【悲しみの向こうへ】
≪5≫







 北高の校舎の古ぼけた片隅、部室棟の一角に、その部屋は、ある。
 コンピューター部の隣、安っぽいベニヤのドア。窓の外には校庭、やや離れた場所に緑色のフェンス。中央によせられ、テーブルのようにされた机の上に、誰かが出しっぱなしにしていったオセロや最新型のデスクトップPC、読みかけの雑誌が積み重なる。夕暮れには斜めに差し込む茜色の光。土ぼこりで汚れた窓のガラスを、うつくしい紅色にきらめかせて。
 その、窓際の席に、ひとりの少女が座っている。もう何十年も前に発行された古いSFの本を手にして、ゆっくりとページをめくる。彼女は来訪者に気付いて顔を上げる。ゆったりと微笑んだ。
「遅かったね。待ちくたびれちゃった」
 なんの話からはじめましょうか。そう言って、長い髪の少女は微笑む。
「ああ、この本? そうね、彼女の真似をして、SFを読んでみたの。そう…… あなたは読んだこと、あるかしら」
 『万華鏡』っていう短編なんだけど。
「レイ・ブラッドベリの。有名な話だったらしいわね。そう、こんな話」
 そうして彼女は、朝倉涼子は、楽しげに微笑みながら、本のページを閉じる。
 パタン、と小さな音。

 ―――。



「ぃやあああああッ!!」
「……ふふ」
 裂帛の気合。それと共に、言葉の足が、神速の一歩を踏み込んだ。
 利き足である左足が深く一歩を踏み込み、さらに、もう一歩の踏み込みが女生徒への距離を一薙ぎにまで詰める。さらに、その身体へとたわめられた必殺の三歩。その一歩が死角へと利き足を踏み込み、横薙ぎの一撃で首を刈り取る。それが鮮血の一手。言葉の先手。そのはずだった。だが。
 相手の手に、銀色に光るものを見た瞬間、言葉はとっさに、最後の一歩の場所を、踏み変えた。
「―――ッ!?」
「ふふ…… あはっ!」
 ナイフだ。それも、刃渡りが15cmにもわたろうかという、強化プラスチックの柄をもったコンバットナイフ。
 ギィン、という金属の悲鳴を上げて、青古江と、強化鋼のナイフとが、咬み合った。
「く……っ!」
 打ち合いは不利。それを悟った瞬間、言葉はそのまま力を逃がすようにして、横薙ぎにつばぜり合いを逃れる。だが、間合いを取る暇すらない。振り切ったナイフで青古江を退けた姿勢のまま、女生徒は、信じられない反射神経で、死角へもぐりこんだ言葉のほうへと、その身体を入れ替える。
 ギィン、ギィン、と打ち合いの音が響いた。火花のように光が飛び散る。鋼の悲鳴が響く。
 なんなの、この人!?
 言葉は、半ば必死で朝倉の猛攻を防ぎながら、内心で、すさまじい勢いで思考が動くのを感じていた。
 一合、たった一合をまともに打ち合っただけで、手がしびれるほどの衝撃が腕に伝わってきた。ナイフの攻撃は直線的なもの。刀とは違う。その一撃一撃をいなすようにして受ければ、打ち合うことは避けられる。だが、その突きをなんとかして受け流すだけでも、そのたびに、鋼の芯が打ち曲げられそうなほどの衝撃が、青古江の刀身に絶叫を上げさせる。
 朝倉は、ほほえんでいた。楽しそうに。
「気付いたのね」
 息もつかせぬ勢いで切り結びながら、彼女は、言った。たしかにそうささやいた。
「私、人間じゃないの。だからあなたよりずっと力もあるわ。身体だって、鋼みたいに丈夫にすることだってできる」
「そう、いうこと、ですか……ッ」
 ギィン!
 突きこんだナイフを上方へと弾いて、一瞬の隙を見出す。言葉はとっさに片腕を離した。その腕が、鉄錆を吹いたフェンスを掴む。朝倉が眼を見開く。言葉は、半ばその攻撃をすくいあげるようにして、朝倉の身体の側を、すり抜けた。
 重く頑丈なナイフが、まるでバターを斬るように、やすやすとフェンスを切り裂く。たたらを踏む。その背後へと回り込んで、言葉は、半ば無意識に白糸の柄を握りなおす。その手が汗にじっとりと濡れていることに気付き、眼を見開いた。何、これ。わたし、怖がっているの!?
 眼を思わずまたたくと、ひとしずくの汗が顎を伝って落ちた。朝倉はくすくすと笑いながら、ゆっくりと、振り返る。長い髪を片手で払った。
「強いのね、桂さん」
「……人外の化け物に言われたって、褒められている気がしません」
 減らず口を叩き返すのは、気力を挫かないための必死の方策だ。腕が、痺れていた。あまりの怪力、そして、異常なまでの硬さ。
 この相手は、人間ではない。並みの魑魅魍魎すらはるかに凌駕している。
 うかつに打ち込めば――― 刀を折られる。
「変ね、あなたのデータって、実は私、持ってなかったの。こんな珍しい…… いえ、異常な人間が涼宮ハルヒのそばにいるんだったら、ちゃんと調べておくのがバックアップのつとめだったはずなのに。うかつだったかな」
「何を言っているのか分かりませんよ……」
「別に分かってもらおうと思って言ってないもの」
 まるで、テニスのリレーでも続けているかのような楽しげな笑顔で、朝倉はゆっくりとナイフを構えなおす。太くて分厚い刃。刀身は青く焼きこまれた鋼。その切っ先だけが、光る糸のように、わずかに光を弾く。
 ナイフと刀では、武器としての特製がまるで違う。動きもそうだ。言葉は、そのことを知っていた。すさまじい勢いで、ほんの数合の打ち合いの中で見た、朝倉の動きを思い出す。
 突く。決して手足を狙うことも、大振りで隙を作ることも無い。玄人の動き、いやむしろ、教本にするために行われる演技のような、無駄のなさ過ぎる洗練された格闘動作。
 一撃でも喰らえば、朝倉は、確実に肝臓や腎臓を奪いに来るだろう。太く硬いナイフの刃が、やわらかい腹に食い込み、内臓をえぐりとる感覚を、瞬間、言葉は想像した。背筋を冷たい刃でなぞられるような死の幻想。
 少女たちは、まるでダンスでも踊るように、お互いの距離を測りながら、ゆっくりと弧を描いて動いた。言葉にとっては相手の力を図るための動き。だが、朝倉という少女にとってはどうだろう。同じように隙をうかがっている? それとも、楽しんでいるだけ?
「怖い顔」
 くすっ、と朝倉が笑う。
「そんなに冷や汗流して、怖がってるのに…… 逃げたくないの? ふつうの人間って、そういうのを、”怯えている”っていうんじゃないかしら」
 怯えている。
 その一言が、言葉の頭の中のどこかに、カチリとスイッチを入れた。
 くちびるに、うっすらと、笑みが浮かんだ―――
「怯えてなんていません。怖くも、ない」
 朝倉が、かすかに眉を寄せる。怪訝そうな顔をした。
 言葉の言っている意味が、分からないのだろう。分からなくてもいい、と言葉は思った。
 だが、言葉は、思い出していたのだ。
 かつて聞いた言葉を。
 死の危険に瀕して、鼓動が昂ぶり、体温が下がり、心肺機能が亢進するのは、ただの……
 ……ただの生理的反応であり、恐れでも、怯えでも、まして、罪悪感でも、なんでもないのだと。
「こんなもの、ただの……」
 言葉はゆっくりと、切っ先を下げた。低く低く。
「……ノイズに過ぎないわ……!」
 再び、踏み込む。
 一歩が、間合いを刈り取る。さらに一歩が、死角を抉り取る。そして、必殺の最後の一歩。
 だが、朝倉は、言葉が一歩目を踏み込むよりも先に、己の武器であり盾であるナイフを、引き戻していた。言葉の斬撃を受け流す。そのつもりだったはずだ。そして、その判断は、正しかった。
 言葉の狙いが、『通常通り』だったならば。
 九頭龍のごとき斬撃が、ひらめいた。
 壱の撃、弐の撃。
 鋼と鋼が、激しく噛みあう。鈍い音。
 参の撃、肆の撃。
「く…… あッ!?」
 朝倉の表情に、初めて、狼狽が走った。
 伍の撃、碌の撃、漆の撃。
 言葉の斬撃は、すべて、正確に、一つの場所へと叩き込まれた。
 すなわち、朝倉の唯一の武器であり防具である、『右手のナイフ』へと。
 初めから狙いは、たったひとつ。
 その武器を、奪うこと!
 捌の撃が、鈍い音を立てて、無骨なナイフを奪い取った。折り取ったのではない。ただ、その硬い握りをゆるがせて、指を強引にこじ開けることができただけ。
 だが、言葉の眼、居合い使いの天稟の才は、コンマ数秒のその隙を、正確に、切り抜いた。
 終の撃…… 玖の撃!
 まるで、鉄の棒を力任せに切断するかのような感覚が、言葉の腕へと、伝わった。
「く……ッ!?」
 ナイフが、弾き飛ばされる。回転しながら近くの床へと落ち、高い音を立てる。それに次いで音も立てずに白いものがひとつ、コンクリートへと落ちた。白い、そう、折れたチョークのようなものが。
 必殺の一撃の狙いは適った。言葉のくちびるが、うっすらと、浅い笑みを浮かべる。
「もう、そのナイフも、もてないでしょう?」
 なに、そう難しい問題でもないのだ。
 相手が硬すぎるのなら、狙えばいいのだ。
 たとえ、それがコンクリート、さもなければ鋼鉄で作られた障壁であっても、かならず、その何処かには『崩壊点』が存在する。
 そして、そんな上等なものを見抜く異能を持たなくとも、モノの壊れやすい場所などたやすく分かる―――
 細く華奢な作りをした部分、そう、たとえば一本の指などを狙うのなら、それは、簡単なことなのだから。
「やっぱりあなた、人間じゃないんですね。言ったとおりです」
 言葉は振り返る。油断なく、武器を失った相手を見据える。
「血…… 出ないじゃないですか」
 朝倉は、半ば唖然とした様子で、右手を押さえていた。
 『親指の、第一関節から先だけ』を失った、右の手を。
 だが、どんな化け物だって、『親指』を失えば、ナイフを握ることはできない――― 言葉は眼をスッと細めた。これで相手の攻撃を封じたなどとは夢にも思わない。だが、次撃が来るとしても、それは、まったく違う形のものとなるはずだ。
 ややあって、その表情が崩れた。笑みが広がる。まるで珍奇で美しい蝶を思いがけなく見つけた、とでもいうような、そんな、子供めいたあどけなさに満ちた笑み。
「面白いわ…… 面白いわね、あなた。いったい、何者なの?」
「……」
「名前くらい教えてくれたっていいじゃないの」
「桂言葉です。……それが、どうしたっていうんです」
「そう、桂さん。桂、言葉さん」
 朝倉の笑みが深くなる。ふいに、その背後に長く伸びた影が、深度を増したように感じて、言葉は眼を見張った。
「あなたがどうして、それだけの能力を身につけたか、残念だけど私にはわからないの。私、有機生命体の『思考』ってものが、よく理解できないから」
 不可解なことを楽しげに言って、「でも」と朝倉は続けた。
「あなたが、『特異』だってことは、よくわかったわ」
「……それが、なんなんです」
「こういうことよ」
 彼女の前で、影が、『立ち上がった』。
「―――!?」
 言葉は、思わず、息を飲んだ。
 二次元であり、まったく厚みをもたなかったはずの影が、確かに『立ち上がる』。平面から立体へ。薄っぺらな、実体を持たない『影』が、形を変えていく。
 すでに、朝倉は、自らが戦うつもりはなくしていたらしかった。ゆったりと微笑みながら、乱れた髪を片手で掻きあげる。親指をなくした手で。
「これはね、私と逆を持ってるモノなの。有機生命体の、『感情』にだけ反応するっていう現象なんですって」
 言葉の前で、影はゆがみ、影はよじれ、ひずみ、そして、形を作り出す。
 それは意外なことに、恐ろしくも醜悪でもない、単純な姿へと変じた。
 ひとりの少年――― 決して大柄でもなければ、長躯でもない。ブレザーの制服に身を包んだ、むしろ優しげな顔立ちをした、一人の少年の姿に。
 言葉は、絶句した。
「ま…… こと……」
 朝倉は、眼をすっと細めた。
「これが、あなたの、『感情』…… いえ」
 『心の闇』ってモノなの?
「なんだか意外。すごく、普通じゃない」
 言葉の耳には、その声すらも、届いていなかった。
 言葉は、ただ呆然と、その名をつぶやく。
「……誠くん……?」
 立ちすくむ言葉の前で、闇は…… 『伊藤誠』は、苦しげに顔をゆがめ、その手に握ったちっぽけなカッターナイフを、形ばかり、目の前に構える。






 

「面白いわ…… 面白いわね、あなた。いったい、何者なの?」
「貴様ごときにそのように言われても、掻痒すら感じんな」
「つれないわね。名前くらい教えてくれたっていいじゃないの」
「ふぅん、オレを知らんとはな。……海馬瀬人だ。憶えておくがいい」
「そう、海馬くん。海馬、瀬人」
 朝倉の笑みが深くなる。ふいに、その背後に長く伸びた影が、深度を増したように感じて、海馬はわずかに眼を細める。
「あなたがどうして、それだけの能力を身につけたか、残念だけど私にはわからないの。私、有機生命体の『思考』ってものが、よく理解できないから」
 不可解なことを楽しげに言って、「でも」と朝倉は続けた。
「あなたが、『特異』だってことは、よくわかったわ」
「……それが、なんだというのだ」
「こういうことよ」
 彼女の前で、影が、『立ち上がった』。
「―――!?」
 海馬は、思わず、息を飲んだ。
 二次元であり、まったく厚みをもたなかったはずの影が、確かに『立ち上がる』。平面から立体へ。薄っぺらな、実体を持たない『影』が、形を変えていく。
 影は引き伸ばされ、巨大になり、逞しい脚で地面を踏みつける。太い尾がのたくった。しなやかな首が長く伸ばされる。咆哮が響いた。建物を震わせ、ガラスを震動させるほどのものでありながら、どこかしら、打ち鳴らされる鐘の音を連想させる澄んだ響きを含んだ咆哮が。
 海馬は半ば呆然と、『それ』を見た。致命的な隙―――
 長い首の先で、その顎が、雷火を咬んだ。漆黒の姿をしていても、真正のものとなんら変わらぬ青白い焔。
「海馬ぁッ!!」
 ピコ麻呂が、絶叫する。鍛え抜かれた腕が、次の瞬間、海馬の身体をなぎ倒した。諸共に転がり込むようにして廊下へと倒れる。したたかに肩を打ちつけた。次の瞬間、『滅びの爆裂疾風弾』の青白い熱線が、空間をなぎ払った。
 轟音、衝撃、爆風。すさまじい熱が炸裂し、轟風となって吹き荒れる。廊下を覆っていたリノリウムが融け、コンクリートの中の鉄骨が溶けた飴のように崩れた。ピコ麻呂は海馬を庇ったまま、眼を見張る。味方として見たことはある。だが、己の身をもって受けたなら、信じがたいほどのその威力。
「海馬ッ、大丈夫か!」
「なんだ…… これは……?」
 海馬は、その蒼い眼を見開いて、呆然とつぶやいた。その視線の先に、彼の最愛の龍の姿を模したもの、漆黒の龍が、翼を広げ、立ちはだかっている。
「く…… ここでは駄目だ、一度、退いて……」
「―――ふざけるなぁッ!!」
 だが、ピコ麻呂が撤退を指示しようとした瞬間、海馬は、黒衣の陰陽師を突き飛ばすようにして、立ち上がっていた。
「海馬ッ!」
 『影の白龍』は、再び、その顎に青白い焔を咬みはじめる。焦がされた空気にオゾン臭が弾ける。壁が、床が、先ほどの一撃を受けて、すでに崩落しかかっていた。だが海馬はたじろぎもせず、ただ、怒りのままに『影の白龍』へと正面から向かい合おうとする。否。
 彼の眼には、周りのものの何一つとして、目に入っていない。
「やめろ、こんなもの、こんなまがい物を…… こんな、こんなぁッ!!」
 絶叫と共に、デュエルディスクにカードが叩きつけられる。同時に、幻光が閃き、まるで鏡に映したかのように、もう一体の白い龍が現れる。主の命に忠実に従い、その龍は、挑むかのように咆哮した。鏡合わせにしたかのような二体の龍。
「消えろ――― 消えろぉぉッ!!」
 あきらかに、冷静さを、失っている。
 だが、『青眼の白龍』は、『闇の白龍』と向かい合い、まったく同じように、その顎に青白い雷を咬んだ。雷電が閃き、空気に静電気がはじけ、そして、その青白い恒星の熱に、みるまに周囲が灼熱地獄と変わる。
「くぅ……!?」
 ピコ麻呂は、叫ぼうとした。だが、その声は掻き消され、吹き散らされ、意味を成すよりも前に消滅する。
「灼きつくせッッ 『滅びの爆裂疾風弾』―――!!」
 正面から、熱線と、熱線が、ぶつかり合った。
 青白く燃える恒星さながらの、すさまじい熱が、光と衝撃を巻き込みながら、炸裂した。




 
「やめて……っ」
 言葉は、無人の廊下を、走る。
 学校の廊下は、まるで、悪夢さながらに引き伸ばされていた。ありえないほどの距離。消失点にまで伸びる廊下のかたわらには無限にガラス窓が並び、すべてが、溶かした飴のような茜をたたえて夕暮れに光る。
 走っても走っても、果てが、見えない。
 息を乱し走りながら、言葉は、悲鳴のように絶叫した。
「やめてぇ、誠くんッ!」
 背後で、何か、異様な音が響く。
 強いて言えば、それは、真空に閉じられた瓶の蓋を開くような音だった。何かを開くような音と共に、さくりと、背後の空間が切り取られ、消滅する。
 そう、消滅する。
 少年がカッターナイフを振るうと、その分だけ、無限に引き伸ばされた廊下の距離が、刈り取られ、失われる。
 それがあきらかに異常なことであるというくらい、言葉には分かっていた。これは幻覚、さもなければ幻術。どちらにしろ、”現実”ではなく”認識”のたぐいをねじまげているのだと、言葉の本能が、うるさいほどに警告していた。
 だが、怖い。向かい合えない。
 向かい合えば、自分は――― 斬らなければいけなくなる。
 誠を、斬らなければ、いけなくなる!
「やだぁ、いやぁっ!!」
《言葉……》
「やだ、やだ、やだぁぁぁ!!」
 誠の顔をした《もの》は、泣き出しそうな顔をして、言葉を、追いかけてくる。
 踏破した距離は、それだけ、切り取られて、失われていた。だからどこまで逃げても、逃げ切ることができない。振り返り、立ち向かわなければ、逃げ切ることなど到底不可能であることは分かりきっていた。
 側のガラスに、誰かの影が映っていた。くすくすと笑う声がした。もう、言葉には、それが誰の声なのかも分からない。
《あなたは、ほんとは、彼のことが怖かったのね?》
「違う、違うッ」
《彼に見捨てられただけで、何もかもがなくなる。そんな脆弱な現実なんて、壊れちゃうほうが普通だもの》
「違う、違うのぉ!」
《だから、斬れない。つまり、あれがあなたの《心の闇》ってこと》
「やだぁぁ!!」
 耳を塞ぎたい。だが、刀を握り締めたまま。それも適わない。ただ言葉は、子どものように泣き喚きながら、逃げ惑うことしかできない。
 誠は、言葉には、斬れない。
 斬ることが、できるわけがなかった。
 自分のものにするためにその命を刈り取ることができたとしても、《排除する》ために…… 《桂言葉》の現実から、《伊藤誠》を排除するために斬ることなど、彼女に、できるはずがなかったのだ。
 それがなんと呼ばれる感情なのかなど、もう、言葉には分からない。
 何もわからない。頭の中が真っ白になって、何も考えられない。
 だが、永遠に続く悪夢のような時間は、唐突に、終末を迎える。
 ふいに、すべてのガラスが、音を立てて、砕け散った。
「―――!?」
 轟音と共に、ガラス窓どころか、廊下までが、青白い熱線に抉り取られ、消滅する。吹き飛ばされた言葉は人形のように床に叩きつけられた。長い髪が轟風に引きちぎられる。だが。
「桂ぁッ!」
 悪夢の廊下を引きちぎって現れたものは、敵では、ない。
「小手先の手品ごときに、何を惑わされているッ」
 凛、とした声が、響き渡った。
 言葉は眼を上げる。呆然と、そちらを見た。
 壁が破壊され、大きく、夕暮れの空が広がっていた。
 そこに、大きく白い翼が、羽ばたいている。
 『青眼の白龍』の背に、彼女の主である海馬、そして、必死でしがみついている様子の琴姫との姿が、見える。
「桂さん、こっちです! 一度、離れましょう! こちらへ!」
「何を愚図愚図しているっ、速くしろ!」
 言葉は、呆然とした。
 くちびるが開いて、無意識に、声が漏れる。
「……いば、さ」
 腕が、伸ばされていた。美しく長い指。鋼のように研がれた腕。
 言葉は、手を、伸ばそうとした。
 だが。
 それよりも先に、言葉は、見てしまった。
 《伊藤誠》が、海馬の姿を見た。
 その顔が、歪んだ。
 言葉も、見たことがある表情だった。
「……め」
 腕が、振り上げられる。言葉がかつて、抱かれたことのある腕が。
 握り締められたカッターナイフが、振り上げられる。
 空間を、抉り取る。
 美しく広がった茜色の夕焼けを、『青眼の白龍』ごと、消滅させようとする。
「だ、め……」
 言葉は、半ば無意識に、片手の刃を握り締めたまま、立ち上がっていた。
 瞬間、視界が、異様なまでにクリアになる。夕焼けの空。砕け散って光る無数のガラス。羽ばたく白い龍。恋しかった少年。その、憎悪に歪んだ表情。
 そして青い瞳。
 すべてを見て、今だ何が起こっているかを理解せず、青いガラスのように、無機質に透き通っている双眸。
「だめ―――……ッ!!」
 言葉は、その刀を、力いっぱいに、《伊藤誠》の体へと、突きたてていた。
 その瞬間、言葉は、異様な感覚を感じる。
 ごり、と音を立てて、鎖骨が両断され、あばらが砕け散った。
 血泡が肺に溢れる。言葉は呆然と眼を見開く。
 言葉は、見た。
 かつて愛した少年を切り裂いたものとまったく同じ傷が、言葉の身体を、致命的なまでに深々と、切り裂いていた。



 

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