【悲しみの向こうへ:番外編】
≪二人のキズ≫





 透明な水が、渦を巻きながら、排水口へとすいこまれていく。
 もう石鹸の泡がまじることもなくなって、流れる水は透きとおり、濁りもない。だが言葉は蛇口の水を止めることが出来ない。もう冷え切って感覚の無い手を、ただ、洗い続ける。
 洗っても、洗っても、汚れが取れない気がした。この手で人を、殺した手。
 頭上に蛍光灯がひとつだけ灯っているだけで、タイル張りの手洗いは薄暗い。窓の外にミルク色の蛾が一匹はりついていたのが、いつのまにかいなくなっていた。どれくらい時間がたったのかな。言葉はぼんやりと思う。
 シャワーを浴びて、きしきしと音を立てるくらいに執拗に洗った髪も、もう、芯まで冷え切ってしまっている。身体も湯冷めして冷たい。けれど言葉は、手を洗うことを、止められない。
 そのときだった。ふいに、背後から声がした。
「何をしている」
「……ッ!」
 がたん!
 言葉が息を呑んだ瞬間、鈍い音を立てて、立てかけられていたモップが倒れた。
「あ…… あ?」
 息を荒げたまま、言葉は、己がとっさにゼットソーを突きつけていた相手を見る。鈍く光る刃物を突きつけられているにもかかわらず、男は、表情一つ動かしてはいない。痩身長躯。青い瞳。
 海馬瀬人。
「何をしていた」
 無感情に問いかける海馬に、言葉は、膝が崩れそうになるのを感じた。安堵なのか諦めなのか分からない感情。
「……か、海馬さん、こそ……」
「オレは眠気を覚ますために顔を洗いに来ただけだ」
 寄せ集めの軍では、装備品を確認するだけでも大変な仕事だ。忌々しそうに吐き棄てる海馬の背後で、言葉は、手洗いの鏡に廊下の時計が写っていることに気付いた。もう深夜。ひどい時間だった。
「大変、なんですね」
 言葉はぎこちなく笑った。もうだめ、帰らないと…… そう思ってやっと、蛇口の水を止めることができる。ごぼごぼと音を立てて、最後の水が、曲がったパイプの中を流れ落ちていった。
「じゃあ、わたしはもう、戻ります。海馬さんもあんまり無理はされないでくださいね」
「待て」
「!?」
 側を通りすがり様だった。
 ふいに、海馬の手が、言葉の手に、触れようとした。
 そこから先の反応は、もはや、意識で制御できる段階を超えていた。とっさに、言葉は携えていたゼットソーで、己に触れようとする手を切り落とさんとした。だが、響いたものは、肉の断たれる鈍い音ではなく、ギィン、という鈍い金属音だった。
「……!?」
「いい、太刀筋だ」
 ふん、と海馬はあざけるように笑う。その手には、拳銃。
「だが、貴様の行動は見え透いている。容易いな」
 言葉は思わず息を飲む。鈍く光をはじく銀色の拳銃の銃握が、言葉のゼットソーを受け止めていたのだ。
「オレを見たときから、貴様、指一本でも触れようものなら、殺すつもりでいただろう」
 海馬の科白に、言葉は、黙り込む。くちびるを噛んだ表情。しばらくの間、沈黙が流れた。
 遠くで、水が流れる音。配水管の中を流れていく水。
「……そう、です」
 やがて言葉は、震える声で、答えた。
 眼を上げる。そこには、いままでの気弱い少女のものとは、まったく異なった彩がある。暗く透き通った表情。黒い硝子のような声で、言葉は言った。
「たとえ、海馬さんであっても、あなたは男の方です。もしもわたしに、邪な目的で触れるようだったら、容赦なく、殺す……」
「……ふぅん」
 海馬は鼻で笑う。物騒極まりない科白にもかかわらず、むしろ、興がっているような表情だった。癇に触れる。言葉は、低い声で言った。
「何がおかしいんです」
「ありもせん返り血に怯えて、夜中かけて手を洗っていた女の科白とは思えん、と思ってな」
 一瞬、言葉は、絶句した。
「始終、配水管の中で音がしていた。この建物は立て付けが悪い」
 海馬はこともなげに言うと、「水よりも、貴様のほうが目覚ましになりそうだ」と唇を釣り上げる。
「……どういう意味です?」
「面白い事情を隠し持っていそうだ、と思っただけだ」
「……」
 言葉は黙った。だが、海馬はさらに科白を続ける。ごく、退屈そうに、手の中の拳銃を玩びながら。
「オレは銃を持っている。貴様には得物があるが、手が冷え切っていては、居合いの切れも鈍っているだろう。どちらに分があるか試してみるか」
「それは脅しですか?」
「好きに解釈するがいい」
 言葉は、大きく息を吸った――― 深く、吐き出した。
 身体が反射的に怯みそうになるのを押さえるために。
 大丈夫、海馬さんは仲間だ。それに、他の意味だとどんな人間だとしても、公正であることだけは間違いない。決闘者というのはそういう人種だと聞いているから。
「わかりました。付き合いましょう」
 ただし、と言葉はいう。眼の高さまで持ち上げたゼットソーが、白々とした蛍光灯の光を弾く。
「けれど、条件は分かっていますよね?」
 ふん、と海馬は笑った。
「たかが女一人、組み伏せる手間をかける気も起きん。ただし、貴様が本気でオレと戦う気だというのなら話は別だがな」
 あまりといえば、あまりに的外れな答えに、言葉は、いささか気を飲まれてしまう。
 ……おかしな人。
 言葉はそのとき、やっと、ほんのわずかにだが緊張を解くことができる。かすかに強張りのゆるんだ横顔が、手洗いの鏡に写っていた。


 そもそも、言葉がはじめて真剣を手にしたのは、もう何年も前のことだ。どちらかというとただの手習い、気弱な己を多少なりとも鍛えようという気持ちではじめただけの居合い術。彼女には天分の素質があると師範は太鼓判を押したが、もともと体力に自信がなかったということ、争いを怖がる言葉の性質が、天賦の才能を、どうしても目覚めさせようとはしなかった。己がこの道に才がある、と分かったとき、言葉は居合いの道を離れた。そのはずだった。
「貴様、いつ、初めて人を斬った」
「―――初めて、って言い方は、おかしいです。習い事としてずっと居合いはやっていたけれど、生き物を切ったことなんて一回もありませんでした」
「意外だな。てっきり、貴様は人斬りを生業にしていでもしたのかと思っていた」
「……いつの時代の話なんです。わたしは、幕末の人じゃありません」
 ビニール張りの安っぽい長椅子の、それぞれ、反対の端に座る。深夜の廊下には人影はなく、また、誰かの気配が聞こえることもなかった。生きるものの気配もない。ただ、静かだ。
 暗いガラス窓の外に、一匹だけ羽虫がはりついて、はたはたと羽で窓を叩いている…… その気配が聞こえるほどの沈黙。
 海馬の声が、その沈黙に、はっきりと響く。
「だが、今の貴様は人斬りだろう」
 言葉は、視線を落とした。
 膝の上におかれたままのゼットソー。焼入れをされた鋼が、青黒く光る。
「……そうですね。その通りです」
 この刃は、もう何人もの血を吸った…… 否定する気もなかったし、出来るとも思わなかった。言葉は乾いた笑いを漏らした。
「こんな風に、習い事が役立つとは思っていなかったんですけれど。でも、居合いをやっていたことが役に立ちました。今、わたしはこうやって戦えているんだから」
 でも、そのせいで人殺しになっちゃいましたね。言葉は自嘲的に笑う。
「ただの普通の女の子だったら、こんなことはできなかったし、しなかったかな」
「……くだらんな」
 海馬の声が割り込む。言葉は眼を上げた。
 海馬は、腕を組んだまま、言葉のほうを見もしない。硬質に整った横顔。青硝子の目は、闇を見つめている。
「人間は、相手を殺すだけの覚悟、己の命と引き換えにするだけの覚悟を持っていれば、必ず一人の命は奪える。そういうものだ」
 もっとも、と海馬は唇の片端を釣り上げた。
「それ以上は、天凛としか言いようが無いがな」
「……」
 己の中に、人を殺すものとしての心があった。
 海馬の言っていることは、そういう意味かと言葉は思った。
「そうかもしれません」
 答える声は、己でも驚くほどに、冷え冷えとしたものだった。言葉の声は白刃さながらに冷たく硬く響いた。
「けれど、そういう理屈を言ったところで、本当の意味での《人を殺すこと》の意味が、どう分かるっていうんです?」
 戦いの中で、敵を殺すこととは、違う―――
「正義も、先に繋がる理由も無く、ただ、その人を生かしておきたくない、というだけの理由で人を斬るんです」
 言葉は思い出す。もう一人の少女。
 一度は、友人だと思ったこともある少女……
「そして、それが、とてもうれしい」
 そういう気持ちが分かるんですか? 言葉は乾いた声で問いかける。海馬は黙った。沈黙が落ちた。
 そうだ、と言葉は思う。
 わたしは、西園寺さんを殺した。ただ、彼女が生きていては、己の存在が立ち行かないと思ったから、殺したのだ。
 己のためだけに、誰かの命を啜る。その昏い悦び、恍惚。
 だが、言葉のとりとめもない追想は、場違いに響いた声に、断ち切られる。
「……何が、おかしいんです」
 海馬は、笑っていた。
 声すら漏らして。
 言葉の声が、氷点下まで冷え込む。だが、海馬の返答は、まったく予想外のものだった。
「―――自分のために誰かを殺す快感が、オレに分からない、だと?」
 海馬は、初めて、言葉を見た。くっきりと青いひとみ。
「とんだ誤解だ。オレは、貴様どころではなく、たくさんの人間を死に追いやっている。義理とはいえ、己の父親すらだ」
 言葉は、絶句した。
 海馬は、なおも、低く笑いを漏らしていた。おかしくて仕方が無い、という風に。手の中で玩ぶ拳銃。鈍く光を弾く。
「初めは、SIGザウアーだ。高価で容易い。ベレッタやグロックを扱わされているうちは楽なものだった」
 後になって考えればの話だがな。こともなげに言う。
 何の話をしているのか、はじめ、言葉には分からなかった。
「だが、偽造品のトカレフの類、NZ75や白頭山、AKの類の偽造品であるノリンコなどは、難しい。打刻が削り取られていたり、そもそも、何も刻印されていないこともある。どこの国で作られたのか、どれほどの価値があるのかを見分けるには、数を見るしか方法が無い」
「それは…… 何の、話なんです」
「オレが最初に殺した人間の話だ」
「―――」
 声を失う言葉に、海馬は、淡々と言った。
「今では対して憶えてもいない。傭兵上がりの下種だった。正規品だけではなく、模造品、偽物のたぐいまで、銃器の扱いを一から叩き込まれた。自分が扱うことになるものを実際に理解していなければ、商売は出来ない。そういわれてな」
 喉の奥で海馬は哂う。その目の青さ。そこにある色の昏さ。
「子どもに持たせるのなら、威力の低い、扱いの容易い銃がいい。それならば一撃で止めをさせない分、逆に相手の戦力を削げる。分かりやすい理屈だ。……もっとも、座学の話ではない、というのなら、話は別だが」
「……ひと、を、撃った?」
 信じられない、とでもいうようにいう言葉に、海馬はちらりと視線をやると、「勘違いをするな」と言った。
「オレが撃ったのは、その下種本人だ」
「え」
 海馬は、長くうつくしい指で、拳銃を玩ぶ。その扱い。ずしりとした重み、そのバランスを、すべて掌中のものとした仕草。
「12のとき、テストだといわれて、粗製品のマカロフを渡された。その場で整備をし、撃てる状態にし、ターゲットをクリアしろとな。それが出来なければいつものように鼻血が出るまで銃底で頭を殴られる。そう言われてな」
 そして、つれてこられたターゲットは、弟の、モクバだった……
「やつは、ターゲットを、目隠しをしたモクバの頭の上に置いた」
 短くあいだを置いて、海馬は、答えた。
「……オレは、マカロフが撃てる状態になった瞬間、油断していたヤツの頭を吹き飛ばした」
 言葉は、返事が出来なかった。
 何も言えるはずがなかった。
 海馬は、いまや、まっすぐに言葉を見ていた。その目は青い硝子のように無機質に透き通っている。
「最善の選択肢だった。マカロフは精度が悪い。どれだけ狙っても外れる可能性はある。それよりも、ヤツの鬼教官気取りの悪趣味さには、ほとほとうんざりしていたのでな」
 もっとも、それ以後も悪趣味な人間は世の中に腐るほどいると思い知らされ続けたがな。海馬は答え、口をつぐむ。
 言葉はしばらく、何を言っていいのか、分からなかった。
 やがて、なんとか、意味のある科白を搾り出す。
「どう、思ったんです」
「愚問だな。―――何も思わなかった。当たり前だろう」
 オレは最善の選択肢を取っただけだ。海馬はこともなく言い放った。
「人間は、極度の緊張状態に置かれると、心肺の機能が亢進し、興奮状態になる。……だがそれは、ただの身体の機能に過ぎん。それを感情の動きと勘違いをするのは間違いだ」
「……ひとごろし、が、楽しいのは、かんちがい?」
「そうだ」
 海馬は、言い放った。
 何かを言おうと口を開いて、しかし、言葉は何もいえなかった。頭の中がひどく混乱して、何もいえない。答えられない。
 頭の中に渦がある。
 排水口に吸い込まれていく、水のような、渦が。
「わ、たし、は」
 言葉は、いつの間にか、震える声が、勝手に言葉を紡いでいくのを、他人事のように聞いていた。
「―――殺さないと、いけなかった」
 海馬は、表情一つ動かさない。言葉は、ゼットソーの刃に、鈍く写った自分の影を見る。強張って蒼ざめた表情。涙一つ、浮かばない。
「たたかわないと、いけなかったから。……わたしが、わたしで、あるためには」
「……ふん?」
 耐え続けることは、もう、限界だった。
「わたし…… レイプされたことがあって…… 西園寺さんの友だちの、嫌がらせで」
 痛くて、怖くて、身体を破壊される痛み以上に、自分の精神が、破壊されていくことを、生々しく感じた。
 だが、それよりも後になって、もっとも深いものとして残された傷は、違うものだった。
 それは、身体の痛みでもなければ、心の痛みでもなかった。
 傷つけられた誇りの痛みだ。
「……でも、逃げ出したく、なかった。逃げたら、負けだと思ったから。……だって、逃げたら、何も残らない。わたし、ぜんぶ、ぜんぶを、誰かに取られたままで」
 他の人間の目に、どのように映ったかなど、言葉は知らない。
 だが、彼女は、その場に踏みとどまる道を選んだ。
 ―――それが、惨劇の結果に終わると、知っていても。
「でも、我慢するだけ、じゃ、戦いきれなかった。だから」
「武器を取った、ということか」
 海馬の声は、静かだった。
 その声が、心の深いどこかに、すとんと落ちた。
「……そう」
 海馬の、言うとおりだった。
 言葉には、ずっと前から、刃が必要だったのだ。
 ―――自分が、自分自身であり続ける、という、戦いのために。
「貴様は、自分のために、人を殺した」
「そう……」
 わずかに間があった。そして問いが発せられる。
「後悔をしているのか?」
 言葉は、ひどく自然なことのように、答えた。
「……いいえ」

 生きるために、殺さないとならなかった。
 そのための《武器》が己の死であったとしても、自分自身を踏みにじられ、失わないためには、戦わなければならなかった。

「同じことがあったら、わたしはたぶん、……何度でも、同じ答えを選ぶと思います」
 不思議だった。
 どこかの掛け金を架け替えただけで、すべてが、あまりに明瞭になる。見通せる。
 わたしは、わたしでありつづけるために、西園寺さんを殺した。
 《誠が好きな言葉》を否定され、踏みにじられ、侮辱されたから。そして、そこで逃げ出せば、己がその蔑みの通りの人間でしかなくなってしまうことを知っていたから、殺したのだ。
「―――軽蔑しますか?」
「何故だ」
「わたしは…… 自分のためだけに、人を殺すような女だから」
 海馬は、短く黙った。そして答えた。
「その問いに首を縦に振れば、オレは、自分をも否定することになるということが、分からんのか」
 愚図な女だ。
 そういわれて、言葉はハッと顔を上げた。
 海馬は、ゆっくりと、手を持ち上げる。長くうつくしい指が、一本ずつ折りたたまれ、握り締められる。
「己自身のために、戦い、殺し、そして、血みどろになっても背中を向けない」
 半ば、己に言い聞かせているかのように、海馬はつぶやく。
「そのためにどのような謗りを受けようと、批難をされようと、何だというのだ? その声に屈して泥のなかに這い蹲れば、誰かが手を差し伸べてくれるとでも?」
 海馬は、いまや、はっきりと笑った。嘲笑でも冷笑でもない、確かな笑みが、くちびるに刻まれる。
「―――どれだけの代償があろうと、貴様は戦い抜く道を選んで、全うしようとしている。たかが女風情にしては、上等の生き方だ」
「……」
「己のためにあびた返り血なら、それは、勝利の証だ。怖れる理由など、どこにもないだろう」
 言葉は、海馬の青い眼を見つめ、そして、ゆっくりと視線を落とした。
 自分自身の手に。
 白く、華奢な手をみつめている言葉に、ふいに、海馬は椅子を蹴って立ち上がる。長身の海馬はさきほどまでの表情など何処にもなく、いつものように、嘲るような笑みをくちびるに浮かべる。
「ふん――― 長話だったな。だが、それなりに興味深くはあった」
「……わたしを、慰めてくれたんですか?」
「何を莫迦な」
 海馬は、言葉の科白を一蹴する。
「何故、オレがそのようなことをする必要がある」
 芝居がかって大仰な海馬の科白は、そのひとつひとつの裏に、間に、決して口にされないものを、滲ませる。
 そんなように、言葉には思える。海馬の言った言葉は、真実ではない。全てが本心から発せられるものではない。
 だが、そのような《信念》を信じねば、彼は、ここまで生きることができなかったのだ。
 そして、言葉もまた。
「海馬さん」
「なんだ」
「ありがとう、ございます……」
 ふん、と鼻で笑っただけ。いつもの海馬とまったく同じ。
 けれど。
「それと、遅くまで手を洗うのはやめろ。排水音がわずらわしくて、迷惑だ」
 らしからぬ科白を、付け加え、海馬は、言葉を見下ろす。言葉は思わず眼を瞬いた。その髪を、白い肌を見回して、海馬は短く言う。
「少なくともオレには、貴様のどこにも、洗い落とすほどの汚れがあるようには思えん」
 言葉は、一瞬、何を言われたのかがよくわからなかった。
 らしからぬことを言った、と言ってから自覚したのか、海馬はひどい渋面になる。そしてきびすを返すと、何事も無かったように、足音高く、廊下を歩き去っていく。
 その後姿を、言葉は、見えなくなるまで、見送っていた。思考が止まったままで。
 そして、海馬の姿が消えてやっと、己のてのひらを、見下ろす。
 冷たく、細い、手だった。
 ―――海馬の言うとおり、一点の染みもなく、白い両手だった。
 
 
 





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