【ニコニコZERO〜闇の声〜】






 あなたたち、命令されることは好き?

 圧倒的なカリスマを持ったものの前にひれ伏し、自我を棄てて熱狂の中に己を埋めることは好き?
 邪悪で残忍な為政者の下に虐げられて、何一つ出来ない自分を正当化して、己の悲劇に涙することは好き?
 可憐な少女の中にサディズムを見出して、己の中の欲望を励起されることは好きかしら?

 もしも本当に好きならば、《私》に、ひれ伏しなさい。

 そうすれば貴方に、欲しいだけの熱狂を、被虐の悦びを、そして恐怖を、与えてあげる……



 それは、あたたかな春の夜。
 一つの異変とて起きず、かすかな虫の声と葉ずれの音がゆっくりと夜をささやく、幻想郷の一夜のことだった。
 ちいさな足が、足音も立てず、とことこと楽しげな足取りで廊下を歩いていく…… さほど広くはない、茅葺きの屋根に八重垣をめぐらせた小さな庵。その廊下をひとりの幼い少女がとことこと歩いていく。両手にはお盆、いい匂いのお茶とお菓子。二本の黒い尻尾が、楽しそうにピンと立っている。
 橙色の瞳の通り、《橙》の名を与えられた人妖の少女。彼女は、今日の客人へとお茶を出す役目を主人から任され、今、えたくご満悦の様子だった。
「おっきゃくさま、おっきゃくさま、外の世界のおっきゃくさま!」
 今日、紫に変わった客人がたずねてきた…… 夕方ごろの話である。
 彼の来訪を知っていたのか、普段は夕方日が暮れる頃までだらだらと惰眠を貪っている紫が、なんだか昼前あたりから不機嫌な顔で座敷に座っていた。そんな紫はちょっと怖かった橙だったが、いざ、お客に来たのが物腰も声も優しげな…… あいにく顔は分からなかった…… お兄ちゃんだったので、今はきれいに機嫌も直っている。アレは誰なんだろ。どういう人なのかな? 藍さまに聞いても分からなかったし。紫様の古い知り合いかな。いざ、座敷の前にたどりついた橙の耳は、中から漏れ聞こえてくる声を聞きつけるとぴくんと動く。
「―――というわけなので、あなたに協力をお願いしたいのです、紫さん」
「ふぅん……」
「僕一人では広いニコニコ世界を網羅できませんから…… スキマを利用したあなたの広範な能力が頼りなんです。お願いですから、頼まれてくれませんか?」
 誰かな。誰だろう。橙の耳がぴくぴくと動いた。ふすまを開けないのは両手がふさがってて開けられないからだ。そんな風に言い訳しながら、盗み聞きをしてしまう。
「なんだかむしのいいことを言っているのね。私、面倒なことは嫌いなんだけど」
「ええ、十分承知してます。分かっていて、ここに来たんですから」
「世界の危機、ね…… 私を担ぎ出すにしても、ずいぶんと安っぽいこと」
「なら、別の言い方をしましょうか」
「何。ああ、その前に」
 紫の声が、ふっ、と低くなった。
「―――悪い猫が、覗いているみたいね?」
「!?」
 びっくりした橙の尻尾が、いっきに、ブラシみたいに太くなった。
 ぱぁん、と鋭い音がする。誰も空けないフスマが勢いよく開いたのだ。尻尾の毛を逆立てて硬直している橙の前で、扇子で口元を覆った紫がスッと眼を細めた。
「何をやっているの、橙」
「ゆ、ゆ、ゆかりさま……」
「誰が盗み聞きを許可したのかしら。もしかして藍?」
「ち、違いますッ! 藍さまじゃないですッ!」
 おもわずわたわたと手を振り回して、ふっ、と橙は気付く。手の中にお盆が無い。
 紫は磁器細工のような細い指で、カップの柄を握っていた。もっていたはずのお盆がいつのまにか卓の上にあった。紫にとっては簡単な手品である。だが、橙の耳は完全にぺたんこと寝てしまった。吃驚もする。どんな風に見えたって、彼女の心は、まだほんの子猫のようなものだったのだから。
 その場で固まったままぴるぴると震え出す橙に、「ちょっと、紫さん、紫さん」と見知らぬ客人が慌てた声で割り込んでくる。
「お弟子さんに当たらないで下さいよ。こんなちっちゃい子に……」
「小さいってね、橙はこれでも妖怪なんだけど。それに、橙はわたしの弟子じゃないわ。式神よ」
「あーもう、いじわるなんだから…… えっと、橙ちゃん? いい子だから、ちょっとこっちにおいで」
 ―――なんだか、えらく胡散臭い風采の男だった。だが、声も物腰も柔和そうで優しい。
 すっぽりと被ったフードと、腰のあたりに携えている笛がひとつ。フードの奥は見えない。だが、《Foo》と文字が書いてある。書いてあるというか、浮かんでいるのか? 橙がへっぴり腰で近づいていくと、「はい、これ」と何かを握らせてくれた。
「ふ、ふぇ……」
「お土産のコッペパンだよ。奥にいってお姉さんと分けるといい」
「……」
 目にいっぱい涙を浮かべた橙は、ぼうっと彼を見上げた。それからこくんと頷いた。

 ―――そして、橙がぺこぺこお辞儀をしながら去っていって。
「Fooさんは、相変わらず子どもに甘いこと」
 揶揄するでもない口調で言って、紫は細い指で甘納豆をつまむ。「勘弁してください」と彼は、Fooさんは苦笑した。
「立場上僕はみなさんに迷惑をかけるのが仕事みたいなもんですから。せめて、子どもにくらいは親切にしないと」
「分かりにくい理屈だけど」
「ほら、子どもさんは、すぐに喜んでくれるじゃないですか。嬉しいんです」
「ようするに自分は偽善者だって言いたい、と」
「はは……」
 Fooさんは困ったそぶりで頭を掻いた。紫はまたひとつぶ甘納豆をつまんだ。
 この男は、幻想郷の住人ではない。ただ紫にとっては古い知り合いだ。古い、という言い方も間違っているかもしれない。ふらふらと次元から次元を彷徨う存在にとって、否が応でも知り合わなければならない存在だった。
 Fooさん。通称であって本名でもない。何ら秩序を持たない混沌の空間に、《時間》という尺度を持ち込むもの。
 世の中には、彼のことを《削除人》と呼ぶものもいる。紫はその呼び方を好まない。彼の責任ではないとはいえ、誰からも嫌われる次元の嫌われ役の呼び名だ。
 それが、この自分に、頼みごとがあるという。
「つまり、何かが起こったら、私にも動いてもらいたいと…… トラブルが起こったときにはあなたに協力しなさいと、そういうことを言っているのね」
「そう判断してくれても構わないです」
「でも、トラブルってなんのこと? そんなもの、いつだってどこかで絶対に起こってるじゃない。あなたにも私にも関係ないわ」
 元々、箱庭の空間である幻想郷。
 そこに現在居を構えている紫にとっては、それは、ごくごく当たり前のことだったのだ。
「世界がまるごと消えうせたり、消滅させられたり、かと思ったら存在しちゃいけないものが存在していたり、そういう理由で消滅させられたものを復活させようとするのがいたり」
「当たり前のような口調で、怖いこと言わないで下さいよ。良くあることだって、大変なことには変わりないんです」
「大変なことだって、良くあることに過ぎないじゃない」
 紫は、澄ました口調でまぜっかえした。
「別に、わたしはあなたたち全てが消滅しても困らないもの。幻想郷が消えてしまってさえ、わたしだけなら困らないわ」
「……相変わらず、ですね」
「長生きをしてるもの」
 冷徹なようかもしれない。だが、紫のような種類の存在にとっては、これが最も望ましいあり方なのだ。
「わたしが騒いで、何やかんやと手を出して、それで何? その後どうするの? まぜっかえした後の後始末なんて、面倒くさくって」
 澄ました口調で言って、ひとくち、香ばしい茶を啜る。だが、藍がていねいに入れてくれた茶にも手をつけず、Fooさんは、しばらく考え込んでいた。
 ―――何だろう? 紫はラベンダー色の眼を上げる。Fooさんが、珍しくも、重い口調でつぶやいた。
「紫さんと、おんなじようなことを言っていた人も、いたんですけどね……」
「誰のこと」
「……春香さんです」
 Fooさんは、短く言葉を切った。
「あなたに、逢いに来た一番の理由がそれです。彼女が、消えたんです」
 紫は、眼を瞬いた。手にしたカップのなかに、ちいさく波が立った。

 天海春香。
 彼女の名前は紫も知っている。紫と同じような、"超越権限"レベルの存在のひとりだ。

「紫さん、会ったことありますか、春香さんに」
「―――憶えていないわ。どこかで逢っているかもしれないけど。だって、きりがないじゃない」
 それほど、この世界は混沌に満ちているのだ。紫ほど長生きをしていても、すべてを制御することなど不可能だ。紫は少し考え、ひとことだけ付け加える。
「そうね、歌もたいして上手くないし、平凡な程度に可愛いだけの子だったと思うけれど、彼女のファンなら見たことあるわ。熱狂的ね。むしろ、狂熱的って言ったほうがいいかもしれなかったけど」
「その通りですね。あなたがたの言い方でいうんだったら、春香さんは、"誰かの欲望を操る程度の能力"…… の持ち主でした」
 Fooさんは、ため息混じりに答えた。
「閣下などと呼んで彼女を崇めているファンも多かったんですよ。それに、紫さんは平凡と言いましたけれど、春香さんはとてもきれいな人です。容姿だけなら幾らでも彼女に勝ってる存在はいます。でも、彼女にはこの世界でも稀有な"カリスマ"があったんですよ」
「……ずいぶんな贔屓ね」
「そういう存在はごく稀にしかいないんです。春香さんは、幻影なんですよ。彼女を"視る"ものたちによって作られた、ひとつの"偶像"なんです」
「アイドル、ということ?」
「原義に基づけば」
 紫はややおちつきを取り戻し、カップを傾けた。香ばしい茶葉の味のなかに、植物そのものが本来持つ青臭さ、苦味などが立ち上がるのを楽しむ。
「以前、彼女は言っていました。わたしは、みなさんの望んでいることをしているだけです、と」
「なかなか過激ね」
「人間は、皆、豚にあこがれているのだとも言っていましたね。痩せたソクラテスよりも、太った豚になることが望みなんだって」
「……それで?」
 Fooさんは少し黙った。悄然と肩が落ちているのを紫は見た。
 目の前で、茶が、ゆっくりと冷めていく。湯気が薄れていく様子を紫は見る。
 やがて、つい、と手を伸ばすと、そのカップをそっと押した。カップが倒れた。漆をかけた卓の上に茶がこぼれる――― だが、それはふちからこぼれおちることはなく、ゆっくりと広がり、そして、漆をたたえたような黒々とした"溜まり"をつくりだした。鏡のように澄み、夜のように暗い。
 そこに、ひとりの少女の顔が写っていた。
 彼女は笑っていた。眼を細め、口元だけに薄く、謎めいた笑みをたたえて。


「ねえ、Fooさん、私はみなさんの楽しみにしていることをしているだけなんです。ただ他のみなさんと私が違うとしたら、それがいいことか、悪いことかなんて、考えないってだけ」
「―――春香さん、それは……」
 それは、夜の、公演だった。
 どこかしら人形めいたドレスを着たひとりの少女…… それが街灯に照らされる夜の公演にたたずんでいる。彼女はその視線をわずかに遠くへとやった。その方向へと、彼女を"棄てた/棄てる"男が、去っていったはずだった。
 肩に届かない栗色の髪、桜色の頬。ひとみの色は洋酒の瓶の硝子、古びた緑。その背中で夢のような浅葱色の翅がゆれた。蝶の翅だった。
「私ときどき思うんです。人間ってみんなマゾヒストなんじゃないかしら、って。口先だと自由を望んでいても、本当は悲劇が大好きで。誰かに支配されて望まれるとおりに動くってことは楽で幸せだってどこかで思ってる。それも、醜い老人や邪悪な大人の男ではイヤなんです。支配者はできるだけきれいなほうがいい。思わず跪きたくなるような可憐な少女がいいって、そんな身勝手なことを考えたりして」
「そんなに、自分を貶めないでください、春香さん」
「……優しいですね、Fooさんって」
 くすりと春香は笑みを漏らした。16歳の少女にはそぐわない、疲れ果てて年老いた笑みだった。
 時間が止まっていた。月はピンで留めたように空を動かず、岸辺に打ち付ける波すら停止して動かない。春香はついと数歩歩き、ベンチへと腰掛ける。白いファーでふちどられた黒いドレス。
「でも、別に自分を貶めているとかじゃあないんです。私は、私の愚民たちを愛している。これはほんとうのことなんです。ただ、私なりのやり方だというだけ」
「……」
「わたしの愚民たちは、ほんとうに可愛い…… 忠実で、熱心で、そして、有能です。だから私はこんなにも」
 彼女は、すっ、と腕を伸ばしてみせた。長い腕の先で指が反るのが、蝶の触角のようにうつくしかった。
「きれいになれた。これは、本来の私にはもてなかった美しさ」
「―――でも、僕にはあなたが幸せであるようには見えないんです、春香さん」
「当然だわ。いいんです」
「……」
「支配されるものが幸福で在り続けるためには、支配者は、常に奴隷たちの幸福のために眼を凝らし、己を研がなければならない。私が、幸せに溺れて堕落してしまったら、誰が私の愚民たちを虐げてあげるんです? 彼らを鞭打って、踏みにじって、それから、褒美として微笑みかけてあげるっていうんです?」
「あなたがやらなくたって、誰かが、きっとやってくれますよ。そうでしょう、春香さん?」
 Fooさんは、たまりかねたように言う。春香は吃驚したように顔を上げた。
 冷徹な女主人の面差しに、一瞬、無垢な少女の彩が滲んだ――― 
 だが、そんな表情もすぐに消えた。戻ってくるのは冷めた、嫣然とした微笑みだった。春香はついと手を伸ばす。Fooさんは息を呑む。蜜を啜る蝶のゆびさき。
「……ひどいこと、言うんですね。あなたも彼と同じなんですか」
「春香、さ」
「ねえ、知っていますか。王というのは、民を失えば、存在意義がなくなるの。……もしも私を崇めてくれる可愛い豚たちがいなくなったら、私は、存在する意義を無くすわ」
 そんなひどいこと、私にする気なんですか?
 歌うようにささやく春香に、Fooさんは息を呑んだ。
「人間は皆、支配されることを望んでいる」
 両手の指先が伸ばされる。蝶のゆびさき。それがフードの中の暗闇へと、差し入れられる。
「これが私の架すたったひとつの掟。本当かどうかなんて知らないわ。ねえ、あなたも味わってみてくれませんか?」
「な、何をです……」
「私の舌は、それは、甘いんです。この爪はそれは香ばしいの。私は、私に跪くものすべてに、忠実に報いる女主人(ドミナ)なのだから」
 ねえ、Fooさん……
 蝶のゆびさきが伸ばされる。少女は、嫣然と微笑む。
 その芳しい狂気。
 その、甘い残忍。



 ぱしゃりと、紫の指が、水面を乱した。
「……嫌な小娘ね」
「!?」
 瞬間、己が意識を奪われていたのだと気付いて、Fooさんがあからさまにうろたえた。ガタン、と卓がゆれる。茶がこぼれた。
 くすくすと眼を細めて笑う紫に、Fooさんは、ようやく何をされていたのか気付いたらしい。落ち着きをとりもどすも、すでにローブにはお茶がこぼれてびしゃびしゃになっていた。恨めしげな声で言う。
「―――覗き見なんてひどいです、紫さん」
「そうね、ごめんなさい。でも、あなたがそれだけ入れ込む子が、どんな子か知りたかったから」
 記憶と幻影の境界を乱す。ごく、簡単な手品だ。紫はちいさくため息をつき、指先で濡れた卓を弾いた。ちいさく水滴が立った。
「生意気だけど、可哀想ね。でも、それだけだと思う。私にはやっぱり、普通の少女に見えるわ」
「あなたにだったら、そりゃあ、そうですよ……」
「Fooさんにも、同じでしょ。ちょっと面白い理屈だったけど、それだけね。それがどうしてこれだけ入れ込むの?」
 まさか惚れたの? くすくすと紫に言われて、Fooさんはさらにうろたえた。あわててばたばたと手をふる。
「なんてこと言うんですかっ。僕の立場でまさか、春香さんみたいな子に肩入れできるわけないじゃないですか!」
「禁断の愛って面白くない?」
「面白くないですっ」
 そう、と紫は唇を尖らせた。そのまま行儀悪くひざを抱える。「らんー、らんー」と甘えた声で式神を呼んだ。
「お茶をこぼしちゃったのー。拭きに来てー」
 はいはい、と声が聞こえる。立てた膝にことんと顎を乗せる。柔らかな亜麻色の髪がふわりと広がる。紫は、テーブルの向こうのFooさんを見る。紫の視線にも気付かずに、Fooさんはため息混じりに濡れたローブをひっぱっていた。
 あれだけくっきりと憶えているなんてね、と紫は思った。
 まるで自分が言ったことが本当のように思えてしまう。彼は、全ての時間を行き来できるものだから、あのようなたやすいトリックには引っかかるまい。確かに、Fooさんが言ったことは事実なのだ。あの少女は、"堕落を望むものを堕落させる程度の能力を持っている"のだろう。
 だが、彼は堕落を望まない。そうである以上、彼女の魔力は、Fooさんには届かない。
 だったら何故。
「春香さんは歌が下手だって言いましたけどね、紫さん」
 ふいに、ぽつんとFooさんがつぶやく。紫は眼を瞬いた。
「僕だって笛はへたくそですよ。でも、大事なのはそういうことじゃないでしょう」
 珍しく、どこか怒ったような口調だった。珍しい。長いまつげをまたたく紫にも気付かずに、Fooさんは淡々とローブを絞る。
「春香さんは、ほんとの意味での"アイドル"なんです。彼女は、自分にすがるファンを絶対に見捨てない。望むことならなんでもやってあげるんです。どんなに嫌われたって、悪く言われたって」
「……」
「それでこそ春香さんはきれいだし、魅力的だ。そういう意味だと、僕も彼女のファンなんです。そりゃ《愚民》じゃあないです。でも、そうじゃなくたって、春香さんの歌や姿を喜んだり、救われたりするファンは、いっぱいいるんですよ」
 だから、とFooさんは言った。
「だからこそ春香さんは力を持っている。でも、春香さんにとっては、それが己で選び取った力と重さだってのが誇りなんです。そりゃあ利用価値は無限にあります。でも僕は、どんな存在だって、春香さんをひどい形で利用するような相手は許したくない……」
 Fooさんが怒ったようにいう。紫はポロリと声を漏らした。
「珍しい」
 Fooさんはぎょっとしたように顔を上げた。紫はしきりに首をひねった。「珍しいわ、ほんとに」と感心したように言う。
「な、なんですかッ」
「ううん、あなたにそういう私情とかがあるなんて思わなかったんだもの。ようするにこの世界がどうこうっていうより、その子が心配だってだけじゃないの」
「なんですかそれは! それは誤解ですよ!」
「へえー、ふうーん」
「や、やめてくださいよっ、そういう顔っ!?」
 カラリと音を立てて唐紙が開く。台拭きを片手にしているのは金色の尾を持った少女だ。びしょびしょになった卓を見て顔をしかめつつ、けれど、なんだかえらく楽しそうな紫、それから、あわてている客人を見て、不思議そうに首をかしげる。
「すいません、お待たせして。すぐに拭きます…… あの、紫様、何やってたんです?」
「いやあ、あのね藍、このFooさんがね……」
「やーめーてーくーだーさいっ!!」
 今日一日憂鬱そうにしていたのが一転して、紫は声を上げて笑い転げている。一体なんなんだろう、と藍はひたすら首をひねった。




 ―――話が終わる頃には、満月が、地平にかかりかけていた。
 珍しく外に出てまで見送る紫の側で、二匹の式神が丁寧に、あるいは元気よく頭を下げる。Fooさんも礼儀正しく頭を下げた。
「じゃ、紫さん、続報があったらまた来ます」
「分かったわ。……まぁ、話くらいは聞いてあげる」
「話すようなことがおきないといいんですけどね」
「なら、お茶だけ飲みにきなさい。ちゃんと美味しいお土産持ってくるのよ」
 Fooさんは苦笑したようだった。そして、「じゃあ、また今度」とていねいに言うと、笛を手に取る。
 すこし調子の外れた音色が短く響いた。藍の服にしがみついていた橙が眼を丸くした。そしてその音が消えた頃には、彼の姿もまた、消え去っていた。
 紫は憂鬱そうにため息をついた。そして側を振り返り、彼女には珍しいような表情で、「藍」と言う。
「はい。……何か?」
「しばらく、私が出かけることが増えると思うわ。後をお願い」
「は、はい」
「仕方ないわよ。あの人の気持ちに免じてね…… ああでも、めんどくさいったら」
 紫は、はあ、とため息をついて、ガリガリと頭を掻いた。
「いいわよもう。私、これから寝溜するから! 起こさないでね!」
 紫はさっさときびすをかえすと、庵のほうへと戻っていく。藍はややめんくらいながらそれを見送っていた。そしてふと、側の式がずっと自分の服を握り続けていたことに気付いて、眼を瞬く。
「どうしたんだ、橙?」
「あ、藍さま。……なんか、不思議な人でしたね。紫さまもなんだか変だったし」
「そうだな……」
 不安げな子猫の頭をすこし強めになでてやりながら、藍もまたふと、胸の奥に奇妙な感じを憶える。
 何かが、起こるのかもしれない。千年生きた己ですら見知らぬ何かが。眼を細める藍の視界の端を、ふと、きらめくような浅葱色の蝶が掠める。あざけるような可憐さで。

 何が起こるのか、そして、どのようにして終わるのか、今だ誰も知らなかった。
 しばらく前のことだった。






SS保管庫から派生したCPトークより。
でもFooさんは個人的にすげー好きなので、この二人はいいと思うんだけど(´・ω・`)



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