【悲しみの向こうへ】
≪3≫





イメージ【1】
 誠くんが、西園寺さんと手を取り合って、踊っている。文化祭の後夜祭。すこし恥かしそうな、嬉しそうな、楽しそうな二人。白熱電球のあかりが色とりどりのビニールや薄い紙の花に滲んでいる。少しノイズの混じるレトロな音楽。幸せそうな光景。
 どうして、わたしはあそこにいないの。どうしてわたしはあそこに入れないの。
 身体中がぎしぎしと痛んで、自分の体じゃないような気がした。わたしは、きたなくてボロボロの体を脱ぎ捨てて、あの、明るくてあたたかい場所に行きたかった。誠くんの前にいるのがわたしでありたかった。安っぽい、でもあたたかい、きれいな思い出の中にいるのが、わたしであってほしかった。
 でも、どうしても、窓が開かない。わたしと、誠くんのいる場所のあいだに、一枚のガラスみたいな何かがあって、決定的にすべてを隔てている。わたしのいる場所は冷たくて寒い。どうしても、あそこにはいけない。どんなにいっしょうけんめい叩いても、開かない窓みたいに。どこかの家の幸福な景色を、窓の外から覗いているみたいに、あの幸福は、あのぬくもりは、どうやったってわたしのものにはならない。
 誠くん、そこを開けて。わたしに気付いて。こっちにおいでっていって。でも、誠くんは西園寺さんを見つめていて、笑っていて、わたしに気付かない。誠くんはどうやっても、わたしのために、窓を開けてくれない。
 
 ねえ、そこをあけてよ。わたしに気付いて。

 そのとき、どんなにひどいことをされても流れることが無かった涙が、頬をつたって、ぽつりと地面に落ちるのに、わたしは気付く。

イメージ【2】
 わたしは教室の隅に座っている。放課後、ベルが鳴る。みんながスイッチでも入れ替わったみたいに、とたんに笑いさんざめき、お互いに声をかけあうようになる。
 部活が忙しい人たちが、教室から駆け出していく。ヒマな人たちはお互いの机のところに言って、雀がちゅんちゅん言うみたいに、可愛い声でおしゃべりを始める。掃除のためにガタガタと机が下げられるけど、まじめにやってない人のほうが多いみたいだった。
 今日は、なんにもない。わたしはこのまま家に帰るだけ。家に帰っても、誰もいない。夕方になるとお母さんが帰ってくるし、そのうち、心だって帰ってくるだろう。みんながいるようになったら、わたしは、わたしになればいい。お母さんの娘である私、心のお姉ちゃんであるわたし。でも、この場所にはわたしはいない。誰も、わたしを見ていないのだ。
 窓の外の光が透き通っていた。窓ガラスがすこしよごれていて、冬の光に金色に光っていた。そのガラスの向こうに葉っぱの無い木があって、わたしは、ほんとうのわたしの心はそこにいるような気がした。窓の向こうからみんなを見てる。誰かが窓をあけてくれて、こっちにおいでよ、と言ってくれるのをまっている。
 でも、誰もわたしを呼んでくれない。わたしはこの窓よりも透明だ。誰もわたしに気付かない。《桂言葉》はどこにもいない。
 わたしは、そっと立ち上がる。椅子と机を下げて、教室を出る。放課後になってすぐの、雑然とした、忙しそうな、ちょっと楽しそうな雰囲気を背景に、わたしは歩く。放課後の中学の光景がスチルになり、重ね合わせただけの光景のなかで、誰からも見えないわたしは、ゆっくりと、誰もまっていない家へと帰る。

イメージ【3】
 ねえ、誠くん取らないで。誠くんがいっしょなら、わたしは、ここにいるの。誠くんが見ててくれると、わたしはちゃんと生きているの。
 ほんとに好きだったのかはよくわからない。でも、誠くんがわたしのこと好きだって言ってくれて、わたしはとてもびっくりして、それから、ほんとうに嬉しかった。わたしが見ていた視線に気付いてくれたの。気付いてくれて、そうして、わたしにむかって笑いかけて、手を差し伸べてくれたのが誠くんだったの。
 誠くんにあってから、わたしはずっとわたしでいられたの。誠くんを好きな桂言葉。それがわたし。わたしの居場所がそこにあるの。それが、どんなに辛くって哀しくって、痛いことばっかりの場所だったとしても。
 誠くんが好きなわたしだから、怒ったり、嫌ったり、嫌がったりする人たちがいた。でも、わたしはそれでよかったの。誠くんを好きでいられる代償だったら、辛くても哀しくてもよかったの。ちゃんと切ったら血が流れて、殴られたら赤く青く腫れあがるのがわたしだったから。
 ねえ、知らないでしょう? この世界の全部が、開かない窓の向こうだったとき、わたしがどんな風だったか。うれしいことも哀しいこともなんにもないの。ひとつひとつの窓を覗いて、楽しそうな人たち、イライラしてる人たち、幸せな人たち、不幸せな人たちをみていても、ぜんぶ、それは触れない『きれいなもの』だったの。窓をたたいても誰もわたしに気付いてくれない。風の音だよって思うだけなの。それから、カーテンを閉めてしまうだけだったの。
 ねえ、ねえ、お願い、誠くん取らないで、わたしも中にいたいの、誰かのわたしでいたいの、誰かの心の中にいたいの。
 誠くんがくれるものだったらいいの、哀しいのも、苦しいのも、痛いのも、ぜんぶ大事にするから。全部誠くんがわたしを好きでいてくれるからだって思うから。
 お願い、誠くん取らないで、お願い、お願い、お願い、


イメージ【4】
 やっと、静かに、静かになった。風が水の上を渡っていく。冷たくて透明な空気が頬を撫でる。
 夕暮れ、窓がゆるゆると暮れていく。紅色と藍色が滲んで、空が金色になる。昼にぬるんだ水の匂いがする。ゆっくりと冷めていく。そんな匂い。
 きれい、とても。
 こんなにきれいな夕焼けがあったなんて、わたし、知らなかった。
 そう、ずっと知らなかった――― 叩いても叩いても返事がないんだったら、一生懸命に叩いて、そして、そんな窓なんて壊してしまえばよかったんだなんて。触れたこともなかったから、知らなかった。現実というのはすきとおっていて薄いガラス。力を込めて叩けば、澄んだ音をたてて砕け散り、世界を隔てる意味なんてなくしてしまうなんて。
 これからは、もう、大丈夫。誰かが誠くんを取りにきたら、壊してしまえばいいの。わたしはずっと誠くんを好きでいていいの。そうしてはいけないという人とは、戦えばいいの。わたしかその人か、どちらかが壊れてしまうまで戦えばいいんだから、どうなってしまっても大丈夫。邪魔をする人がいなかったら、わたしはずっと誠くんを好きでいられる。わたしが壊れてしまったら、わたしはもう、誠くんを好きでいられなくなるってことを、怖がらなくってもよくなる。
 ねえ、夕焼けとてもきれいね、誠くん。真っ赤な空の色。割れたステンドグラスの赤いガラスの色、赤いあさがおを押し花にしたときの色、インクをひとしずくコップの水に垂らした色、血の色。
 大丈夫、もう、夕焼けは終わらないから。ずっと、きれいな赤のままでいられる。もしもこの色が翳ってしまうことがあったら、わたしはきっと、夕焼けを隠しているほかの窓を探して、それを壊す。このきれいな空を、きれいな想いを取り戻す。何度哀しいことが繰り返されても、何度同じことがあっても。
 真っ赤な空、とてもきれい、真っ赤な、そう真っ赤な、真っ赤な血、真っ赤な、赤な、
 真っ赤な色。血の色。わたしの血の色。
 わたしは見ている。もう何もみられないはずなのに、見ている。
 真っ赤にくだけちったわたしは、もう二度と何も思うことのできない脳に、ただ、きれいな夕焼けの色だけをうつして、永遠におわらない夕焼けに、みとれつづけている。


イメージ【?】
 ねえ、なんでなんでしょうか。
 わたしは生きてる。誠くんがここにいないのに、わたしは生きていて、そして、幸せでいる。
 これは、間違いじゃないの? 誰かがわたしをだましているんじゃないの。とてもひどい嘘をついているんじゃないの。
 どうして? 誠くんはもう死んだの。けれどわたしは、死ななかったの。
 とても怖い。間違っている気がする。とつぜん夢がさめて、わたしには誰もいなくて、ひとりぼっちになっている気がするの。
 これは夢? だれの嘘?
 おねがい、夢ならはやくさめて―――

 こんな幸せが、わたしのものであってもいいんだって、わたしが、間違ってしまわないうちに。









 
「んー」
 ぼんやりと、電線の上に座って、考え込む。ゆるゆると暮れていく夕焼け。太陽がふわふわとした金色のわたわめ雲の向こうへ落ちていく。真っ赤にとろけた夕日は、誰かの食べかけの飴玉みたいだ。
「んんー……」
 魔理沙は、腕を組んだまま、無造作に後ろへ転げた。とたん、世界がきれいに反転する。足だけで箒にぶらさがり、夕日の方向をにらみつけながら、魔理沙はじっと考え込んでいた。さかさまになって顔にかぶさってくるスカートが実に邪魔だ。
「あー、もう、こういう難しいのって苦手なんだよ! 勘弁してくれよお〜!!」
「あたしこそ勘弁して欲しいわよっ。何やってんのそこのカラス女!」
「う?」
 下から誰かが石を投げる。当たらなくって横を通り過ぎていったが、魔理沙は下からこっちを見上げている少女がいたことにようやく気付いた。黄色いリボンのカチューシャ、水色のセーラー服。
「あ、ハルヒ〜。いつからいたんだ?」
「あんたがパンツを丸見えにしてたあたりからよ」
「うん、パンツというか、スカートがすっごく邪魔なんだぜ…… あ、そっか、結べばいいのか!」
「このバカ!」
 さっさと降りてきなさい! と怒鳴っているハルヒに、とりあえず魔理沙も言うとおりにすることにする。勢いをつけてひょいと体をもちあげれば、鉄棒の要領でもとどおりに箒の上。そうしてあっというまに目の前に下りてきた魔理沙に、ハルヒは、少しならずぎょっとしたようだった。魔理沙はたっぷりとボリュームのあるスカートをぽんぽんとはたく。元通りにふんわりするように。
「さて、と。お前、何やってたんだ?」
「むちゃくちゃこっちのセリフなんだけど…… あたしはただの散歩よ。一人で歩いてちゃおかしいっていうわけ?」
「誰がそんなこと言ったんだよ。あと、私もおんなじだよ。頭がぐちゃぐちゃするから、そこらをうろついてたんだ」
 そうしたらお前がいたから、ちょっとびっくりしたな。魔理沙は肩をすくめるが、さかさまになったカーテンみたいなのからかぼちゃパンツが出ているのを目撃した自分のほうの気持ちをわかって欲しい、とハルヒは思う。思うが、はあ、とため息をついてガリガリと頭を掻いただけだった。そのまま大またで歩き出すハルヒの横を、箒に横座りになった魔理沙が、低空飛行で付いてくる。
「歩きなさいよ」
「なんとなく気分じゃないからな。今日の散歩は飛行でって決めたんだからさ、最期まで地面に足はつけない」
「……。今日は白線だけ踏んで歩くって決めた小学生みたい」
「へーえ、そんなのもアリなのか。私もやってみようかな」
 長く影の伸びるアスファルト、周りには誰の姿も無い。白線もビルの壁もうっすらと茜色に染まり、町全体が赤いフィルターを通したように見える。ふいに、ハルヒは足を止めた。つられて眼を上げた魔理沙が見たのは、大きな橋のようなものが、黒い舗装の道路にかかっている姿だった。
「変な橋だなあ。別に河もないのにさ」
「歩道橋よ…… いちいち何にも知らないのね、あんた」
「ハルヒが幻想郷にきたら、おんなじセリフ、まとめて返してやるぜ」
 軽口をたたきつつも、魔理沙はなんとなく思いつめた雰囲気に気が付く。ハルヒは歩道橋を見上げている、というよりも、にらんでいるように見えた。魔理沙は大きな眼をぱちくりとまたたく。
「このホドウキョウが……」
「言葉が死んだとこよ」
 短く答えるハルヒに、魔理沙は、思わず眼を丸くした。
「しん…… だ?」
「あるいは、殺したところ。言葉はここで、恋敵の女の子を殺した。頚動脈どころか気管までぱっくりと切り裂いて、相手の子は即死だった。あんまり異常な光景だったから、見ていた誰も、それが現代日本で起こったことだって信じられなかった」
「え、え?」
「言葉が死んじゃったときも、みんなが見てた。あそこの」
 ハルヒは、冷静に、近くのビルを指差す。
「ビルの上から飛び降りた。まっさかさまに落ちてくる女の子が、黒髪をきれいにひろげていて、たしかに笑っていた、って言っている目撃者までいたわ。なんだか都市伝説じみた話だけど」
「ちょ、ちょっとまて、ハルヒ」
 魔理沙は、思わず、箒から飛び降りる。ハルヒの肩を掴んだ。
「なんだそりゃあ! そんな話、聞いたこともないぞ? だいたい言葉はちゃんとEDFの本部にいたじゃないか。アレが幽霊だったとでも言うのかよ?」
「大声出さないでよ。あたしだって、まだ、わけがわかんないんだから」
 ハルヒは、うるさそうに魔理沙の手を振り払う。彼女の表情は思いつめて真剣だった。車一台通らない道路にガラスの破片が散乱していた。おそらくは車のフロントガラスが砕け散ったものだろう細かいかけらが、ひとつづつ、夕日を照り返して金色に光っている。
「でも、これはあの子が『体験した』って思ってる話なの。ほかにもいろいろあるみたいだけどね」
「……もう、そう、とか?」
「かもね」
 投げやりな口調で、ハルヒは、魔理沙の言葉を否定した。
 何がなんだかわからない。魔理沙は歩道橋を見上げ、道路を見下ろし、思わず、癖のある金髪をぐしゃりと掴む。「勘弁してくれよ」と呻いた。
「わたしはそういう小難しい話は分からないんだよ! アリスだけじゃなくって、お前まで……」
「だけじゃなくって、って何よ。別にだれにも迷惑かけてないでしょ。あたしは自分で気になったことを自分で調べてるだけなんだから」
 まだまだ歩道橋から眼を離せない魔理沙を置き去りに、さっさとハルヒは歩き出してしまう。魔理沙は箒をひっつかむと、慌てて後を追いかけた。
「今日は歩きはやんないんじゃなかったの?」
「それどころじゃないだろ。次はどこ行くんだよ」
「北校」
「……。あのさ、ハルヒ、私も気になってることがあるんだ」
「なによ」
 レトロな黒いドレスにエプロン姿の少女と、セーラー服に黄色いカチューシャの女子高生。まるでコラージュしたように不釣合いな姿の二人が歩いていて、けれど、夕暮れの街にはそれを見咎める人影もない。二人の影だけが長く長くアスファルト地面に伸びる。
「海馬の話だよ。あいつな、自分の親父さんを、殺したって」
「……」
 ハルヒの足が、一瞬、止まりかけた。
「実際には自殺だよ。あいつが手を下したんじゃない。でも、自分が追い詰めたせいで、目の前でビルから身を投げられたら、自分が殺したって思い込んだりするかもしれない。そうだろ?」
「そんな話、あたしに言ってもいいわけ」
「情報共有だぜ。それに、お前は仲間なんだからいいだろ」
 魔理沙は、珍しくも、困惑顔をしていた。竹を割ったような性格の彼女にしては、恐ろしく、珍しいことに。
「でも、それって何年か前の話だよ。そりゃ、気になるかもしれないけど、たった今になっていきなり気になることか? それもさ、夜中に眠れなくなるくらい?」
「……誰に聞いたのよ」
「それは、えーっと…… うーん……」
 魔理沙は口ごもる。ハルヒは彼女をちらりと見て、それから、ぐいとばかりに視線を前に戻した。聡明そうなひとみには今、しかし、いっそ神経質と取られかねないほどのあやうい鋭さが宿っていた。
「そこが共通点ってわけね」
「え?」
「海馬は、自分が死に追い込んだ男の影につきまとわれてる。言葉は自分自身が『壊れた』記憶に悩まされてる。共通点じゃない」
 魔理沙はしばらく黙った。眉のあいだにしわが寄る。
「同じタイミングってだけじゃないのか、それ?」
「鈍いわねアンタ」
「そりゃお前に比べればな。さっさと答え、教えてくれよ」
 ハルヒは、足を止めて、まじまじと魔理沙を見た。思わず魔理沙はたじろぐ。「なんだよ?」と問いかけられて、ハルヒは、ふかいふかいため息をついた。
「あんたみたいなタイプ、初めて見たわよ。バカなんだか単純なんだかわかんない」
「どっちでもいいから、さっさと答え、答えっ」
 ハルヒは黙った。やがて、いかにも嫌々ながら、という風につぶやく。
「亡霊よ」
「へっ?」
 ハルヒは、眼を上げる。魔理沙は自分が幻想郷ではとても見ることのない建物の前にいると気付く。木一本生えない広い砂地、その向こうにコンクリート性の背が低く巨きな建物。
 がっこう、という場所だ、としばらくたって魔理沙は気付いた。
「海馬は、自分が殺した父親。言葉は、壊れてしまった自分。どっちも過去の時間にあったものの幻でしょ」
 亡霊じゃない、とハルヒは忌々しそうに言い捨てた。
「よりにもよって、あのややこしい二人が、そろいもそろって亡霊に取り付かれてるのよ。なんなのよ、これって!!」







 窓の向こうから斜めの光が入り込むロビーで、並べられた待合用のソファのひとつに、少女が一人、うたたねをしている。
 真っ白な肌、漆黒の髪に、光が当たる――― モノクロームといっていいほどに純化された色彩をもった少女だから、赤いフィルムを透過したような光の色が明々と映える。やわらかい頬が赤く染まり、すべらかな髪がすきとおった真紅にきらめいた。だが、足音をひそめた誰かが彼女のかたわらへとそっと歩いてきた瞬間、そのひとみが、カッ、と見開かれた。
「―――ッ!?」
「……あ……?」
 抜き放つ動作すら、ほとんど、見えなかった。喉の一寸手前で静止した妖刀の刃が夕日をうけてぬめるようにきらめく。思わず息を飲み下すと、首にかけた鎖がちゃり、と鳴った。言葉はあわてて、とっさに抜き放っていた刀を収める。
「ご、ごめんなさい、武藤さん! びっくりさせちゃって……!」
「いや、いい。驚いたけどな」
 あわてて刀を収め、ソファから立ち上がろうとする言葉に、少年、遊戯は思わず苦笑した。さっきの一瞬、ガラス玉のように透き通って獲物を見据えたはずの目が、今は、すっかりいつもの温和で大人しい少女のものに戻ってしまっている。
「でも、さすがにいきなり斬りつけられるとは思わなかったぜ…… 桂さん、起きてたのか?」
「い、いえ、寝てました。起きていていきなり斬りつけるなんて、そんなひどいこと、しません」
 じゃあ、あれは半ば無意識なのか、と遊戯は思い、思わず首の辺りをさすってしまう。ほんの一瞬とはいえ、全身が総毛立つような気がした。
「わたしに何か御用ですか? もしかして、海馬さんが何か……」
「何にも言ってないのに、海馬のこと、って思うんだな」
「えっ……」
 言葉はとたんに真っ赤になり、しどろもどろになってしまう。「あの」だの、「そんなんじゃなくて」だのと言い訳をしようとしているが、何を言えたものでもないだろう。遊戯は思わず吹き出してしまった。ホールには黒い合皮を張ったソファが何列も並んでいる。言葉がいる列の後ろで、待合用のソファに腰掛ける。
「オレは別にあいつの話をしにきたわけでもないんだけどな」
「そう、なんですか?」
「ああ。えっと…… 泉さんがな」
 桂さんが最近寝不足気味なんじゃないか、って心配していて、と遊戯は言う。なぜだかやや居心地悪そうに視線をそらし、ポリポリと頬を掻きながら。
「まあ、その話を聞いて、オレもちょっと桂さんが気になっていたんだぜ」
「こなたさんが? ご心配おかけして、ほんとにごめんなさい……」
 しゅん、と肩をおとす言葉。「あ、いやいや!」と遊戯はあわててしまう。
「仲間の心配をするのはあたりまえだろ? 桂さんが気にすることじゃないんだ。でも、何かあるんだったら、ちょっと話を聞かせてもらえないかとも思ってさ」
「仲間、ですか」
 言葉は眼をまたたく。長くてまっすぐなまつげまで、髪と同じように、つややかに黒い。自分は谷口やKBCのように女の子に興味津々というわけではないが、ここまでの美少女を間近で見ると、見とれる、というよりも先に、思わず感心してしまう。
「そうだ。桂さんはオレたちの仲間で、泉さんにとっては友だちだからな。心配するのは当たり前だろう?」
「あ、ありがとうございます」
 言葉は、肩をすぼめた。
 こういう反応がなんだかいちいち奇妙に思える。あいにく、遊戯はそれを『面白い』と思えるほどユーモアのあるタイプではないので、ひたすら、心配に思えるだけだったが。
「でも、わたしはなんでもないんです。ただちょっと、自分の勝手で、寝不足気味なだけで…… ほんとに心配してもらうことじゃないんです」
「海馬の面倒を見ていて、か?」
「!」
 言葉は、とたん、見ているほうが驚くくらい露骨に、ぎょっとした。まさか気付かれていなかったとは思ってないだろうけどな。遊戯もさすがに苦笑してしまう。
「海馬のヤツの『面倒を見られる』女の子がいた、ってことが、驚きだぜ……」
「いえ、そんな。海馬さんの面倒を見ることなんて、できていません」
 言葉はあくまで生真面目に答える。
「ただ、すこし心配なだけで…… うっとおしく周りをうろつかれて、海馬さんも迷惑だと思うんですけど」
 でも、気になってしまうから、しかたがないんです。そういって言葉はくすりと笑う。苦笑いだった。
「……」
 迷惑だとか、嫌いだとか、そういうセリフをあの男に適用することが、遊戯にはむしろ違和感で一杯だった。
 遊戯の知っている『海馬瀬人』は、それこそ、一本の剣のような男だ。青白く鋭利な刃の。鍛え抜かれた白刃の。
 剣は人を害することのほかに役立つ道を持たない。彼はそれを知っていて、己が、戦い続けるという生き様に誇りを持ち、それを全うするためなら何者も省みることがない。道半ばで倒れたことすら一度二度ではないだろうに、海馬は、それですら諦めないのだ。戦いのみを飽くなき執念を持って求め続ける生き様。決闘者としての敬意は感じても、ある意味、遊戯にとってすら理解を超えた生き方ではある。
「なあ、桂さん」
 遊戯は、ずっと気になっていたことを、思い切って口にした。
「桂さんは、海馬のこと、どう思うんだ?」
「どう、って……」
 言葉は眼をまたたく。不安げな表情に、だが遊戯は、言ったことを撤回しはしない。紫色の目にじっと見つめられて、言葉はやがて、漆黒の眼をしずかに伏せた。
「たぶん――― 他のみなさんが思っているようなものじゃないです。わたしは、ただ……」

 海馬さんが、可哀想なんです。

「可哀想…… 海馬が?」
 思わず眼を瞬く遊戯に、言葉は、少し笑った。苦笑のようにも、自嘲のようにも見えた。
「海馬さんはわたしとは違って、強い、とても強い人だから…… こんな言い方は、すごく失礼なはずです。だからわたしはきっと、海馬さんに嫌われているだろうと思いますし」
「まさか、あいつ本人にもそういったのか?」
 言葉は頷く。遊戯はしばらく唖然としていた。とてもではないが、信じられない気持ちだ。
 あのプライドの塊のような男が、この、大人しげな言葉にそんなことを言われて、激昂もせず、逆上もしない?
「たぶんこれは遊戯さんには…… ううん、海馬さんとわたし以外の誰にも、わからないだろうし、わかってもらいたくもない気持ちなんです」
 言葉はそっと眼を伏せる。黒い硝子のような目に、光が当たっていた。言葉は膝に載せた黒鞘をそっと撫でる。青白い刃の妖刀を収めた漆塗りの鞘。
「わたしはこれと同じ。人間じゃなくて、武器みたいなものです。誠くんが死んでしまったときに、人間でいる資格を、なくしてしまったんです」
 はっ、と遊戯は息を呑む。口に出して言いもしなかった考え、海馬にたいして思っていたことをなぞるかのように、言葉は、訥々とつぶやく。
「人間じゃない生き物が、人間のふりをしているのは、とってもいけないことだから…… いつか、なんとかしないといけない。人間じゃない何かが人間のふりをしてるなんて無理は、絶対に、どこかで壊れてしまうんです」
 でも、と言葉はつぶやく。眼を上げて、そっと微笑んだ。
「でも、ちょっと幸せなことがあったり、みんなに親切にしてもらうと、人間もどきも、人間にもどりたくなっちゃうんです。それってとても辛いことだから、だから、『可哀想』なのかな……」
 同情、あるいは、共感。
 遊戯はしばらく、返事を見つけることができなかった。
 人間ではなく、剣。青白く光る研ぎ澄まされた刃。
 言葉のいうことはうっすらと理解はできても、とうてい、自分の実感として納得することはできかねた。なぜなら、『彼』は人間だったからだ。その身体は数千年も前に朽ち果てていたとしても、その心は、他の誰よりも明白に、己が『人間』であると信じていたから。
「桂さん、それは、違う」
「……そう、ですね。莫迦なことを言いました」
 言葉はそっと微笑んで、ごめんなさい、と言った。ガラスの表面に爪を立てたような感覚を、一瞬、遊戯は錯覚する。
「でもこれは、たぶん、わたしみたいな人間にしか、分からない気持ちなんだと思います。それに、分からないほうがきっといいと思います」
 変なことを言いましたね。言葉はつぶやいて、そして、立ち上がった。長い髪がさらりとゆれて、光の環がおなじようにゆらめき、光った。
「寝起きで、へんなことを言っちゃいましたね。ごめんなさい。あと…… その、斬りつけたりして」
「ああ、いや……」
「あんまり、人に言わないで下さいね。海馬さんにわたしがそんなこと言ったなんて、内緒なんです。心配、かけちゃいけないから」
「……さっきも言っただろう? 仲間を心配するのは当たり前だから、桂さんが気にすることじゃない」
「そうですね」
 うふふ、と言葉は笑う。そうして、愛用の刀を腰のベルトに差しなおした。
「心配してもらってありがとうございました。わたし、戻りますね」
「どこへ?」
「街に悪いものが出るって話を聞いたんです。わたし、このあたりは土地勘があるから、役に立つんですよ」 
 じゃあ、また後で、と言葉は頭を下げる。そして、いつものような静かな足取りで、ゆっくりとロビーを出て行った。
 あんな少女だっただろうか…… その後姿を見つめたまま、遊戯は、痛烈に思う。何も意味のある言葉をかけられなかった自分。ひどい徒労感。
『もう一人のボク……』
「すまない、相棒」
 遊戯は、心の中に響く声に、ぎゅっと拳を握り締めた。
「分かっている…… あんなこと、間違っているんだ」
 海馬も、言葉も、人間だ。武器などではない。
 だが、自分は、決闘者として何度も干戈を交えた海馬の心すら融かしきることはできていない。激しく感情を露わにする海馬相手にすらそうなのだ。
 大切な、仲間のことが、分からない。
 そんな思いは、赤錆をかみ締めるかのように、苦い、苦い味がした。





「なんかが間違ってるのよ」
 ハルヒはつぶやく。魔理沙は、それを聞きとがめる。
「何かって、何が」
「分からない。でも…… こんなの間違ってる、絶対に」
 ハルヒは奥歯を硬くかみ締め、むしろ、自分に言い聞かせるかのように、つぶやく。
 地平線の向こうに半ば夕日が沈み、薄暗い光に照らし出されているのは、狭苦しい部室棟の一室。
 机の上にパソコンが置かれ、出しっぱなしのオセロが転がった部屋には、今、誰の姿も無かった。ハルヒは己の居場所だったはずの場所を、苦い思いに満ちて眺める。
 そこには、今、誰もいなかった。そこにいるはずの人々のひとりとて、いない。

 気配、すら。




back