【悲しみの向こうへ】
≪18≫



 さあ、はるか眼下を見下ろしたまえ。
 お前が選んだその至高の座の下には、かつて愛した者たちの屍が累々と積み重なっている。


「死んじゃえ…… 死んじゃえっ!」
「―――っ!!」
 背後から、何度も、何度も、力を込めてカッターが振り下ろされる。そのたびに海馬は鈍いうめき声を上げた。激痛。だが、言葉の手を今は両手で握り締めている。この手を離せばすべてが終わってしまう。なす術も無く、ただ、無防備に受け続けるほかに方法は無かった。
 鈍い刃が突き刺さる。音を立てて折れた。カッターの破片が肉に食い込み、肩をつたう鮮血が腕を滴った。ぱた、ぱた、とその数滴が言葉の白い頬に落ちた。言葉はただ声を無くし、大きく見開かれた眼から、とめどもなく涙があふれる。
 ……愚かな少女。
 ……強い娘。
「くそ…… この、化け物めが……っ」
 ずるり、と手が血でぬめった。必死の力を両手に込める。動けない。このままでは二人もろともに落ちるだけだと、海馬の身体を冷たい予感がぬるりと舐めた。
 背後の姿は、もはや人間としての態をなさず、ただ、憎しみだけがくりかえし刃を身体へとつきたてるだけの影となる。このまま無防備に受け続けていたら、いつか、殺される。そして、言葉の手を両手で握り締め、カードに触れることもできない状態では、反撃すらもかなわない。
「海馬さん…… お願い、離して……?」
 言葉が、しゃくりあげるようにして、ささやいた。海馬は何も言わなかった。ただ、その腕に力を込めて、言葉の両手を握り締めた。
 何も出来ない。眼下に校庭が見える。真下はコンクリート。ここで手を離せば、叩きつけられた言葉の身体はつぶれた肉の塊と化す。どこかで、それを見た気がした。かすかなフラッシュバック。顔の半分がなくなってしまった姿。だが海馬は、それが自分の想像であるのか、それとも、実際にいままでに見てきた多くの屍のなかのどれかなのか、区別をつけることが出来なかった。
 勝利、敗北。生と死。屍と、そして敗北と死と、屍。
 己の手で初めて殺した人間。頭が砕け散り、顔だった場所がつぶれた肉となり、背後に脳漿がぶちまけられる。弟の目隠しを解かないまま、12歳の海馬は、その場で吐いた。初めて殺した人間だった。けれど、それは《初めて》に過ぎなかった。
 直接的、間接的に、たくさんの人々を死に追いやった。自殺したもの、半ば手を下したもの、目の前で己の手で己を殺すよう仕向けたもの、ただ他の誰かの手で殺され肉の塊となって現れたもの。
 義父だった剛三郎は、高いビルの頂上から飛び降り、そして死んだ。警察のものたちが掻き集めた死体を柩に納めた。人間の形をしていなかった。それが、海馬のやったことの顛末だった。
 殺す。生きるため、殺す。だが、どれだけ殺せばいい? 他の誰かもまた、己が生きるため、海馬の死を願っているだろう。泥沼だ。憎悪と恐怖とが作り出す、澱んだ血の臭いで満ちた底なし沼だ。
「海馬さ……」
 言葉の指が、弱弱しく、握り返してくる。
「瀬人さん」
 海馬は返事をする余裕も無く、ただその手を硬く握った。ぬめる血にまみれた手で。
 離すことはできない。言葉を、自分が生きるために、死なせてはいけない!
「うああぁぁぁぁあああ!!」
 背後の少女が絶叫した。握り締めたカッターを高く振り上げ、そして、渾身の力を込めて、海馬の背中へとつきたてた。海馬は歯を食いしばって悲鳴を飲み込んだ。鮮血が、ふたたび、散った。



 
「……血まみれなんだ。これ以上行っても、全部、全部、血まみれで、血だらけなんだ」
 ミクは見た。MPが切れ、ほとんど立つことも出来ないロックマンの肩を支えながら。向かい合った姿。黒髪の少年。彼は、しゃくりあげるようにして、そうつぶやいていた。
「悲しいよ。悲しいから、また、殺すんだ。それくらいなら、もう、殺してあげなきゃダメなんだ……」
 白い龍が翼を広げ、しなやかな首を油断なく下ろし、まるで抱擁するようにしてその少年を護っていた。彼は、もはや満身創痍の状態だった。砕けた肩から動かせない左腕がぶらさがり、こぶしで涙をこする頬は、血とすすとで汚れている。
「コピー。あれが、海馬さんの」
 震える声でつぶやくミクに、だが、二人の前に立ちはだかったマリオは、「くだらねぇこと抜かすんじゃねえ!」と怒鳴りつける。
「あんな泣き言に耳貸してる暇ァねえッ。どうやってぶっちめるかを考えろッ!!」
「だ、だって」
 ふたたび、白い龍が白焔を咬んだ。油断なく両腕を広げたマリオの体は、頼もしい鋼鉄の輝きを纏っている。ミクは反射的にぎゅっと眼をつぶった。だが、高熱の風が髪を舐めても、ダメージはない。マリオは奥歯をかみしめるようにして笑ってみせる。火花が、蛍のように飛んだ。彼は何度でも受け止める。すべてを焼き尽くす恒星の熱を。
「倒そう、ミクさん。じゃないと、どっちにしろ、僕たちは進めない」
「ロックさん……」
「どんな理由があったって、倒すべき相手を倒さないと、僕たちは大事な人を守れない。……すくなくとも僕は、ミクさんも、マリオさんも、倒させるわけにはいかない」
 轟、と焔がひらめいた。高熱の風が吹きつけ、ミクは必死で眼を閉じ、ロックマンを庇うように身をすくませた。長い髪が吹きちらされ、その先端がちりりとこげて燃え散っていく。
「ミクさんが辛いんだったら、僕が行くよ。大丈夫、僕は、そのために力が欲しいって願ったんだから」
 ミクに向かって微笑みかけるロックマンは、割れたヘルメットをなくしていた。耳を覆うパーツのほか、人間と見分けられる部分のない彼は、あどけない少年の面差しをしていた―――
「ミクさん?」
 ふいにミクは気付いた。己が、泣いていたということに。
 手を伸ばす。抱きしめる。16歳の少女のすがたをしたミクに抱きしめられて、ロックマンは戸惑いに眼をまたたいた。「み、ミクさん」と困惑した声を上げる。ミクは黙って首を横に振った。
「戦っちゃダメです、ロックさん」
「……ミク、さ」
「あの子を殺しちゃったら、何も、解決しなくなっちゃう」
 あの少年は、海馬瀬人の闇。心の底にふかく沈んだ絶望と悲しみの姿。
 なのはと、魔理沙もまた、そうであったのをミクは憶えていた。闇に囚われた彼女たちが見たのは、自分自身の不安と悲しみの姿そのものだった。けれど、それを滅ぼしたところで、心の底の悲しみは消えない。己の心の悲しみを照らし出さない限り、闇は、何度でも、何度でも、よみがえってくるだろう。 
 ミクは、そう言いたかった。言えなかった。言葉をしゃべることを得手としないVOC@LOIDの限界を超えていた。だからミクは、いつの間にか、つぶやくように口ずさみはじめていた。ロックマンが、マリオが、それぞれに眼を見開き、驚きの表情を浮かべる。


 悲しみの向こうへと
 たどりつけるなら

 僕はもう
 いらないよ

 ぬくもりも 明日も


「うぁぁぁぁあああぁぁぁあ゛あ゛ッ!!!」
 少年が、慟哭するかのように、絶叫した。
 ミクのくちずさんだ歌に気を取られ、マリオも、ロックマンもまた、隙を見せた瞬間だった。
 《青眼の白龍》の顎が青白い雷を咬んだ。彼女の皮膚をも焼き、焦がし、圧倒的なエネルギーと熱量がそこに集められる。ロックマンが弾かれるように振り返った。
「しまっ……!!」
 あまりにまばゆい光を受けて、少年の姿がちっぽけなシルエットになった。ミクは、目がくらんだ。そこに立っている少年の姿を、他の誰かと見誤った。
 違う誰かに見えた。
 青い眸、とび色の髪。
 まだ頼りない体つきの、ちいさな、少年のときの―――
 《滅びの爆裂疾風弾》が、恒星の熱と光を放ちながら、放たれようとする瞬間だった。
 視界の端に、まるで百舌のように踊りこむ、小さなシルエット。見開かれた眼に、彼女の別名ともなった黒いスカート、白いエプロンが刹那、見える。明るい色の髪がひらめいた。彼女は、力を込めてその手をかざした。
「《皓符・バーストストリーム》!!」
 その刹那、光と光が、正面からぶつかり合った。
 圧倒的な光量。恒星同士がお互いにぶつかりあい、光と熱が流星群のように舞い散る。銀河に散る星々のかがやきをひと時にばらまいたかのような燦爛たるきらめきが、その一瞬、その空間へと満ち溢れた。
「え……っ!?」
 舞い降りる。別珍のスカートがひるがえり、白いフリルが爆風にふくらんだ。爽快さに満ちた表情でニッと笑って見せ、親指を立ててみせる。霧雨魔理沙。その箒の後ろから身軽な動作で飛び降りるもう1人の少女。俊敏そうな細い足と、髪に結んだ黄色いリボン。
「ま、魔理沙さん、と…… ハルヒさん!?」
「待たせたわね! 久しぶりっ」
 唖然とする三人の側へと着地したハルヒは、ざっと片手で髪を背中へと避けた。魔理沙もまた、その側へと降り立った。爽快さに満ちた表情で、きらめく星屑の残滓を残しながら、きらきらと散っていく焔の残滓を見上げる。
「こりゃあ、カッコいいなあ! 癖になっちまいそうだぜ!」
「な、なんなんだぁ、お前ら!? 今、何しやがった!!」
 直撃を食らうことを覚悟していたらしいマリオは、肩透かしを食らった、むしろ、あっけに取られた様子で眼をむく。魔理沙は余裕たっぷりに答えた。
「弾消しボムは、基本中の基本なんだぜ」
 意味が、分からなかった。ロックマンが眼を白黒させる。
 魔法と魔法がぶつかり合ってきらめくスペクタクルに夢中な魔理沙にくらべ、ハルヒのほうがずっと冷静で、状況判断も早かった。ひるんでいる少年の姿を見、さらに、その背後の《青眼の白龍》を見る。かるく親指の爪を噛んだのは一瞬だった。「なるほどね」とつぶやく。
「どうしたんですか!? なんでお二人がこんなところに?」
「さっきまであたしたちも、ヘンな空間に捕まってた。でも魔理沙のバカ魔力で、空間のループをぶちやぶって脱出したの。そしたらこんなところに出たのね。たぶん、あのドラゴン同士が引かれ合ったんだと思う」
 もう一体の青眼の白龍の下で、少年は、閃光に焼かれたらしい眼をおさえて膝を突いていた。その姿を見て、「あれが海馬の方の」とハルヒがつぶやく。ミクはあっけに取られた。
「え? え? ……どういうことなんですか?」
「すごく簡単に説明するわよ。このあたりには二種類の敵がいる。片方が海馬のコピーで、もう片方が言葉のコピー。正確にいうと、あいつらの頭の中の闇のコピーね」
「マジかよ。マジであんガキャ、海馬のヤロウのコピーってことか!」
「もう気付いてたの? なら早いじゃない。まず言っとくけどアレを倒すには正攻法じゃダメみたい。倒しても倒しても復活してくるだけよ」
「な……!?」
 ハルヒは、悔しげに向こうを見た。魔理沙はすでに期待に満ちた目で片手にカードを構えている。「バカ魔理沙!」とハルヒが怒鳴りつけた。
「戦ってどうすんのよ!? そいつもクリア不可能っぽいんだから!」
「いいだろ、ちょっと遊ぶくらいはよっ。身体がうずうずするんだぜ!」
 再び放ったスペルが、青眼の白龍の攻撃をまともに相殺した。だが、爆風と衝撃がすさまじい。あやうく吹き飛ばされそうなリボンを必死で押さえながら、ハルヒは、魔理沙に向かって怒鳴りつける。
「何考えてんのこのバカ魔理沙ッ!」
 怒鳴るハルヒの腕に、ふいに、細い手がすがりついた。ハルヒは振り返った。ミクだった。折れそうに細く白い指が、必死の力で、ハルヒの腕を掴んでいた。
「ハルヒさん…… 助けてください」
「な、何?」
「助けてあげてください。このままじゃ、可哀想すぎます……!」
 ミクが、少女の面差しのVOC@LOIDが、その目いっぱいに涙をためているのをハルヒは見た。たじろいだ。ミクは必死に訴える。
「あのひとは、海馬さんの心の一部なんでしょう? それが、あんなに悲しそうにしてるんです。助けてあげたいんです。どうしたら……」
 彼女の想いは、すべて、歌で出来ていた。おそらくは心や、魂すらも。そんな心で、ミクは、ただ必死で思っていた。仲間だと思い、頼れると慕っていた人の悲しみを、どうにかして、和らげてやりたいと。

 ぬくもりも、明日も、もう、いらない。
 悲しみの向こうへと行けるのなら。
 孤独な眠りも、心を捨てた闇も、おそろしくはない。
 この思いを越えられるなら。

 ―――海馬さんや言葉さんのために、こんな悲しい歌は、歌いたくない。ミクは、ただ一心に思った。
「海馬さんが、悲しくなくなるためじゃないと、戦っても意味なんてないです。大好きな人たちを倒さないと先に行けないなんて…… そんなの…… そんな答え、間違ってます!」
 気弱なはずのミクが、強い声ではっきりとそう言った。
 一番、驚いたような顔をしたのは、ロックマンだった。マリオは眼を瞬き、魔理沙は痛快そうに唇に笑みを浮かべる。ハルヒは、目いっぱいに涙を浮かべたミクを、じっと見下ろす。
「にしたって、あんまり時間はないみたいだな。向こうはまだまだやりあいたいみたいだぜ?」
 少年が、よろめきながら立ち上がろうとする。その目はまだ憎悪と絶望に燃えていた。その身体を抱き、庇うようにして、白い龍もまた翼を広げる。己の愛するものを、愛するが故に、終わらせることを望む心。
 ロックマンが、ミクを見た。同じ機械の心を持った少女を。戦う道を拒んだ彼女を。
 ロックマンは己の手を見下ろし、そして、握り締めた。決意をこめたまなざしで、キッ、と顔を上げた。
「逃げましょう!」
 彼の発言に、周りの仲間たちが、いっせいに振り返った。
 それぞれに驚きの表情を浮かべている。ロックマンは早口に言う。
「クリアできないステージなんだったら、回避するしかないです。それに、さっきハルヒさんは言いましたよね? ここにたどりついたのは、《青眼の白龍》同士がひかれあったからじゃないかって」
「確かに、言ったけど」
「あそこに一体、魔理沙さんの手に一枚、ということは、最後の一つは海馬さんのところにあるはずです。もしもお互いにカード同士が惹かれあうんだったら、目標を定めないで脱出しても、自然と海馬さんたちのところに合流できるんじゃないでしょうか?」
 あっ、と短く声を上げたのは誰だったのか。
 魔理沙が眼を丸くし、みるみる、その飴色の目いっぱいに喜びが溢れる。魔理沙はいきおいよくロックマンの背中をはりとばした。
「イケる! 名案だぜ、ロック!」
「ちょっと、本気で言ってんの!?」
「いや、だがクリアできないステージはいったん回避っつーのは確かに定石だぜ。よし、俺も乗った」
 ミクが、涙をいっぱいにたたえた目で、ぼうっとロックマンを見た。ロックマンは頷いた。少し笑った。
「ミクさんの言ったほうが正しかったって、今、僕も思ったんだ」
 ミクは、口元を両手でおさえた。泣き出しそうにくしゃりと顔をゆがめ、けれど、あっという間に、それは笑顔に変わる。
「―――はいっ!」
 ミクは、力いっぱい、頷いた。




 走る、走る。
 どこまでも続く長い廊下、そして、左右に広がるガラス窓。いっぱいに溢れた真紅の光。アリスは、心の中の不安を抑えるので精一杯だった。息が上がり、足取りが乱れる。「大丈夫か、アリス!?」と側から力強い声がかけられる。
「へ、平気よっ」
「そうか。なら、悪いがもう少しだけ頑張れと言わざるを得ない!」
 ドア――― 消失点まで続く回廊の向こうに、ふいに、不自然な風に出現している引き戸が見える。教室の、ドア。アリスは思わず怯みかけた。だが、リョウはためらうことなくドアを開け放つと、その向こう、赤光に溢れかえった屋上へと、飛び出した。
 そこには。
「な……っ」
 赤い光に溢れかえった屋上。フェンスに囲まれているだけの、無骨な空間。そこに1人の少女がいる。振り返る。飴のように曲がったフェンスの向こうを見下ろしていたその顔が、こちらへと振り返った。息を呑んだ。彼女の両腕が、顔が、返り血で真っ赤に染まっている。
 アリスは見た。そこに、倒れている姿。己の血で染まっていても見間違いようがない。白いコートの姿。海馬。だが、アリスが声を上げるよりも、リョウが腰溜めに拳を構え、気合と共に、力を放つほうが早かった。
「覇王!翔吼拳ッ!!」
「くっ!?」
 衝撃と共に、放たれた気合が光弾となり、空を薙いだ。少女は怯み、とっさに飛びのいた先の中空を気合が薙ぐ。アリスもまた、一瞬遅れ、己のすべきことを悟った。その指に見えない糸が絡みつく。すばやく結んだ印に答えて、彼女の忠実な人形たちの姿が現れる。
「上海ッ、蓬莱ッ! 引き離すのよっ」
 魔力によって操られる人形が宙を舞い、カッターを持った少女へと飛び掛る。彼女は裂けんばかりに眼を見開いた。血まみれのカッターが宙を薙ぐ。上海人形と蓬莱人形を払い落とすようにして薙ぎ払う。同時に、絶叫した。
「邪魔をしないでッ!」
「あんたこそ、あたしたちの仲間を離しなさい!」
 アリスは右の手をぐいと引き絞った。一度は回避したと見た上海が背後から少女の体へとぶつかろうとする。彼女は身体を半ば倒すようにしてすんでのところで回避するが、そこには既に、拳の届く距離へと肉薄していたリョウが、待ち構えていた。
「《フタエノキワミ》ッ!!」
「!!」
 コンマ数秒のうちに叩き込まれる連撃。吹き飛ばされる彼女へと、大きく跳ね上がるハイキックが追撃した。激しい音。やったか!? アリスはとっさにそう思う。けれど。
「油断するな、アリスっ。こいつ、硬いぞ!」
 己の身体を叩きつけられた壁から、その少女は、よろめくようにして立ち上がった。コンクリートの壁を砕くほどの衝撃を受けたはずにもかかわらず、彼女がもう一歩踏み出すときには、その足取りは初めと同じように確かなもの、それ以上に殺意に満ちたものであると見分けられる。アリスは、息を呑んだ。顔を上げる。その面差しが、憎悪に暗く歪んでいた。
「邪魔をしないで……」
「な、なんなの、こいつ」
 思わず、アリスですらひるむような、深い深い憎悪に彩られた声。息を呑むアリスを庇うように、リョウは、油断なく前へと踏み出した。
「お前こそ、人の恋路を邪魔するやつは、覇王翔吼拳で粉砕すると言わざるを得ない!」
「……」
 血まみれの手に、カッターナイフが握られている――― おかしい、とアリスはすぐに思った。構造的にそこまで強くないはずの刃物だ。それが、どうしてこうやって武器としての役割を果たし続けている?
「リョウ、こいつ、見た目どおりじゃない。油断しないで!」
「ああ。だが、海馬たちが!」
 アリスは青い眼を見開く。血まみれのコートの背中が、ずるり、と屋上の向こうへと引きずられていた。落ちる。このままでは――― 落ちてしまう!
「か、海馬っ!」
「もう少しだ、海馬っ! もう少しだけ持ちこたえろ!」
 リョウが、付きかかってくる少女のナイフを、必死でいなす。いなしながら叫ぶ。顔を狙った一撃を腕で受け止めた瞬間、リョウの喉から、「ぐっ!?」といううめき声がもれた。
 ナイフの刃が、その腕を深々と切り裂き、筋肉と筋とを引き裂いた。アリスはとっさに上海へと意識を集中した。媒介を受けた魔力が光弾となって放たれる。直撃を避けておおきく背後へとステップした少女は、その面に、歓喜の色を浮かべた。おおきく笑いの形を浮かべた口元。まるで、ナイフで引き裂いた三日月のように、歪な笑い。
「ふふ…… あはは、あははははっ!」
 血の滴る腕を庇いながら、リョウもまた、呆然と少女を見詰めた。彼女は笑っていた。狂気に満ち溢れて。
「ずるいよ、桂さん……」
 声が、ワイプする。ほとんど、人間の声とは思えないほどに。
 歪む、歪む。夕暮れが歪み、チャイムの音が歪み、そして、精神が歪んでいくように。

「自分だけ…… 人殺しの癖に、幸せに、なろうなんて!!」

 言葉は聞いていた。
 そして、海馬もまた。
 その腕を伝い、流れ落ちる鮮血が、言葉の顔をしとど濡らす。言葉は、その台詞を知っていた。呆然と見開いた眼が、海馬の青い眸を見た。言葉は、そこに自分の中にあるものと同じものを見た。決して拭いさられることのない罪と、罪を犯したものの絶望とを。
 ずるりと、海馬の身体が、校舎のふちでバランスを崩す。いつしか言葉は全身の力でその手を握り返していた。海馬の手から力が抜けても、自分の力で、その手を握り締めていた。
 自分だけ、人殺しの癖に、幸せに。
 人殺しの癖に。
「わ、わたし」
 殺したものは殺される。それが定め。
「わたし、は……」
 口に出しかけた思い。けれど、それを全て無理やりに飲み下した。何も、言い訳などできない。出来るはずがない。手から、誰かの血を洗い落とすことは出来ても、血みどろの過去は決して消えない。
 海馬が何かを言いかけ、けれど、半ばで口を閉じた。出血がひどすぎた。目の焦点が合わなくなりかける。腕から力が抜け、その身体が、言葉の重みで校舎のふちから落ちる。それでも、握り締めた手は、離さない。離せない。
 言葉は思った。強く強く。今まで、一度も思ったことがないほどに。
 
 ―――死にたくない!

 その、瞬間だった。
「飛び降りるの! そこから落ちて、言葉ちゃん……!!」
 声が、聞こえた。
「海馬ッ、飛び降りろ!」
 言葉が、海馬が、眼を、見開いた。
「……!」
 カッ、と眼を見開いた海馬が、途切れそうな意識を振絞って、その声に従った。意思の限りを尽くして、全身のばねが引き絞られ、起き上がり、そして、中空へと飛び出す。硬く、言葉の手を握り締めたままに。
 二人は、落ちた。一瞬の自由落下。だが、次の瞬間、真紅の身体を持った龍が、二人を、中空で受け止めていた。
「遊戯……」
 オォォン、と咆哮が響く。長大な体躯を持つ真紅の龍。天を覆うほどの体を持った龍は、二人をその背中へと受け止めると、しなやかに身体をくねらせ、大きく翼をはばたせた。
「む、武藤さん。こなたさん!?」
 血まみれの二人を掬い上げたのは、《オシリスの天空龍》。遊戯の従えたカードの精霊。呆然とする言葉へと、次の瞬間、小柄な誰かがぶつかるようにして抱きついてきた。言葉は眼を見開いた。こなただった。
「社長っ、言葉ちゃんっ。よかった、生きてて……!!」
 こなたは泣きながら言葉を抱きしめる。言葉はぼうぜんと見開いた眼で、龍の背にまたがった遊戯を、そして、その背後で自分と海馬とを小さな手で捕まえているこなたを見る。ほとんど、呆然として、頭が付いていかなかった。
「どうして、ここに……?」
「谷口くんがねっ、助けにいってやってって!」
「谷口さんが!?」
 言葉は見た。学校の《壁面》に、《教室のドア》が開いている。そこから身を乗り出しているのはクラッシャーだった。屋上でなおも戦うリョウとアリスに向かって、大声で怒鳴る。
「お前らも飛び降りろっ。脱出するぞ!」
「分かった!」
 すかさず、リョウの声が答えた。アリスの「ひゃあっ!?」という悲鳴が聞こえた。まもなく、小脇にアリスをかかえたリョウが、一瞬の迷いも無くフェンスの切れ目から屋上より飛び降りる。その二人を、張り巡らされた頑丈なネットが、しっかりと受け止めた。
「撤退フォローも完璧の男、スパイダーマッ!」
「おk、確認したぜっ。オレも行くぞっ」
 宣言するなり、クラッシャーもまた、壁面に空いていたドアから飛び出した。スパイダーマが張ったネットへと。言葉は、何が起こったのかわからず、ただ、絶句していた。だが、そんな言葉の身体へと、こなたの小さく細い腕が、必死の力で抱きついてくる。
「言葉ちゃん、言葉ちゃんっ。大丈夫? 痛くない!? こんなに血が……」
「こ、これ、海馬さんの血です。わたしは平気…… でも、どうしたんです、これ?」
 ゆったりを身をうねらせながら空を飛ぶ《オシリスの天空龍》。そして、スパイダーマのネットへと降り、早くも撤退の算段を立てつつあるリョウたち。さっきまで自分たちのいたはずの学校の屋上が、はるか眼下となっていた。言葉は見た。そこにたった一人残された少女が、憎しみに燃える瞳で、自分たちを見上げているのを。
「谷口くんたちが、来てくれたんだ」
 遊戯が、やっと、振り返った。いつものように勝気な表情が、その目に、よみがえっていた。
「オレたちは、最初から海馬と桂さんのところへ行くつもりだったんだ…… だが、谷口くんがいてくれなければ間に合わなかったと思う」
 空間移動能力。言葉は驚いてはるか眼下を見下ろす。クラッシャーが姿を現した壁面のドアは、いつのまにか姿を消していた。あれが谷口の能力で開けられたものだったのだと、ようやく、悟る。
「谷口くんがね、言葉ちゃんたちがピンチだっていって、ドアを開けてくれたの。そしたらこのタイミングだよ。間に合えてホントによかった……」
 《オシリスの天空龍》は、その長大な身体をうねらせて、黄昏の空を翔んだ。空はどこまでも紅く染まり、その彼方がどこにあるのか分からない。けれど、遊戯は確信に満ちた表情で、己の律する龍へと指令を下す。
「あっちだ! あちらへ飛べ、《オシリスの天空龍》!」
 
 
 拾い集められたものは、《キセキ》の欠片だった。
 あるときは、遊戯が、こなたの叱咤を受けて、仲間を信じる心を取り戻した。
 またあるときには、言葉が、己の闇を打ち破って、未来を得ようと戦った。
 そして、海馬が己のすべてを振り捨ててでも、1人の少女を守ろうとしたときもあった。
 その全ての条件が、たった一回にそろうことなど、ありえなかった。それは一つ一つのキセキであり、それだけなら何十回、何百回繰り返されようと、ささやかな出来事に過ぎない。
 けれど、すべてのパーツがそろったとき、それは未来を開くための力となる―――
「大丈夫か? これで全員いるか!?」
「ああ、大丈夫だ! 海馬と言葉も、遊戯が助け出したっ。あとはここを脱出するだけだ!」
「全員の無事を確認した男、スパイダーマッ!」
 よし、と頷くと、クラッシャーは、最期にもう一度だけ、背後へと振り返った。そして、立ち尽くしているアリスの姿を見つけ、「さっさと行かねえと…!」と怒鳴りかけた。けれど。
「待って。これじゃ、まだ駄目。屋上に、まだあいつがいる!」
 アリスは鋭く叫び、学校の屋上を指差した。そして、全員が見た。そこに立つ、ぽつんと小さな、一つの影を。
「この距離じゃあ追ってこられない。大丈夫だと言わざるをえない」
「ううん……」
 アリスは、厳しい表情のまま、頭を振った。透き通るような金髪が揺れる。
「まだ…… 駄目。足りないわ」
 

「……」
「海馬さん! 大丈夫ですか!?」
 海馬は、ほんの一瞬意識を失っていたようだった。眼を開けると、頭上に、今にも泣き出しそうな顔をした言葉の顔がある。そこが何処なのかを明確には理解していないようだった。だが、青い眸は、ゆっくりと瞬き、その手が、かすかに動いた。言葉はその手を握り返す。
「……」
「え……」
 龍の頭上に油断なく座していた遊戯が、振り返る。不安に満ちて振り返るこなたの表情を見て、眼をまたたいた。
「どうしたんだ、泉さん?」
「なんか、社長が……」
 海馬の、青い眼。混じりけのない純粋な青。その声がわずかに震え、「まだ……」とつぶやいた。
「海馬さん…… 瀬人さん」
 海馬は、つぶやいた。
「……消えては、いない。まだ、闇が、あそこにいる……」
 


 悪夢が作り出す空間は、黄昏の真紅に染まる幻影。
 鳴り止まないチャイムはノイズのようにひずみ、その空間全てへと鳴り渡っていた。校庭に投げかけられたネットの影が、風にざわめく梢の陰が、すべての闇が、命を得て、《立ち上げられ》ようとしていた。
 学校の屋上に立った少女は、もはや、人間らしい表情を浮かべてはいなかった。人間の形をした影。人の形に集積された絶望の形。その手に握られたカッターから血が滴る。滴るものは黒く澱んだ。それはもはや血ではなく、形を持った闇そのものだった。
「……ずるいよ、二人とも。自分たちだけ、幸せになろうとするなんて」
 つぶやく。彼女は、ゆっくりと踏み出そうとした。その影が夕日に長く長く伸び、そして、ゆがみ、ひずむ。人の心の絶望を得て、命を持った闇。それはすでに意思すら持たない。ただ、目的が存在するのみ。
 己を染め上げた悲しみの元を、この世界から、消去すること。
 だが。

「待て!」

 背後から放たれた声に、少女の形をした闇は、振り返った。
 そこには、1人の男が、いた。
 手に独鈷を握り、厳しく表情を引き締めた男。黒衣の陰陽師。彼は、はっきりと少女をにらみつけていた。その背後に忠実な巫女を、そして、仲間たちをしたがえて。
「悪鬼悪霊よ。我らが仲間に対するこれ以上の狼藉、決して赦さん」
「……」
 ピコ麻呂は、前へと、踏み出した。少女はこちらを見ていた。その目は黒い。眼球すらもそこには無く、ただ、ぽっかりと虚無へとつづく闇があるのみ。
 それは、真の意味での闇だった。ただ1人の人の心に潜むものではない。すべての人の心にある闇。
 それでも、ピコ麻呂も、その仲間たちも、決して怯みはしない。何故なら。
「―――そなたの想い、このわしにもわかっておる。血にまみれながら生きることは辛かろう。怨み憎しみに囚われながら進むことは苦しかろう」
 だが、とピコ麻呂は言った。しゃん、と独鈷につけられた真鍮の環が、音を立てる。
「それでもなお、人は、己に定められる生きねばならぬ。そのための道を阻むものならば、この手をもって調伏する…… それこそが陰陽の道ぞ!」
 少女が、カッターを振り上げた。その背後で闇が歪む。だが。
「クソッタレがっ! 貴様のような化け物は、B級スプラッタで十分だッ!!」
「お前さんどもに、若い者たちを渡すわけにはいかんよっ!」
 放たれた鉛玉が、指向性地雷が放つ鋼鉄のベアリングが、迫り来る影を粉砕する。そして。
「祈祷…… 静まりなさい!」
 琴姫が印を結び、護りの結界を張る。その光の壁に阻まれて、闇は、ひとたび動きを止める。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前!」
 ピコ麻呂の指が、すばやく九字を切った。その手の独鈷に光が宿る。闇を、圧するほどに。
 ピコ麻呂の足が、強く、地面を蹴った。走る、走る。強く握り締められた穿心角が光を宿す。裂帛の気合と共に、踏み込む。その光が、影で形作られたものを、切り裂いた。

「《穿心角・突》!」

 パァン、と音が響いた。ガラスを、打ち砕いたような音が。
 音を立て、偽りの黄昏が砕ける。ゆがみ、かすみ、そして、消えうせる。少女の形をしていたものは、倒れ伏せるよりも前に、細かな粒子と砕けて、消え去った。
 黄昏が消える。悪夢が、醒める。
 音を立てて、世界が揺らぎ始めた。校舎そのものが音を立てて崩壊し始める。確かに闇を消滅させたことを確認した琴姫が、「ピコ麻呂様!」と叫んだ。
「よし、撤退するぞ!」
「谷口くん、頼んだ!」
「こっちだ! 速くしてくれ、オッサン!」
 何も無いはずの空間に、ただ、《ドア》が開いていた。そこを支える谷口が、必死の表情で皆を急かす。ハートマンがストーム1が、そして琴姫が、ドアの向こうへと飛び込んだ。ピコ麻呂もソレに続く。だが、最期に一度だけ、崩壊していく世界へと、振り返った。
 ピコ麻呂はすばやく印を結び、つぶやく。
「―――成仏しろよ」
 そしてピコ麻呂が内側へと滑り込むと同時に、音を立てて、ドアが閉まる。一瞬にして、消滅した。



 そして闇は、砕け散った。






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