”鏡一枚…… それは人形が神から死を禁止されているということです。夢を裏切らないという代償に、死を神に捧げたという事です。” 《KATAN DOLL ”解かれたガラスのリボン” 天野可淡より 》 クリスマス、外が賑やかになり、うきうきとしたような音楽の流れ出す季節。街が電飾ときらめくリボンで、美しいさまに飾り上げられる季節だ。 街角だとケーキだの玩具だのを売る人たちの声がにぎやかで、冬の寒さも厳しくなり始めるけれど、気持ちは明るくなりはじもする。気の早い人々は12月も頭からツリーだのリースだのを飾り始め、夕方ごろには明るい街角に人々の足取りも軽い。そんな街中を、遊戯は、バックを片手にてくてくと歩いた。あちこちのショーウインドウ、華やかな装飾や、フロストスプレーの模様などが飾られた町並みを。 普段なら、友人たちを伴って歩くところだろう。けれど、今日ばかりは遊戯は一人だ。マフラーを巻き、コートを羽織って、手にしたメモ書きを確認しながら、あちこちのショーウインドウを覗き込む。おもちゃが飾られていたり、プレゼントのカード、あるいは可愛らしい意匠の菓子たち。どこを見ても気もそぞろ、何を選べばいいのかと思うと迷ってしまう。 ―――遊戯は、友人たちのため、プレゼントを選びに来たのだ。 とはいえ、ゲーム好きの皆のこと。そう簡単に選べないのが難しいところ。一人ずつに買う、という形にはどうしたってならないだろう。やっぱりビンゴだか、プレゼント交換になるんだろうなあ、と遊戯はのんびりと考える。 ひとり、ふたり、さんにん。それぞれ皆の喜ぶ顔を想像しながら、誰になにがいったら面白いかなあ、などと考える。 「あ、これ、レッドアイズだ!」 窓の向こうでUFOキャッチャーに、見覚えのあるデザインのぬいぐるみをみつけ、ようし、と遊戯は拳を握る。これで一個ゲット。これなら確実だ。 遊戯はゲームセンターに入り、キャッチャーにコインを放り込んだ。こんなの、簡単だ。羽の下あたりに狙いをつけて、フックを引っ掛ける。見事にレッドアイズが釣れる。可愛らしいぬいぐるみを入手して、思わず、「よしっ」と笑顔がこぼれる。 きちんと紙でくるんで、リボンをかけてやらなくちゃ。 きっと静香ちゃんはすごく喜ぶし、城ノ内くんはもちろんだし…… モクバくんあたりに渡ったら、それはそれで、面白い一騒動がおこりそう。 そうあれこれと考えていると、頭の中をふと、もう、プレゼントも渡せない大切な人の面影がよぎる。打ち消したりはしない。遊戯は軽く気合を入れなおし、再びコインを放り込んだ。 ―――UFOキャッチャーのガラスには、ほんの数ヶ月前よりずいぶんと大人びた印象になった、自分の顔が写っている。 外に出ると、ふと、目の前を白いものが、掠めた。 「……雪?」 見上げると、灰色の空。ゆっくり、ゆっくりと、白い羽毛のようなものが、落ちてくる。 まだ12月も頭なのに雪が降るなんて、と遊戯はわずかに驚く。想像どおり、そんなに気温が低いわけではないから、雪は積もることなく、すぐにアスファルトへと溶けていく。つもらない雪。手袋に受けた雪はすぐに溶けて、どことなく煤けた感じの色を残した。埃にまみれた、積もらない、灰色の雪。 けれど、雪はあとから、あとから、降り積もってくる。積もらないということが分かっているにもかかわらず、しだいに雪は色濃くなり、まるで、視界を閉ざすかのような純白となる。このまま歩いていたら荷物が濡れてしまうかも。遊戯は諦めて、丁度行きあった、いい加減な店のひさしの下に飛び込む。 「あーあ」 ため息。せっかく、プレゼントを今日中にそろえられるかと思ったのに。 この様子だと、この雪は積もらず、明日には濡れたぐちゃぐちゃのぬかるみだけを残すんだろう。どうせ降るんだったら積もってくれたらロマンチックだったのになあ、と遊戯は思う。まあ、お天道様にグチを言ったって仕方ないとは思うけど。 白。 純潔を意味する純白でも、永遠を意味する凍結でもない、すすけた灰色の、すぐに溶けてしまう、雪。 ふと、視界の端を、何かがよぎった。遊戯は釣られるようにふりかえる。……そこに、暗い、ショーウインドウがある。 クリスマスらしい様子の衣装のテディベア、アンティークなツリーオーナメント。人形用だと分かる小ぶりなティーセット。アンティークショップだろうか。なんで振り返ってしまったんだろう。そう思いながらなにげなく店の中を覗きこんだ遊戯は、ふと、そこに、あるはずのない姿を見る。 鏡。 店の奥に置かれた、金の飾りに縁取られた、姿見の鏡。 その中に、白い髪、蒼白な肌のひとりの少年が、写っている。 その眼。餓えたような、渇いたような、暗い光を宿した、薄い色の双眸。 「――!?」 遊戯は、驚愕した。忘れるわけが無い。忘れられない。消え去ったはずの、その、面差し。 とっさに遊戯は、周りを見回した。ドアを見つける。《CLOSE》の札がかけられていたけれど、とっさに掴むと、鍵がかかっていないことが分かった。ドアを開ける、中に飛び込む。乾いた薔薇のような、埃っぽい、古い香りが、身体を包む。 大きな鏡。暗い鏡。そこに写っている後姿。真っ白な長い髪。痩せた肩。 「キミは……!?」 思わず声を漏らす遊戯に、けれど、帰ってきたのは、予想とは違う返事だった。 「あれ? ……遊戯くん?」 どことなく能天気な風情の声。それは、遊戯にとってはより覚えのある、けれど、予想していたのとは違うもので。 鏡の中の影が背を向ける。それと同時に振り返ったのは、もうひとりの少年だった。白い髪と、穏やかな面差し。どことなく夢見るような風情の眼。 呆然と立っている遊戯を見て、ぱちくりと眼を瞬く。そして、「どうしたの」と微笑んだ。 「獏良、くん?」 「あれ、お店、閉店の札を出しといたはずなんだけどなあ。どうしたの? 何か用?」 思わず眼をこすっている遊戯へ、少年は、獏良は、なんとも不思議そうに眼を瞬く。おっとりと笑った。手にしていた何かを置いて、立ち上がる。 「うわあ、すごい袋だね。なにこれ、レッドアイズ? こんなぬいぐるみ、初めてみたや」 どこでみつけたの、と面白そうに言う少年は、獏良、遊戯にとって同級生である、獏良了に他ならない。遊戯は困惑を含めてその横顔を見る。なんで間違ったんだろう。……これは、どう見たって、獏良くんじゃないか。どうして間違えたの? もういなくなったはずの、”もうひとり”と? 「獏良くん……」 「何?」 「何してるの、ここで」 「あー、お店番だよ。ぼく、ここのオーナーさんと、仲がいいんだ」 「そう、なの?」 「うん。……ちょうどいいや、暇だったんだあ。遊戯くん、お茶でも飲んでいかない?」 「う、うん」 いつもの獏良だ。遊戯は思わず眼をこする。そんな遊戯にちょっと笑って、獏良は立ち上がった。 「紅茶しかないんだ。いいかなあ? ミルクが美味しいんだけど」 「いいの?」 「うん、雪が降ってきたしね、寒いでしょう。ぼくもお茶淹れなおそうかと思ってたところだから」 カタン、と音を立てて立ち上がったテーブルを見ると、なにやら、裁縫セットのようなもの、それに、義眼のようなものが転がっている。おもわずぎょっとして身を引く遊戯に、獏良はちょっと笑い、「この子のだよ」と傍らの椅子から何かを抱き上げる。……およそ、60cmくらいもあるような人形。 「ちょうどいいや、この子にも、淹れてあげようね」 「これ…… どうしたの?」 人形を元通りに座らせると、奥へと獏良が引っ込んでいく。遊戯は思わずまじまじと人形を見る。 ……控えめに言っても、仮に城ノ内だったら、悲鳴を上げて飛びのきそうな人形だった。 おそらく西洋人形だろう。陶器でできた、あどけない面差し。けれどその顔は薄汚くすすけ、顔にはヒビが入っている。髪はひきちぎれてよごれ、ドレス代わりに着せられているんだろう銘仙から見える四肢は、片腕と片足が欠けていた。およそ、可愛らしいという印象ではない。むしろ、”のろいの人形”とでもいう風情だ。 まじまじと人形を見る遊戯に、獏良の声がのんびりと答える。 「その子ね、えーと、ぼくが修理を頼まれてるんだ。修理っていうか、リメイクかな」 「誰から?」 「別に、誰でもないよ。しいて言えばオーナーの趣味かな」 じっと見つめていると、何か、ぞっとする。遊戯は思わず椅子を人形から遠ざけた。 ―――店の中を見回すと、同じような人形が、何体も目に付いた。 それほどぼろぼろに汚れているものがある、というわけではない。けれど、市松人形や、ビスクドール。どれも古びたものばかり。中には例外的に新しい風情のものもいるけれど、その容姿はどことなく異様だった。すぐに気付く。彼らは仮面を被っていたり、眼の色が左右で異なっていたり、あるいは道化めいた化粧が施されていたりするのだ。ちいさな椅子に座っていたり、棚に腰掛けていたり。誰もがじっと遊戯をみているよう。背筋がぞくりとする。 「あー、怖い?」 「……ちょっとだけね」 「かもね。遊戯くんは勘がいいもんね。この子たち、オーナーが、人形供養とかのところでもらってきた子たちなんだ」 「!?」 ふりかえる獏良の手には、アンティークなティーポット。棚からセットのカップを出し、もう一つ出してきたのは、人形遊び用と思しい小さなカップだった。ポットに子ゼーをかぶせ、砂時計をひっくり返す。そうして、完全に腰が引けている遊戯に、なんとも可笑しそうに笑った。 「人形供養って…… つまり、アレでしょう。呪いの人形?」 「うん、髪の毛が伸びたり、しゃべったりする、っていうね」 「……」 平然と、恐ろしいことを言っている。 顔のひびわれた人形を椅子へと座りなおさせ、獏良は、乱れた髪をなでつけてやる。引きちぎれた髪の人形へと、遊戯は、なんとなくきしむ動作で目線を戻した。呪いの人形。……呪いの? 「そ、それも……?」 「らしいね。もっとも、ぼくはこの子が喋ったり、動いたりしてるのなんて、みたことないけど」 平然と獏良は言っているが。 《お、オカルト……》 何を間違えれば、そんな恐ろしいものに、自ら関わろうという気持ちになるのか、遊戯にはさっぱり分からなかった。 テーブルの上を見ると、作業の最中だったのか、布やレース、針や何かが転がっている。獏良が縫っていたのだろうか。そろり、と見上げる遊戯に、獏良は苦笑した。 「そんなに怖がらなくってもいいのに……」 「う、うん、そうだよね。呪いなんてあるわけないよね」 「え、あると思うけど、ぼくは」 話が繋がらない。くらり、と遊戯は目眩を感じた。 そうだった、獏良くんって、こういう人だった。 見た目ならふわふわとして人形めいた美少年だが、口を聞かせてみると、なにやら、世間とずいぶんと価値観がずれているところがある。友人だから気にしたことはないけれど、いざ、二人きりになってみると、その個性は強烈だ。でも、やっぱりそう言っているからには獏良なりの理由があるには違いない。そう思い、遊戯は、丁寧に紅茶を注いでくれる獏良の顔を、まじまじと見る。 「この子にも淹れてあげようね。アールグレイのミルクだけど、気に入ってくれるかな」 「その…… 獏良くん、なんで、こういうことをやってるの?」 「うん、話してなかったっけ。ここ数ヶ月くらい、うーんと、ここで人形の修理の手伝いをやらせてもらってるんだ。オーナーが熱心なドールオーナーでさ。それにぼくもアンティークが好きだから、前からよく、この店に出入りしていたんだ。古い鍵とか、アクセサリーとか瓶とか、TRPGの小道具に使えることがあるから」 遊戯は複雑な気持ちで紅茶を一口飲んだ。少し埃っぽいような、不思議な味が、口の中に広がる。 「そのときにね、ひとり、人形を見つけてさ」 「……やっぱり、呪いの人形だったの?」 「うん」 それはオーナーが知人から譲られた人形だったらしいんだけど、と獏良はごく気軽な様子で話し始める。 「夜中に声が聞こえるとか、歩き回ってるような気がする、薄気味悪い、って預けられたんだって。もともとは焼いてしまうはずだったらしいんだけど、オーナーが、かわいそうになって拾ってきてしまったんだって。でも、どうしようもないからって、そのままで店の中に置かれていたんだ。……あ、写真あるよ」 見る? と笑顔で携帯を出してくる獏良。見たいか見たくないかと言われたら、どちらかというと見たくなかった。 けれど。 「あれ」 獏良が見せてくれた画面を恐る恐る覗き込むと、その眼に映ったのは、予想していたのとはずいぶんと違った様子の人形だった。 呪いの、というから、おどろおどろしい様子の姿なのか、と思っていたのだけれど。 「ふ、普通、だよね?」 「うん。この子はあまり手を入れてない。ウィッグを変えて、服を変えて、ちょっとメイクを治しただけだから」 透き通るような質感の白い髪と、肌。そして、薄紫色のリップに、道化めいた衣装。 長い靴下と、革の靴。衿の大きく、翠と赤を取り合わせた印象の服は、やはりどことなく道化師らしい印象がついてくる。腕にはかわいらしいウサギのぬいぐるみを抱いていて、頬には星型の模様が書かれていた。感嘆する遊戯に、「ここのは汚れ隠し」と獏良は頬の模様を差す。 「うわあ…… すごい。これ、全部獏良くんがやったの?」 「うん。ほら、もともとぼくはフィギュアとかを作ってるから。素材が違ってちょっと苦戦したんだけど、そこまで未経験の分野ってわけじゃなかったよ」 そう思って、テーブルにいる人形のほうへと眼を戻す。 なるほど、途中経過だから、こんなに恐ろしい印象を受けるのか。獏良は遊戯の眼に気付いたのだろう。にこりと笑うと、テーブルに置かれていた何枚ものデザイン画を取り出して、丁寧に説明をしてくれる。 「ほら、顔のヒビは埋めて、上から模様を書く。眼はこっちの義眼を入れなおす。髪は今ウィッグを発注に出してるから、赤っぽい白に入れ替える。こっちのがボディス、これがスカート」 「この合皮のやつで、胴を締めるの?」 「うん。イメージとしては、ちょっと子悪魔っぽい感じかな。実はこの子、胴体部分もけっこう痛んでるから、きちんと服でカバーしてあげないと、上手におすわりできないかもしれないんだ。だからここに棒を入れとく。応急処置だから、ほんとは専門の人形作家さんに治してもらったほうがいいんだろうけどね」 これはおまもり、と獏良はちいさな十字架を宝石箱から出してくる。 「ローマから買って来た十字架に、オーナーの友だちが、ビーズでアクセサリーっぽい加工をしてくれたんだ。こうやってちゃんとしてあげると、ほら、悪いことをする子には見えなくなるでしょう?」 「うん……」 獏良の表情はやさしくておだやかだ。言葉を信じるというよりも、人形を見るそのまなざしの優しさが、遊戯に、人形たちへの恐ろしさを、ほどいていった。 もうひとりのボクだったら、と遊戯はふと思う。 こういうとき、なんて言ったかな。やっぱり危ないから、気を許さないほうがいい、と言っただろうか。そんな気もした。けれど、ここで気を緩めてしまうことこそが、自分らしい反応なのだろうな、とも思う。 獏良は人形の髪を撫でる。その指先が、いつくしむようにやさしい、と遊戯は思った。 だから。 「ねえ、抱いてみても、いい?」 「抱いてくれるの?」 おずおずと遊戯が言うと、獏良の顔が、輝いた。 「ほんとうに? ありがとう。ほら、こうやってね」 「う、うん」 ……抱いてみると、人形は、思っていたよりも重かった。けれど人間や、他の動物に比べれば、はるかに軽いという程度でしかない重さ。おそるおそる頬に触ってみる。陶器の顔は硬くなめらかだ。恐ろしいとはもう思わなかった。ただ、不思議さを感じる。人間ではない、人間そっくりのものが、自分の手の中にいるという不思議。 意思があるのだろうか、と顔を覗きこんでみても、返事はない。生きているとも、生きていないとも、分からなかった。 「―――ねえ獏良くん、なんで、こういう人形を治そうとおもったの?」 「呪いの?」 「うん」 「うーん」 獏良は小首をかしげる。苦笑しながら、指先で、ロザリオを持ち上げる。 「うーんと、なんだろう。……可哀想だから、かな」 「かわいそう?」 獏良はわずかに眼を伏せる。長いまつげも白い。その白さに、ふと遊戯は、積もらない雪の鈍い白を思い出す。 「ほら、こういう人形って、人にいろいろと語りかけてくるってことでしょう。話しかけたり、動いたり、ね」 「うん……」 「しかも、ここにくる子たちって、きちんとお寺とかでお経を上げてもらって、でも、まだ未練の残ってる子ばっかりなんだ。まだ消えたくない、まだ誰かに抱かれたい、まだ愛されたい、そういう子たち、ばっかり」 「……」 怖がるべきなのだろうか。そう思いながら、遊戯は、こわごわと人形の手にさわってみる。あまり大きくは無い遊戯の手にも、収まってしまうほどの、小さな陶器の手。 「かわいそうじゃないか」 獏良はぽつりと呟く。 「もともと、人形って、だれにも愛してもらえなければ、消えてしまうだけ。誰も消えたくって消えているわけではないはずなのに、忘れられたら埃をかぶって、そのうち捨てられて。……でも、ときどき、一生懸命に声を上げて、人を呼ぶ子たちがいる。まだ生きたい、まだ愛されたい、まだ、まだ、って」 「それが、この人形たち?」 こくりと獏良はうなずいた。 「でも、理由があったからって、人を驚かしていいっていうことにはならないかもしれないね…… むしろ、みんながそう思うのかもしれない。でもぼくは、できれば、この子たちがもう一回誰かに愛されるために、できる手伝いをしてやりたいと思ったんだ。誰かが名前を呼んで、抱いてあげて、愛してくれるようになるための、手伝いを」 「名前……」 「名前が無いんだ、この子たちには」 獏良は少し笑った。哀しそうに、いとおしそうに。 「誰かがこの子たちを愛してあげて、名前を探してあげるまで、この子たちは眠れないんだ」 「獏良くんがつけてあげるんじゃ、だめなの?」 「だって、ぼくはあくまで修理をしているだけで、この子たちのご主人じゃないもの。……ぼくじゃ助けてあげられない。できるのは精一杯、次の誰かのところへといけるように、きれいにしてあげるだけ」 ふと、眼を上げる。薄い色の眼が遊戯を見た。どことなく茫漠とした眼。かなしそうな眼。 「―――誰からも名前を呼ばれないで、忘れられて、怖れられて、ただ消え去るだけなんて、哀しいよ」 誰からも名前を呼ばれず、忘れられ、怖れられ、消え去るだけ。 遊戯はそんな存在を知っていた。覚えていた。名前すら無くしてしまった、ひとりの、男のことを。 ”ばくら”はこの少年の名であって、彼の名ではなかった――― と遊戯は思う。 彼はもうひとりの遊戯、今は名を取り戻し、はるか過去へと去っていった彼の、宿敵だった。人を苦しめる邪悪な存在で、誰も愛することは無く、誰からも愛されることはなく、怖れられ、滅ぼされ、消え去っていった。 けれど、何故なのだろう。 彼、にもっとも苦しめられたはずの獏良が、今哀しんでいる相手というのが、その彼に他ならないように思えるのは。 遊戯は、獏良の肩越しに、鏡を見る。その彼を見たと錯覚した鏡。今は暗く、そこには獏良の後姿、そして、自分の顔だけが写っている。真綿の白の髪がながれる背だけが写っている鏡。そこに写っているのが獏良なのか、それとも”彼”なのか、判別のしようが無かった。 ……獏良は、彼のことを、知らないはずなのに。 人形としてあやつるために獏良の記憶を消し去っていた彼。だから、獏良は彼のことを何一つとして知らないはずだ。その邪悪の理由も、彼が名を持たずに消え去ったという事実も、誰からも愛されるということを拒んだ生き様も、知らないはずだ。 ―――なのに。 「怖くないの」 遊戯はもういちど、問いかける。 「誰かのことを憎んで、うらんで、傷つける、そういう魂でも、君には怖ろしくはないの」 獏良は眼を瞬く。意外なことを聞かれた、とでも言う風に。やがてくすりと笑んだ。どこかしら寂しそうな笑み。 「怖いよ。……でも、それだけだ」 「それだけ、って」 獏良は静かに答えた。 「怖いけれど、嫌いじゃないんだ。もしも望んでもらえるんだったら、そばにいたい。名前を付けて、抱きしめて、ここにいてもいいよ、って伝えてあげたい」 ―――もしも彼が、ぼくを望んでくれるなら。 「どれだけ怖くても、離れたりしない。ずっと側にいるって、約束するよ……」 気付くと、すでに、雪はやんでいた。 「じゃあ、ボクはもう行くから」 「うん。長話をしてごめんね」 遊戯が店をたつと、獏良は人形を抱いたまま、見送ってくれた。腕に抱いた人形の手を持ち、バイバイ、と挨拶をさせる。その顔はまだひび割れ、眼は欠け落ちていたけれど、もう、怖ろしいとは思われなかった。 遊戯は店の中を見る。姿見の鏡が見える。そこに獏良の後姿が映っている。 遊戯は思う。あるいはあれは、”彼”なのだろうか? ”彼”の思いではなく――― 獏良の想いがそこに止めている、”彼”の失われた魂が、そこにいるのではないだろうか? 「獏良くんも、今度のクリスマス会、来るよね?」 「うん、いく。だって海馬くんがそのぬいぐるみをもらって怒ってるところも見たいしね」 くすくすと笑う。ちょっぴり辛らつなところも含めて、いつもの獏良だ。遊戯は少し黙り込む。そして、「ばくらくん」と、呼びかけた。 「……何?」 「もしも…… キミがまだそこにいたいんだったら、ボクはもう、止めない。キミを傷つけない。キミがボクの大切なものを傷つけない限り」 「え、何、なんなの?」 困惑したように獏良は首をかしげる。けれど遊戯はためらわなかった。まっすぐに告げる。 「ボクは――― もう、キミが怖くない。キミが三千年前に得られなかったものを、ここで得られたらいいなって想ってるよ」 「……」 獏良は何も言わなかった。くすり、と笑う。 「じゃあね、遊戯くん。また今度」 「うん…… また」 遊戯はためらいながらきびすを返す。歩き出す。後ろで店のドアが閉まる。その寸前に、声が、聞こえた気がした。 「ありがとよ、遊戯」 遊戯は、はじかれたように振り返る。 けれど、白い髪の少年はすでにドアの向こうに消えて、その姿も、人形も、どこにも見えなかった。 以前からほしかった天野可淡作品集が復刊されて読んでたら、なんとなく、巻末の言葉にばくらズを思い出してしまいました。カタンドールのたたずまいはどことなく宿主っぽいなーと思いました。怖いけれどきれいなあたりが。髪も白いし。 気付けば、”ばくら”ってのは獏良くんの名前であって、あいつらの名前じゃない…… と思って哀しくなったことより。 そんな同情なんて拒むに決まってますが、どことなく、そういう生き様そのものが切ないよなあ、ばくらズはーと思いました。 ←back |