夕方になって、空が、オレンジの色に染まる。 そうだ、オレンジを、採って帰りたいなとヨハンは思った。 この街は貧しい。ほんの数年前まで続いていた戦争のせいで、建物はあちこちが爆撃によって煤けた痕を残し、ところによっては崩れ去ったまま再建のめどさえ立たぬ建物も多い。けれどそんな街にもいいことが一つだけある。空が広いのだ。誰にも視界をさえぎられることの無い空は、ひろくひろく、はるかな高みにまで届くような深さを見せる。 夕焼けはうつくしい黄金、水紅色、白、そして、みかんの色。開いてしまってがばがばになった靴を足に縛り付けた靴紐で、ヨハンは、肩に背負った鞄を背負いなおす。そうだ、オレンジだ。オレンジを持って帰ってあげれば、きっと、十代はよろこんでくれるに違いない。 鉄条網が、街のあちらこちらに絡んでいる。人々は濁った眼をして街のあちこちに座り込み、中には手を失ったもの、足を失ったもの、爆撃で顔を抉り取られた凄惨な姿の元兵士もいる。彼らの前にはさかさまにされた帽子が置かれているが、そこに金を入れるものは少ない。誰も貧しいのだ。他の誰かを助けてあげるような余裕なんて無い。兵隊のひとりが手押しオルガンで哀切な曲を奏でている。その前でだけ一瞬立ち止まり、すぐにヨハンはその前の坂を駆け下った。先に見えるのは鉄条網が張り巡らされた古い館。かつて、この街を支配していた誰かが、暮らしていた館だ。 今は誰も入り込まない。理由は、その館の庭に、それどころか建物にも、無数に空いた大きな穴だ。そこにはまだ不発弾が埋まったままになっていて、いつ、爆発するか分からない。だから、こんな危ないところに足を踏み入れるやつは滅多にいない。例外は――― ヨハンくらいだろう。ヨハンは庭を見回し、まもなく、その木を見つける。大きなオレンジの木。そこに、あまり大きくは無いオレンジの実が、いくつも、いくつも、温かい橙の実を付けている。 このオレンジは実がスカスカで、食べることが出来ない、ということくらいはヨハンだって知っていた。でも、いい匂いがする。それにきれいだ。まるで受けた夕焼けをそのままに染め上げたようなあたたかいオレンジ色は、きっと十代を喜ばせるだろう。ヨハンは近くの木の枝に鞄をぶらさげると、器用にするすると木を登った。実をもぐ。一つ、二つ、さらに二つ。 「またそんなことをやっているのか」 ふいに、何かに気付いたのか、声が聞こえた。ヨハンはあやうく木から落ちそうになり、あわてて、両手両足で、枝にしがみつく。 「……オブライエン」 「危ない、と何度も言っただろうが。ここには何発も不発弾が埋まっているんだ」 ため息をつきながら現れたのは、あきらかにこのあたりとは人種の異なる、黒い肌に、都市迷彩の服を来た兵士だった。背中に銃を背負っている。へへへ、とごまかすように笑い、身軽に木から飛び降りるヨハンに、いかにもあきれたような目を向ける。 オースチン・オブライエン。治安維持のためにこの街に駐留している治安維持軍の一員だ。ヨハンにとってはなじみの顔でもある。なにせ彼は、ヨハンがいつも通っている学校で食料が配られるときには、弱い誰かが取り分を奪われることが無いように、いつだって見張っているのだから。 「オブライエン、オレンジ、いる?」 「それは食えないんだろう?」 「でも、いい匂いがするぜ。それにきれいだし」 笑顔で金色のオレンジを差し出すヨハンに、オブライエンはやがて、やれやれ、と表情を崩した。少しだけ苦虫を噛み潰したような顔をする。これがオブライエンの笑顔なのだと、ヨハンはもう、知っていた。 「こっちへ来い。危ないから」 「慣れてるのに……」 「何度も言ってるが、不発弾はいつ爆発するか分からないんだ。こっちに来て大人しくガムでも噛め」 「ガム!? やりぃ!」 鉄条網を通り抜けて、館の外へ。ヨハンが傍らに座ると、ジムは、いくつもある軍服のポケットの一つから、派手な着色の施されたガムを出してきてくれた。ヨハンはガムを二つに分けて、片方をポケットに、もう片方を口の中へと放り込む。そんなヨハンをオブライエンは不思議そうに見ていた。 なんでいつも半分なのか。そんな顔だ。 「―――今日、学校はどうした」 「授業はあったぜ。あたらしい先生が来たし」 前まで担任をしていた女性は、おそらく、逃げ出したのだろう。二週間前から姿が見えなくなっていた。 「でも、教科書がなあ。あたらしい字の教科書って、上手く読めないんだ。むつかしくって」 ヨハンが学校に上がる前は、みんな、今とは違う字の本を、読んでいた。 でも、それはヨハンたちの使う言葉の本ではなかった。読むのはとても難しかった。やがてヨハンが学校に上がる頃、教科書はヨハンたちの読める字の教科書になった。それからしばらくたち、教科書はまた、読めない字のものに変わった。そのころから学校だとほとんど授業がなくなったけれど、もう、そんなことを気にするやつは、誰もいなくなっていた。 「……」 「気にしないでいいんだ、オブ。だってオレは学校にいかなくたって誰より上手に字が読めるし、計算だってできる。今度また別の教科書が来ても、すぐに字を覚えるよ。こんなの、みんな慣れてるんだから」 笑顔で言うヨハンに、オブライエンがどうして黙り込むのか、ヨハンにはどうしても分からなかった。当たり前のことを言っているだけなのに。当たり前の話ばかりなのに。 オブライエンに言うべきか、と一瞬ヨハンは迷った。とっておきの秘密。ヨハンと十代だけの、誰にも言わない内緒のこと。けれど、それを言うほどには、オブライエンは信用がならない気がした。だからヨハンは、別の話をした。 「なぁなぁオブライエン、直してもらったラジオ、聞こえるようになったぜ」 「そうか、よかったな」 「オレ、すっかりおぼえちまった。今だったらいろんな曲をフィドルで弾いたり、歌で歌ったりできるよ。なあ、兵隊さんたちのくる店で、フィドルを弾いたりしたら、お金が儲からないかな?」 「……あまり、いいアイディアだとは思わんな」 「そう? でも、そうだよな。今じゃ、金なんて持ってても、ほとんど意味ないもんな」 ぴょこんとヨハンは立ち上がる。ぼろぼろのズボン、ツギハギだらけのコートの袖から精一杯腕を伸ばし、伸びをした。 「じゃ、オレ帰るね。また今度」 「無事でいろよ」 「オブライエンもな!」 笑いながら手を振り、そして、ヨハンは駆け出した。砂利だらけの、穴ぼこだらけの、埃っぽい路を、駆け出していく。 村の外れのほうに、ヨハンの家はある。今ではヨハンの家族しか暮らしていないアパート。かつては花壇だった場所はすべて畑になり、放し飼いのニワトリが土の中のミミズを引っ掻き回していた。山羊もいて、豚もいる。リンゴの木とプラムの木、それに、山羊が荒らさないようにしっかりと囲いをされた野菜の畑。 「ただいま、ばあちゃん!」 大声を上げながら――― 祖母は耳が遠くて小さな音は聞こえないのだ――― ヨハンは鞄をガタガタになった机に投げ出し、中からガムと、オレンジを引っ張り出す。それからテーブルに置きっぱなしになっていたへこんだやかんから井戸水をコップに注ぎ、一息に飲んだ。少しぴりりとした味がする。井戸には鉱泉の水が混じっているから、少し炭酸が入っているのだ。 アパートは、いくつかある棟のうち二つが、爆撃にやられて瓦礫の山になっている。そこへ行くと折れ曲がった鉄骨が魔女の指みたいに地面から突き出している。まるで誰かを呪ってるみたいだ。でも、その指には今はつるが複雑に絡みついて、もうじき、そこに何種類もの野菜が実るだろう。それを採って、手押し車に乗せ、市場へ売りに行くのがヨハンの仕事だ。あとはニワトリの卵を採ったり、山羊の乳を搾ったり、場合によっては豚を潰すこともある。 中庭、と祖母が呼んでいるポーチを見ると、誰かの家からとってきたゆり椅子に座って、祖母がセーターをほどいていた。たぶん新しく自分のひざ掛けに、もしかしたらヨハンのセーターのために仕立て直すんだろう。それが十代のためのものだということだけが考えられないが、なに、その場合はなくしたということにして、自分が十代にセーターを譲ってやればいいだけのことだ。 壊れかけた階段を下る。床に死んだ蜘蛛が足を縮めて転がっている。鉄のドアを開ける。すると、返事が帰ってくる。 「ヨハン!」 「ただいま、十代」 ―――半地下のじめじめして、薄暗い部屋だった。 鉄格子の入った窓から、夕暮れの名残が、かすかに橙色の光を投げている。床はむき出しのコンクリートで、そこに、スプリングの出たベットが置かれていた。テーブルの上に置かれたやかんと、へこんだブリキのカップ。緑色の軍用毛布。そんなものに包まって、十代がいた。ヨハンの、たった一人の、双子の兄弟が。 今までラジオを聴いていたのだろう。膝に抱いていたラジオの音量を絞る。そうして、「おかえりっ」とヨハンに笑いかける。 「腹、減ってない?」 「ううん、そんなに。朝もらった弁当食ったからさ」 「そっか。ガム食いたくない?」 「食いたい!」 とたん、十代は目を輝かせる。ヨハンは笑う。そうして、ポケットからオブライエンにもらったガムを出し、十代に手渡してやる。 粗末なテーブルの上に、ラジオが置かれる。オブライエンに直してもらったラジオだ。雑音の多い音が、早口の外国語で、何かをやたらとまくし立てていた。この電波は外国から来る。電波はどこからでも来る。雑音を混ぜてかき消すことは出来ても、電波が空を飛ぶのをさえぎることは、誰にも出来ない。 十代が幸せそうな顔で甘いガムを噛んでいる間、ヨハンは、ベットの下に隠してある、古いトランクを引っ張り出してくる。そこに入っているのはカードの束だ。何百枚もあるだろう。昔、この街にたったひとつだけあった玩具屋の主人が、"反逆罪"とやらで連行されたとき、ヨハンが見つけてきたものだった。上等の玩具のティーセットとか、電車の模型とか、そんな高いものはとっくに持ち去られた後に、このトランクだけがあった。これだけが残されていたのだった。 「ラジオでさ、デュエルモンスターズの大会について、言ってた」 ガムの甘い匂いがする息で、十代が言う。 「大会?」 「うん。プロのデュエリストがみんなで勝負して、そうやって、一番強いのが誰かを決めるんだってさ」 「へえー」 ヨハンはトランクから、注意深く、一そろいのカードを取り出してくる――― 「でも、おれが聞いただけだと、たぶん、おれたちのほうが強かったと思うなあ」 十代の口調にヨハンも笑う。「そうだな」と言って。 「じゃ、デュエルしようぜ」 「うん!」 カードの束を手渡されると、とたん、十代の顔が輝いた。テーブルの上からヤカンも何も追い出して、代わりに、擦り切れたマットを広げる。同じトランクに入っていたもの。これが、その全てだった。 デュエルモンスターズ。 二人には、もともと読めなかった言葉で印刷されたカード…… それが、彼らにとって、ほとんど楽園にも似た世界を作ってくれる不思議なカードだとは、二人は、ずっと知らずにいた。 「「デュエル!」」 二人の声がそろう。その時間を、ヨハンは、心から愛していた。 戦争は、ずっと昔からある。すくなくとも二人が生きている間で戦争が無かったことは一度も無い。空を飛行機が飛び、爆弾を落とし、大人たちは銃で撃ちあい、たまに警察がやってきて人々を収容所へと連れて行く。世の中はそういうもので、永遠に変わることは無い。―――そう思っていた。そうじゃない世界なんて、想像も出来ない。 「……負けたあ〜!!」 ヨハンがカードを跳ね散らかしながらひっくり返ると、十代が、うれしそうに笑った。 「よし、これでおれが4連勝だあ!」 「なんでなのかなぁ、ちくしょー……」 ぶつぶつと文句を言いながら、カードを拾い集める。そんなヨハンを手伝おうと手を伸ばすけれど、けれど、その一枚はベットの上の十代から、どうしても手が届かない。ふと悲しみの色が差す。けれど気にせずにヨハンはすぐにそのカードを拾って、「ありがとう」と笑った。 「ヨハン、帰ったらお土産があるって」 「あ、そうだった。……ちぇっ。ほーら、これ、今日の土産」 ヨハンはポケットからオレンジを取り出し、シャツの裾でこすってから、十代に渡した。「うわあ」と十代は顔を輝かせる。 「すげえ、オレンジ色だ。いい匂いがする」 「食えないんだぜ、それ」 「そうかあ。残念だなあ」 「でも、もしかしたら皮だけ砂糖漬けにしたら食えるかも……」 「ほんとかなあ。だったら、食ってみたいなあ」 ヨハンは言った。 「今日の夕焼け、ちょうど、そういう色だったんだぜ」 「いいなあ」 十代は、あこがれるように言った。 「見てみたいなあ、そういう夕焼け」 ―――十代は、この部屋から、出ることが出来ない。 緑色の軍用毛布が身体にかかっていたが、その、足が有るはずの場所はぺちゃんこで、そこにあるはずのものが失われていると知らせる。それだけではない。内臓をいくつも失っている十代は、普通の人間と同じように食べ、寝起きし、働くことが出来ない。その無惨にひきつれた傷痕。雨が降るたびにしくしくと痛む幻肢痛。 ふたごの兄弟である十代がそうなって、自分がそうならなかったのは、ただの偶然だとヨハンは知っている。 5年前、二人は二人とも同時におたふく風邪にかかって、困った母は、ひとまずヨハンを祖母にあずけて、自分は父の運転する車で、遠い遠いところにある病院へと向かった。一人分の薬をもらって、二人で飲めばいい。そう思うのが当たり前だった。薬はあまりに高いから、二人の子どもをまとめて病院にかからせるなんて、想像も出来ないことだった。 けれど、爆弾は、そんな病院の上に落ちた。 たくさんの母たちが、赤子たちが死に、父たちが、子どもたちが死んだ。二人の両親はそのなかのひとつで、そして、十代は奇跡的に足と内臓をいくつか失うだけで生き延びた。 けれど、代わりに十代は歩けなくなった。歩けないだけじゃない、ほかにもいろいろと身体を壊している。このままだと長生きは出来ないと、昔医者をやっていたという老人がつぶやいていた。ほかの国だったら生き延びられるのに。戦争の無い、豊かで、人々が大切にされている国だったら、生き延びられるのに。 「なあ、十代」 ベットから身体を起こし、ふとヨハンは、問いかけてみる。 「ばあちゃんにみつからなかった?」 「ばあちゃんはここには来ないって」 ―――祖母は、自分の息子と嫁が死んだのが、十代のせいだと信じている。 「そっか。じゃ、あるよな」 「あるよ。誰も気づいてない」 十代が毛布を持ち上げる。すると、ベットの下に、カードのトランクとは別に、他の包みが押し込んである。ヨハンはベットの下にもぐりこみ、布の包みを出してくる。中身を並べる。 突撃銃が一つ、ライフルが一つ、ピストルが2つ、手りゅう弾が4つ、大きなナイフ、それと、弾がたくさん。 死んだ兵隊を見つけては、彼らの屍骸から、取ってきたもの。彼らがこんなものを持っていることは誰も知らないはずだ。この街の誰もが銃を持っている。けれど、自分たちほどたくさんの銃を持つことは、許可がいるから、ほとんどの住人たちにとっては不可能なことだろう。子どもだから、子どもだと思われているから、許される武装。 誰もこない時間、十代は、ラジオを聴きながらこの銃を磨く。整備をする。やりかたを覚えるとヨハンに教えてくれる。ヨハンは誰もいないところ探して銃を撃つ。銃声程度で駆けつけるようなやつなんて、この街には誰もいない。 ヨハンは銃を構えてみる。十代は見ている。銃口は鉄格子で隔てられた狭い空。そこには、オレンジ色の雲が、浮かんでいる。 「当たるようになった?」 「ああ。もう、オレは飛んでる鳥だって落とせる。―――たぶん、人間だって、殺せるさ」 ヨハンは銃を下ろし、十代の横に座る。身体をくっつけると温かい。腕を回して抱きしめる。 「もうすぐ、ほかの街へ行こう」 ―――どこか遠いところ。戦争がなく、豊かで、人々が大切にされているところ。 そこに行けば、きっと十代の体だって治る。きっと爆弾も落ちてこない。食べることのできるオレンジだって、あるはずだ。 「うん…… でもおれ、危ないことがあるよりも、ヨハンといっしょのほうがいい」 十代が不安げにつぶやく。たぶん、歩けない自分が足手まといにならないか、と思ってるんだろう。ヨハンは少し笑って、そんな兄弟の額にキスをした。 遠くへ行きたい。戦争なんてない国へ。そして十代に見せてやりたい。広い空を。橙色に暮れながら沈んでいく、広い広い空を。 「なに言ってんだ。忘れんなよ。オレたちは、何があっても、ぜったいに、ずっといっしょだ」 「……うん」 そうして二人は抱き合って、キスをする。 その足元に転がって、銃と、オレンジとが、斜めに差し込む夕暮れの光を受けて、にぶく輝いていた。 アゴタ・クリストフの『悪童日記』を読んでたら、ふと書きたくなったので…… 紛争地域パラレル。続くかどうかは未定です。 ←back |