≪7≫ ニコニコエリアよりNice boatUが離脱を試みてより、およそ一時間。 Nice boatUは、おそらくはニコニコ中枢部への侵入を試みたことにより、激しい次元潮流へと巻き込まれることとなった。 船体の状態を維持することが困難になり、また、海図も存在しなければ座標軸を把握することも困難な状況の中、Nice boatUは次元能力者である古手梨花、また、ピーチ姫の両名の助けを借り、航行を続けた。彼女たちの先導能力によって他の次元空間との距離を測定し、それら次元空間との位置関係により航行を試みる。航海は困難を極めた。だが、激しい次元のうねりの他に航海を妨げるものは少なく、EDFの戦闘部隊であるピコ麻呂指揮下のものたちは、警戒を怠ることは無かったにはしろ、その役割を求められることもまた無かった。航海は、激しく揺れるNice boatUの中、古手梨花、ピーチ姫の両名をただひたすら信じ続けることのなかで過ぎた。 そして、次元潮流内へと突入してより、4時間と32分、43秒が経過したときのことだった。Nice boatUを翻弄し続けていた次元潮流が突如として安定し、同時に、Nice boatUは、奇妙な暗黒物質の浮遊する空間へと、突入した。 「……それで、船が上手く動かなくなって、同時にわけのわからんモンスターどもがうろちょろしだすようになって……」 「ああ、そうだ。それで、ピコ麻呂の指令で、一部のメンバーがそいつらを退治するために船外へ出た。それからもう三時間過ぎた、ってわけだ」 リョウが差し入れにもってきてくれたパンは、もちもちしていると言えば聞こえがいいが、正直、ぷにぷにしすぎて食べにくかった。慣れた味だ。顎がいたくなりそうなタピオカパンを、谷口は、苦労しながら食いちぎる。 怪我のショックで記憶がすこし混乱していたらしい。リョウの説明を聞いてやっと、谷口は、自分がおかれていた状況を思い出すことができる。伸びるパンをひっぱりながら、谷口は、あいまいになっている記憶の中を手探りにかきまぜる。 船外に、奇妙な黒い霧のようなものが、ただよいはじめている…… その報告を受けてから外に出て、ピコ麻呂その他のメンバーは、霧の中から現れるモンスターたちの排除を行った。ミクの歌が、ゴッドマンの大声が、黒い霧が形になりかけるたびに振り払う。だが、敵は弱くても数が無限だった。千切っても、払っても、後から後から涌いて出る。《根本を叩き、散らすべきだ》という結論がでるまで、さほど時間はかからなかった。 「それで、オレたちが突入してから、三時間?」 「ああ。でも、ミクやロックマンはすぐに戻ってきたし、スパイダーマやゴッドマンもそうだ。中でお前たちを見失ったとは聞いていたが」 リョウは首をしきりにひねった。 「……あの後も、あのモヤモヤはどんどん拡大している。もはや、霧というよりも黒いわたあめとでも呼ばざるを得ない」 「そんな美味そうなもんなのかよ」 顎を必死でうごかして、タピオカパンを飲み下す。ちょっとは元気が出てきた。はあ、と谷口はため息をつく。 「しっかし、コレ喰って回復しても、ぜんぜんありがたくねえよなー。どうせなら、もっと可愛い女の子とかに治して貰いたいってもんだよ」 たとえば琴姫さんとかさ、ミクとか。谷口はそんな風に愚痴り、同時に、何か、奇妙な違和感を感じた。 「あれ……?」 「どうしたんだ?」 「いや、なんか今、ちょっとヘンな感じが」 誰かを、忘れているような気がする。なんなんだろう? 谷口は首をひねるが、リョウは立ち上がると、近くの椅子にかけられていたブレザーをこちらへと投げてきた。背中が焼け焦げていたが、着られる程度にはなっている。「立てるんだったら、外の様子を見てくれ」と言った。 「まだまだ回りはおかしな状況なんだ。手が足りない。それに、次元系の能力だったら、谷口がこっちの面子じゃ一番だからな。手伝って欲しいと言わざるを得ない」 「お、おう、分かった」 まだ肩のあたりがピリピリするが、谷口は、急いでベットから立ち上がる。分厚い包帯の上からブレザーをはおると、慌ててリョウの後を追った。 Nice boatUの船外――― 「こ、こりゃたしかにひどい」 外に出た瞬間、いきなり顔に湿った布をおしつけられたような感覚を憶え、谷口は思わず盛大に顔をしかめる。周り中、真っ黒なかたまりだらけ。満足に先も見えない。 船舷のいたるところにライトが灯され、なんとかして闇を照らし出そうとしていた。だが、闇の固まりはところどころで密度がことなり、もっとも固まりあった場所では、リョウの言うとおりに《真っ黒な綿あめ》のような状態となって視界をふさいでしまっている。 「あ、谷口さん!」 「よう谷口、目が覚めたのか」 気付いたらしく、こっちに駆け寄ってくるのは、ロックマンとマリオの二人だった。谷口の無事らしい様子を見て、ロックマンは露骨にほっとしたような顔をした。 「大丈夫でしたか? 心配していたんです。古泉さんがひどい怪我だったから、谷口さんももしかしたら、って思って」 治療役の琴姫さんが帰ってきてくれないから、とロックマンは心配そうに周りを見わたす。 「何か困ったことになっていたらどうしようかって思っていたんです。でも良かった。怪我も軽かったみたいで」 「単に気絶してるだけだって言っただろ。オレの勘が信じられねえのか」 マリオが、ちょっと笑いながら、ロックマンの頭を小突いた。 「だって、僕たちと谷口さんは違うでしょう」 「だからこそよ。何回も何回もtktkしてれば、どの程度なら無事で、どの程度だったらスタートまで戻されるのかっつーのも把握できるってもんだ」 谷口は思わず吹き出した。 「なんか、意外と平気っぽい感じだなあ?」 「そのとおり。お前らが戻ってこないのは心配だったが、こっちは見ての通りって感じさ」 あのうっとおしい黒いモヤモヤに邪魔される以外は、対して困りごともないみたいだからな、とマリオはいつもの口調で言った。 「ピーチ曰く、このモヤモヤがうっとおしいのは事実だが、座標を見失っちゃいないらしい。ピコ麻呂たちが戻ってきたらすぐにでも出発できるってことだ」 「無事でしたか? ピコ麻呂さんたち」 「ン……」 谷口は、ふと頭痛を感じた気がして、頭の後ろに手をやる。 無事。無事、だっただろうか? 「―――なんか、すげえやっかいなことになってた気はする」 「そうなのか?」 今度、心配そうな顔をしたのはリョウだ。だが、谷口はすぐに、ニヤリと笑って返した。 「まあ、でもオレと古泉が最後まで残ってたみたいだったから、俺たちがなんとかなってるってことなら、ピコ麻呂や琴姫さんたちも無事ってことだろ。戦略的撤退ってやつかね。たぶんあと一時間もあればなんとかなるだろ」 「そうか。安心だといわざるを得ない!」 だが、霧は四人の周りも重苦しく押しつつんで、Nice boatUのまわりに立ち込めている。谷口は口の中にしきりにこみ上げてくる、奇妙に苦い味を飲み下した。何かがおかしい。何かを忘れている。いったい何を? だが、何を憶えていないのか、ということを、どうしても谷口は、思い出すことが出来ない。 古泉はどうしているのか、と問いかけると、重傷を負った彼は、今もベットの上で意識を失っているということだった。病みあがりの谷口は出てこなくってもいい、というマリオたちの言葉に従って船内に戻り、様子を見に行く。消毒液の臭いがツンと鼻を付く医務室に入ると、とたん、谷口はとんでもないショットに遭遇してしまう。 「あ、あ、あ、阿部さん!?」 「なんだ? ああ、谷口か」 点滴を受けながらベットの上で意識をうしなっている谷口と、その横の椅子に座っていた阿部。なんかヤバい場面に遭遇した!? 谷口はとっさにそのまま部屋のドアを閉めようとしてしまう。 「ご、ごゆっく」 「いや、待て、待て。お前さんは誤解してるぞ? いいから入ってきてくれ」 めずらしく若干慌てた様子の阿部に、谷口は、ようやくとっさに頭に浮かんでしまった考えが誤解だと気付ける。そろりと中を覗き込むと、阿部さんはちゃんとツナギの前を上まで止めているし、古泉だってちゃんと毛布をかけていえる。不埒な行為がおこなわれていた様子は一才ない。無事だ。 「おいおい、お前はオレをなんだと思ってるんだ?」 阿部は、笑い混じりに、ちょっとばかり咎めるように言った。 「いくら一樹がいい男な上にオレ好みのガチホモだからって、病人を襲うような不埒な真似はしないぜ。そんなことをやっちゃあ、ガチホモの名がすたるからな」 「そ、そっすか……」 ガチホモの名ってなんなんだろう? 思わず困惑する谷口だったが、椅子をすすめられ、阿部のとなりにこしかける。正直なんだかこの人の横にいるとケツが落ち着かないのだが、何か話があるらしい様子で、仕方が無かったのだ。 開口一番、阿部は奇妙なことを切り出した。 「なあ、谷口。あの中で何があったんだ?」 「へっ?」 阿部は真剣な顔をしていた。やや、珍しい表情。 「いやどうもな。一樹のやつが何回か眼をさましかけたんだが、妙なことを言っていて」 ハルヒがどうしたとか、なんとか。阿部は顎をひねる。 「涼宮のヤツが、っすか」 「一樹は、ハルヒの身辺警護みたいなことをやってたんだろう。まあ、そうだろうな。ガチホモだから確かにその役目は適切だ。ヘタなあやまちを起こす可能性がない」 阿部の言っている事は、だいたい、1から9くらいまで間違っていたが。 「その分、真面目にやってはいたんだろう。一樹はハルヒのことをいろいろと知っているし、俺たちがあまりみたことのない事情についても心得てるってわけだ。それが寝言でうなされるぐらい動揺するっていうんだからな、何かあったんじゃあないかと思ったんだが」 ―――最後の10、ようするに結論の部分だとほぼ間違っていないのは、彼の人徳がなせる技であろうか。 困惑しながらも、なんとか、何が怒ったのかを思い出そうとする。谷口はこめかみに手を当てた。頭が痛む気がした。 断片的な記憶。夕焼け。校舎。影。焔。そして、何か――― 「……悪いんっすけど、なんかもう、俺もまだアタマいろいろ混乱してて」 谷口は、思い出しかけた考えを打ち消した。次元の狭間で夕焼けだの校舎だのっていう無茶はないだろう。どうやらまだしっかり目がさめていないらしい。 「そうかい。深刻なことになっていたら困ったと思ったんだが」 阿部はふたたび顎に手を当て、首をひねる。 「何しろ、いい男がずいぶん向こうに突入しているじゃないか。ピコ麻呂はもちろんだが、ハートマン軍曹も、遊戯も、ストーム1だって、俺にとっちゃあ大事な恋人候補たちだからな」 「お、おじいちゃんまで入るのかよ!?」 「もちろん。ありゃあいい男じゃないか! ガチホモに棄てるとこなしという言葉があってなあ。老人専門のガチホモを老け専というだけじゃなくって、さらにその上の熟した男性を愛するヤツラをオケ専と言って……」 ちなみにオケ専のオケはカンオケのオケだ、と阿部は真顔で言う。谷口は背中がゾゾッとするのを感じた。思わず椅子から腰を浮かそうとすると、とたん、すかさず阿部の手が、するりと椅子と尻の間に滑り込んでくる。 「ひぃっ!?」 「ほう…… なかなか、いい声してるじゃないの」 「ちょ、ちょっと勘弁! 失礼します! ごゆっくりぃぃ!!」 谷口は椅子を倒す勢いでたちあがり、慌てて病室から逃げ出した。 必死で阿部から逃げ出して、全力ダッシュでNice boatU内を駆け回って。病室からかなり離れたところまできて、なんとか足を止めることが出来る。谷口はため息をつくと、床に座り込んだ。 「はぁ、はぁ…… 世界の危機もだけど、ケツの危機も勘弁してほしいぜ……」 肩の火傷はまだ痛んで、しかも、ヒリヒリまでしてくる。がっくりと俯いた。だが、頭がだんだん冴えてくると、すぐに、外のもやもやが頭の中にまで入り込んできたような、奇妙な焦燥がこみ上げてきた。 いびつな夕焼け。 ひずんだチャイム。 放課後の学校。 ―――記憶が、どこまでもあいまいになる。 ぼんやりと眼を上げると、ダクトの走る天井に、蛍光灯が灯っている。谷口はふたたび鈍い頭痛を感じた。頭を押さえる。 「中で何がって…… なんだよ、それ」 そうだ、確かに谷口は、ピコ麻呂に呼ばれて、あの奇妙な闇色のなかへと、突入した。 闇は一人一人の前で奇妙な形を作り、それを一個ずつ撃破していっても、まったく埒が明かなかった。どこが中心部なのか、そうじゃなくても、どうにかしてこの闇を散らす方法を考えなければいけなかった。魔理沙がマスタースパークで、さらにはなのはがスターライトブレイカーで、闇を散らそうと試みた。だが、それでも闇を散らしきることは、できなくて…… 「……ッ?」 ふいに、まぶたの裏で、奇妙な眼閃を感じる。谷口は思わずこめかみを押さえた。 なんだろう、これは? 何か、青白い、恒星の熱にも似た閃光が、脳裏を掠める。そんなものを見た気がする。たしかに、あの、闇の中で。 だが、それは一体、《誰の放った攻撃》だったのだ? けれど、思考はかたちのない闇にもにて、ふわふわと指の間をすり抜け、捉えることも適わない。捕まえようとすればするほど、水の流れをとらえるように、するすると指をすり抜けて行ってしまう。肩が、熱を持ってうずいた。谷口は肩を押さえて呻いた。《何かが起こっていた》。だが、何がだ? 俺は、何を考えているんだ? そのときだった。 谷口のブレザーの内ポケットから、何かが、すべりおちた。 なんだろう…… 定期券? 谷口は眼を瞬き、手を伸ばす。だが、谷口の手がとどくよりも先に、ちいさな、まだ、ほんのちいさな手が、それを拾い上げた。 谷口は眼を上げた。 ひとりの少女がそこにいた。 黒い、長い髪をしていた。首も肩も、まだ、抱きしめれば折れてしまいそうに細い、子どもの身体。夏休みに育ちのいい子供が避暑地で着るような、シンプルなデザインのワンピース。 だが、そのふたつの瞳が、その印象をまったく裏切って、老練で、老獪な色を、浮かべていた。 谷口はとっさに思い出した――― そのラベンダー色の双眸に、この少女と、まったく同じような色を持っていた女性のことを。 「……面白いものを持ち帰ってくれたわね」 少女は言い、白い指を、くるりと翻す。 「さすがは、紫の弟子、というところかしら。解けないループから帰還し、さらに、存在しないはずの糸口までを掴み取ってくる。……まぁ、本人がそれを自覚できていないのは、ご愛嬌といったところだけれど」 皮肉めいて、大人びた口調が、その容姿にまったくそぐわなかった。谷口は、眼を見開いた。彼女の名前は知っていた。 「梨花、ちゃん?」 師である紫の、協力者のひとりであった少女。彼女は無感情な眼をしたまま、くるりと指をひるがえす。 「谷口。あなたはこれに見覚えがあるはずよ」 彼女の細い指にはさまれた、一枚のカード。 そこには、つややかな白い身体を持つ、青いひとみの龍が、刻印されていた――― ←back |