【悲しみの向こうへ】
≪9≫



 秋になり、新学期がはじまったといえど、SOS団の部室はいつものように暑い。
 まあ、クーラーがついているのは事実だとはいえ…… 以前から気になってたんだがな、どうしてこうも公共機関のクーラーというのはカビや湿気の温床になってるのかね。部室棟の中はクーラーをきかせればきかせるほど、非常にかぐわしい菌糸や胞子の香りでいっぱいになる。たぶん通気ダクトの中を顕微鏡とかで拡大してみたら、腐海とかそういう世界そっくりの状態になってるんだと思うよ。某世界のアニメ監督はそのあたりからかの名作を作り出したのかね。俺は名監督になりたいとなんぞは夢にも思わんから、そんなもんを見たいとは夢にも思わんが。
 しかしまあ、それがいつもの光景の一部だと思うと、懐かしくもなるし、いとおしくもなる。朝比奈さんがいくらていねいに磨いても埃っぽい窓ガラスも、その外で日射病ももろともせずに頑張ってる運動部の連中の声も、チョークの粉の匂いや埃臭さも、それに、あつまっていてもてんで勝手なことばっかりやっている、この、俺の仲間たちも。
「暑いわ!」
 ハルヒのやつは、いつものように窓際の日当たりが無駄にいい席で、スカートを盛大にひるがえしながら、威勢良く文句を言っていた。
「暑い暑い暑い! もう、新学期がはじまったっていうのに、なんなのよこの無駄な日光は。地球温暖化のせいよね、きっと」
「昨日は十分に涼しかったんだがな。コンスタントに気温が上がらないってことは、温暖化とかそういうのというより、単に前線がどうこうって話じゃないのか?」
「知らないわよそんなの。あーあ、なんか二酸化炭素をまとめて固体にして廃棄する方法とか誰か思いつかないのかしら」
 ……地球上の二酸化炭素をすべてドライアイス化か。豪快な発想だな、ハルヒ。長門あたりに言ったら実現してくれそうなのが実に恐ろしい。
 ハルヒはそこまで色が白いってタイプでもない。鼻や頬の辺りがなんとなく日焼けして、小麦色に変わっていた。髪の色もそうだった。毎日毎日外を歩き回って、もとから茶色っぽかった髪が、さらに日焼けて脱色されているような気がする。頬のあたりにうっすらとそばかすが浮いている。ハルヒもきっと気付いてるんだろう。
 だが残念ながら、俺には、そのことを指摘してハルヒに怒られることができる時間も、機会も、もう無い。
「なあ、ハルヒ」
「何よ」
「お前、もしも自分の願いがなんでも叶うって言われたら、どういうことを願ってみる?」
 ぴりっ。
 そんな音を立てて、部室の空気が張り詰めた気がした。
 部屋の隅では長門があいかわらず分厚いSF本を読んでいる。だが、詰め将棋をしている古泉が、その古泉にお茶を出そうとしていた朝比奈さんが、こちらを見た。かちゃんと変な音がした。朝比奈さんが、いましも古泉のやつに出してやろうとしていたお茶を、うっかりして取り落としかけたせいだった。
「何ソレ。あんた、妹さんの読書感想文を変わりにやらされたりとかしたの?」
 ハルヒの返事はいつものように無駄に生意気だったが、もう、怒る気もしなかった。
「まあ、アレだ。おまえがもっとこう、色が白く胸が大きく美人になりたいだとかな、白馬の王子様に迎えに来てもらいたいとか」
「ぜんっぜん、面白く無い冗談よね」
 ハルヒは臭いものでもかがされたような顔をして、ひらひらと手を振った。
「まさか、ごめんよ。あたし、自分の顔には不自由してないし、白馬の王子様って何ソレ? そんなわけのわからないものをブラブラさせておける国があるんだったら、とっくにクーデターかなんかで滅びてるんじゃない?」
 ……実に、【お前らしい】答えだな、ハルヒよ。
「じゃあ、アレだ。お前が前から欲しがっていた、宇宙人とか未来人とか超能力者とかいうやつ」
 はわわわわ、と朝比奈さんが慌てている気配がした。さっきから長門が本のページをめくっていなかった。
 いや、長門はもうずっと、本を読むことなんてやめていたんだったな。
 俺にだって、とっくにわかってるさ。長門、本当にすまないな。
 ―――つまりもう、『俺は』タイムリミットを迎えている、ってこと。
「たとえば、長門が宇宙人になってだな、朝比奈さんが未来人に、古泉のやつが超能力者になる」
「じゃあ、あんたは異次元人とか」
「それでもかまわん」
 ふーん、とハルヒは言った。しばらく黙った。考えているようだった。
 俺は、そんなハルヒのすがたを、じっと見つめる。深い意味なんてなかった。色あせて金色に透ける髪、小麦色の頬のほんのすこしのそばかす、おおきくて聡明なひとみ。
 そう、深い意味なんてないさ。
 もう二度と出会えないと思ったら、きっと、どんなに平凡で、見過ごしていた日常だって、二度と手放したくないくらい愛しくなる。きらきらして大切に思えてくる。そういうことなんだろう?
「面白いわね、それだったら考えてみてもいいかも」
「だがハルヒ、俺がもしも異次元人になったら、たぶん俺は、いままでお前が思っていた『キョン』とは別人になっちまうぞ」
「なぁに、それぇ?」
 口を尖らせる。子どもっぽい表情。
 俺は、長い長い時間をかけて考えた言葉を、ていねいに、口にする。
「つまりだ。俺は、いままで平凡でなんのとりえも無い日常を延々と送って、その結果、お前とであって、ここにいるわけだ」
 そう。
 埃っぽい窓ガラス。湿っぽいクーラーの風。古い部室棟の一室。
 俺、朝比奈さん、長門、古泉、それに、ハルヒ。
「その過去が、きれいさっぱり書き換えられて、たとえばアレだ、俺が異次元で長い戦争に巻き込まれ、実は心に深いトラウマを追ってここにいる――― とかいう設定になったらだな」
「別にいいわよ。オモシロそうじゃない」
「……それで、きれいさっぱり消滅しちまった俺の家族、ふるさと、あと、幼馴染とかに似てるからって理由でお前に付き合ってることになっちまったら、お前はどう思う?」
「……」
 ハルヒは、ハトが豆鉄砲を食らったような顔になり、黙り込んだ。
 何を考えているのかまでは分からない。だが、茶色っぽいハルヒの目の中で、なんだか色々な感情が、一瞬のうちにくるくると入り混じって、動き回るのが見える気がした。俺はまるで万華鏡のなかでも覗くような気持ちで、その様子をいとおしく思った。ゆっくりとした口調で言った。
「そのほうが面白いんだったら、お前がそう思うってことを、止められるわけでもないけどな」
 俺がそういったとたん、ガシャン、と音がした。
 ハルヒが椅子を蹴って立ち上がった音だった。
 ハルヒが、肩を怒らせて立っている。ハルヒはまるで子どもだ。自分のキャパシティを超えた感情を感じると、怒ったりする以外の表現方法を、もっていないのだ。
「なんなのよ、それ! なんか腹立つわね!」
「おいおい、いきなり……」
「キョン、あんたなんか隠してるでしょ。何隠してるわけ!?」
 外に誰か隠してるの!? などと叫ぶなり、ハルヒは部室をほとんど一跨ぎの勢いで横切って、乱暴にドアをぶちあけた。すごい勢いで飛び出していく。俺は苦笑交じりにたちあがり、その拍子に、古泉と眼を合わせてしまう。
 いつも、胡散臭い感じの笑顔ばかり浮かべている顔が、なんだか、意外そうな顔をしていた。
「なんだ」
「……どうしたんですか?」
 簡潔な返事が、逆に、珍しかった。
 俺は少し笑った。たぶんそうだったんじゃないかと思う。
「いや」
 眼を、離した。
 名残惜しくて、少し、辛かった。
「すまんな、古泉」

 
 今となって、古泉は思う。
 アレは彼の漏らした、唯一の詫びの言葉であり、同時に、『別れの言葉』だったのだ、と。


「―――ッ!?」
 ふいに、意識が、覚醒する。
 その瞬間、魔理沙は、我に帰って飛び起きる。体の上から音を立てて毛布が落ちた。息が荒い。目の前が、白くなったり赤くなったり、明滅を繰りかえしていた。呆然と肩を上下させている魔理沙に気付いたのだろう。すぐに、「魔理沙さん!」と悲鳴のような声が聞こえてきた。
「あ……あ?」
「よかった、魔理沙さん! 目が覚めたんですね……!」
 ミク、の声だった。まだ目の前がうまく見えない。呆然としていると、VOC@LOIDのほっそりとした手が背中をさすってくれる。何かコップのふちらしいものをくちびるにあてがってくれる。
「落ち着いてくださいね。気持ちが落ち着く飲み物を、つくってもらったんです。ゆっくり飲んでください。むせないように、ゆっくり」
「あ……」
 ミクが慎重にかたむけてくれるコップの中身は、甘くて、やさしい味がした。少しずつ、ほんとうに少しずつコップが傾けられる。胸の中であばれまわっていた心臓が、ちょっとずつ静かになってくる。魔理沙はようやく、自分がどこにいたのかを、見ることができるようになる。
 そこは、NiceBoatUの、待機室だった。
 魔理沙が横たえられていたのは簡易ベットの上で、楽になるように服がゆるめられていた。ほどけた金髪がふわふわと絡まっている。部屋の隅に、谷口の姿も見えた。膝の上に小さな人影がいて、ふるえながら谷口の身体にしがみついている。よくみたらそれはなのはなのだった。頭から毛布を被って、雷に怯える小さな子どものように、ぎゅっと身体を縮めている。
「ありがとう、ミク。もう落ち着いたぜ」
「はい、よかったです」
 魔理沙はベットの上に起き上がる――― くらりと視界が傾くような感じがした。魔力の使いすぎが原因の眩暈だ。魔理沙は思わずこめかみを押さえた。
「あっ、大丈夫ですか?」
「ほっときなさい、自業自得なんだから」
 声がした。魔理沙は顔を上げた。アリスが、硬い表情で、ドアをくぐってくるところだった。こちらへと、大またに歩いてくる。後ろにリョウの姿も見えたが、魔理沙の視線に気付くと、ちょっとすまなさそうな顔をしてみせる。アリスを止められなかったのだろう。当たり前だ。
「ようやく目が覚めたのね、魔理沙。何をやったか憶えてる?」
 口を開くなり、きつい口調で言い放った。
「あの、アリスさん、いきなりそれは……」
「いや、いいんだ、ミク」
 たまらずわって入ろうとするミクを、しかし、魔理沙自身が押しとどめた。
「憶えてる。お前が止めてくれたのか?」
「正確には、わたしとリョウとの二人ね。ミクにも協力してもらった」
「怪我は無かったか?」
「あったに決まってるでしょ」
「その……」
 魔理沙は言葉をさがし、けれどすぐに、あきらめた。
「……その、すまない」
 がっくりと肩を落とす。ミクはおろおろとしているが、アリスは逆にさらにきつく眉をつりあげかけた。何かを怒鳴りかけるアリスの肩を、だが、リョウが掴んだ。
「そのへんにしておいてやれ。まだ魔理沙は目を醒ましたてなんだからな。いやだが、無事でよかったといわざるを得ない」
「ほんと、悪ィ。……馬鹿なことした」
 魔理沙は、自分がなにをやったのかを、正確に覚えていた。頭の中でフィルムをまき戻すように全てが反復される。魔理沙は思わず己のこぶしを握り締める。手のひらに爪がつきたてられ、鈍い痛みを感じた。
 そうだ。
 自分は、我を失ってスペルを乱射し…… アリスとリョウまでをも、巻き込みかけたのだ。
 彼女なればこそ分かる。自分は、なんらかの魔法によって、惑わされていたのだと。
「分かってるさ。こんなところに、霖之助がいるわきゃねえんだ。誰がやったことか知らないが…… 畜生っ」
 魔理沙が闇の彼方に見たもの。それは、幻想郷に残してきたはずの、古い馴染みの男の姿だった。
 銀灰色の髪をした、穏やかな面差しの霖之助。だが、今では犬猿の仲であるとはいえ、彼とも普通に話すことだってできる。魔理沙が彼に異常なまでの反発心を抱いていたのはもう何年の前のこと。魔理沙が今よりもさらに未熟で、だからこそ強くなりたくて、焦り、いらだっていた頃の話だった。だが、ほんの数十分前、魔理沙は闇の彼方に霖之助の姿を見、そして、逆上した。そのときに心によみがえった感情は、おそらくは今の魔理沙だったら感じることがないだろうほどに、強く、そして、抗いがたいものだった。
 目の前の彼を、倒さなければならない。そうしなければ自分はずっと子どものまま、空へと飛び立つこともできないまま。
 そんな感情に駆られ、そして、暴走する感情のままにスペルを乱射した。その結果が、これだ。
 アリスが青い眼に怒りの色を浮かべ、魔理沙のことをにらんでいる。怒っているはずが、どこか泣き出しそうな顔だった。「すまん」と魔理沙はもう一度頭を下げた。
「俺には事情がよくわからなかったんだが、魔理沙も、何かタチの悪い幻影でも見せられていたのか?」
「タチが悪いってところはそのとおりだが、私だけじゃなかったのか? もしかして?」
 ちらりと視線をやる。谷口のほうに。
 谷口はちょっと眼を上げて、それから、少し困ったような顔で口の前に指を一本立ててみせた。まだなのはは、答えられるような状態ではない、ということなんだろう。
「でも、一体何があったっていうのよ……」
 アリスが不安の濃い口調でつぶやく。そのときだった。
「それには、僕が答えたほうがいいでしょうね」
「―――古泉!?」
 プシュ、とかすかな音がして、ドアが開き、そして、閉じた。魔理沙は驚きの声をあげたのは魔理沙だけではなかった。そこにいたのは、まだ満足に歩ける状態ではないと一目でわかる古泉だった。阿部に肩をささえられながら、一歩ずつ、おぼつかない足取りで歩いてくる。
 あわててミクが椅子をもってくると、「すいませんね」と謝りながら、腰を下ろす。襟から白い包帯が見えていた。一言づつに顔をしかめる表情は、おそらく、傷が完璧に閉じてすらいないのだろう。
「古泉…… おい、お前、大丈夫なのか?」
「残念ながら、ちっとも大丈夫じゃないみたいですね。でも、魔理沙さんやなのはさんまで例の闇に困らされたと聞いて、どうしても説明しないといけないことがあると分かりましたので」
「一樹のやつ、ちっとも言うことをききゃしないんでね」
 阿部は、肩をすくめて見せた。
「おとなしく寝てくれるよう、話を聞いてはもらえんかね。こんな状況じゃ色気もへったくれもないもんでな」
「どういうことなの?」
「あなた方が幻惑されたという、例の闇についてです」
 どこまで知っているんですか? と古泉が問いかける。皆が黙った。お互いに顔を見合わせる。
 あれがどれだけたちの悪いものなのかは、身を持って知っている…… と魔理沙は思う。
 だが、しばらくたってから口を開いたのは、アリスだった。
「私は、Foo子や梨花ちゃんから、いろいろと聞いたわ。あれの名前も、どういうものなのかも」
「あれの正体を知ってるヤツがいたのか?」
「気になったから。たぶん、次元の狭間に湧くたぐいの魑魅魍魎だと思って、Foo子に聞いてみたの。やっぱり知っていたみたいね。Fooさんから聞いたことがあると言っていたわ」
 ダークネスという名前だって言ってた。アリスは、淡々とした口調で言った。
「生き物とか妖怪とかいうよりも、どちらかというと、自然現象のたぐいだって言ってたわ。正体も原因も不明。誰の干渉も受けない状態でも、ときおり時間や空間の狭間から現れて、人間や、心を持った存在を惑わすことがある。それが、『ダークネス』よ」
「……続けてください」
 アリスは一瞬、古泉のほうを不審そうに見た。だが、続きを促すような目で見られて、しぶしぶと再び喋り出す。
「あれは心を持った存在に、『その心が一番怖れているもの』の幻影を見せるの。そして、その幻影に相手が屈服して…… 恐怖や絶望で生きる意志を失ったら、自分の中に取り込んでしまう。そうやってさまざまなものを取り込みながら、ダークネスは増えていくんだわ……」
「そんなやばいもの、放置しておいていいもんじゃないだろう!? なんでもっと警戒されていなかったのかといわざるを得ない!」
「理由はちゃんとあるわ。これが、もしかしたら一番やばいのかもしれない」
 アリスは、言った。
「ダークネスに飲み込まれたものはね」

 ……周りの全ての記憶から、消えてしまうの。

 瞬間、魔理沙もリョウも、声を失った。
「……消え、る、ですか?」
 ミクが、むしろ、きょとんとしたような顔で、問い返してきた。「ええ」とアリスは苦い声で答える。
「その人のことは、完全に忘れ去られてしまう。だから、もしもダークネスに飲まれたものがいても、『いなくなったってことに誰も気付かない』から、誰もアレに気付いて騒いだりしなかったのね。でも、アレは自然状態だとたいしたことないものだって私は聞いたわ。よっぽど心の弱ってる人間にしか取り付かないものだし、条件がそろわないと、そもそも人間がいるような場所に現れたりしないって」
「その通りです」
 古泉が、痛みに顔をゆがめながら、頷いた。
「つまり、あれは自然な状態ではないのです。……魔王を生み出したのと同じ存在が、干渉を加えているのでしょう」
「じゃ、じゃあ、もしかして射命丸やチルノのヤツも、あれに飲み込まれちまってるってわけか!?」
「それはお知り合いでしょうか? もしも姿を見たというのなら、可能性はあるでしょう。あれは呑みこんでしまったものを元に無限にコピーを作ることができる。兵力の水増しにはもってこいでしょう」
 ミクが、まだ、呆然とした顔をしていた。呆然というよりも、何を言われているのか正確に理解していないという顔だった。
 両手に、空になったコップを握り締めたまま、ネオングリーンの眼をしきりにまたたく。
「忘れられる…… 忘れられた人は、最初から、いなかったことになる?」
「想像してみてください」
 古泉が、言った。
「あなたは、会ったことが無い人が『いなくなった』として、それに気付くことができますか?」
「えっ…… えっ?」
「たとえば、『キョン』くん、という名前の人がいたとしましょう。彼は、アレに呑まれていなくなってしまっただけで、本当は僕たちとずっと一緒にいたのです。どうです、思い出せますか?」
「し…… 知りません」
 ミクは、ふるふると首を横に振った。
「そんな方は、たぶん、一緒にいなかったと思います。私の記録にありません」
「それは、『消えてしまった』んですよ」
「……」
「本当に、キョン君はいたんです。ただ、あなたがたの誰一人として覚えていないだけです。だから消えてしまっても、誰も助けに行こうとか、そういう風には思えないんです。だから」
 言い募る古泉の声が、だがふいに、小さな悲鳴のような声と同時に、途切れた。
 古泉の肩を掴んで引きとめていたのは、阿部だった。
「まぁ、そこらにしておくんだな。そういうことに精力をつかっちまうのは無駄遣いだぜ。ああそれとミク、これはたとえ話であって本当じゃない。泣くような話じゃないんだぜ」
 彼はぱちりとウインクをしてみせる。古泉は黙り込んでいた。顔色があまりよくない。
「驚かせるなといわざるを得ない」
 リョウが、全身の力を抜くような、深い深いため息をついた。彼も、いつの間にか引き込まれてしまっていたらしい。
「確認するが、俺たちはもともと24人だよな? それ以上増えても減ってもいない。間違いないだろうな」
「あたりまえでしょ」
「人騒がせなことを言うなといわざるを得ない」
「申し訳ありませんでした」
 古泉が、ようやくいつものようなテンポになって、肩をすくめて見せた。
「ですが、24人ですか。それで全てだといいのですが…… 本当に」
「不気味なこと言わないでよ……」
 アリスが文句をいいかけた、そのときだった。
 なのはに膝を貸してやって、黙っていた谷口が、急に、口をさしはさんできた。
「……お前ら、その24人の中に、海馬の野郎と言葉さんのこと、ちゃんとカウントしてるか?」
「えっ?」
 誰が声を上げたのかは、わからなかった。皆が振り返った。谷口が、なぜだか、痛いほどに真剣な顔をしていた。ふいに「リョウっ」と怒鳴る。
「な、なんだ?」
「海馬の野郎はどんなヤツだった? 言葉さんは? 憶えてるか? 言ってみてくれよ!」
「は、はぁ? それは…… 仲間だろう、俺たちの」
 リョウは、少なからず、面食らったようだった。戸惑いながら答える。
「海馬は、デュエリストをやっていて…… 背は高いがウェイトは極端に小さい。だが、痩せている割に腕っ節は強い。あいつとスパーをしたことがあるが、まともにやる気になれば格闘技のほうもそうとう腕が上げられるだろうと思ったことがある。カードにしか興味が無いのが残念だといわざるを得ない」
「何、その偏った評価」
 ぼそりとアリスが突っ込みをいれるが、しかし、リョウのほうは考えをめぐらせるほうで必死だ。顎をひねりながら、なんとかして答えようとする。
「桂のほうは、とにかく強い。体力が無くて身体が脆いが、一撃のデカさはそうとうなものだ。すこし思いつめがちなところはあるが、一途で、性根のよさそうな子だと思う。だが…… それがなんなんだ、谷口?」
「……」
「一体、海馬と桂が、どうしたっていうんだ?」
 困惑気味なリョウに、谷口は、しばらく黙り込んでいた。
 やがて谷口は顔を上げると、「古泉」と呼びかける。
「はい」
「ちょっと話があるんだけどよ」
「……はい」
 谷口は、自分の膝の辺りにすがりついているなのはの手を、ぽんぽん、と優しく叩いた。
「悪ぃ、なのはちゃん。俺、なんかまだやんなきゃなんないことがあるらしいんだわ」
「……」
「大丈夫。すぐに戻ってくるし、なのはちゃんに心配かけるようなことはしない。だから、ちょっとだけ離してくれ」
「……うん」
 毛布がすこしだけ解けて、栗色の髪が見えた。谷口はちょっと笑い、力がはいりすぎている小さな手、その指を一本づつほどいてやった。「ミク……」と呼びかけられて、ミクは緊張の面持ちでこくんと頷く。代わりに歩いてきて、なのはの傍に座ってやる。
 古泉が、痛む身体に顔をゆがめながら、立ち上がる。阿部は見ていたが何も言わなかった。二人は連れ立って、廊下に出た。



 轟々と音が聞こえる。闇と船体とがこすれあう音だった。ダクトや配管がむき出しなままの新造艦の廊下。古泉はベンチに腰を下ろす。谷口は固い顔でそれを見下ろす。
 しばらく、沈黙があった。やがて、先に口を開いたのは、谷口のほうだった。
「……いつから気付いてたんだよ」
 古泉は、淡々と答えた。
「いつからだと思いますか?」
 慇懃な口調はいつもどおりだったが、そこには、常のような余裕など微塵も含まれてもいない。谷口は黙り込む。古泉が淡々と答える。
「僕は最初からおかしいとおもっていましたよ。何故、ここにいるのは、『僕』と『あなた』と『涼宮さん』だったのだろうか、とね」
 ―――それは、『いつもどおり』のメンバー。
 何も起こらない日常において、お互いに顔をあわせていてもなんら違和感の無い面子。だが、ある一点に置いて、もっとも重要なファクターが、決定的に抜け落ちている面子だった。
「おかしいんです。僕たちはたしかに顔なじみですが、僕たちをまとめるには、『あと一人』が絶対に必要なはずだったんです」
「……あいつ、か」
「はい」
 古泉が眼を上げた。色の薄い眼だった。
「―――キョンくんがここにいないのは、どう考えてもおかしいことなんです」
 古泉の悪友であり、古泉にとっては同じサークルのメンバーであり、そして、ハルヒにとってはもっと重要な意味を持つかもしれない少年。
 彼ら三人にとっての共通項。
 だが、彼は何故だか初めから、この三人の中に『参加する』資格をもっていなかった。
「あなたは、どうしてピコ麻呂さんたちについていこうと思ったのか、憶えていますか」
「……成り行き、じゃ、ないんだろ?」
「いえ、成り行きであっていると思います。ただそれは、千に一つ、あるいは万に一つの可能性でしかありえない『成り行き』です」
 そもそも、ハルヒが『無理やりつれていく相手』を選ぶとき、そこに、SOS団の団員のなかでも古泉を、さらには『たまたま居合わせた』だけの谷口を選んだのは、何故だったのか。
「長門さんがいないのは、すでに、理由が判明しています。彼女は魔王側に取り込まれてしまっていたから、本来の使命を果たして涼宮さんのサポートに入ることができなかった」
「……じゃあ、キョンや朝比奈さんは?」
「わかりません。行方不明としか…… ただ僕は、学校に異変がおきる前日にはキョン君の顔を見ていた記憶がある」
「あいつまでなんか変になってたのか?」
 一瞬、古泉は黙った。
「……その逆です」
 やがて答えた声は、どこかしら、よじれたように、つぶれていた。
「いつもどおりの、面倒くさそうで、ひどく不精で、けれど面倒見のいい、キョン君でしたよ」
 彼は消えた。
 何ら不安の元になることもなく、ただ、ちょっと姿を隠しただけのように。ごく自然に。
 あまりに『不自然すぎる』くらいスムーズに、いなくなったのだ。
 谷口は、足から力が抜けるのを感じた。壁にもたれたが、ずるずるとそのまま座り込んでしまう。思わず片手で顔を掴んだ。
 古泉は、淡々と、答えた。
「僕の予想では、この現象からピコ麻呂さんたちが帰還しない理由は、二つあります。ひとつは海馬さんと桂さんの存在、もう一つは涼宮さんの尽力です」
 二人。
 傲慢だが意志の強い海馬と、穏やかでひたむきな言葉。
「―――あの二人は、心に闇を抱えている。そういう存在は、本来、この『ダークネス』にとっては格好のエサとなりうる。いつ消えてしまい、その存在まで記憶から消去されてもおかしくない」
「そのとおりだよ。さっき、マジで消えかけてやがった」
「……。ですが、それを拒んでいるファクターがもうひとつ。涼宮さんの存在です」
 涼宮ハルヒには、異能の力がある。
 願望を現実にする力が。
 ―――だがそれは、この、魔王によって侵攻された世界では、本来の意味を果たすことの出来ない力だ。
「涼宮さんがこの現象の中で繰り返していることは、言ってしまえば、『コンセントを抜いて、ゲームをリセットする』ことだけです。お二人のどちらかがダークネスに飲まれる、あるいは致命的な結果を迎えそうになったとき、すべての現象がスタートした地点まで時間そのものを巻き戻す」
「マジでリセットってやつかよ。神様だったら、もうちょっとなんとかなるんじゃないのかよ」
「やろうと思ったらできるでしょうね」
 ですが、と古泉は答えた。
「彼女はそれを、拒んでいる」
「なんでだよッ?」
 谷口は、叫んでから、自分の声が悲鳴のようだったと、気付いた。
 苦い気持ちがわきあがってくる。だが、口の中の苦味をかみ締めるように顔をゆがめる谷口を、見下ろす古泉の表情には、苦いものは無い。
「―――彼女は、たぶん、海馬さんや言葉さんを、大切に思っているのでしょう」
 意味が分からなくて、谷口は顔を上げる。けれど、古泉の表情がどこか透き通るようで、思わず、ハッとする。

「……もしも、です。
 海馬さんが幼少の頃にご家族を無くすことなく、弟さんと一緒に幸福で穏やかな生活を送っていたら、
 言葉さんが孤独を抱え、絶望的な初恋をして、心を切り裂かれるような悲しみを知ることが『無かった』としたら、
 あの二人は闇をかかえることなど無かったでしょう」

 ですが、と古泉は言った。

「それは本当に、『海馬瀬人』であり、『桂言葉』だと言えるでしょうか?
 誰一人として救いの手を差し伸べない闇の中で己を研ぎあげ、白い龍の忠誠と愛を勝ち取らなかったとしたら、
 悲しみと苦しみのなかで、己自身を救うためには、己自らで戦うよりほかに無いと悟り、刀を取ることが無かったとしたら、
 それは本当に、僕たちの知っている、彼、彼女だと、言えるのでしょうか?」

 谷口は眼を見開いた。
 古泉は、初めて、いつものように微苦笑を浮かべて、「困ったものです」と言う。
「涼宮さんには、むしろ、そちらのほうが簡単なはずなのです。過去そのものを改変して、あのお二人から闇を取り除き、この現象をクリアしてしまうほうがね」
「……」
「けれど、それをやらないということは、何か訳があるんでしょう。まだ僕には披露できるほどの推察が出来ているわけでもないのですが、おそらくそれは今あちらに取り込まれているメンバーとも関係がある。不思議なことに、あそこには『EDFに所属するきちんとしたオトナの軍人』と、『現代日本の高校生』しか招かれていないのです。つまり、涼宮さんが自分の意思だけで作り出すことができる世界でも、なんら問題の無い行動しかとらないだろうメンバーししか。……そこまでして、涼宮さんは、リセットに固執している。逆を言うと、二人のデータを根本的に改変することを拒んでいる」
「……それは」
 言いかけた、そのときだった。
 ふいに、「魔理沙ッ!」と悲鳴のような声が聞こえ、ばたばた、と背後から騒ぎが聞こえてくる。ぎょっとして谷口は腰を浮かせた。いきなり、ドアが開いた。箒をひっつかんで飛び出してきたのは、魔理沙だった。
「ま、魔理沙?」
「話は聞いた。―――なんだ、ソレ。結局あいつらが大ピンチってことじゃないか!」
 魔理沙はすでに片手にいつもの帽子を掴んでいた。ぎゅっと頭に被りなおし、片手で器用に胸のボタンを留めつけた。背後でアリスの声が聞こえた。「止めて!」と悲鳴じみた声。
「何考えてるのよ! またニセモノの霖之助に騙される気!?」
「私は同じ手を二度も喰うような間抜けじゃない。それに」
「お、お前……っ!?」
 魔理沙が、ピッ、と指にはさんだカードを見せる。それを見て谷口は一瞬唖然として、それから、あわててブレザーの懐をさぐる。……無い。
 いつの間にか、海馬のものであるはずのブルーアイズのカードが、魔理沙の手の中にある!
「て、てめえ、いつの間に!?」
「ぐずぐずしてられる場合じゃないんだろうがッ」
 だが、逆に魔理沙は、谷口に向かって怒鳴り返した。
「こいつはきっと、海馬のヤツのところに戻りたがる。それを追っていけば簡単に追いつける! 私はあいつらを助けに行くぜ!」
「止めなさい、無茶よっ」
「無茶は承知だぜ。それが私のやり方だからな!」
 魔理沙はニッと笑った。八重歯が見えた。ハッとするほど挑戦的な光が、飴色の目にある。
 谷口も、古泉も、息を飲んだ。確かに一瞬、そのあまりにあざやかな彩に、眼を奪われた。
 それは、きらめくように鮮やかな感情。
 霧雨魔理沙、という人間そのものの、魂の彩そのものであるような光。
「すぐに追いついて来い」
 魔理沙は、はっきりと言った。
「―――私は、私に出来ることをやるだけだ!」
 長いスカートが翻り、たっぷりとした黒いビロードが、白いリネンのフリルが、ひらめいた。
 魔理沙は走り出す。まもなく、どこかでドアが開かれ、気圧が変化し、轟ッ、と風が廊下を吹き荒れた。つんのめるようにして駆け出してきたアリスが、「魔理沙ぁ!」と悲鳴を上げる。だが、返事は無かった。数瞬の後、彼らは見た。流れ星のような光が闇の向こうにきらめき、そして、消えた。

 決断。

 その意味。

「莫迦…… 魔理沙の莫迦ぁっ!」
 アリスが泣き出しそうな声で怒鳴り、そのまま、力が抜けたように床に座り込む。リョウが遅れてドアから顔を出す。困りきった顔をしていた。だが、どこかしら、痛快そうでもあった。
「どうする?」
 問いかける。
「どうするって……」
「あのカードが持っていかれちまった以上、後は、ピコ麻呂たちのいる空間に入る手段も限定されてくるといわざるを得ない…… 得ないのか?」
 断言するつもりだったのだろうが、いかにも自信の無い口調だ。だが、古泉が、「そうでしょうね」と言葉を継いだ。
 飄々とした口調。いつもの古泉だった。
「どう、なさいますか?」
「それは……」
 谷口は困惑し、己の手を見下ろした。
 


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