【悲しみの向こうへ】
≪エピローグ≫





 メガネがないほうがいいと思うぞ、と言われた。
 それ以降私はメガネを外した。

 あの人が笑うと嬉しかった。わかりにくい表情を読み取ろうと、こちらを覗き込んでくる目に幸せを感じた。
 明日、またあの人に会える。そう思うと、生まれてきてよかったと感じた。太陽が沈むことにすら感謝した。夜が来るのは、明日またあの人に会える日を準備してくれるから。夕焼け。そうして一日が終わり、つぎの日が来る。明日はまたあの人に会える。
 
 ―――でも、それは、悲しみの裏返しだった。

 あの人が、自転車の後ろに彼女を乗せて、学校から出て行く坂を下っていく。彼女の表情は生き生きとして、栗色の髪が風にゆれて、きらめくような眼が楽しさを映していた。はじけるように瑞々しい心。不安と、倦怠と、絶望と、でもその向こうに、絆を求める子どもの心と、誰かのことを大好きになれる人間らしい気持ちが詰まっている。
 この世界は箱庭。彼女があの人のことを好きなんだったら、いつか、それが本当になる。あの人は彼女を好きになる。そのためにこの世界がある。そのために、私がいる。
 明日、もしかしたら、あの人は彼女のことを、本当に好きになるかもしれない。
 明日、もしかしたら、私はいらない子になるかもしれない。

 明日、明日。悲しい明日。

 それくらいなら、永遠に今日のままでいればいいのに。
 紅く美しい夕焼けと、どこか寂しく懐かしいチャイムと、夜を運んでくる風のにおいと、それから……




「で、あなたは彼女のこういう気持ちに気付いていたのかしら、涼宮さん?」
 部屋の片隅にたって、黒髪の少女が問いかける。朝倉涼子。口調は楽しげで軽薄なものだったが、けれど、どこかに深く、鋭いものが滲んでいた。ハルヒは硬く手を握り締めたまま、ベットの側でうごかない。
 少女が1人、ベットの上にいる。黒髪。細くてたよりなげな体つき。白い肌、人形めいた印象。彼女はまだ眠っている。表情はあどけなく、どこか、幼子のようだ。
「全部、あなたのせいだったの。有希があなたのこと嫌いになる理由、分かるでしょ。あれだけ色々見ればね」
 鋭い声が、ハルヒの耳を打った。
「有希はね、あなたのことなんて、大嫌いよ」
 ハルヒは、動かなかった。
「あなたの自分勝手な世界の中で、有希は、幸せになんてなれない。たった今大好きな人が出来たって、結局は予定調和であなたが最優先でしょ? その気持ち、分かる? 何回リセットしたって、自分は永遠に脇役だって気持ち、どういう気分か分かるの?」
 ハルヒの手が、膝の上で、スカートをぎゅっと握り締めた。奥歯がかみ締められる。朝倉は、哂った。嗜虐的な表情に、狂気が滲んだ。
「分かったんだったら、いいなさいよ。『長門有希を消したい』って。そしたら、言ったとおりになるわ。それが有希の存在だもの」
 夕焼け。
 黄昏。
 ハルヒはとっくに気付いていた。あの狂気と惨劇に満ちた、夕暮れの世界は、長門有希のものだったのだと。
 長門は、もうずっと前から、闇に染まり、闇に囚われていた。心の隙を、突かれたのだ。はじめての恋が実らないという悲しみを。
 涼宮ハルヒの世界では、長門は、決して主人公になることができない。複数のバックアップを持つ端末にすぎない彼女。けれど、たった三年間の生涯のなかで、彼女ははじめて幸せを知った。同時に悲しみがその心に影を落とした。
 人を好きになる幸せと、その想いが決して叶わないという悲しみ。
 明日、もしかしたら、傍にいられるというささやかな幸せまで失うかもしれない。なら、ずっとずっと、明日なんてこなければいい。金色の夕焼けが差し込むような、暖かくて切ない『今』が、永遠に続けばいい。そのためなら明日なんていらない。未来なんていらない。ずっと、ずっと、このままがいい―――
「……あたし、は」
 ハルヒは、喉の奥から、声を絞り出した。
「キョンのこと、大好き。有希にだって、取られたくない」
「なら」
 朝倉は言いかけた。けれど。
「―――でも、有希のことだって、大好き。誰にも取られたくない!」
 ハルヒは、半ば悲鳴のように、叫んだ。
 朝倉が、あっけにとられたように、わずかに口を開いた。ハルヒは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「あたしだってね、キョンのこと好きだもん! でも、有希のこと無くすのだって嫌! みんな一緒じゃなきゃ駄目なの!」
「……なに、それ」
 朝倉は表情をゆがめる。唇が嘲笑に似た形に引きつる。
「自分勝手。我が侭。あなたらしいわよね。結局、全部全部自分のものにしたいって事?」
「そうよ、悪い!? あたしは元からこうだもん! みんなのこと同時に好きになっちゃ駄目なわけ!?」
 だが、ハルヒは、怒鳴るように言い返した。朝倉は眼を見開く。
「あたしは有希のこと、大嫌いだし、大好きよっ! これから先なんて知らない。でも、これだけ大事な人のこと、無くしたくないって思っちゃいけないわけ?」
 ハルヒは朝倉をにらみつける。
 彼女の後ろに、影は、無い。
「―――あたしは明日も、キョンも有希も、一緒がいい。何か嫌なことが起こるとしても、明日が来ないなんて絶対に嫌。もし明日、あたしが振られてキョンが有希と付き合う可能性があっても、二度と次の日がこないよりもずうっとマシ! だって、キョンや有希や、古泉やみくるちゃんや、みんな、みんなで一緒になれて、あたし、ほんっとに嬉しかったんだもの!」
 涙が頬から落ちた。いつの間にかハルヒは泣いていた。声が、嗚咽にかすむ。
「だから…… やだ。有希が、二度と明日なんてこないでなんて思ってるなんて、絶対やだ。あたしはみんなと一緒にいたいもん。悲しいことがあったってなんだって、明日がくるほうが、ずっと……」
 だだをこねる子どものように、ハルヒはなんども手で顔を擦った。ぐずぐずと繰り返す言葉はいつのまにか解けてしまっていた。泣きじゃくるハルヒは、だから、気付かなかった。部屋の片隅にいた朝倉が、一瞬苦笑し、それから眼を閉じて、……いつのまにか、姿を消していたということに。
「ハルヒっ!」
 音を立てて、病室のドアが開く。ハルヒはぎょっとして顔を上げた。魔理沙だった。泣きべそで真っ赤になったハルヒの顔を見て一瞬驚いたような顔をするが、すぐに、ドアを閉めて病室の中へと駆け込んでくる。ハルヒの手をひっぱってむりやりに立ち上がらせた。「な、何」と言いかけるハルヒを、問答無用でベットの下へと引きずり込んだ。
 むりやり、顔を押さえつけられて、開きかけた口を立てた指一本でふさがれる。しーっ、と仕草で示されて、ハルヒは思わず眼を丸くした。魔理沙はベットの下から様子を伺い、それから、ぐしゃぐしゃになったハルヒの顔に気付いて、ちょっと苦笑し、エプロンの裾で顔をぬぐってくれた。
 ばたばたばた、と足音。大きな音を立てて、ドアが開かれた。
「魔理沙っ、魔理沙ぁっ!?」
 アリスの声だ。ハルヒは眼を丸くする。ベットの下から、足は、複数見えた。リョウの足もある。
「ここかと思ったのに! もうっ!」
「部屋を間違えたか? うーん…… おい、そこの人。さっき、この部屋に女の子がこなかったか? こう、頭にとんがった帽子を被った……」
 はっ、とハルヒは息を呑んだ。しばらくして、返事が、聞こえてくる。
 淡々とした、無感情な声で。
「この部屋には私以外だれもいない。あなたたちは探索場所を間違えている」
「そうか。寝てるとこ済まなかったな。おい、アリス、次行くぞ」
「うん…… ごめんなさい。ったくもう、なんであんなに逃げ足速いわけ、あいつ!?」
 またばたばたと騒がしく、アリスたちは部屋を出て行く。戻ってこないことを確認すること数十秒。魔理沙はため息をついて、ベットの下から這い出した。
「やれやれ、助かったぜ。ありがとな、ハルヒ。それと……?」
 ハルヒもまた、魔理沙の手でベットの下から引きずり出される。眼が、呆然と見開かれていた。ベットの上に半身を起こしている少女を見る。
 薄墨色の髪、白い顔、か細い体つき。そして、無感情に透き通った、黒い瞳……
「この場合、あなた方に協力すべきと判断した。あの回答で間違いは無かった、涼宮ハルヒ?」
 長門有希は、彼女独特の淡々とした口調で言う。
 ハルヒの大切な友人である、宇宙人の少女の、それが答えだった。




 Nice BortU艦内、食堂室。
 ようやく眼前を塞いでいた暗闇も薄れ、Nice BortUは順調に航行中だった。一連の騒動をなんとか片付け終わった一堂への労いの気持ちを込めてか、テーブルの上にはEDFの通常の定職ではとても出てこないようなジャンクな食材が満載にされている。ハンバーガーだのフライドポテトだのチキンだの、甘ったるいアイスだのクッキーだの。お子様向け丸出しのメニューにうんざり気味の顔をしているのはハートマンだったが、さすがに今回は文句のひとつも言わなかった。言うまでもない、今回の功労者である谷口、それにKBCなどが、嬉々とした顔でジャンクフードの類を口に詰め込んでいるからである。
「貴様ら、ただでさえなまっちろいブタ野郎の分際で…… そんなにジャンクフードばっかり食うな! 身長が伸びんぞ!」
「たまには仕方ないの、軍曹さん。谷口お兄ちゃん、ほら、コーラだよ」
「お、ありがとなあ、なのはちゃん!」
 受け取ったペットボトルをそのままラッパ飲みにする。テーブルの向こうで琴姫がさすがに苦笑していた。ぷはっ、と息をついたタイミングを見計らったように、ピコ麻呂が、「谷口」と声をかける。
「ん? お、おお。何だ?」
「さっきから気になっていたことがあるのだが」
「うん?」
 ピコ麻呂は釈然としない表情で顎をひねっている。さすがに谷口も少し真顔になり、食べかけのバーガーをトレイの上に戻した。
「今、なんとかして思い出そうとしておるのだが、ダークネスの中にいたときのことがはっきりと思いだせんのだ…… 戻ってきた当初はいろいろと思い出せたのだが、今では、思い出そうとしてもはっきりと思い出せん」
「ピコ麻呂殿もか?」
「……ストーム1もか?」
 谷口は、少しため息をついて、表情をゆるめた。
「あー、そりゃしかたないわ。気にしないほうがいいって。あれ、ただの夢みてーなもんっすから」
 どこか大人びた表情を、隣の椅子にすわったなのはが、不思議そうに見上げる。
「どういうことなの……?」
「ん。なのはちゃんはあん中入ってねーから分かんねーかな。そもそもさ、あの真っ暗闇の中って、はじめから全部でたらめだったんだよ」
「ワカンネwwwwww」
「だってよ考えてもみろや。俺ぁ師匠と違って境界を弄ったりなんだりって出来るレベルでもないし、そこそも、人間の人生って一回っきりっていう風に出来てるもんだろ? 桂さんにしろ海馬の野郎にしろ、いままで生きてきた人生の時間は15・6年だけってのが普通なんだよ」
「むう……」
 ピコ麻呂は釈然としない顔をした。谷口は「んー」と首をひねる。
「なんていったらいいのか…… だから夢? っていうか、あの真っ暗闇の中で体験したものってのは、『もしかしたらあったかもしれない可能性』ってもんだったんだよ」
「ツマンネwwwwwwゆとり乙wwwwwww」
「て、てめえ……」
 隣から茶々を入れるKBCに拳を握りかけるが、しかし、逆隣のなのはにツンツンと肘の当たりをひっぱられて、我にかえる。谷口はガリガリと頭を引っかいた。
「だーからもう、あのさ、可能性の話ってやつだよ! 世の中にゃあるだろ、”もしかしたらこうなってたかもなー”ってやつが!」
 世の中は、無数の選択肢でなりたっている。
 細かく分断すれば、キリが無いほどに無数の選択で。
「まぁ、谷口くんの言わんとすることは分かるよ。こういうことだろう? 大切な人に、何か、思いつめているせいでやけになっているような様子が見えたりする。そこでしかりつけて止めるのか、肩入れして協力するのか、あるいは誰かに相談して悩みを共有してもらうのか。その選択で結果が大きく変わったりする」
「そうそうそんな感じ! 富竹さん、なんでそんなにわかってんだ?」
「んー、なんでだかよくわからないんだけどねぇ〜」
 テーブルの向こうで、にこにことをほほえましく皆の様子を見ていた富竹が、苦笑する。
「……でも、実際はそこで選択を出来る瞬間ってのは、一回こっきりだ。その選択を間違えたって後悔しても、やりなおすことは普通出来ない」
「そう。普通はそうなんだよ。でも、なんかこのあたりの空間とあのマックラケの関係なのか、ここらへんだとその『結果』だの『過程』だのの関係が、ぐちゃぐちゃになってたみたいなんだ」
 ”ダークネス”によるものだけではない。ニコニコ中枢に存在するカオスそのものが、そういった性質をもっているのだろう。
 現在航行している空間の辺りでは、無数の事象がぐちゃぐちゃに絡み合って存在している。存在したかもしれない『選択』や、ありえたかもしれない『過程』。可能性がかぎりなく薄いものから、もしかしたらありえたかもしれない、というレベルのものまで。
「うむ、それについて少し気になっていたのじゃがのう。どうも皆の話をあわせてみると、少し、ことがおかしいんじゃよ」
「どういうことです、ストーム1様?」
 琴姫に言われて、ストーム1は首をひねった。
「谷口くんは、ワシらが海馬くんたちを助けに行くと言っていたところにあらわれて、道案内をしてくれた……」
 ……唐突に谷口が現れ、ピコ麻呂たちを学校へと連れて行く通路を開いたときのこと。
 彼らは、不十分な装備のまま、EDF各地への連絡を後回しにしてでも、学校へと海馬たちを援護しに行くという決定を下していた。主にそれはピコ麻呂の主張によるところが大きかったのだが。
「ピコ麻呂殿が強引にでも行くことを決めてくれなんだら、ワシらは十分な援護を固めるまで、EDFの支部に待機しつづけていたはずじゃ。それではあきらかに手遅れになっていたはずじゃがの」
「ん……」
「じゃが、そのとき、確かにワシらは遊戯くんたちを支部に残すという決定をしておったのよ。彼らまで連れ出してしまっては支部ががら空きになってしまうし、それに、遊戯くんやこなたちゃんのあの様子、とてもではないが戦いに連れて行けるといったものではなかったからのう」
「ですが、あのとき、たしかに遊戯さんたちが海馬さんたちを助けてくれたのでしたよね?」
「そのことか! たしかにあれはおかしいと思っていたんだ。おい谷口、あれはどういう手品だったんだ?」
 改めて言われた谷口が、ちょっと、苦笑いをした。
「んー、なんていうか……いかさま?」
「チート乙」
「そういうこった。要するにあれさ、あそこにあつまったピコ麻呂さんたちって、実は、違う時間枠から掻き集めてきてたんだよ」
 ピコ麻呂たちは、さすがに、顔を見合わせた。意味が分からない。
 そこに、ふとテーブルの下からぴょこんと顔を出した梨花が、テーブルの上のフライドチキンを一個つまんで、口に放り込む。もぐもぐと口を動かしながら、愛らしく笑ってみせる。
「ようするに谷口は『キセキ』を集めてきちゃったのです。インチキなのですよ、にぱ〜☆」
「と、言うと……」
「谷口さんは、時間空間を超えて移動できるという能力を使って、あちこちの時間枠から『事件解決への意欲が最も強い』面子を集めていたのですわ」
「あ、ピーチさん」
 梨花と一緒に、追加のジャンクフードを持ってきたらしい。テーブルの上にチーズバーガーで満載のトレイを置いて、にっこりと笑ったのはピーチ姫だった。
「たとえば、ピコ麻呂さんたちがいた時間枠では、ピコ麻呂さんたちは海馬さんたちのためにこの上も無いほど尽力することを決めていたでしょう。でも、それだけでは『キセキ』は起こりません。たとえばピコ麻呂さんたちが必死で手を伸ばしても、海馬さんたちが生き残る意思がなければ、お二人は結局助かりません」
「う、ウム……?」
「そういうことなのですよ。他にも、遊戯たちが一生懸命がんばるつもりになってるけどオトナが協力してくれない場合、海馬と言葉が生き残るつもりだけどみんなが間に合わない場合、いろーんな場合がありえたのです。そこを谷口はインチキして、いちばん頑張るメンバーを集めてきちゃったのですよ」
「ってこった」
 ピコ麻呂は眼を白黒させていた。なかなか話が飲み込めないのだろう。釈然としない顔はハートマンや琴姫も同じ、ストーム1だけが平然とした顔でフライドポテトをつまんでいた。年の功というやつだろうか。
「言っとくけどな、もう一回やれって言われてもムリだから! オレも死ぬほど頑張ったんだからな? それに大体、ああいう荒業ができたのは、ここがニコニコ中枢部だったからなんだし」
 谷口は、慌てて手をパタパタと振る。何か変な気配を感じたらしい。
「もー死ぬほどあちこちの時間覗きまくって、一番なんとかなりそうな面子を掻き集めたんだぜ? それでも時間オーバーしかけたしさ。精神的にむちゃくちゃキツかったぜ…… もう二度とやりたかねえよ」
「あはは、本当にお疲れ様。でも、やりたくない、というよりも、やるべきじゃないだろうねぇ。それは神様の領域だよ」
 富竹がなんだか妙にしみじみとした口調で言った。テーブルに頬杖をつく富竹を、梨花が、どこか複雑な表情で見つめる。
「人間、人生は一回こっきりだし、だからこそ頑張る価値がある。何回も何回も繰り返しができる、なんてズルは、するべきじゃないし、できるもんでもないのさ」
「なんか悟ってんなぁ。富竹さん、なんかあったの?」
「いやぁ、別に! なんとなくそんな気がしただけかな」
 あっはっは、と富竹は笑った。谷口は苦笑して肩をすくめただけだった。そして、ピコ麻呂のほうを見る。
「でもさ、ピコ麻呂サン、オレちょっとだけあんたを見直したぜ」
「むう? なんじゃ、唐突に」
「なんつうかあんた、頑張ってんだなぁと」
「……?」
 谷口は少し笑いながら、「海馬のヤロウのことだよ」と言った。
「あいつのことなんつーか、心配してるっつーか。なんかアレ? やっぱあんたも阿部さんみてーにガチホ……」
「ひ、人聞きの悪いこと言うでない!」
 さすがに、ピコ麻呂は怒鳴った。谷口は反射的にむせそうになる。隣のなのはがあわてて背中をさすった。
 ハートマンは渋面、ストーム1は笑顔。年上の男たちに妙にほほえましそうな顔でみられて、ピコ麻呂は困惑顔になる。隣で琴姫がくすくすと笑っていた。
「そういう理由ではなくのう、わしは、海馬があの歳であのようになってしまっておるのが、気の毒だと思っておるだけじゃ」
「気の毒、ですか」
 富竹に言われて、ピコ麻呂は頷いた。ふと暗い表情になる。
「……ああ見えて、まだ海馬は16だと言うではないか。それが家族も会社も何もかも背負い込んで、誰一人助けなどいらぬと言うておる」
「……」
「16と言うたら、まだ思い悩むことも多く、先に迷う年頃ではないか。それが正義も道義も何も無いと思い込み、しかも、人の暗さ弱さばかりを見る風になってしまっておる」
「ふむ」
 ストーム1が顎に手を当てる。皆の視線が集まっていることに、ピコ麻呂は気付いていないようだった。
「普通ならば親御、それも父親にでも諭されでもせねばならんところであろうと思うておったのじゃが、海馬は大人を、特に男を信頼しておらんでの。どうにかしてやりたいと思うが人情であろうが」
「はー」
 谷口が、ぽかんと口を開けた。ストーム1がにこにこと言う。
「なるほど、ピコ麻呂殿は、海馬くんの父親の気分ということか」
「む、ムウ。まだわしはそのような歳では……」
「これが押しかけ父親か。海馬のヤツが気の毒になりそうだ」
「は、ハートマン殿。その言われようはどのような意味じゃ!?」
 大人たちが年甲斐も無くぎゃあぎゃあと騒いでいるのをテーブルの向こうに見ながら、谷口は、いまいち納得のいかない顔でハンバーガーをほおばる。だが、横から「谷口お兄ちゃん、谷口お兄ちゃん」と袖をひっぱられて、「んん?」と振り返った。
「ケチャップが顔についてるの」
「ん? ああ」
「手で拭いちゃだめだよぅ」
 紙ナプキンを手渡されて、谷口は苦笑した。そのままごしごしと顔の周りを擦っている谷口を見上げて、なのははふと、「…分かるかな」とぽつんとつぶやいた。
「んあ? どうしたんだよ、なのはちゃん??」
「ん? なんでもないっ。ちょっとわたしも、ピコ麻呂さんの言ってることが分かるかなって思っただけなの」
「そーかぁ? オレはちっともわかんねえけど…… 親父とかねぇ。この年になって言われてもなー。なークラッシャー」
「同意同意」
「もう…… お兄ちゃんたちったら」
 なのはは頬を膨らませた。けれど、すぐにそれはかすかな微笑みに変わり、眼を伏せる。谷口が振り返った。
「どした、なのはちゃん?」
「お兄ちゃんたちには分からなくっていいんだよ。……ううん、分からないでいてほしいかな」
 年上の誰かが、『傍にいる』と言ってくれること。自分が自ら歩いた道を、自分自身の姿を持って示してくれること。自分が、護られる存在でいてもいいのだと思ってくれること。
 そういったことが、心を支えてくれるということの意味。たぶん谷口たちには分からないだろうと思い、そんな風に思える自分が嬉しくて、なのははことんと谷口の腕によりかかる。谷口がよく分かっていない風ながら、その頭をぽんぽんと軽く叩いてくれたとき―――
「すまない! 皆、魔理沙を見なかったか?」
 いきなり、入り口のほうから、声がした。
 見ると、遊戯の姿がある。皆が振り返る。その後ろからひょこんと顔を出して、こなたも部屋の中を見回した。「いないねぇ〜」と言ったあとで、そのままぴょこぴょこと部屋の中に入ってきて、フライドチキンをぽんと口に放り込んだ。
「魔理沙さん、ですか? どうしたんですか、お二人とも」
「いやぁ、さっきからみんなで探してるんだけど見つからないんだよねぇ。リョウとアリスも、あと、ロックマンたちも追いかけてるはずなんだけど」
「はぁ」
「あ、あとマコトって人見なかった? アイドルのねーキクチマコトちゃんがこの船に乗ってるって聞いたんだよ!」
「これを作ってくれたのは、たしか、マコトさんって人だって聞きましたけど…… 食堂に志願兵のマコトさんって方がいて、料理を担当してくださってるらしいんですけど」
「ソレだ! よし王様、次は厨房だよ!」
「泉さん、目的がズレてるぜ!」
 なにやら若者たちはあれやこれやとかしましい。ハートマンが憮然とし、ストーム1は笑顔で茶をすする。すべてを見ている梨花は、ふと、奇妙に大人びた眼で皆を見た。けれど隣のピーチがすぐに気付く。頭を撫でてくれた。
「一度起こった奇跡は、もう一度、もう二度、と起こるものなのですよ、梨花さん?」
「……そうだと、いいのだけれどね」
 そう、小さな声で答える梨花。
 皆を見渡す彼女の眼は、どこかしら、まぶしいものを見るかのようだった。






  悲しみの向こうへと 辿り着けるなら
  僕はもう要らないよ ぬくもりも明日も

 轟々と風のふきすさぶ甲板で、言葉は、ぼんやりと船の行く先を見つめていた。今は、ダークネスの作り出す闇もはれた…… だが、ニコニコ中枢部にわだかまる闇は、今も、まるで深遠へと吸い込まれていくかのように黒々と立ちふさがっている。
 ふと背後に気配を感じて振り返る。海馬が大またに歩いてきて、言葉の側に並んだ。言葉はその顔を見上げる。ずたずたに裂けてしまった白いコートは、今は身につけていなかった。おかげで削げたような痩身の体つきがよく分かる。
 遠くを見るまなざしは透き通って青く、端正な面差しはカットされた宝石のように硬質だ。言葉は、何か言おうとした。だが先に海馬にさえぎられた。
「謝罪など、いらん」
「……海馬さん」
「すべて、オレがやりたくてやったことだ。貴様ごときのためではない」
「……」
 言葉は、ぼんやりと、自分の手を見た。ふとそこに感触がよみがえる。硬く握り締められた手。生き残るためのすべての力を込めて、言葉のことをつなぎとめようとしてくれた手。
 ぬめる血のぬくもりを思い出した。塩辛い涙と血の味も思い出した。凄惨な記憶だと言えるだろう。
 にもかかわらず、思い出すだけで、どこか、心があたたかい。
「海馬さん」
「……」
「わたし…… 海馬さんのために、死んでもいいって思ってたんです。むしろ、海馬さんのために死にたいなって」
「……何故だ」
 言葉は眼を閉じた。胸がかすかに痛むのを感じた。けれど、それは、死に至るほどの痛みではない。生きることを諦めるほどの絶望ではない。
「もうわたし、死にたかったんです。ずっとずうっと。たぶん、ほんとは、誠くんと会うよりも前から」
 ひとりでいるのが辛かった。世界のすべてが怖かった。
 生きていることは悲しみの連続で、まだ子どもであるのにこんなに悲しくて、広い世界に出て行くことはどれだけ恐ろしいだろうかと怯えていた。明日が来るのが怖くてしかたがなかった。
「でも、生まれてきたのに、なんの意味もなく死ぬのは、悲しかったんです。だからせめて、意味のある死に方がしたくって」
「……下らんな」
「ええ、本当です。そのせいで逆に海馬さんに迷惑をかけてしまった。莫迦なことをしたと、今は…… 思います」
「違う」
 言葉は、思わず、眼を上げた。
 海馬が側で、その蒼い眼で、じっと遠くを見ていた。
「―――貴様のように、まだ白い手をしているのに、そのようなことを思うのが下らんと言ったのだ」
 信じられない思いで、言葉は、眼をみひらく。海馬は淡々と言った。
「意味のある死などない。死は、その人間の命をすべて無にする。だからオレは死が恐ろしい。だがそれ以上に、敗北が恐ろしい。敗北は、死以上に、オレのことを無意味にする」
「……海馬さん……」
 そのような気弱な言葉が、海馬の口から出たということが、信じられなかった。
 ふっ、とこちらを見下ろす海馬の眼は、やはり、この上も無く純度の高い青をしていた。研ぎ澄まされ、純化された青だった。
「勝つために、オレは、ありとあらゆることをした。この手は死と血にまみれている…… かりに死に敗北以上に価値があるとしたら、オレは死のほうを選ぶだろう。だが、それはオレの手が汚れているからだ」
 言葉は、いつしか、海馬の手を見下ろしていた。
 握り締めたお互いの力が鬱血となって残っている、海馬の手。美しい指をしたその手。
「海馬さん」
 言葉は、その手の感触を、思い出していた。自分の手を見た。やはり、握り締められた痕が、あざのように残った手。
「海馬さんにも、生きることが悲しく思えるときって、ありますか……?」
 辛く、悲しく、そして、怖い。
 生きることそのものが、どうしようもなく、悲しい。
「自分なんて生まれてこなければよかったのにって、思うことって、あるんですか……?」
 風が吹いた。言葉の、絹のような髪が、おおきく風に吹かれた。
 黒髪がしなやかに光をはじき、その髪はやわらかい闇のように風になびいた。その髪を白い片手が押さえた。小さな手、けれど、白刃を握り締めるためにある手だった。
 言葉の眼は、黒い硝子のように、透き通っていた。純度の高すぎる蒼と黒。お互いの視線が交錯する。ひとたび、二人はお互いの眼を見た。そして、お互いの眼の奥に、同じ想いを見た気がした。
「……」
 どちらかが、口を開きかけた。そのときだった。
「あ、ミクっ! ちょっと退いてくれっ!」
「ひゃんっ!?」
 いきなり、背後から変な声が聞こえてくる。海馬と言葉はそれぞれ唖然として振り返った。甲板へあがるドアを蹴り開けて、魔理沙が飛び出してくる。ドアと一緒に甲板へと倒れこんできたのはミクだった。二人の顔を見て、あっという間に顔が真っ赤になる。わたわたと何か手まねをしてごまかそうとしているようだったが、ずっとそこにいたのは丸分かりだった。盗み見されていたのか? 見る間に海馬は苦虫を噛み潰したような顔になり、言葉は思わず両手で口に手を当てた。
「まーりーさーッ!! 追い詰めたからねっ覚悟しなさいっ!」
 魔理沙が飛び込んできたかと思えば、あっというまにどやどやと後ろから追いかけてくる大人数。アリスが慌てる魔理沙の足をすかさず払い、転びかけた魔理沙の襟首をリョウがひょいとつまんだ。そのふところにこなたが手を突っ込む。「あ゛−!」と魔理沙が声を上げた。
「ったくもう、素直に返せばいいのに…… はい、ロックマン!」
「ありがとうございます、アリスさん。これでようやく海馬さんに返せます」
 手渡された何かを、ロックマンが笑顔で受け取る。そして、10歳の少年ロボットは、立ちすくんでいる海馬と言葉のほうへと、てくてくと歩いてきた。そうして少しはにかんだような笑顔で、「海馬さん、これ」と何かを手渡した。
「……ブルーアイズ……?」
「あの変な異世界にいったときに、見つけたんです。海馬さんが落としちゃったのかなと思って」
 二枚の、《青眼の白龍》のカード。海馬は慌てて自分のデッキを取り出した。中身には、一枚しかない。ロックマンから受け取った一枚を加えて、ようやく、三枚が手元にそろう。
「海馬ー海馬ー、それいいなー。私に貸してくれよー」
 つまみあげられた魔理沙がぶーぶーと口を尖らせる。「ダメ!」とアリスが横から怒鳴った。
「もう…… あのねそれ、ちょっといろいろあって魔理沙の手に渡ってたんだけど、もう、すっかり気に入っちゃって。借りるって名目でガメるつもりだったんだから。今度は取られないようにしとかないと危ないわよ?」
 アリスはため息混じりに頭をガリガリと掻く。ロックマンが続ける。
「僕が持っていた分は、ダークネスに取り込まれたときに、敵として遭遇したんです。空間が崩壊したときに、ちゃんと回収したんですけれど…… やっぱり敵になると怖い相手でした」
「まあ、《青眼の白龍》はやっぱり海馬の手にないとダメということさ」
「そそ。リアル嫁を手に入れられそうだからって、元嫁をないがしろにするとバチがあたるよ〜」
「こなたの言っている意味がわからんといわざるを得ない…… まあ、ちゃんと返したんだから、勘弁してやってくれ、海馬」
 口々に皆が言う。海馬はいささか呆然としているように見えた。だが、やがてその口元に、いつものような笑顔が浮かぶ。傲慢で、どこかしら、誇り高い表情。
「……ふぅん、なるほどな」
 指先があざやかに三枚のカードをさばき、そして、元通りにデッキケースへと収めた。その上に手を置く。そして顔を上げたとき、海馬は、いつもどおりの海馬に戻っていた。
「俺の手元を離れていても、やはり、ブルーアイズが最強だったということだな。そして、それを操ることが出来るのはオレのみ、ということか」
「あーあ、こいつ、元に戻っちゃったわよ?」
 魔理沙の横にひょいと顔を出したハルヒが言う。魔理沙は「ちぇっ」とすねた顔をした。
「海馬のやつが気付かなかったら、しばらく貸してもらおうと思ってたのになー」
「貴様ごときにオレのブルーアイズが使いこなせるものか。たわごともいい加減にしろ」
 すっかり、いつもどおりの有様だ。置いていかれた言葉は背中を向けて両手の甲を頬にあてていた。とにかくほっぺたが熱い。わたし何を言ってたのか…… 頭から湯気が出そうだった。けれど、そんな風にしていると、ふと、横から顔を覗きこんでいたミクに気付く。「ミクさん」とちょっと怒ったようににらむと、「ごめんなさい!」とミクはあわてて頭を下げた。
「わ、私、お二人がどうなってるか気になってて…… でも安心しましたっ」
「安心、ですか?」
「はい!」
 ミクが笑う。心から嬉しそうに。言葉は首をかしげる。意味がよく分からなかった。けれど。
「ちょっと言葉っ。中に戻るわよ!」
 ハルヒに声をかけられて、我に変える。
「は、はいっ?」
「社長が魔理沙にお仕置きだって〜。ふっふっふ。なぁにが起こるかなーっ?」
「お仕置きじゃなくって、実験でしょ? 魔理沙がブルーアイズを使ったらどうなるかって…… でも、意外とコレ、舐められないわよ?」
「むーハルにゃんは魔理沙派かー」
 話の流れがいまいち飲み込めず、眼を白黒させている言葉の手を、いきなり、誰かの手がぐいと掴んだ。驚いて顔を上げると海馬だった。「さっさと行くぞ」と傲然と言い放つ。
「今回の騒動では遅れを取ったが…… すべてのブルーアイズが手元に戻った以上、貴様らごときに遅れはとらん。フン、その減らず口を後悔するがいいわ」
「て、手加減してあげてくださいね?」
 思わず言葉がいうと、海馬は、ニヤリと笑う。再び言葉の黒眸を見下ろした蒼い眼。
「このオレが負けるとでも思うのか、言葉?」
 一瞬聞き逃しかけて、すぐに、はっとする。言葉は思わず呆然とした。見る間に、顔一杯に、笑顔が広がった。
「いえ、海馬さ…… 瀬人さん」
「なぁに、言葉? あんたは海馬派なわけ?」
「魔理沙さんには悪いですが、わたしは、絶対に瀬人さんが勝つと思います!」
「よし。じゃあ、弾幕勝負で決着だぜ!」
「おいおい、デュエルじゃないと意味ないんじゃないか?」
「どっちもやろうよ〜どっちも!」
 わいわいがやがやと騒ぎながら、一同は船内へと戻っていく。後からそれを追いかけようとして、ロックマンはふと、ミクが甲板に残っているのを見る。長い、ネオンブルーの髪が風に吹かれていた。光を紡いだようにきらきらと光った。「ミクさん?」と呼びかけると、ミクは、笑う。嬉しそうに。
「ロックさん」
「どうしたの? なんだか、嬉しそうだね」
「はい、嬉しいです。私…… 安心しました」
「えっ?」
 ミクは、微笑みながら、眼を閉じた。胸の前で指を絡めた。祈るように。
「もう、あのお二人のために、悲しい歌を歌ったりしなくてもいいなあって思ったんです。……それが、嬉しいです」
 ミクは思う。生まれてたった一年の、やわらかい心を持ったVOC@LOIDは思う。

 絆。不確かなもの。たった、一瞬のもの。
 けれど、一度手を繋ぎあったこと、決してその手を離さないでいたことは、きっと、心に残り続ける。
 
「ロックさん。ロックさんも、絆を信じてください。何が起こっても想いは消えないって」
「……」
「辛いことがあっても、悲しいことがあっても。これから何があっても、私は、ロックさんが大切です。きっと、他のみなさんも」
 少年ロボットは黙り込んだ。己の手を見る。彼にとっての武器である両手を。
 けれど、その手を、ふいに横からぎゅっと握り締められる。細くて白い指に。ミクは微笑む。透き通るように無垢に。
「ね?」
 ロックマンは、やがて、はっきりと、頷いた。
「……うん」


 一度、絆を結んだことは、消えない。
 どのような悲劇が起きても、どのような惨劇が起こっても、心を繋いだということは消えない。
 想ったこと、想われたこと。その二つは、心を支え続ける力となるだろう―――



 ―――永遠に。

 




《”悲しみの向こうへ” Fin 》
*この作品を鉄十字キラー氏にささげます>http://www5.atwiki.jp/nicorpg/pages/1799.html


back