≪8≫ そう、思い出さなければならない。 本当は、何が起こっていたのかを。 「俺、たちは…… あの闇の中に、入って行ったんだ。そう、アレがどこから涌いて出てきてるのか調べなきゃなんなかったし、わかんなかったとしても、排除しないといけなかったから」 琴姫が闇から感じる奇妙な邪気を訴え、そして、方向すらも定かではないその中に道を開くために、谷口が皆を先導することとなった。灯りを持ち、道を切り開くために。 だが、進んでも、進んでも、闇の向こうには何も見えなくて。 「ほんとうにそうだったの?」 あどけない少女の声が、冷静な口調で、そう問いかける。 「何も…… 何も見えなかった。そのはずだった」 「―――何も見えなかった。そうだったの」 「い、いや、違った」 違った。 誰かが、言ったのだ。 なんだか、この闇はおかしい。ただの暗闇というよりも、そう…… 「夕暮れあたりの暗さみたいに、すごく、不安な感じがするって、言ったんだ。誰かが」 そして、それは、《そのとおりだった》のだ。 やがて、闇の向こうには、ぼんやりとした光があらわれて、あたりを照らし出した。ほの暗く、薄赤い光は、斜めに差し込む夕焼けのものに似ていた。この空間には太陽はなく、そして、昼と夜もないということを知っていたから、だれもがいぶかしんだ。だが。 「でも、あれはたしかに夕焼けだった。そのうち、硬い地面が現れたんだ。それから急に、出てくるモンスターが、強くなってきやがった」 現れた者たち。あたらしく現れたモンスターは、闇が凝ったようなあいまいな姿ではなく、より、明確な姿をし始めていた。そして、強かった。牙と刃。強靭な鱗や肉体を持ち合わせた敵は、それでも、彼らに退けることができないようなものではなかった。だからこそ、判断に迷った。 次元系の能力を持った先導者は居なかった。僧侶たちも、梨花やピーチも、Nice bortUの中に残っていた。紫も、Fooさんもいない。それは、闇の中央部に近づいたからなのではないかと、確信をもてない口調でピコ麻呂が判断を下した。どちらにしろ、後に戻るという判断は無かったのだ。 なぜなら…… なぜなら。 「そうだよ…… そうだ! 帰り道が、見つからなかったんだ」 なぜ、そんな重要なことを忘れていたのだろう? 谷口は、なかば呆然とした気持ちで、無意識に爪を立てていた手のひらを見下ろす。正面に立った梨花が、黙りこくったまま、まっすぐに谷口をみつめていた。 「気付いたら、リョウやロックマンが、いなくなってた。どこではぐれたのかも分からなかった。むちゃくちゃヤバかったんだ、ほんとに……」 「あなたが、いたのに?」 「え?」 梨花の問いかけが、少しばかり、いらだつような響きを帯びた。 「あなたは、紫の弟子なんでしょう。そんな状況だったのに何もできなかったの。何も、しなかったの?」 「おれ…… 俺が?」 谷口は、己の手のひらを見下ろした。 「俺は戦ってた! そりゃ、俺は非力だけどさ、援護だったらだれにも負けねえ。古泉とかと組んで後ろを援護して、」 「そんな話じゃないっ」 梨花が、ふいに、頬を打つような強さで、怒鳴り返した。谷口は半ば唖然と彼女の顔を見つめる。 青みがかかった黒瞳。それが、谷口をにらみつけていた。表情は半ば、【怒り】にも似ていた。 「あなたなら、引き返せたはず。なんで、そうしなかったの」 「ンな、こと、言われたって…… そんなの、そこで戻ってくるって段階じゃなかった。だって、そこでみんなで引き返しちまったら、ますますひどいタイムロスになる。俺たちは先を急がなきゃいけなかったんだぜ?」 咎めるというよりも、困惑する気持ちのほうがずっと大きかった。谷口は急かされるような口調で、梨花へと訴える。 「おじいちゃんも、軍曹も、ピコ麻呂も、海馬もいた。俺たちは十分に戦えるメンバーだったんだぜ? 俺は、みんなをサポートしなきゃなんなかったし、それが、いちばん必要なことだったんだ」 「……」 梨花は口を開き、けれど、黙り込んだ。表情には焦燥の色が濃い。引きずられて、自分まで、奇妙に不安な気持ちになるのを谷口は感じる。 頭がどうしてもぼやけて、考えがまとまらない。自分で口に出したことすら、まともに確信を持てていない。何かがおかしい。それは分かっているけれど、それ以外のことが、どうしてもわからない。 谷口は、がり、と噛んだ爪に、鉄錆の味を覚えた。ハッとする。そうして初めて、自分が、噛み千切るほどに強く、爪を噛んでいたのだと気付く。 なんとか手を下ろしたが、それでも、じんじんとするような痛みは治まらなかった。奇妙に不安なうずき。 「でも、先に進んで…… あたりがおかしくなってきた。中央部を見つけるよりも先に、周り中が敵だらけになっちまって……」 「そんなに、敵が強かったの。あなたたちでも、立ち向かえないほど」 分からない。 どうしても、思い出せない。 「分かんねえ。これ、マジなんだよ。そんなにヤバい化け物がいたのか? でも、海馬の野郎や言葉さんが、そう簡単にやられるような相手なんて……」 白い龍を従える決闘者。白刃の少女。 彼らは、間違いなく、強い。谷口はそれを知っていたし、彼らのことを信頼していた。彼らの戦いをサポートすること。雑兵を蹴散らし、背後からの援護を行い、自らの防御を省みることのできない彼らをサポートすることこそが、谷口の戦い方だったからだ。 だが。 だが…… そこで、思考が停止してしまう。 何かが起こった。何かを見た。だが、思い出せないのではなく、《矛盾した記憶》がいくつも同時に思い出されて、思考が、ぐちゃぐちゃに撹乱されてしまう。谷口は呻いた。片手でぐしゃりと髪を掴む。 「俺たちは、戦って…… 《勝った》?《負けた》? 誰かが、ひどい目にあったのか? そうじゃなかった??」 「落ち着きなさい!」 声が、びしりと響いた。 谷口は顔を上げる。あぜんとして梨花を見る。谷口を叱咤した梨花は、けれど、自分のほうが今にも泣き出しそうな顔をしていた。 黒髪の少女は、顔をゆがめ、両手を硬く握り締めていた。細い手がかすかに震えていた。 「梨花、ちゃん?」 「分かってる。あなたみたいなのには、《アレ》の本当の怖さは見えないんだって。でも、仕方ないのよ。私じゃアレと向かい合うことが出来ない」 谷口は彼女を見つめ、それから、己の手の中にあるカードを見下ろした。青い瞳の白い龍。海馬瀬人の、最愛にして、最強のカード。 なぜそれが、自分の手の中にある。プライドの高さではまったく他の追随を許さない彼が、これを、まさか自分に手渡すとは思えない。どうしても想像は最悪の場所へとたどりつく。冷たい指で、背中を、なぞられたような感覚を感じる。 だが、そんなわけがない。 あるはずがない。 「バカ言うなよ。どういう意味なんだよ? だいたい、海馬の野郎がマジでヤバいことになってるんだったら、俺だけここにいるわけないじゃねぇか」 谷口は、早口に言った。なんとか自分を励まそうとするように。 「だいたい、あいつらがマジでやばいことになる相手に会っちまったら、俺が生きて帰れるわけがないんだ。俺が生きてるってことは、あいつらも無事ってことだ。そう思わないかよ、梨花ちゃん」 「……」 返事が無かった。細い手が色を無くし、硬くにぎりしめられた関節が白い。ふいにそれに気付いて、悟る。 梨花は、怯えている。 ―――谷口は、はじめて、それを理解した。 「梨花ちゃん、もしかして、怖いのか?」 梨花は、しばらく黙っていた。やがて、錆びた声が、つぶやく。 「ええ、そうよ」 声が、老婆のようにしわがれ、震えていた。 「あれは、とても怖いものなの。私たちにとっては」 「梨花ちゃん……」 あの黒い闇を、梨花は、自分が思っているよりも、ずっと恐ろしいものだと思っている。だが、どうしてだろう? 彼女は自分よりもずっと老獪で、老練な、いわば、紫と同じような存在であったはずだった。自分よりもあきらかに格で勝った存在が、そこまでして、《アレ》を怖れる理由がどこにあるというのだろう。 谷口は手を伸ばす。手に食い込んだ爪が痛々しくて。谷口は、困惑しながらも、なんとかして、彼女を慰めようと必死で考えをめぐらせる。 「なあ、梨花ちゃ……」 だが、そのときだった。 劈くようなサイレンが、全艦内へと、響き渡った。 上も、下も無い。 ただ一面に、底知れぬ、果ても分からぬ、べた一面の漆黒の闇。 『―――さ、さん。魔理沙さん!』 首から下げた通信機から、声がする。なのはの声だ。視界ゼロの闇に焦れていた魔理沙は、雑音交じりの通信機へと怒鳴り返す。 「聞こえてる! どうした?」 『もう、10分経ったの。大丈夫ですか? 何か見えました?』 荒々しく、舌打ち。それだけで、答える必要すらない。 「こんな真っ暗闇…… くそ、いっちょ、最高速度でぶっとばしてやったら、先が見えるかも知れないのによ」 『ダメです、そんなの! 約束どおり、もう戻ってきてくださいなの!』 「……わかったよ」 魔理沙はしぶしぶと、箒の後ろのあたりをさぐった。そこには、一本のワイアが結び付けられている。箒の頭にくくりつけたランタンの灯りをうけて、かすかな銀色に光った。 視界ゼロの暗闇。そこを飛ぶということは、周りの人間にはどう思われたとしても、魔理沙にとっては無茶ではなかった。昔から無鉄砲で無茶だと言われるにはなれている。けれど。 ―――1人じゃないって、なんて不自由なんだろう。 魔理沙はそう考えて、再び、舌打ちをする。耳ざとくソレを聞きつけて、『どうしました?』となのはが問いかけてくる。 「るっせえな! 切るぜ!」 『あ……っ』 ぶつん。 魔理沙は、乱暴に通信機のスイッチを切ると、そのヒモを首から毟り取り、ポーチの中へと放り込んだ。あとは風の切る音だけ。 この闇は、どことなく、不安な感じがする。魔理沙はそう思い、そう思った自分にひどく不愉快になった。こんな真っ暗、景気が悪くて胸がムカムカする。こんなもの、きれいさっぱり、スペルを使って吹き飛ばしてやれればいいのに。 ばらまけるだけの星屑をばらまいてやろうか。それとも、全身全力のスペルを使って闇ごとすべて吹き飛ばしてやろうか。そうすれば、ずっとすっきりするだろうと魔理沙は思う。本当にそうしてやろうか、とちらりと思った。 だが、そう思ったとき、ふいに脳裏をよぎったのは、とっくに忘れたことにしたはずの、過去の記憶だった。 ……魔理沙。 ……そんなに速く飛んじゃダメだ。危ないよ。幻想郷の空はそんなに広いわけじゃないんだ。そんなスピードは必要ない。 「―――っ」 おせっかい、お説教、保護者ぶった押し付けがましい心配顔。 いちばんいらないと思っていたもの。だれよりも速く飛んで、振り捨ててやりたいと思ったもの。 なんでそんなものが頭を掠めるのかと、魔理沙は首をはげしく横に振って、そんな記憶を振り払おうとする。 だが。 ……こっちにおいで、魔理沙。 ……お前はまだ小さいんだ。危ないからこっちへおいで。 ……魔理沙…… 幻聴でも、追想でも、ない。 ふいにそれを悟り、魔理沙は、その飴色の瞳を、見開いた。 猫に似たその目に、闇が写る。一面の闇。そのはずだった。それが。 魔理沙は、闇の彼方に、ひとりの男の影を見た。 「う…… そ、だろ……」 銀の髪。細いふちの眼鏡。理知的な、優しげな面差しにさびしそうな表情を浮かべ、こちらを見ている。その姿を照らし出す銀光は、彼のスペルだった。星屑の光。魔理沙が、いくら振り切ろうとしても、放つ輝きがどうしても似通ってしまう、あの懐かしい光。 宵の明星、イブニングスター。 その、光輝。その彩。 「魔理沙」 彼は、言った。 魔理沙はぼうぜんと、その名を呼んだ。 「りん……の、すけ?」 魔理沙が、通信を切った。 けれど、魔理沙はもどらない。待つべきだ、となのはの理性が告げていた。だが、結び付けられて揺れているままの銀色のワイアをみていて、なのはは、すぐに己の理性を強引に収めこむことを選択した。 「レイジングハート!」 《Yes master.》 ちいさな足に光の羽が生じ、ふわり、と長いスカートが舞い上がった。魔理沙の様子を見に行くだけだ。なのはは自分にそう言い聞かせる。 「これを辿っていくだけだもの」 誰かを見捨てると、きっと後悔する。自分の最善を、全力を尽くしたとしても、何も出来なかったとすれば、それは彼女にとってはなんの言い訳にもならない。常に全力を振り絞り、それでも足りなければ己の身を削ってでも、助けたい誰かを護らなければいけない。それが、彼女の生き方だった。 けれど…… 《お前は、その傲慢さで、すべてを失った》 「!?」 ふいに、背後から、声が響く。なのはは、弾かれたように振り返った。 周りにはだれの姿もない。ただ、一面に広がる闇。それだけ。だが、下には誰かが居るはず。敵が本艦にまで潜入するなどということが、まさか、あるはずが。 《己の力だけを信じ、恥じるということを知らぬ。それを傲慢と呼ばずしてなんと呼ぶ。お前は他のだれも信じてはいなかった。それゆえに―――》 なのはの、研ぎ澄まされた感覚に、水面に一枚の朽ち葉が触れるかのように、何かが触れた。 抜き打ちの速さで、赤い宝珠に光が宿った。振り返ったなのはには、もはや、一片のためらいもなかった。足元に魔法陣が展開し、一瞬にして臨界へ到達した魔力が、髪を、スカートの裾を、巻き上げた。 「ディバイン・バスター!」 ドン、と衝撃が響き、瞬間、まるで刃で切り裂いたかのように、光が、闇を切り裂いた。 切り裂かれた闇が暗幕のようにひるがえり、一瞬、隠れていたものの姿を露わにする。だが、なのはが闇の向こうに見たものは、彼女の想像を、超越したものだった。 否、その表現は、正しくない。 『認めたくない』が故に、彼女の想像の盲点へと入り込んでいたもの。忘れようとしていたもの。 彼女の、もう一つの顔。黝い肌を持ち、中世に悪魔がそのような顔をしていると想像されたような姿をしたものは、なのはのことを、嘲笑った。 《それゆえに、貴様は、すべてを失い、我と為った》 驚愕と衝撃が、なのはから、思考を奪った。 呆然と立ちつくす彼女の前へと、豪奢なマントを翻し、その存在はゆっくりと歩いてくる。片手には一本の剣が携えられていた。【グランドソード】の名を持つ剣。 「久しいな、我が魂。もうひとつの貌よ」 《魔王》は、牙を剥き、獰猛に哂った。 「何が起こってるんだッ!?」 「わかんないわよ! だからスクランブルをかけたんじゃない!」 廊下を駆け抜け、隔壁となったドアへと飛びつき、ソレを開く。とたん、正面から顔へとぶちあたる湿った闇。「うぷ」と谷口は思わず顔を覆う。 「な、なんだ、こりゃ……」 さらに濃密になった闇の向こうから、何かが、聞こえてくる。閃光、衝撃。そして焔。絶叫。 「こないで…… こないでぇぇぇッ!!」 「な……ッ」 なのはの、声。 だが、それを聞き分けたかと思った瞬間、誰かの腕が、ふいに、谷口の襟を掴み、強引に地面へと引きずり倒した。 声を上げるまもなく、何かが、頭上を掠める。谷口は眼を疑った。閃光。この世界でただひとつ、恒星のみが持ちうる圧倒的な光量に似たもの。あれは。 「な、のは、ちゃんっ!?」 「くそっ、手のつけようがないと言わざるを得ない!」 アリスが、側で、半ば抱きしめるようにしてリョウの腕に庇われていた。彼女の視線は別の方向を見ていた。谷口は思い切り床にぶつけた顎を押さえながら、呆然と闇の彼方を見つめた。 頭上でも、何かがきらめき、また、閃いている。だが、谷口の頭はそちらには向いていなかった。なのはの声が聞こえた。しかも、あれは。 「な……なに、やって、ん」 「わからんッ。なのはが敵を見つけたらしいんだが、いきなりあの有様だ! あれじゃこちらのほうまで巻き込まれちまう!」 「リョウっ。魔理沙も……っ」 アリスが、悲鳴のような声を上げた。彼女の目は頭上を見ていた。リョウを突き飛ばすようにして立ち上がる。では、あれは魔理沙なのか。谷口はそう悟り、弾かれるようにして頭上を見上げる。 船上ではなのはが、空中では魔理沙が、それぞれ交戦状態に入っている。だが、誰にも連絡をいれず、まったくの1人で敵に立ち向かうなんて、むちゃくちゃだった。それをいうなら戦い方も同じだ。谷口は奥歯をギリリとかみ締めた。一瞬だった。 「なのはちゃんッ。どこだッ!?」 「いやあああああああッ!!」 悲鳴だけが響く。ふたたび、閃光。 スターライトブレイカーは、魔力の消費が非常に大きな魔法だということを、谷口は知っていた。少なくとも、誰の援護も無しに乱射できるようなものではない。そんな無茶をしたら。 「畜生っ、何も見えなくちゃどうしようもないといわざるを得ない!」 リョウが怒鳴り、いまにも攻撃魔法の火線が交差するフィールドへと飛び出していきそうなアリスを必死で抑えている。アリスは悲鳴のような声で魔理沙を呼び、必死で空へと手を伸ばしていた。あそこに魔理沙がいる。何かが起こっている! ―――ふいに、既視感を憶えた。 「離してよ! 魔理沙が、魔理沙が……っ」 「ダメだ、このままじゃ、お前まで黒焦げになっちまう!」 叫ぶアリスを、リョウが押さえている。だがリョウは、ふいに、ぎょっとしたように側を見た。ふらりと誰かが立ち上がったのだ。谷口だった。 「おい、お前まで……」 「違ぇ」 谷口は、言い放った。リョウは声を途切れさせる。 谷口は通信機をポケットから引きずり出す。あわただしく通信をつなげた。左方船舷。すぐに通信が繋がる。《どうしました!?》と答える声は、ミクのものだった。 「おい、ミクっ。そこに誰がいる!?」 《え…… え、あの、私と、KBCさんと、あと、ボブさんが……》 「すぐにこっち回せ! お前、たしかえっと、なんとかの音で暗いとこでも周りがわかる方法あったよな!? アリスっ、魔理沙はどこだ!?」 「じょ、上空…… でも、スピードが速すぎて、捕まらないッ」 「聞いたかミク!? すぐにこの通信機はアリスに渡すから、あとはお前が魔理沙の位置を教えてやれ! 俺ぁなのはちゃんの方に行くッ!」 《は、はい、了解しました。アクティブソナーでオペレーション、すぐにスタンバイします》 声はうろたえているが、忠実な機械の少女はすぐに言われた意味を理解したようだった。谷口はアリスの胸元へと通信機を押し付けた。一瞬呆然として、けれど、通信機から聞こえてくるミクの声に、やるべきことを理解したらしい。グッと唇を噛んだのは一瞬、すぐに通信機へと何かを怒鳴りつけはじめる。リョウは呆然と谷口を見た。 「何をする気だ、谷口っ?」 「俺がなのはちゃんを止める。お前らが魔理沙を止めろ!」 言うなり、強く、地面を蹴った。背後で叫ぶリョウの声を振り千切るようにして、何も見えない闇へと、真っ直ぐに突っ込んでいく。 視界ゼロ。何も見えない。だが谷口は、目の前の闇へと、《眼を凝らした》。 見える。 闇を切り裂く、星の閃光が。 放たれる火線の源は、間違いなく、《なのは本人》だ。この闇の中でなのはの場所を知る方法は一つしかない。 再び、光が、闇を裂く。谷口はまっすぐに、光の源へと走った。圧倒的な光量の中へと躍り出る。 同時に、その目が、瞬間と瞬間の間を見抜き、針の目を抜くかのような《スキマ》を、見出した。 「開けぇぇぇッ!!」 スナップ。 鋭く指が打ち鳴らされる音と同時に、光と闇が、位相を切り替えたかのように、《ずらされた》。 まるでプリズムへと打ち込まれた光がスペクトルへと拡散するかのように、谷口は、《光》と《魔力》の二つの間を切り裂いた。目の前から打ち付けて視界を奪う真っ白な閃光。だが、ダメージはない。焼き尽くすような熱量は、ほんのわずかずらされて、紙一枚ほどを隔てた空間をなぎ払った。寒気のするようなギリギリの綱渡り。 光が、眼底を灼く。視界が、白い闇へとブラックアウトする。 何も見えない。だが、谷口は、視覚ではない何かで、そこにいるものを《見た》。 少女。高町なのは。 それが、《ふたり》。 何故だか谷口は、そこで起こっていることがなんなのかを、識っていた。 「なのはちゃん―――――ッ!!」 正面から、タックルをするようにして、なのはを抱きしめ、地面へと押し倒す。その頭上を何かが薙いだ。全身の血が逆流するかに思った。だが。 「やだ、やだぁっ! やめて、やめて、やめて」 「大丈夫だ、なのはちゃんっ。もう平気だ。助けに来たッ」 腕の中であばれるなのはを、谷口は、押さえつける。まだ何も見えない。だが。 《……ほう、邪魔立てをするか》 背後からの声を感じた瞬間、なのはが、恐怖に身体を引きつらせるのを、感じる。 この声は知っている。《魔王》。すでに存在するはずのないモノ。 《だが、貴様ごとき虫けらなど、増えたところで無駄なこと……》 だが、まるでその声そのものが重圧感を感じさせるかのような声を、谷口は、はっきりとさえぎった。 「うるせーや」 まだ、何も見えない…… だが、谷口は確信していた。 「おまえなんか、もう、《存在》しねーんだよ。ぐだぐだ抜かして未来の美人候補をビビらせんじゃねぇ!」 谷口は、吼えた。 「お前は、もう、《存在しない》ッ―――!!」 その声が、言葉が、《魔王》の存在を、揺るがせた。 すべての存在の境界線へと張り巡らされた《次元能力者》の感覚。谷口のそれはまだ未熟で、常ならば満足に頼れるようなものですらない。だが、目の前に立っているかに見せかけている、《存在しないもの》が揺らいだことを感知するには、十分だった。 谷口は、なのはを全身の力で抱きしめたまま、怒鳴った。 「やれッ、……クラッシャーっ!!」 「ホワァァァァァアァァッ!!」 奇声じみた気合が発せられる。走ってくる。キーボードクラッシャー。手に握り締めたUSBのケーブルを振りかぶった。ボーラのように結びあわされたマウスが二つ。 「喰らえッ! 俺様の新必殺技ァァ!! マウス&キーボードクラッシュゥゥ!!」 《なんだとォ!?》 飛来したマウスをとっさに受けようとした腕に、長いケーブルが巻きつき、動きを奪った。それはほんの一瞬の隙。だが、彼にとっては十分すぎるほどの隙だった。 「てめぇぇぇェェェに殿中クラァァァッシュぅぅ!!」 音を立てて、キーボードが、叩きつけられるのを、谷口は聞いた。 背後の気配が絶叫する。だが、その声がワイプし、ノイズとなって、消えうせた。同時にその存在もまた、消滅する。 《もとより何も存在しなかった》、かのように。 やがて、ばらばらと何かが地面に落ち、次いで、カシャンという音がした。谷口は少し笑った。何が起こったのかを理解した笑みだった。 クラッシャーがしばらくぜえぜえと息を荒くしていたが、やがて、何が起こったのかを確認し、いつものように奇声をあげはじめる。 「俺の敵がいねェェェェェ!! 何故だァァァァせっかくカッコよく登場したのにィィィ!!」 「うるせーよ、クラッシャー! またキーボード壊しやがったな!?」 「黙れッ!今俺超カッコよく登場した!むちゃくちゃヒーローだった!なのに!敵がいねェェェ!!むかつくぜホワァァァ!!!」 ―――ようやく、視界が、回復してきた。 後ろを見ると、クラッシャーが、散乱したキーの上で地団太を踏んで悔しがっている。マウスを三つほど結び合わせたモノが落ちていたが、どう見てもすでにジャックのあたりでいかれていた。再利用は不可能だろう。マウス&キーボードはマズかったよな、と谷口は思った。 それから、腕の中を、見る。 なのはがまだ、こわばったように眼を見開いて、呆然と、身体を硬くしていた。 「谷口、さ、……《魔王》が、……《わたし》が……」 「大丈夫だ。ちゃんとヒーローが来てやったからな」 谷口は、なのはの頭を、乱暴にくしゃくしゃとひっかきまわした。 「《魔王》はちゃんとやっつけたぜ? なのはちゃんは無事。一件落着ってことだ」 「で、も」 「安心しろ。おまえの、《谷口お兄ちゃん》を信じろ!」 きっぱりと谷口が言い切り、ぽん、と頭を撫でる。 とたん、なのはの体から、一気に力が抜けた。 「……っ、う、ああ、うぁぁぁ……」 目からぼろぼろと涙が溢れ出す。なのはが谷口のブレザーを掴んだ。声を上げて、泣き出した。 気付いたらしいクラッシャーがようやく一通り暴れ終えて、後ろから二人の様子を覗き込んでくる。怪訝そうな顔をしていた。ボリボリと頭を掻くと、かき集めたらしいキーがぱらぱらと手からこぼれる。 「おい、何泣かしてんだよwww 誰がうまいこと言えと言ったwwww」 「……なんかこう、てめえの台詞を聞くとすさまじく安心するよな」 「どういう意味だテメェェェ!!」 「そのまんまの意味だっつーの」 怒鳴った拍子にぱらぱらとキーを落としては拾い、拾っては落として、クラッシャーの動きはひたすらせわしない。だが、安心したというのは事実だった。 頭上を見ると、さきほどまでの閃光は収まっている。どうやらリョウとアリスは魔理沙を止めるのに成功した…… だが谷口は、今己の《眼》で見たものを反芻することによって、本当に起こりつつあることがなんだったのかを、完全に理解してしまう。嫌な予感が吐き気のように胸元からこみ上げてくる。己の記憶から消えかけていたものを、谷口は、とうとう正確に思い出した。 この闇の本質。 本当の、恐ろしさ。 「……畜生、ただの、黒い綿アメじゃなかったってことか」 泣きじゃくるなのはを抱き、背中を撫でてやりながら、谷口は、苦いものを必死で飲み下そうとする。 梨花が見せた恐怖。なのはを狂乱させたもの。消えたはずの《モノ》が現れたということ。 この闇は、見るものの《心の闇》を、正確に写し取る力を持っている。 ―――だが、最もやっかいなことは、それですらない。 ようやく思い出したことを、もう二度と忘れないように、幾度も幾度も頭の中でかみ締める。そんな谷口の様子をさすがに不審に思ったらしい。「おい、どうした?」とクラッシャーが心配げに声をかけてくる。 背後から、喧騒が聞こえてきた。ようやく起こっていた異変に気付き、内部で待機していたEDFの隊員たちが、甲板へと駆けつけようとしているようだった。 ←back |