乱暴な口調で怒鳴るマリオに、ミクは、うろたえながら、「99.98%、照合しました」と答えるしかない。
「何がだ、何がっ」
「か、海馬さんです。そっちの子の戦い方と、海馬さんの、能力が」
 おろおろと迷いながら、ミクは、救いを求めるようにロックマンを見た。ロックマンは、はっきりと頷いた。状況判断能力に置いて、新型をはるかに凌駕した旧型は、ミクに変わって断言する。
「この子、見たとおりの人間じゃないです。仮に人間だとしても、自分の意思で戦ってるわけじゃない――― 彼は、海馬さんの能力を、何らかの形でコピーしてるんです」
 

 後ろにしがみついたハルヒの身体が、急角度の旋回をとげるたびに、危うく振り落とされそうになるのを感じる。舌打ちをする暇も無かった。魔理沙はどこまでも続く細い廊下を全速力で飛翔する。箒の後ろに乗ったことなんてないのだから、ハルヒにアリス並みのあわせ方を期待するほうが無駄だ。だが―――
「頭ァ下げろッ!」
「―――!!」
 ガガガガッ!!
 激しい音と共に、魔理沙が思い切り踏み出した踵が、天井をえぐった。乱暴極まりない方法で制動をかけ、スピードを殺すと同時に、針の隙間を縫うような精度でドアとドアの間をすり抜けた。短く鋭い悲鳴をあげたハルヒのスカートが、ドアの金具に引き裂かれる。
「な、何やってんのよッ!?」
「黙ってろ! 舌咬むぞっ」
 ガァン、とすさまじい音がした。魔理沙が再び壁を蹴った。再び音が続く。狭い通路をバウンドするパチンコ球のようにすり抜ける。その背中から七色にきらめく光弾が肉薄し、魔理沙が蹴り曲げた壁を、その次の一瞬には原型をとどめないまでに粉砕する。
 全身の産毛がそそけだつ想いだろう。魔理沙はウエストにしがみつくハルヒの腕がきつくなるのを感じた。いくら自分であってもきついのは同じだ。広い蒼穹のフィールドを自在にかけまわるのではない。隘路を猛スピードで突っ走りながら、オマケに後ろからは―――
「待ってよぉ、魔理沙ッ!!」
「ざっけんな、待てるかぁッ!」
 スピードを落とせば背後から喰いつかれる。だが、最大スピードでこの隘路をクリアすることなんて出来るわけが無い!
 階段。箒の頭で壁をえぐり、突入不可能な角度をクリアするためには自ら足で蹴って無理やりにスピードを殺した。足の骨が音を立てた。砕けたかもしれない、と魔理沙は思った。だが、極度の興奮が魔理沙の精神を限界まで研ぎ澄ましている。幻想郷一のスピードジャンキーは伊達じゃない。飴色の目は眼前に次々と現れる隘路を解く方法を探しながら、同時に、背後から迫り来る光の迷宮を潜り抜ける細い道を探り当てていた。常人には到底不可能な神業。
 上にGがかかったかと思えば、次にはまっさかさまに落下する。そのたびむちゃくちゃな慣性が三半規管をシェイクする。魔理沙にとっては馴れたもの、むしろ、一種ジャンキーな意味での快感ですらあるのは間違いない。だが、常人であるハルヒには……
「付いてこられてるかっ、ハルヒッ」
「こ、られなかったらッ、とっくに、振り落とされ……ッッ!?」
 燦爛。女王の宝石箱がさかさまにひっくり返され、金剛石のネックレスは狂える王女の手で引きちぎられた。七色の光弾が煌きながら散乱する。魔理沙はとっさにミニ八卦炉を構えた。掻き消すしかない!
「だからッ、てめーのお遊びにゃあ、つきあってらんねぇんだよッ!」
「あはははははっ! 魔理沙らしくないよぉッ!」
「やかましいッ!!」
 閃光が、カッ、と空間を嘗め尽くした―――
 一瞬の閃光。それが、放たれた光弾の幕を掻き消した。だが、あくまで時間稼ぎにしかならない。魔理沙は懐のホルダーに手を当て、そこに残されたスペルがもうない事を確かめる。ざらりと背中を舐める冷たい墜落の予感。もう、奥の手を使ってすべてをリセットすることは出来ない。
 飛翔に継ぐ飛翔。目の前に現れる無数のドアと無数の窓。無限距離まで続く廊下。きらめく虹の光を無数の窓が反射し、さながら、巨大なダイヤモンドの中に迷い込んだかのような幻惑の閃光が視界を圧倒する。目など見えなくとも飛べる。もはや視覚神経から脳へと情報が伝達される暇すら惜しい。だが。
「こ、れじゃっ、キリが無いわよ……っ」
「しかたねえだろっ。フランのやつが打ちつくすまで待つっきゃねえ!」
 だが、本当に《打ちつくす》ことなどありえるのか? 魔理沙はすでに異常を悟っていた。この空間に彼女が存在するという異常。この空間そのものの異常。だが、全ての意識を飛翔へと注ぎ込んだ今の魔理沙であっては、それ以外のことなど意識に上らせることすら出来ない。ねじれながら消失点にまで続く窓が、光弾を連ねた虹のカーテンに煌いた。かと思えば、次の瞬間、着弾のショックで爆発したように炸裂する。
 散乱するガラスの破片を、ギリギリのところで回避する。避けそこねたガラスの一片が魔理沙の頬を切り裂いた。真紅の筋が奔る。一滴の血が、すさまじいスピードに引きちぎられ、見る間に背後へと飛びすぎていった。背筋が冷たくなった。だが、魔理沙がその瞬間に浮かべていたのは、痛快さに満ちた、笑みのようなものだった。
 ああ、クソッタレ。
 ―――むちゃくちゃ、楽しいじゃねえかよ!
「あ―――うッ!」
「ハルヒっ、堕ちるぞッ!」
「し、下ぁ!? あ――― アァァァアァっ!?」
 パァン、と蹴り破った窓の向こうは、がらんどうの螺旋階段。眼下へと下る深淵へと魔理沙は飛び出した。そして、そのまま、重力をも己のスピードを増すための糧として喰らい、真下へと、《全速力で飛ん》だ。
「ひ……!!」
 髪を、たなびくスカートを、リボンを、重力と風圧とが引きむしる。魔理沙は眼を見開いていた。背後から突き刺さる光の槍をすり抜ける。瞬間、通り過ぎていく光弾の群れが静止した。《まったく同じスピードで堕ちている》のだ。まばたきすら忘れそうだった。楽しい、楽しい、楽しい!
「ば、バカ魔理沙ぁッ! 何楽しんでんのよッ!」
「あ痛ぁ!?」
 だが、そう思った瞬間、後ろになびいていた三つ編みを、いきなり後ろからぎゅうとひっぱられた。魔理沙は我に帰った。あわてて肩越しに振り返ると、顔色も蒼白になったハルヒが、半ば涙目になって魔理沙の三つ編みをひっぱっている。
「痛い、いててて! やめろってば、なんだよ!?」
「見て! うしろ―――」
 魔理沙は、言われるがままに振り返った。
 そして、視た。猫のような目が、裂けんばかりに見開かれる。
 そこにいたのは、《フラン》ではなかった。
「な、なんだありゃあ!?」
 闇のようなもの。
 影のようなもの。
 あるいは、そこに《何も無い》かのようなもの。
「ふ、フランはどこ行っちまったんだよ…… なんだありゃあっ」
「最初っから、いなかったのよ。あんたの言ってるそのナントカいう子なんて……」
 ハルヒは、ようやく、冷静さを取り戻しつつあるようだった。こみ上げる吐き気を抑えるように口元を押さえつつ、もう片方の腕が、魔理沙の細い腰に全身の力でしがみついている。
「あんたが、振りちぎったんだわ。あいつはアンタのスピードに追いつけなくなったの。だから正体が見えてきた……!」
「どういうことなんだか説明しろっ」
「ちょっとは自分で考えてから答えなさいよ!?」
 間髪無く言い返す魔理沙に、ハルヒがわめきかえした。だが、意味を悟ってはいるらしい。チッ、と鋭く舌打ちをすると、背後へと振り返る。
「あんた、最初に言ったでしょ。《パチュリー》って。それから、《フラン》……」
「そ、そりゃ、だってあいつらがいきなり出てきやがったんだぜ? そんで、わけのわかんねえ泣き言言い出しやがって……」
「そんな子たち、あたしには、《見えなかった》わ」
「!?」
 あれは鏡、あれは幻象。
「ううん、見えなかったわけじゃない。でも、魔理沙と会話しはじめる瞬間まで、なんだかわけわかんないモヤモヤにしか見えなかった」
「じゃあ、あいつらは―――」
 元からさとい魔理沙のこと、ハルヒが言った言葉だけで真相を悟った。ハルヒははっきりと頷いた。
「あれは、”コピー”だったの! それも、あんたに執着する気持ちのコピー。だから、あんたがその子たちに対して、そういう気持ちを感じなくなったら、アレも姿を保てなくなるってことだったの!」
 己の全身全霊をただスピードにだけ注ぎ込むとき、魔理沙は、何の不純物が入り込む余地も無い、純粋な《飛翔》そのものとなる。その研ぎ澄まされた純度に、生ぬるい感情が入り込む余地など無い。ましてや、べたべたと絡みつき、心も身体も縛り付けるような”執着”など、なおのことだ。
「な…… なるほど」
 ようやく我に帰ったらしく、魔理沙は、ただ呆然とつぶやく。
「あそこまでヤバい弾幕をかましてくる相手、フラン以外にいるはずねえとは思ってたが…… んじゃ、あれは……」
「そうよ。あんたの記憶の中の、その子自体だった。ヤバいのも当たり前よね!」
 このアドレナリンジャンキー。ハルヒはそう魔理沙を罵り、ふたたび三つ編みをひっぱる。魔理沙は「あいてて!」とまた悲鳴をあげる羽目になった。
「でも、じゃあ…… どうしろっつうんだよ? ぜんっぜん先が見えないぜ、このステージ! アレをぶっちぎるにはどうすりゃいいんだよ!」
「それは―――」
 先が見えないステージ。追い払っても、蹴散らしても、再び目の前へと現れる闇。
 当たり前だ。あれは、心の外にあるものではなく、心の内側にあるものの反映。己の中に存在する闇なのだから。
 ハルヒは振り返った。もやもやとした闇の中に、ふたたび、ひとつの像が結びつつある。それは白く長いドレスに藍色の髪の少女、さもなくば、奇妙なかたちの翼を持った透けるような髪の娘に思えた。背筋が、ゾッとした。スピードの中に己を溶かし込んで全てを忘れようとしてもそれは刹那。ほんのわずかでも疾駆を止めれば、ふたたび闇が降りてくる。
「ハルヒ?」
 自分の身体に、全身の力を込めてしがみついてくるハルヒに気付いて、魔理沙は、とまどった声を上げた。ハルヒはいやいやをするように首を横に振った。魔理沙の、癖の強い金色の髪の中に、必死で隠れようとするかのように。
「どうしたんだよ…… まさか、怖がってんのか?」
「そうよ!」
 予想外に、怒鳴るような返事が、帰って来た。

「そうよ、怖いのっ! 怖いにきまってるじゃない、自分の中身なんて!!」

 魔理沙は、一瞬、あっけにとられた。いつも勝気で、自分勝手なハルヒとは思えない、悲鳴のような声だった。
 その声に気をとられかけ、そして、背後の闇が形作ろうとしているものに気付き、ハッとする。茫漠とした闇の中に、何かがスパークした。魔理沙が見たものは、己が知る幻想郷の少女の誰の姿でもなかった。あれは誰だ、と考えかける。けれども。
「おい、ハルヒ」
 魔理沙は、無理やりに頬に力を入れて、笑みの形を作った。
「押して駄目なら…… どうするっつーんだったっけ?」
「は……?」
「押して駄目なら、さらに押せ。その次は?」
「な、何言ってんのよ、アンタ」
「その答えはなあ……」
 魔理沙は頭をすばやく切り替えていた。側面に続く廊下、飴色に照り映えながら続くガラス窓の群れ。その中を飛び続ける限りゴールは無い。
 ならば―――
「押して駄目ならさらに押せ、それでも駄目なら」
 ピッ、とカードをホルダーから抜き放つ。ハルヒが眼を見開いたのを見て、ニッ、と唇を釣り上げた。八重歯を見せて力強く笑う。
「―――ぶち壊せ、だ!」
 ハルヒが息を呑んだ。魔理沙が抜き放ったものはスペルカードではなく、白い龍を描いたまったく別のカード。激しく暴れる力を感じる。荒馬ではなく奔馬。己の主ではないものの手の中にあって、激しく怒れる力の気配。
 相手が強いほうが力がわいてくる。目の前にそびえる壁が分厚いほどに挑みたくなる。それを逃避と呼ぶなら呼べ。魔理沙は、全力で疾走することにこそ、生きる意味を見出してきた。
 思い出したのは、あの幻影だ。銀灰色の髪をした霖之助。手を差し伸べる。戻っておいで、と。
 そんなに速く飛ぶと危ないよ。お前はまだ小さいんだ、危ないよ。戻っておいで…… 魔理沙。
 冗談、じゃない。
 たとえ、戦わずとも赦されても、走らずとも生きられても、魔理沙はその道を自ら拒絶する。
 《戦いたい》し、《走りたい》。
 それが、私の道だ――― 私の心だ。
「行くぜ、しっかり捕まってな!」
「な……っ」
「そうさな、名前は、《皓符…》」
 カッ、と魔理沙の手の中で、魔力を注ぎこまれたカードが、白光を放った。
「《皓符・バーストストリーム》!!」
 すさまじい光が、空間を、圧倒した。




「……」
 1人の少女が、誰もいない教室で、机に腰掛けている。彼女の無感情な面差しは、ここではないどこかをじっと見つめていた。日差しが斜めに差し込む――― 紅く融けゆくような夕日。
 彼女は視ていた。平行して起こっている幾つもの時空間での出来事を。
 憎しみに駆られ、涙を浮かべた幼い少年へと、透き通るような髪の歌姫が、手を差し伸べようとしていた。
 妄執と愛憎が絡み合った無限回廊を、力と意思を握り締めた少女が、その魔力よりなお強い意志の力で、突破しようとしていた。
 心の闇は、逃げようと背を向けたときにもっとも大きくなる――― 眼をつぶって布団に中にもぐりこんだとき、子どもの夢の中に出てくる怪物が、もっとも大きく恐ろしくなるように。だが、逆を言えば白日の下にさらしだされ、自ずから向き合う勇気をもったとき、心の闇は己を飲み込む脅威ではなく、力と知恵を持って立ち向かうことができる敵のひとつに過ぎなくなる。
「……これは、リセットが必要かしら」
 彼女がぽつんとつぶやいた、そのときだった。
「いいえ、もうリセットは出来ません。チェックメイトですよ…… 朝倉さん」
 弾かれたように、少女は、朝倉涼子は、振り返った。
 《ドアの無い教室》の中に、いつのまにか二人の人影が見えた。いつものような笑みなどカケラも無く、表情を引き締めて立っている古泉。そして、その背後で、こちらは余裕たっぷりの態度で椅子のひとつに腰掛けている阿部。
「どうして……」
 朝倉は呆然とつぶやいた。この空間は情報的に閉鎖されていた。入り込む方法など何も無いはず。それが、何故?
「情報的に、という言葉の盲点ですね。あなたは誤解していた。人間の主観を下に構成された空間は、物理法則に基づいた世界ほど堅固ではないのです」
「一樹いわく、俺たちがここの場所を分かってるって時点で、ここに入るのは簡単だったらしいぜ。まぁ……色気の無い方法だが、勘弁してもらいたいね」
 何が起こったのかを一瞬把握できなかった。だが朝倉は、相手がわずか二人と見て、こわばりかけていた身体にコントロールを取り戻す。少女らしい面差しが少し笑みを浮かべた。
「あなたたちの言い方って分かりにくいのよね。もうちょっと、簡単に説明してくれない?」
「だとさ、一樹」
 阿部が肩をすくめた。古泉は、大きく息を吸い、そして、吐き出す。
 正面から、朝倉を見据えた。
「―――僕たちは、あなたの作り出した《閉鎖空間》を、ロックしました」
「……ふぅん、それで?」
「あなたの干渉は、もう、ここから外には及びません。サーチしたデータを再び新しく”ダークネス”に埋め込むことも、出来ません。あなたに出来ることは、ここから、これから起こることの全てを見守ることだけです」
 ……朝倉涼子は、《ダークネス》を使って、囚われたものの心の闇を使った《トークン》を作り上げていた。
 たとえばそれは海馬瀬人の闇であり、桂言葉の闇だ。彼、彼女らの心の奥底に潜む恐怖や狂気、絶望を、形を持たない闇へと埋め込む。それらは海馬や言葉の力を持ち、同時に、その絶望のままに行動する魔物と化す。
 だが、その命令を下すのはあくまで司令塔である朝倉。彼女がダークネスとの接触を断たれれば、彼女が自分の意思でダークネスに干渉し、新しく闇を複製することはもう出来ない。一度倒されたダークネスは二度と複製され再び姿を見せることは無い。つまりは。
「なにもかも普通どおり、ってことね」
「そういうことです」
 彼女はしばらく古泉と、その背後の男を見ていた。やがて肩の力がふっと抜ける。朝倉は机の上に腰掛け、微笑んだ。
「言いたいことは分かったわ。でも、それでチェックメイトってのはちょっと言いすぎじゃないかしら。せいぜい、ステイルメイトってところよ」
 ステイルメイト…… 手詰まり。どちらもチェックメイトをかけられないまま、状況だけが宙吊りになり、勝負の結果は水入りとなる。
「時間のループも発生しない、私が複製を行うことも出来ない。ということは、何もかも始めの通りということじゃないの。ようするに、桂言葉が自殺して、それを間近で見た海馬瀬人が壊れちゃう。そういう終わり方に戻るだけじゃないの?」
 古泉は、顔をゆがめた。あの結末は彼も知っていた。
 朝倉はくすくすと笑い出す。少女らしい悪意に満ちた、鈴を鳴らすような笑い声。
「何回もね、涼宮さんは同じ状況を繰り返してたわ。でもけっこうな確立で終わりは同じだったわよ? あの二人は、どちらかを犠牲にしてもう片方を逃がそうとする。その結果、残された片方が、壊れる。―――バカみたいよね、要するにもうとっくに《詰んでる》ってことじゃない」
 古泉は、苦しげに何かを言いかけた。だが、そこに、奇妙にたっぷりと余裕を持たせた声が、「おいおい」と割り込んできた。
 さっきまで傍観していただけだったはずの阿部だった。朝倉は顔をしかめる。阿部は、ニヤリと笑ってみせる。
「お嬢ちゃん、あんたはあんまりいい女じゃないな。まぁ、俺には女の良し悪しはわからないから、間違ってるって可能性はあるが」
「ちょっと、なんなのよ?」
「俺の場合、いい男とそうじゃない男を見分ける重要な判断基準が二つある。まぁ、ひとつはお嬢ちゃんにはまだ早いから教えないとして、もう一つだ。つまりそれは―――」
 心が、開いているか否かだ。
 阿部にそういわれて、朝倉は盛大に顔をゆがめ、古泉は眼を瞬いた。
「心を閉じちまってる男じゃあ、どれだけ魅力的であってもいいお相手にはなってくれないね。だからそこが重要ってわけだ。だが、俺は個人的には海馬にはいい男認定を下してる。言葉のほうも、まぁ、たぶんいい女なんだろう。いい男といい女が集まって、何もかもどうしようもないなんて結末にしかならないとでも思うのか?」
「冗談じゃないわ!」
「駄目だねぇ。そんなんじゃ、いい彼女に恵まれないぜ…… ああ、彼氏だったっけか?」
 冗談とも本気とも取れない口調で言って、阿部はどっしりと椅子に腰掛けなおす。古泉は少しはなれた場所に立ったままだった。朝倉は不機嫌さと不愉快さを隠そうともしないまま、窓の外へと眼を向ける。
 夕焼け、ひずむチャイム。
 ループエンドが、再び、訪れようとしていた。





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