【悲しみの向こうへ】
≪2≫




 【時系列:−X】

 帰宅。今はまだ、海馬剛三郎死亡の知らせも行き届いてはいないらしかった。メイドたちが慌てる中、海馬は敷き詰められた絨毯を踏みしめ、大またに廊下を通り過ぎる。奥の部屋のドアを開け放つと、そこに、大きすぎるソファに埋もれるようにして、弟の姿がある。
「兄サマ、どうしたの?」
 学校にまで知らせを飛ばして、まだ授業時間中に無理やり連れ帰ったのだ。側に置かれたままのランドセル。海馬は言い放った。
「モクバ。すぐに着替えろ」
「……」
「メイドに言いつけて喪服を準備させた。印をつけた新聞記者に顔だけ取らせたら、すぐに屋敷に戻ってこい。学校には休校の知らせを出させた」
「……」
 勢いに飲まれたのか、モクバは、しばらく何も言わなかった。混乱していて何も思いつかないらしい。海馬はすぐにきびすを返した。背中で最期に告げる。
「安心しろ。もう、あの男を恐れる必要は無い」
 海馬はすぐに部屋を出る。慌てて紅茶を持ってこようとしていたメイドと鉢合わせをし、荒々しく舌打ちをした。まだ幼い顔立ちのメイドが顔をこわばらせ、慌てて引き下がる。やることは無数にあった。思い描いていたシナリオの中に、剛三郎の死は存在しない。最期までいまいましい男だ! 頭の中で次々と公式・非公式、さらには法的なものから違法なものまで、ありとあらゆる算段が組み上げられ、崩され、すさまじい勢いでプランが編み上げられていく。そこにはたった一つのものを除いて、全てが計算づくに考えられている。
 ……。
「―――兄サマ!」
 ふいに、背後から、まだ少女のような声が聞こえた。海馬は、振り返った。弟がそこにいた。大きな目をいっぱいに見開いて、弟が、海馬のほうを見つめていた。
 またたきひとつしない。真っ黒な眸。
「……父サマが死んだって」
「後にしろ。これから、忙しくなる」
「待ってよ、兄サマ!」
 ひとつ、大きく息を呑んだのが遠くからでも分かった。モクバは胸の奥に詰まったものをむりやり吐き出すように、声を絞り出す。途切れ途切れに。
「死んだって」
 スローモーション。
「死んだって、父サマのこと」
 ストップ。リプレイ。再び、スローモーション。
 異様なまでに高画質なリプレイ。そのあまりの明瞭さ、一片の揺らぎすらも介入しない確固さが、逆に不自然だと、彼は気付かない。
「―――兄サマが、父サマのこと、殺したの?」
 ストップ。
 彼は、海馬瀬人は、冷然と答えた。
 
「そうだ」

 そして再び、もう何度目なのかも分からないリプレイ。



 【時系列:2】

 ピコ麻呂に手渡された防衛線の修正案にざっと眼を通した海馬は、いつもの冷笑すら浮かべずに、そのコピーの束をばさりとテーブルに投げ出した。
「手ぬるい」
 ばっさりだった。
「―――むう…… だが、現在の状況なら、各都市の防衛に回せる残存兵力はこの程度が限界では?」
「兵力の各自投入など愚の骨頂だ。このような防衛案を各自治体に回すくらいなら、都心にだけ回して地方を切り捨てたほうがずっと現実的だろう」
「そのようなことが出来るか! 何を考えている?」
 思わず興奮してテーブルを叩くピコ麻呂。ふん、と鼻を鳴らして冷笑する海馬。相変わらず、空気がピリピリしていてたまらない。近くの席でデータの整理を手伝いながらも、琴姫はこわごわと会議の様子を眺めているしかない。
「なら、お前の提案を言ってみろ、若造」
 答えるハートマンはむしろ楽しげだ。「お、おい!」と身を乗り出すピコ麻呂に、海馬は側に放り出されていた赤いペンを取る。何の数値計算もしないどころか、電卓すらも叩かず、あっというまに投入兵力のリストを真っ赤にしてしまう。
「幸い、日本は人材の層が厚い。一時的に予備兵として後方戦力をすべて民間人から供出させ、訓練された兵力はすべて前線へ。そうすればこのラインは最低限出せるだろう」
「むちゃくちゃではないか! 一般人をなんだと思っている!?」
「黙って訊け。各地区の情報伝達用のラインには企業ネットワークを転用。EDFは市民からの支持が高い。全ての協力企業と非協力企業を公表しろ。ネガティブキャンペーンを恐れて誰も反対などせんだろう」
「非協力を宣言した連中に対する制裁は?」
 ハートマンの一言に対して、海馬の返事は明快極まりなかった。
「何も言わずとも、【市民軍】が自主的に行う。必ずだ」
 沈黙。列席していたメンバーのうち、ハートマンは満足顔で腕を組み、ストーム1は黙って話を聞いているだけだ。問題の最後の一人であるピコ麻呂は、ギリギリと歯軋りの音が聞こえてきそうな、すさまじい形相になっていた。
 琴姫が思い切って口を挟もうとする。そこに、絶好のタイミングで、最高齢者が発言をする。
「まあ、そのあたりの内容はまた後日じゃの。あとは司令部が決めることじゃから、両方のプランを上に出しておけばええじゃろう」
 下士官がそれ以上を口にするもんでも、できるもんでもないわい。そう言っていかにも好々爺然と笑ってみせるストーム1に、ようやく場の空気が緩む。ピコ麻呂は握り締めた拳をなんとかテーブルにまで下ろすと、「分かった」と返事をした。
「……ならば、オレは別の用事がある。退席させてもらおう」
「お、おい!」
 ガタン。椅子を鳴らし立ち上がった海馬は、そのまま、大きな歩幅で会議室を出て行ってしまった。その背中に何か声をかけようとして、途中で、何を言える自分でもないと気付いたらしい。ぐったりとうなだれるピコ麻呂に、ハートマンが声を上げて笑う。琴姫は立ち上がって、皆にお茶を入れてやる準備をする。
「司令官、お前の流儀では納得できないか」
「……ずっと、そういった指令系統はムスカにまかせきりだったからのう。だが、あそこまでの暴言は、あやつだって言わなんだ」
「そのお優しい司令官殿はいまどこで何をしている?」
「……」
 海馬に続いて情け容赦のないハートマンの一言を受けて、ピコ麻呂はさらにダメージを受けた。もはや立ち直れないらしい。誰も居なかったら、そのまま椅子から床にすべりおちていたかもしれなかった。
 EDF日本支部の小さな会議室。今後の戦力投入についてのプランを考えろと言われたピコ麻呂が、自分は士官ではないと頭をかかえての会議である。だが、この様子だったらだまって一人で決めていたほうが、彼の精神衛生にはずっとよかったに違いない。誰一人フォローしてくれる様子の無い厳しい状況のあとで、「お疲れ様です、ピコ麻呂さま」と、心優しい琴姫だけが、そっとお茶を出していたわってくれる。
「ふむ、しかし、この数値はなんとも面白いのう。ワシはきちんと現状を確認せんと何も言えんが」
 海馬が手を入れた資料を片手に、ストーム1が顎をひねっている。ピコ麻呂はお茶を冷ましながら呻いた。
「一般人を兵力として供出…… 企業に対する情報の漏洩……」
 しかも、海馬の言い方では、守る対象であるはずの市民を、潜在的には敵とみなしているも同然だ。自分は少なくとも無辜の市民を守るために戦ってきたつもりのピコ麻呂には、理解は出来ても納得など出来がたい内容。だが、ハートマンの返事は、むしろ楽しそうなものだ。
「あのボウズはとことんマキャベリストだな。堂に入った非情っぷりだ」
「非情になってどうする! 我らは市民を守るための地球防衛軍ぞ!?」
「全体を守るつもりで最終的に全滅するよりはマシだろうが」
 とことん、自分が戦うつもりでしかいないピコ麻呂と、下士官としての思考回路が出来上がっているハートマン。その考え方で行くなら、海馬はなんだろう、と琴姫は一瞬考え込んでしまう。お茶を受け取ったストーム1がからからと笑った。
「あの少年は、そうじゃのう、戦時下の軍事企業の脳みそかの」
「死の商人、ですか……」
「だが、実際はあの少年は、海馬コーポレーションを自分で把握してすぐに、軍事部門の切捨てを行っておる。面白いのう」
 ストーム1が、そうしみじみと言って、お茶を口に含もうとした瞬間だった。
「へえ、あいつ、そんなことをやってたのか?」
 いきなり窓の外から声がして、そのまま、盛大にむせ返った。
 ここは何階か。ビルの三階である。だが、窓のあたりに頬杖をついて、ニヤニヤと笑っている少女が一人。ハートマンは無言でそこに置かれていたボールペンを取った。
「面白いな。もうちょっと詳しく教え…… 痛ぇっ!」
「そこの泥棒猫、入るならドアから入らんか。きちんと許可を得ずに軍事会議を覗き見するなど、軍法会議ものだぞ!?」
「わたしは軍人じゃない。それに、許可だったら後で貰うつもりだったんだぜ」
 言うまでも無く、魔理沙である。箒を足がかりに、「よっと」と気軽な声と共に部屋に入ってくる。ピコ麻呂はもはや声すらない。
「痛いなー。しっかし、モノ投げることないだろ、オッサン」
「オッサンではなく軍曹と呼べ」
「分かったよオッサン。でさ、じいちゃん、さっきの話なに? 海馬が死の商人とか、軍事部門がどーしたこーしたとか」
 もはや、ぐだぐだだ。ピコ麻呂はとうとうテーブルにつっぷしてしまった。魔理沙はすでにピコ麻呂の前におかれていた饅頭を勝手に手に取っている。ストーム1は苦笑した。
「お嬢ちゃんはいつでも気ままじゃのう…… 昔話じゃわい。しかも、ホウキのお嬢ちゃんにとっては異世界の話じゃろうが」
「でも、気になるぜ? あ痛ててっ!! 何すんだよオッサン!!」
「やかましい。貴様はもっと先達をうやまう心を持たんか!」
 髪の毛をひっぱられて正座させられそうになっている魔理沙と、もはや軍曹というよりはブートキャンプの教官気分になっているハートマン。一人、悠然とお茶を飲む老兵。いつであってもストーム1は自分のテンポを崩されない。
 たいしたものだ、と思いながらも、琴姫も同じことが気になっていた。思わず、問いかけてしまう。
「海馬さんが、その…… KCの総帥でいらっしゃるということは、わたしも知っていました。ですが、軍事部門の切捨てとは?」
「ほっほ。これは、軍人でなければ軍事マニア以外は知らん話よ。もともとKCは海外に関連企業を大量に持っておっての、各国の軍隊への技術提供から、重工業関連での軍事技術の精度の高さで有名な企業だったんじゃよ」
 今では、もっぱらは玩具の生産で有名なKCだが、一代さかのぼって先代の海馬剛三郎の代になれば、とたんにきな臭い会社になってしまう。魔理沙にとっては知る余地も無い話だ。ハートマンに頭をおさえつけられて床に正座をしながらも、「そこんとこ、もうちょっと詳しく」と現金な要求をしてくる。
「まあ、ワシは古い人間だからの。戦地にいたころには海馬重工業の世話にもなったものよ。資源が豊かじゃが治安のよくない国家の権力者にたいして技術提携の申し出をして、そのまま、一気に国をひとつふたつひっくり返したという話も聞く」
「私にはよくわからないけど、それって、どういうことなんだ?」
「石ころをもってケンカをしている子どもに、その石ころと交換で銃をあげる、という話をする。そのガキは石ころの正体がダイヤモンドだとは気付いてない。ガキが回り中をみんな撃ち殺して光る石ころを独占したら、あとは銃と引き換えに石ころはみんなこっちのふところに、って話だ」
「それは……」
 思わず言いよどむ琴姫。ストーム1は、「よくある話じゃよ」とあっさりと答えた。
「だが、坊やは銃をサイコロに持ち替えた。いや、花札かのう? とにかく、ぜんぶ昔の話じゃわい」
「なるほど」
 ピコ麻呂が呻く。いちおうは企業総帥とはいえ、非武装一般人がどうしてあんな話をするか、ということにようやく納得が言ったという顔だ。
「当時の総帥、海馬剛三郎は当然自分の次の代にも【死の商人】を受け継がせるつもりだったんじゃろうからのう。坊やはそのへんもがっちりと叩き込まれてるんじゃろうわい」
「へえ、そんなことがあったのかあ」
 魔理沙は、いかにも感心したような顔をする。
「それ、何年前? 100年くらい前か?」
「……おい、そこの脳みその代わりに火薬が詰まってる小娘」
「それ、わたしのこと?」
「どうすればあのボウズが100年も生きてるように見えるんだっ」
 眼を瞬く魔理沙。心底、意外という顔だった。
「え? いや、あいつ人間っぽいけど…… そんな大事やらかすんだったら、なんか、100年とか200年とか生きてるんじゃないのか?」
「貴様の頭には火薬のほかにチンカスまで詰まっているのか」
「なんだよ。レディに向かって失礼だぜ」
 ぎゃんぎゃん言い合う二人。魔理沙は、ハートマンのブートキャンプを卒業した瞬間、すでに彼への敬意なんて放り出してしまっている。苦笑する琴姫の横で、ピコ麻呂が、「だが、気持ちはわかる」としみじみと言った。
「どんな促成栽培をすれば、あんな人間が出来上がるんじゃ? 謎に満ちておるわい」
「……」
 ストーム1は、黙った。見下ろす湯のみの底で煎茶の残りが澱んでいた。ふと、顔を上げた魔理沙が、またを口を挟んでくる。
「そうだ。じいさん、あと続きでさ、知らないかな?」
「だから、じいさんと呼ぶなと……」
「いやいや、かまわんわい。なんじゃい、魔理沙ちゃんや」
 魔理沙は、少しだけ真顔になって、言った。
「あのさ、なんか知ってるか? 噂とか」
「うん?」
「あいつがさ、海馬が―――」

 ―――自分の父親を殺した、って話について。




 【時系列:1】
 
 こなたがドアを叩くと、「あいている」と無愛想極まりない声。こなたはおそるおそる、ドアを開ける。真夜中の端末室は、節電のためか灯りがことごとく落とされていて、モニターに照らされている海馬の上半身だけが青白く照らし出されていた。
「あ、あの〜」
「なんだ」
「言葉ちゃんから、差し入れなんだけど」
 海馬がキーを押す音が、一瞬だけ、止まった。
 なんか、すさまじく怖いんですけど…… 自分の心の中だけでつぶやきながら、こなたは、おそるおそる海馬の横に行こうとする。だが、海馬のほうが先に席を立った。思わずびくっとしてしまう。正面に立たれると怖い。すさまじく怖い!
『く、首が……』
 身長差、なんと、驚きのほぼ40cm。近くまで来た海馬は無言でマグカップを掴み、そのまま、口にしながらモニターのほうへと戻っていく。モニターを見せないようにしてるんだ、とこなたは気付いた。なんでだろう?
「あの〜もしかしてさ、社長、今は仕事サボって狩りしてたとか……」
「なんのことだ」
「なんでもありません」
 はあ、とこなたはため息をつく。この無駄なプレッシャー、なんなんだろう。このまま帰ってもよかったのだが、しかし、無機質なオフィスに見合わない甘い香りが指先に残っているのをみて、思わず妙な顔になってしまう。海馬はもくもくと言葉特製のレモネードを飲みながら、キーを打ち続けている。
「あのー、社長〜」
「五月蝿い。なんだ」
「それねえ、言葉ちゃんの特製なんだけどね〜?」
「飲めば分かるだろうが」
 うおっ、とこなたは思った。
「そ、そんなに慣れてるの?」
「慣れもする。バカの一つ憶えみたいに同じものばかり飲まされればな」
「ふえー。そんなに毎日、差し入れがあるの……?」
「くどい」
 なんだこりゃ、とこなたは思う。頭がなんだか混乱してきた。なんなんだ、この二人の関係って。毎日毎日仕事してる社長と、それを影ながら心配してる言葉ちゃん? 何、このシミュレーションゲームの紙芝居エピソードみたいな展開? 頑固一徹の武将と影ながらそれを支える美人の侍女とか。そこまで考えて、侍女どころか言葉はパーティ屈指のアタッカーだと思い出す。
 普段の態度は控えめだが、実際、刃物を手にさせれば言葉がこのパーティで一番怖いかもしれない。(かも、のもう一人の候補は言うまでも無い魔砲少女である) そこらへんが共通点なんだよなあ…… 美男美女だって部分以外だと。海馬の背中を見ながらあきれかえっていると、ようやく、自分のペースが取り戻せてくる。
 こなたは、ちょっとだけいつものテンポになりながら、訊いてみた。
「それ、美味しい〜?」
「……」
「わたしも貰ったけど、すっごく美味しかったよ〜。美味しかったかどうか、言葉ちゃんに伝言するよ〜?」
 しばらくたって、ぼそっ、と海馬がつぶやいた。
「……おでんよりはまだマシだ」
 そこだけ声が小さかった。こなたは一瞬びっくりして、それから、思わずにやついてしまった。
「栄養価だと抜群だもんね〜。MPの回復量でも」
「あんなものは下種の食い物だ」
「社長、言葉ちゃんに食べさせてもらうなら、おでんも食べられるんだよねえ〜」
「……」
「ちょ、ちょっとタンマ! 嫁はやめて! 嫁はっ!!」
 こなたが悲鳴を上げるから、海馬は上げかけていた手を下ろす。もう、こんなとこで爆発は勘弁だよ。アフロこなたはちょっと…… 思いながら、こなたは、うっかり口に出してしまう。
「でも、言葉ちゃんは勘違いしてるよねえ。社長、言葉ちゃんのこと、ぜんぜん嫌いじゃないじゃん」
 その瞬間、海馬の低い声が、氷点下にまで凍てついた。
「―――なんだ、それは?」
 キィ、と椅子のキャスターが軋む音がした。
 振り返った海馬が、まっすぐにこなたを見た。真っ青な目。感情の色一つ無い。
「え…… え?」
 こなたは、気おされた。思わず言葉に詰まる。
「オレが、桂を、嫌っているだと?」
「……え、えっと」
「誰が言った」
 声は冷たく、逃げ場どころか、弁解の余地すらも無い。応えるしかなかった。
「そ、それはその、言葉ちゃんが…… 言ってて……」
 声が小さくなる。海馬はしばらく、口ごもるこなたを見ていた。だが、やがて、ふいっと目線をそらす。
「……そうか」
 返事は無感情で、無機質なものだった。何の気持ちも読み取りかねた。
 青い眼の呪縛から開放されて、ようやくこなたはため息をつく余裕を取り戻したが、しかし、同時に頭の中が疑問でいっぱいになった。どういうこと? なんなのこれ? なんなんだ、この二人って??
 言葉の心配と厚意を受け取っている海馬。そんな海馬に嫌われていると微苦笑する言葉。何かがもつれている。わけがわからない。
 だが、声をかけようとして、こなたは、黙った。海馬の背中はこちらを拒絶していた。何を言っても返事をする気などない。後姿だけでも明確に分かるくらいの意思。
 どうしよう。どうすればいいんだろう。わたし、こういうの、ぜんぜんわかんないのに!
「じゃあ、その、わたし戻ります……」
「……」
 言葉ちゃんには、社長、『嫌い』なんて言ってなかったって伝えていいよね? その一言を言おうかどうかさんざんためらって、こなたは、結局、言いそびれた。
「あんまり、ムリしないでね〜……」
 地面に張り付くような足をひっぺがして、オフィスを後にする。薄暗い部屋には、液晶モニターの青白い光と、カタカタというタイプ音だけが残る。
 いや違う。そうじゃないんだ、とこなたは思った。
 その指先には、薄暗くて無機質な空間にそっと広がったのと同じ、甘酸っぱい、あたたかい匂いが、残っている。





 【時系列:3】
 
「安心しろ。もう、あの男を恐れる必要は無い」
 海馬はすぐに部屋を出る。慌てて紅茶を持ってこようとしていたメイドと鉢合わせをし、荒々しく舌打ちをした。まだ幼い顔立ちのメイドが顔をこわばらせ、慌てて引き下がる。やることは無数にあった。思い描いていたシナリオの中に、剛三郎の死は存在しない。最期までいまいましい男だ! 頭の中で次々と公式・非公式、さらには法的なものから違法なものまで、ありとあらゆる算段が組み上げられ、崩され、すさまじい勢いでプランが編み上げられていく。そこにはたった一つのものを除いて、全てが計算づくに考えられている。

 ……。
 リプレイ。いつもと同じ。
 繰り返し、繰り返し再生された記憶。あまりに何度もリプレイを繰り返し、あいまいだったはずの細部にまで、極限までの現実感を書き込んでしまった記憶。
 だが、そこに、ノイズが混入する。

「―――兄サマ!」
 ふいに、背後から、まだ少女のような声が聞こえた。海馬は、振り返った。弟がそこにいた。大きな目をいっぱいに見開いて、弟が、海馬のほうを見つめていた。
 またたきひとつしない。真っ黒な眸。
「……が死んだって」
「後にしろ。これから、忙しくなる」
「待ってよ、兄サマ!」

 なんだこれは?
 いつもと違う。間違っている。こんな記憶はありえない。そう思う。だが、捻じ曲げられた記憶は、そんな思惑を裏切って、明瞭過ぎるリアリティで進んでいく。

 ひとつ、大きく息を呑んだのが遠くからでも分かった。モクバは胸の奥に詰まったものをむりやり吐き出すように、声を絞り出す。途切れ途切れに。
「死んだって」
 スローモーション。ノイズ。誤再生。
「死んだって、……のこと」
 ストップ。リプレイ。ノイズ。けれど、スローモーションでの再生の続行。
 異様なまでに高画質なリプレイ。そのあまりの明瞭さ、一片の揺らぎすらも介入しない確固さ。
 違う違う違う、こんなもの、間違いだ。ありえるはずが無い!

「―――兄サマが、”言葉”のこと、殺したの?」
 
 彼は、海馬瀬人は、冷然と答えた。
 その映像のなかで、もう、何千回と、定められていたように。
 
「そうだ」

 ―――。




 目覚めは、水面を突き破って浮上するように、突然だった。
「―――!?」
 呼吸が乱れる。異常なまでに亢進した鼓動。彼は、海馬は、まるで深海から突如浮上したかのような衝撃と共に、目覚める。視界が明滅する。
 おぼろげな悪夢の記憶は、その衝撃に乱されて、再生不可能なまでに寸断される。
 まるで背後から撃たれたように跳ね上がると、自分は、オフィスの椅子の上に腰掛けたままうたたねをしていたのだ。起き上がったと同時に、ひどい眩暈と吐き気がした。海馬は思わず胸を押さえる。
「く……っ」
 なんだ、これは? 悪夢を見て跳びおきるなんて。驚きより動揺より、屈辱感のほうが大きい。自分の顔に爪を立てるようにして片手で顔を覆っていた海馬は、やがて、息を整えたとき、何かが床におちていたことに気付く。
 暗い色をした、ブレザーの上着だった。
「あの…… 海馬、さん」
 ふいに、後ろから、ひかえめに声がかけられる。やわらかい声だった。海馬は、振り返った。そこに少女が立っていた。
 白いシャツと、結ばれたままのタイ。
 心配げな表情を浮かべて、水の入ったボトルを持っている。
「目、覚めましたか? その、もっと寝てても、いいと思うんですけど……」
 海馬は返事をしなかった。
 再生は不可能。だが、何かしらが、精神に大きく爪あとを残している。
 海馬は、立ち上がった。
 言葉は何もいわない。そこに立っている。
 ゆっくりと歩み寄り、その肩を掴んだ。力を入れすぎた指が痛いのか、かすかに顔をしかめる。
 音を立ててボトルが床に転がり、水がこぼれた。
「か、かいば、さ」
 何も声が出ない。溺れかけていたかのようだ。ひゅうひゅうと喉が鳴る。
 何をやっているのかよくわからない。だが、海馬は確かに少女のやわらかい体をきつく抱きしめ、鼓動を、体温を呼吸を、確かめた。硬く抱きしめすぎた腕のなかで、硬くこわばった体、ひきつるような呼吸を、鼓動を、確かに確認する。
「ことのは」
「え……?」
「おまえは、生きているのか?」
 なかばうわごとのような問いかけに、しかし言葉は、しっかりと、答えた。

「―――はい。わたしは、ここにいます」

 その返事に、全身から、力が抜けた。
 実際のところ、抱擁というにも一方的な振る舞いは、ほんの一瞬だっただろう。海馬の腕が緩まると、言葉は、とたん、飛びのくようにしてそこを離れた。眼をそらす。視線が微妙に揺れていた。
「……そっ、その、すいません」
「……」
「わたし、その、男の人が怖くて、だから……」
 言葉は自分の体に腕を回し、抱きしめる。かすかに震えていた。それを言い訳しようとしているのだと理解できた。まったく無駄な科白だとしか思えなかった。
「何故、ここにいた?」
 か細い声を断ち切るようにして、海馬は、問いかけていた。
 言葉は、眼をかすかに上げた。表情には恐怖の色が濃厚だった。漆黒の目、恐怖の色。だが、決してここから逃げ出す意思は無いということだけは、明確に読み取れる目。
「海馬さんが、その、ちょっとうたたねされていたから、起こしてはいけないと思って」
「そんな話ではない」
「本当に、それだけなんです……」
 言葉の声はかぼそい。だが、まったく揺るぐ様子は無かった。信じがたいことだった。
 海馬はしばらく黙って言葉を見つめていた。やがて、耐えかねたように眼をそらすと、言葉は地面に転がっていたボトルを拾った。床に水たまりが広がっていた。
「お水をこぼしちゃったって、言ってきます」
「……」
「その……」
 ごめんなさい、というのか、と海馬は思った。気弱な少女ならいかにも言いそうなことを。
 だが、言葉はその代わりに、思い切ったように眼を上げて、笑顔めいた表情をした。すくなくともそうしようとした。
「悪い夢、見られたんですか。でも、それは全部夢です。だから、なんでもありません」
 海馬は何も言わない。いえない。
「じゃあ、その、……また、後で」
 それだけを精一杯に言い残して、言葉はそそくさときびすを返す。部屋から出て行った。
 海馬はひとり取り残されて、信じられない思いで、床にゆっくりと広がっていく水たまりを見つめていた。
 何の夢を見たのかを、彼は記憶していない。ノイズのことも、何千回と繰り返したリピードが、異質なものへと侵食されようとしていることにも。
 だが、海馬は、半ば無意識に膝をかがめ、床に落ちていたブレザーを拾い上げる。
 さっき抱きしめたものと同じと錯誤されるぬくもりが、かすかにそこに残っている。






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