―――二度と君が、孤独に泣かないように。 そして、君の想いが、いつまでも人々の幸せと、共にありますように。 季節の変わり目には、テストのシーズン。 そもそも学生の生き様は、テストと共にある、といっても過言ではない。大は受験といったものから、小さくなっていくと期末テストに中間テスト、さらには小規模な考査等々。どちらにしろ気持ちの重たい年中行事。それが成績において上位を狙っている生徒たちならまして、いつも赤点スレスレ、急転直下の落第危機などというものに面しているなら、なおさらである。とにかく、テストにおいて、もっとも頭を抱えるのはトップを狙う生徒たち、あるいはボトムを競う生徒たちだ。安定して学力を保ち、かつ、さほど成績に興味のない生徒たちにとっては、比較的気楽なものとなる。なに、いつものようにやればいいのだ。さほど気が重いものでもない。 だから。 「だ、か、ら!! 何故貴様はっ、こういうケアレスミスを侵すッ!?」 ……目の前でしゅんと肩をすぼめている十代の目の前に、ぱーん、と大きな音を立ててテキストを叩きつける万丈目準、彼は、本来なら、こんな苦労とは縁が無いはずだったのだ。 「なんでここの確立計算式にマイナスが適用されるんだ、マイナスが! みろ、この酷いグラフ!」 「ひどいのかー?」 「ひ、ど、い!! なんでここで反ハルモニア関数の形が出るんだこのド低脳がっ。どう考えてもおかしいだろうが!!」 額に青筋を立てて怒りまくる万丈目、その目の前で塩でもまれたキャベツのようになっている十代。期末テストまであと一週間。そろそろ、物事の復習にも気合の入らなければいけない時期である。 「ええーっとおー、ハルモニア関数がー、ドローの確立を手札5枚で計算したときの初出攻撃力の…… うがーっ、分かんねーっ!!」 「落ち着けと言ってるだろうがっ。おちついて唱えなおせ。通常乱数を適用したときに計算式上でモンスターカード、魔法カード、罠カードのバランスを算出するための三つの関数!」 「ハルモニア関数、コンコード関数、ケーデンスの基本法則……」 「よし、ちゃんと言えたじゃないか。じゃあ次はそれぞれの適用場面」 「うん……」 テキストを目の前にしながら喧々諤々、こんなことが始まってから、もう、すでに二時間近くが経過している。近くに座ってまったく別の科目を見ていたヨハンが顔を上げ、「大変だなー」と嘆息した。 「サンダー、すげえなあ。熱血教師じゃんか」 「いつもこうザウルス」 「テスト前になると、アニキの面倒、いっつもサンダーが見てくれるんっすよ」 隣で噂をされてでもいたら、すぐに顔を上げるのがいつもの二人なのだろうが、教科書と首っ引きの今ばかりはそうでもないらしい。邪魔をされないように、と手元に預けられたケースを、ヨハンはなんとも感心したような、あるいはあきれたような顔で見る。普段なら決して手放さないデッキを、邪魔をされないように、とわざわざこちらへと預けてくれているのだ。そうとうなものである。 ―――デュエルアカデミアへきて、初めての期末テスト。 普段から十代の成績はよろしくない、という話はヨハンも聞いていた。なにせ、十代には記憶力が無い。ついでに言うと物事を上手く言語化して説明する能力や、テキストから適切に物事を読み取る読解力も無い。これはどうも学生にとっては致命的なことらしく、十代はいつもテストだとさんざん苦労をしているらしい。長いテキストを読んで概要をまとめる、あるいは小論文などの比較的説明的な能力を必要としないジャンルならともかく、数学的な場面、暗記的な場面、とくるとからっきしだ。そして、普段の授業では、ほとんどの労力をデュエルのためだけに注いでしまっている。結果は押して知るべし、といったところだろう。 ヨハンは「ふえー」とため息をつき、机に頬杖を付いた。いまだになれない座卓の高さの日本の机。 「でもさあ、あんなのやって、意味あんのか?」 「ちょっ…… ヨハン、それ、一番いっちゃいけないことを」 「だってさあ、数学的確立とかって、実際にデュエルやってるときに役に立つか?」 だいたい相手はバカ引きの十代だ。 「デッキ組むときとか、オレ、そういうの考えたこともないんだけど」 「……」 「……」 しれっ、とそういうことを口にしてしまう男、ヨハン・アンデルセン。しかし彼は成績を見ればトップクラス、さらに、デュエリストとしての才能も、プロに遜色ないどころか世界最強レベルの折り紙付きである。才能と実力のある人間が天然でかますイヤミほど、凡人にとって応えるものはない。 「アニキならなんとなく許せるけど…… ヨハンに言われると腹が立つ気がするのって、なんでなんだろう」 「奇遇ザウルス、オレもドン」 「それは単に、あなたたちが十代を贔屓してるからでしょ」 恨みがましい声を上げた二人の頭を、ポン、ポン、と丸く丸めたノートが叩く。顔を上げると、そこにいるのは明日香だ。 「あ、明日香」 「手が止まってるけど、大丈夫?」 「うん、おおざっぱにさらってみたけど、このあたりはだいたい平気っぽいから。今は一休み」 「そう……」 ちらり、と万丈目と十代の二人へと眼をやり、明日香は、やれやれと苦笑をもらした。 「十代がその台詞を言ったら、鉄槌が下ってるところね」 「言い訳しないでまじめにやれー、って?」 「そう」 ヨハンは痛む膝を伸ばして嘆息した。学生って大変だ。 「自分ができないこと、興味ないことをずっとやんなきゃいけないって、大変だよなあ」 「そういうヨハンは勉強できるほうじゃない?」 「オレは要領がいいだけだよ。あと、物覚え」 もしもテストが無かったらこんなのやってない、とぼやくヨハンに、くすりと明日香は笑った。隣に座り、茶を出してくれる。四人分のウーロン茶とクッキー。備え付けのスティックシュガーを即ウーロン茶に入れるヨハンに、翔が、うえー、と舌を出してみせる。 「それにオレは興味があること調べるのは好きだし」 「留学生って、みんなそんな感じね?」 「どうだろ。でも、ジムとオレはそうだよな」 アウトドア派だが、実際には地質学・古生物学などでは専門家レベルのジム。そして、ヨハンは宝玉獣たちへの興味から派生したのか、歴史や文化人類学、あるいは神話や古典文学などに造作が深い。双方、どちらも"好き"から派生したものだろう。好きこそ物の上手なれ、とはけだし至言である。 「でも、十代、あの科目は好きでやってるのよ。知ってる?」 ずー、とやる気がなさげにウーロン茶を啜っていたヨハンが、眼を上げた。明日香を見てちょっと驚いたような眼をする。明日香はくすくすと笑いながら、「はい」とヨハンにテキストを渡す。十代たちが使っているもの。 「なんだこれ…… DMにおける確立数学と基礎プログラム!? これ、オベリスククラスの教科書じゃんか!」 「そうなのよね」 ためしにページをめくってみると、もう、一目でうんざりするような数学記号の羅列だった。うえええ、とヨハンは舌を出す。渋いものでも噛まされたように。 「十代が…… これが…… 好きぃ?」 どう見ても、一番嫌いそうな分野だ。 「今はちがうけど、昔は三沢くんとかにも聞いてたみたいだし。あ、三沢くんって、理系の同級生ね。今はちょっとアカデミアを出てるんだけど」 「……」 世にも胡乱な眼になるヨハンに、翔と剣山が嬉しそうにパチンパチンと手を打ち合わせる。ヨハンが嫌がればなんでもいいのだろうか。 「アニキはああ見えても、できる子なんっすよ!」 「そうドン!」 「いや、でも、なぁ?」 これこそ、デュエルにはいらないジャンルの最も足るもののような気がするのだが。 「でも、昔からアニキ、この科目は真面目だったっすよ。なんだかんだいいつつ、いつも上のクラスだし」 ヨハンは、必死でテキストにかじりついている十代を眉を寄せてみて、それから、テキストに眼を戻した。ぱらぱら、とまためくってみる。延々と続く数式の羅列。基本は理解していた。つまりこれは、さまざまなファクターの絡みあうDMというゲームを手作業で演算するための科目なのだ。 「わっかんねえ……」 ヨハンは首をひねる。 こんな散文的なモノの、どこが、あの十代をこんなにもひきつけるんだろう? その瞬間、万丈目が、「よし、休むぞ!」と宣言した。同時に十代が「終わったぁ……」という情けない声と共に、びっしりと数式で埋め尽くされたテーブルの上に、つっぷした。 頭を使ったら、欲しくなるのは、甘いものだ。 「えー、なんで基礎理論好きかってー?」 「そう。これ、どこが面白いんだ? わからねえ……」 卓を囲んで、一時の休憩。みんなでしばし菓子を食う。 甘いものには脳への栄養補給の意味があるし、スナック菓子をさくさく食うとストレス軽減になる。そんなことを誰が言っていたのか忘れたが、とにかく勉強をしながらたべるお菓子は美味しい。もぐもぐと麦チョコを噛みながら、「えーっとなあ」と十代は首をかしげた。 「面白いー。……面白い。えーっと、どう説明したらいいんだー?」 「説明してみろ、十代」 そこに熱血家庭教師の厳しい指導が入る。 「小論文で出題されるかもしれないぞ」 「ええー、えー、えー」 「そこのデュエル馬鹿二号にもわかるくらい砕いて説明すれば、貴様でも点も取れるだろう」 「あー、うー、えー」 十代の頭から、プスプスと音を立てて煙が出るのが見えるようだ。ぷっ、と明日香が吹き出す。十代は世にも情けない顔をした。 「なんかおれ…… 今日本語まともにしゃべれないんだけど……」 「じゃあ数字で喋れ」 「ひでーよまんじょうめさんだー……」 「ひらがなで喋るな。悪い頭がますます悪く聞こえる」 テーブルの上を走っていったルビーが、ぴょん、と十代の頭に乗る。自分の主人に甘えていたのを横取りされたハネクリボーが抗議らしく押しのけようとするが、しっかりと十代の髪の毛にしがみついたルビーはどかない。それどころか小さな牙を見せて、ふーっ、と威嚇などをしてみせる。十代の情けない顔がますます深くなる。思わずヨハンは笑ってしまう。分からない翔と剣山はちょっと不満げな顔をして、明日香はやれやれと笑った。 「十代はね、今のデュエルディスクに使われてる基本アルゴリズムの発案者と、知り合いなのよね」 「ええ!?」 「うん、そう。モクバさん」 十代はなんとかおきあがる。「えーと」と言った。 「モクバってあの…… KCの?」 「ちょっとしたことで知り合ったんだ。なんか、親切なお兄さんって感じでさ。最近は会わないけど、アカデミアにはいるまではよく遊んでもらってた」 海馬モクバといえば、KCの副社長にしてトップクラスの技術者だ。KCのトップは当時まだ高校生であった海馬瀬人が受け継いで以来、一種天才的な才能を持ったこの兄弟に支えられ続けている。彼らのすごいところは単に経営などにだけではなく、実際に自分たちの携わっているジャンルにおいて第一線の技術者といえる造作と能力を持っているところだろう。 「なんかな」と十代は首をひねる。 「大昔に、モクバさんに、"オラトリオ"の基礎を説明してもらってさあ」 それを聞いてから、あー、すげえなー、と思ったー、と十代は言う。 「……それじゃD評価だ」 「うえええ」 「もっと詳しく、どこがどう"すごい"のか、説明しろ!」 ―――"オラトリオ"は、海馬モクバが開発した、もっとも根底的なDMのためのアルゴリズム、そして、それを運用しているプログラム体系の名だ。 次々と新しいカードが発案され、さらに、ルールなども次々と改竄が加えられる。そんなDMが全体のゲームバランスを崩すことなく、なぜ、ゲームとして成立することができるのか。それは"オラトリオ"の手によるものが大きい。ディスクを使わずにテーブルで遊ぶDMにおいてもそうだし、デュエルディスクを使うプロクオリティのシステムならなおのこと。"オラトリオ"はすべてのカードを把握し、他のカードによってまったく対応の出来ない"詰め"のカードが作り出されないようにする。その対応は何らかのカードを禁止にする、という形だけではなく、新しい方向へと可能性を育てていくほうへと適用されるのが、上手いところだ。 「モクバさんが言ってた。誰にも勝てない、最強な、でたらめなカードができちゃったら、その瞬間にDMは死んじゃうんだって」 首をひねりひねり、十代が言う。 「一枚のカードが、ほかの無数のカードと出会って、そこで作り出すハーモニーが常に美しくあるように、って言う基本理論が、オラトリオのコンテイ?にある?」 あれコンテイってどういう意味だっけと十代が言う。そこはいい、と万丈目に怒られる。 「えーっと、クラシックの音楽とかだと、ありとあらゆる音が使われるだろ。バイオリンとかピアノとかいろいろ。でも、一つの音がとびだして、全体がむちゃくちゃにならないように、楽譜全体を見るときれいにできあがってる。それとおんなじで、モクバさんは、ガッチガチにルールで拘束するんじゃなくて、最低限のルールの上で、全体が調和することを目指して、DMそのものが成長していけばいいんじゃないかって考えたんだってさ」 「へえ……」 「そういうのって細かいところをみると、いろんなルールで出来上がってる。それが音楽でいうとひとつひとつの楽器の楽譜になるわけ。でも、DMが普通の音楽と違うのは、世界中に常に演奏してるやつがいて、そいつらが演奏してる音楽が、お互いにお互いの存在を知らなくっても、ひとつのハーモニーになるようになってるってこと」 なかなか詩的な言い方だ。ヨハンは感心し、目の前のテキストを見下ろす。そんな風に思ったことなんて無かった。 「つまり、どこかで誰かがデュエルをしている、それを地球規模で見たら、ひとつの音楽みたいになると」 「それだけじゃなくって、デッキを組んだり、カードを新しく作ることも、DMっていう全体に繋がることなんだぜ。たとえ誰もしらないところで、誰かが勝手に考えたカードでも、それがよっぽどむちゃくちゃな内容じゃない限り、"オラトリオ"はDMっていう全体に組み込まれて、音楽の一部になるようにしてくれるんだって。たとえ世界に一枚しかないカードでも、それがもしも数百枚、数千枚あっても、DMっていうゲームそのものが崩壊しないようになってる。それは"オラトリオ"のおかげなんだってさ」 「へーえ……」 「あ、でもそれってデータベースにアクセスして、いちいち一枚づつに対応して考えて、っていう感じじゃないらしいぜ」 それでは、どんなに計算速度が速いコンピュータでも、破裂してしまう。 「そうじゃなくて、あくまで"オラトリオ"は、指揮者。一枚一枚で考えるんじゃなくって、ゆるやかな全体のながれそのものの調和ってもんをたもつのが、"オラトリオ"の目的なんだってさ」 これでどう? と振り返る十代に、万丈目は腕組みをする。 「……B+」 「マジ!? やったあ!」 「アホかっ、やるならAを目指さんか。お前には向上心が無いのか!」 わいわいと言い合っている二人。「これじゃあ勉強してるのと同じだよ」とぼやく翔。だがヨハンは感心していた。なるほど、そういう言われ方をしてみると、なにやら手元のテキストが、ずいぶんと面白いものに見えてくる。開発者の言葉はさすがに違う。 「なるほど、ゆるやかな全体、ねえ……」 ひとつひとつのデュエルについて考えても、DMというゲームそのものの全体など、意識したことも無かった。 感心しているヨハンに、ふと、振り返った十代が、言った。 「つまりさ、"オラトリオ"には、DMってもの自体の守護天使が住んでるんだ」 「……天使?」 「うん、天使」 いきなり話が飛んだ。 「その話、初めて聞いたドン」 「あれ、話してなかったっけ。おれ、モクバさんに見せてもらったことがあるんだ。DMの守護天使」 十代は笑った。幸せそうに。 「モクバさんが言ってた。"オラトリオ"ってのは、その天使を奏でる音楽なんだってさ。そう思うとなんだかすげぇいいなぁと思ったから、いまでもおれ、ここらへんは真面目に勉強しちゃうんだ」 DMの守護天使。 なんだか不思議な話だなぁと、ヨハンは首をひねった。 天使のカード、というのなら分かる。天使をモチーフにしたカードは数々有るし、なかには本当に"天使"の精霊が住んでいるカードもある。だがしかし、DMそのものの守護天使、という表現はヨハンのいままで考えてきたどんな表現とも違っていた。 しかも十代は。 「天使"の"奏でる、じゃなくて、天使"を"奏でる?」 日本語は難しい。そのふたつはニュアンスがまったく違う。 うーむ、とテキストを睨んで唸るヨハン。だが、考えても分からない。ため息をついてすぐに投げ出した。 《どうしたんじゃ、ヨハン。ずいぶんうなっとったが》 《腹でも下したか?》 「あー、タートル、タイガー。聞いてくれよー」 ごろんと寝返りを打ったヨハンは、枕の上に寝そべって、愛しい家族たちを前に、口を尖らせた。 「お前ら、"DMの守護天使"って、会ったことある?」 《……うん?》 《はぁ? なんだそりゃ》 やっぱりか。 ヨハンはため息をついて、ばふっと枕に顔を埋める。 「そうだよなあ。……なんでも、この中にいるらしいんだけど」 ヨハンはテキストを開く。タートルとタイガーが中を覗きこみ、それぞれ、なんとも複雑な顔を見合わせた。 「うううーむ分からないーっ!!」 《分からないなら、分からないでいいんじゃなかったのかの?》 「それでもいいけど十代が好きなもんがオレにはわかんないってなんか悔しいぜ!」 《……愛だなあ》 ぼそり呟く虎はほうっておいて、ヨハンは、埋まっていた枕からがばりと起き上がった。携帯端末を手に取り、と、やめる。葛藤する顔はなんとも凄まじい。 「聞く…… 聞いて分かるのはなんか悔しい…… でも聞かないとわからねえ! うぎゃーっ!!」 《おいおい、壊れたか?》 「なにをいうオレは冷静だっ」 どこが。 チョロチョロと走っていったルビーが、なんとも不思議そうに大きな耳を傾ける。そして、てくてくと歩いていき、ドアをすり抜けていったルビーに、ヨハンは、気付かなかった。だから、そこに誰がいるのかも。 《るーびー……》 《くりっ?》 「うーわー、めずらしいなあ、ああいうヨハン……」 ちょろちょろと十代の肩を登ったルビーは、なんとも困ったように小首をかしげる。十代はその咽のあたりを撫でてやる。 「でも、やっぱりおれ、ヨハンのこと、大好きだなあ」 そんな風に笑う十代に、ルビーは、眼を瞬く。「だってさ」と十代は幸せそうに言う。 「見たこともないもの、考えたこともないものなのに、ヨハン、おれのこと絶対に疑わないだろ? ルビー、お前のご主人様って、むちゃくちゃいいやつだよ」 ―――十代自身にも説明のつきかねる、あの、不思議な存在について。 たぶんヨハンは、しばらくしたら気付くだろう。そうじゃなくても、たぶん、業を煮やして十代に聞きにくる。もとから聞かせてやるつもりで来たのだったが、こういう感じだったら少し困らせてやってもいいかな、と十代は思った。ルビーにやきもちを焼いたのか、すりよってくるハネクリボーのふわふわした毛を、ぽふぽふと撫でてやる。 「お前らの中にも、"天使"がいるんだよなー」 思い出す。あの日モクバに言ってもらったこと。聞いた話。 ……分かるか、十代。つまり、あの木とおんなじなんだ。カードは一枚一枚が無関係にあるんじゃなくて、一枚のカードはほかの全部と関係がある。たとえデッキに組み込まれていなくても、ひとりぼっちのカードなんて、このゲームには一枚もない。 「木?」 「むっかしいかな、お前には」 笑う。そんなモクバは、ゆっくりと歩いていって、大きな木の幹に手を当てた。冬だった。けれど、それでも青々とした美しさを失わない、大きなもみの木。 もうすぐクリスマスだ。木には星が捧げられ、きらめく電飾が飾られ、うつくしく装う季節が来るのだろう。だが、今でもその木は充分にうつくしい、と十代は思った。 「ほら、この葉っぱ。トゲトゲしてるだろ。この木の葉だぜ」 モクバは十代にひろった葉を見せた。十代は眼をおおきくして見ているしかない。 「この葉っぱは、この木か?」 「ええ? ……ち、ちがう」 「うん、そうだよな。葉っぱは木じゃない。木の一部だ」 モクバは指を離す。葉はちらちらと落ちていった。 「でも、葉っぱが一枚も無くなったら、この木は木でいられるか?」 「……」 「葉っぱは木じゃないけど、葉っぱの無い木は、木じゃない。一部は全体じゃないが、でも、全体は一部の集合で成り立ってる。……難しいかな」 とりのこされて泣きそうな十代に気付いて、すぐに、モクバは苦笑しながら言葉を切った。十代の傍らにしゃがみ、頭を撫でてくれる。やさしい笑顔。 「うん、つまり、なんていえばいいのかな。オレはね、昔、天使にあったことがあるんだ。そうして、その天使にお願いしたんだぜ」 「おねがい?」 「うん。ずうっと、このゲームと、いっしょにいてください、ってな」 眼を細めて笑うモクバを、十代は、まぶしいものも見るように見上げた。その顔がかわいかったのだろう。モクバはごしごしと十代の頭を撫でると、「行こう」と言った。 「見せてやるよ、”天使”を」 「え?」 「特別さ。今回、クリスマスのイベントで、特別に”オラトリオ”のエキシビジョンをすることになったんだ。でも、来られないんだろ、十代」 「うん……」 しゅん、とうなだれる十代。仕方が無い話。だから、モクバに会いに来たのだ。両親の仕事なんだから仕方が無い。……でも、さみしい。 「そんな顔すんなよ。だから、今日、プレゼントを準備してやったんだぜ?」 お前に”天使”を見せてやる、っていう。 ―――モクバの話は、そのときは難しくて、まだ小さかった十代には、よく分からなかった。 けれど後々になり、アカデミアに進学して、専門的なテキストを読むようになって、はじめて理解ができたこと。あの日、モクバが見せてくれたのが、”オラトリオ”の最も重要な機密に抵触することだったのだということ。 ”オラトリオ”は、解析はされても、攻略不可能なプログラムだと言われている。 根底はあくまでシンプルでありながら、全体を見たとき、そこに織り成される像を予測するのは不可能な、あまりに精緻なプログラム。根底となるアルゴリズムは複雑に絡み合い、無数の枝が大樹のように伸び、瑞々しい翠の葉を茂らせる。そのようなプログラムに”oratorio”…… 古典的でありながら叙情的な、一種の聖歌の名が付けられたのは、間違いなく、ふさわしいことだったのだろう。 一枚一枚のカード、一度づつの出会い、すべてを堅固な法則で縛り付けるのではなく、全体がゆるやかな調和を保ち続けるようにと、定める。 硬く凍りついた”完璧”ではなく、瑞々しく枝葉を伸ばしていく”成長”を選ぶ。 ”天使”を硬い殻の中に捕らえるのではなく、織り成される旋律そのものが、”天使”を奏でていく。 ”天使”の想い、”天使”のまなざし、些細な笑い声や、ちょっとした腹立ち、いたずらっぽいたくらみ。 すべてが調和しているのは…… そこに、本当に、”天使”がいるからに、他ならない。 「相棒、ルビー、ほんとに知らないのか?」 小さな二匹は、十代の言葉に、それぞれ不思議そうな顔をする。きょとんとした大きな眼、傾げられる大きな耳の小さな頭。 かわいい。それぞれ頭や咽を撫でてやりながら、十代は眼を細める。 「おまえたち皆が、ひとつの音楽の、一個一個の音なんだぜ。それに、おれたちも」 ……十代は思い出す。今まで、”オラトリオ”が実用化されてからに演算された、すべての記録を視覚化、音声化した、特別なプログラム。巨大な伽藍を舞台として借りきったエキシビジョンは豊麗で豪奢で、けれど、モクバが十代に見せてくれたのは、その奥底にいる、まったく別の存在だった。きらきらと眼を驚かせる鮮やかさとも、騎士物語にも似た驚嘆をさそう迫力とも、異なるもの。それら全ての効果によって、”奏でられている”、根底にある居る存在。 少年に、見えた。 乳色に透き通った白い肌と、翠の髪。青い眼をした、モクバと同い年くらいの、聡明そうな少年。 けれど、その姿は、すぐに、ほかのものへと変わった。彼は自分の姿を自在に変容させうるのだった。喜びのカンタータ、悪戯顔のマドリガーレ、感嘆に満ちたレチタティーヴォ。彼は織り成される旋律の中で自在に生きた。ひと時も留まることのない歓び。生きることそのものを愛する、限りない幸福。 ”生きること”で、彼は、歌を紡ぐ。 制止することのない、無限の伸張。それよりも本質的な、ただ、”そこにいること”への限りない幸福感。 「あんなきれいな”天使”が、こんな、堅苦しい数字の中に隠れてるんだぜ」 十代は少し笑い、テキストの拍子を撫でる。擦り切れてしまった古い古い入門用のテキスト。 「おれには、モクバさんみたいに、この数字の中に隠れてる”天使”は見ることはできないけど…… でも、すっごいだろ?」 十代は軽く頭を傾けて、ドアに耳をあてる。ヨハンはまだ中で悩んでいるらしい。 「誰にも秘密にしてたんだけど、ヨハンにならおしえてやってもいいかな、って思ったんだけどなあ」 でも、こういう風だったら、もうちょっと悩ませておいたほうがいいかもしれない。 「そう思わないか?」 《くり〜?》 《るびっ》 くすくすと十代は笑い、膝を引き寄せる。”ひみつ”を隠した、悪戯っぽい、幸せな笑み。 十代はテキストに額をくっつける。そこに書き込まれた数式が奏でる、レースのように精緻に描かれ、夏の木々のように健やかに伸びていく、ひとつの聖譚曲。 十代は眼を閉じる。思い出す。モクバと手をつなぎ、覗き込んだ、複雑な旋律のそこにいる、一羽の天使を。その喜び、その哀しみ、ちょっとした驚き、瑞々しい喜び。 ”天使”はどこにでもいる。彼らと共に、精霊たち、そして、遊び続けるよろこびがある限り。 ―――今も、たゆまず奏でられ続ける旋律のどこかで、一羽の天使が、笑っている。 ひとつの人格を、ひとつの演算で再現するっていうちょっとSF風のアイディア…… の、生焼け版(苦笑) ”オラトリオ”のアイディアそのものはその後また回収するつもりです。モクバくんが技術者として後々どういうことをやったのかは、そのうち、書いてみたいところ。 そして、万丈目はきっと十代にお勉強をいちいち教えていると思います。なんだかんだいっていいやつだからな、サンダー! ←back |