【さよならを教えて】
《1》
その日、幻想郷の夜天には、かけた磁器のような白い月が、所在なげに浮かんでいた。
谷口は足にくくりつけた脚絆の結びを確かめ、二色の布で拠られた紐をぎゅっと締めなおす。藍に茜をかさねた『呉藍』の衣と、どうしてももっていけと橙がきかなかった樫の実のお守り。白玉楼の主人がゆずってくれたいらたか数珠。邪魔にならないように帯に手挟んで、風呂敷でくくった荷物を袈裟懸けに背負う。相変わらず、大時代というか、ほとんど時代劇かなにかのパロディのような服装だ。 やれやれ、とちょっと苦笑。縁側から立ち上がると、後ろで心配げな顔をしている藍と、その服をぎゅっとにぎりしめている藍。妖狐と化け猫の目が、それぞれ、人には在らざる色をして、けれど、今の彼には確実に『人間らしい』と思える表情を浮かべてこっちを見ていた。 「んじゃ、行ってきます」 緊張をするなんてガラじゃないし、そんなものを求められても居ないだろう。片手をあげる谷口に、藍は、「はい」と頷いた。 「では、紫様のことをお願いします」 「別に師匠は俺ごときでどうこうできるって相手じゃないっすけど…… みんなが心配してたって伝えてきます」 「谷口、気をつけてね? 帰ってきてね??」 妹のような化け猫が、ちょっと泣き出しそうな声で言うから、「ん」と答えて、谷口はごしごしとその頭を撫でた。 空を仰ぐと、藍色の夜天。時の流れから切り離された隠れ里の空。風が吹き、濡れた土と檜葉の香りを感じた。谷口は眼を閉じて、胸いっぱいに、それをすいこむ。 決して産まれた故郷ではない。だが、今では彼にとって大切な場所である土地の、におい。 「じゃー、お土産、期待しといてくださいっす。俺も藍さんの手料理、楽しみにしてますから」 「……はい」 藍は、かすかに微笑む。谷口は最後にニッと笑って、庭の外れ、外と中とを隔てる門の扉に、手をかける。 削った檜の薄い板。茅葺きの門。その、うすっぺらい扉。 ―――谷口は、ゆっくりと、その『ドア』を開いた。
夜。ミッドチルダ時空管理局、22:45。 若い訓練生たちはとっくに夕食も入浴も終えて、すでに寮にもどって消灯の時間だ。その例に漏れず、少女たちは昼間のハードトレーニングの疲れを癒すべく、それぞれすでにベットの中にいた。片方はラジオをつけっぱなしのまますでに半ば夢の中をさまよっており、もう片方も枕元の時計を確認し、そろそろ本にしおりを挟んで電気を消そうかと考えていた。 その瞬間の、出し抜けの、スクランブルサインだ。 「な、何!?」 転寝の中からいきなりひきずりだされ、髪の短いほうが、泡を食って飛び起きる。もう1人のほうが反応が早かった。とっさに端末を引っつかみ、本部へのチャンネルへと入れ替える。 「こちら、ティアナ・ランスター! どうしたんですか?」 『あ、ティア。起きてたの?』 「……高町教導官!?」
「いいよ、今回は名指しの出動だから。たぶんティアたちの手をわずらわせることじゃない。でもいちおう、出動できる準備はしておいて」 答えながらも、手早く髪を結い上げ、ジャケットを羽織る。そのまま足早に廊下へと出てくるのは、1人の若い女性。栗色の長い髪、かわいらしい顔立ちに見合わない意思の強そうなまなざし。同じような制服姿の女性がもうひとり、やや戸惑い気味の面差しで、側を急ぐ。 『名指し……? どういうことなんです?』 「所属不明、名称不明の魔導士がひとり、いきなりミッドチルダ中央の上空に現れたらしいの。もちろん、警備隊は警戒を怠ったりなんてしてなかったし、AMFの発動も試みられた。なのに誰一人、所属不明魔導士の侵入に気付かなかった。空戦魔導士が威嚇を試みたけどすべて不発」 「敵意はないって言っているみたい。でも、こちらに投降する気もないらしい。彼の要求はひとつ。『高町なのはに会わせろ』よ」 『それって……』 息を呑みかけた通信に、ふいに、横から誰かが割り込む。ものすごい大声が響いた。 『それって、むちゃくちゃあやしいじゃないですか!! 1人で行くなんて危なすぎますよ、なのはさん!!』 金髪の女性は、思わず、顔をしかめる。だが、栗色の髪のほうは、くすりと可笑しそうに笑みをもらしただけだ。 「大丈夫だよ。フェイトちゃんもいっしょに付き合ってくれるし、それに、相手はまだミッドチルダ中央にいるみたいだし。なんていうか、そう、保険かな。わたしが行けば一番簡単にことが収まるんじゃないかって判断みたいだよ」 『でも……』 「それよりもスバル、今日はきつかったんじゃないの? 早く寝ないと明日にひびいちゃうよ」 だから、待機で十分だから。ね? そう言い聞かされて、元気の良かった声が、『わかりました…』と尻つぼみになる。うん、いい子だね。にっこりと笑って、彼女は通信を切ろうとする。けれども最後に一言。 『でも…… でも、なのはさん、ほんとに気をつけてくださいね?』 むしろ、なんだか親の心配でもする子どもみたいな口調だった。 「うんうん、大丈夫だよ。心配をかけるようなことなんてしない。だから、安心して待っててね。じゃあ」 プツン。 「……冷静ね、ずいぶん」 「冷静じゃないよ。わたしも、すごく驚いてる」 スイッチを切った通信機を懐に戻しながら、彼女は、高町なのはは、まったく調子を変えない口調で答えた。 夜の空は暗いが、警備隊の駐屯地内は明々と照らし出されている。スクランブルサインは一瞬で終わり、事態が危急のものではないということには誰もが気付いているだろう。ただし、『危急』ではないが、『異例』ではある。 所属不明、名称不明、能力も不明の、正真正銘の『アンノウン』の侵入。さらには、アンノウンが名指しにした相手が、よりにもよって管理局の『高町なのは』と来たのだ。 「映像すら取れない…… 危険じゃないの」 「わたしが行って危険な相手を、警備隊のみんなにまかせっきりにするわけにはいかないよ」 彼女らしい、といえばこの上もなく彼女らしい言い方に、金髪の女性、フェイトは深いため息をついた。なのははくすりと笑い、横を通りすがり様、彼女の手をぎゅっと握る。 「大丈夫。交戦する気はないもの。相手の誰かさんに用事を聞いて、面倒なことだったら、みんなにあとはお願いするよ」 「でも、もしも交戦になったら……」 「お手伝い、お願いしちゃってもいいかな。スバルに無事に帰ってくるって言っちゃったもの」 らしいといえば、このうえもなく、らしい言葉ではある。 フェイトはふたたびやれやれとため息をつくが、今度の表情は、どことはなしに苦笑交じりのものだった。 ミッドチルダの時空管理局中央は、無数に存在する次元世界のなかにあっても、非常に交流が活発であり、そして、発達している都市でもある。だが、その外観はそんな言葉から想像されるよりもずっとシンプルなものだ。機能性を重視した街並みと、無機質な印象をやわらげる豊富な緑地。そして、許可された類の建築物、つまりは管理局関係の建築ばかりが、高層にまで聳え立っているという夜景。 バリアジャケットへと装備を変え、なのはは、警備隊所属の空戦魔導士たちに先導されるまま、通信塔の頂上を目指した。都市でも目立って背の高いビル。銀色のペンシルのように夜空へと聳え立つ。 黒い鳥のような衣装の裾を翻しながら、油断なくなのはに追随するフェイトは、思わず、つぶやいた。 「……誰にも発見されずに、いきなりあそこに?」 そこは、モニター設備を集合した建造物の頂上だ。誰にも気付かれずに、あそこに現れただと? そんなもの、気が付いたらカメラのレンズの上に花びらがはりついていたけれども、誰もそれに気付かないまま、一日過ぎたというくらい無茶なことだ。そんなことが出来る魔導士は、最低でもランクA、もっと悪くすれば…… ふいに、戦闘の空戦魔導士が停止する。問題のポイントにたどりついたらしい。なのはがこちらを少し見て、頷いた。フェイトは埒も無い考えをめぐらせることを止める。 なのはは、赤い宝玉を抱いた杖を、油断なく構える。凛、と声が放たれた。 「そこの人! 時空管理局警備隊、機動六課所属、高町なのは一等空尉です!」 あえて、『魔法』をつかって意思を伝えるのではなく、普通に発声をしていた。相手がすべての魔力を遮断しているという可能性にそなえてのことだ。 「こちらの所属は以上の通りです。平和的な交渉を望むのでしたら、そちらの所属を教えてください!」 しばらく、返事は無かった――― だがやがて、なのはが、ハトが豆鉄砲でも食らったような顔になる。ビルのてっぺんにいた誰かさんがぴょこんと立ち上がり、しきりに手をふりはじめたのだ。 何かわめいているが、声が小さくて聞こえない。とっさの機転で空気の流れを操作する。フェイトの耳にも、その声が、とびこんできた。 「なのはちゃん! なのはちゃーん!! ひさしぶりー! 俺だよ、俺ーっ!!」 ……なんだ、この陳腐な詐欺のような口調は? だが、なのははぽかんと口を開いたまま、動かない。こんな無防備な姿ははじめて見たと、二度驚く。だが、フェイトの肝を冷やす事態は、それだけに収まらなかった。 「俺ーっ! た・に・ぐ・ち!! おぼえてるかーなのはちゃんーっ?」 その名前を聞いたとたん、なのはは…… ありえざることに…… うっかり、手にした杖を取り落としそうになった。 「―――谷口さん!?」 とたん、なのはは、つっこむような勢いでそちらへと飛び出してしまう。とっさのことで周りの空戦魔導士たちは反応しなかった。フェイトはあわてて後を追う。 ビルの天辺に降り立ったなのはは、そのまま、つんのめるような勢いで、見知らぬ誰かのほうへと走っていく。見知らぬ誰か。男だ。しかし、なんだこの服装は? フェイトの知識にある何処の服装とも似ていない奇妙な風体。魔力も感じない。 だが、走ってくるなのはを両手を広げて迎えた彼は、そのままなのはを抱き上げ、勢いのままで転びかける。可笑しそうに大声を上げて笑い出す。暢気すぎる。誰だ、あれは? 頭に被っていた傘を背中に避けると、青年と呼ぶにはもう年嵩だが、あきらかにまだ若い男の顔があらわれる。灰色がかった髪をオールバックにして、首の後ろでちいさく結わえていた。顔全体で笑いながら、彼は、なのはの頭をぐしゃぐしゃになでくりまわす。 「うおおーすげーすげー!! でっかくなったなーなのはちゃん! 見違えた! マジで!」 いやー焦った焦った、と彼は警戒心の欠片もない口調で言う。 「ジクウカンリキョク? クウイ? とかいうからさ、もう、同じ名前の別人かと。なんかすげー怖そうな人とかでてきたらどうしようかとか思ってマジビビってたんだよ。でも、あれほんとになのはちゃんだったのかぁ」 「そうだよ! わたし、今は管理局でお仕事をしてるんだから」 「なんか偉い人みたいだったからさー、驚いたのなんのって」 「えへへ、それなりに、偉い人なんだよー」 ……ひとり、流れから取り残されて、フェイトには口を挟む暇もない。 やがて、あまりに密着しすぎていると気付いたのか、なのはは慌てて彼から身を離す。そこでフェイトは、やっと、割り込むタイミングを見つけられる。 「あの…… なのは、あと、そっちの方……」 「ん? ええ? ……おお!!」 フェイトを見た彼が、眼を輝かせる。なぜだかなのははムッとしたような顔になって、彼のむこうずねをかるく蹴った。 「あの、わたしはなのはと所属を同じくにしている、フェイト・T・ハラオウンと申します」 「あ、はいはい!! 俺、谷口ですっ!」 「……どちら様でしょうか?」 言われて、ようやく、我に帰ったらしい。 彼はあわてて真顔にもどり、そして、周囲を見渡す。周りを包囲している空戦魔導士たち。そして、かたわらのなのは。 フェイトがひさしく見たことのない表情をしているなのはに、ちょっと困り顔で、「なんかマズかったかな」とポリポリと顎を掻く。そしてようやく、フェイトのほうへと向き直ってくれる。 「え、えーっと、俺は谷口。幻想郷の八雲紫の弟子っす。今回はなんか大騒ぎにしてすいません」 「幻想郷……?」 「まぁ、なんていうか、『ここじゃないどこか』って場所っすかね」 そう言って、谷口は、にっこりと笑った。 フェイトはしばらく、二の句をつぐこともできなかった。
10年もたてば谷口もすっかり幻想郷に溶け込んで、
服も東方キャラ仕様、ちゃんとZUN帽も着用…あれ?
←back
|