星の銀貨




 昔、絵本を読んだことがあった。
 それは駅にあったちっぽけな雑貨屋の店頭においてある本で、ヨハンはまだ本当に小さくて、電車の中で昼食に食べるサンドイッチを買うために出て行った母を待つために、その本をたまたま手に取ったのだった。細い細い線で書かれた挿絵がきれいだった。そして、表紙に書かれていた女の子は、コートの上に毛糸の帽子をかぶって、手にはちっぽけなパンの一切れを持っているだけなのだった。
 女の子は、家族も親切な友達もいなくて、めぐみぶかい誰かにもらったパンの一切れだけをもって、一人で歩いているのだった。そうして、彼女の前に、一人のびんぼうらしい男があらわれて言うのだった。
「ねえ、なにかたべるものをおくれ。おなかがすいてたまらないよ。」
 すると彼女は、パンを渡してしまうのだ。
「あなたのうえに神様のおめぐみがありますように」と言って。
 少女の前には、つぎつぎと、人々があらわれた。寒さに震えている女や、こごえた手を持った子どもや、靴ひとつもたない老人が。そして、彼女は、つぎつぎに自分の持っているものをあげてしまう。毛糸で編んだ帽子や、毛織の服や、スカートや、革の靴を。そうしてとうとう彼女は木綿の肌着いちまいになってしまう。そして、彼女の前に、とうとう、素裸でふるえている、もうひとりの少女があらわれる。
 (もうまっくらになっているからだれにもみられやしないでしょう。いいわ、肌着もぬいであげることにしましょう。)
 そう思って、彼女はとうとう、自分の着ている肌着までを、その少女へやってしまう。
 人でごったがえした、ストックホルムの駅の片隅に腰掛けて、ちいさなヨハンはひどく不安になった。胸がどきどきしたのを覚えている。女の子は、栗色の髪の、柔和そうな顔立ちの女の子は、もう、自分の体に何一つとして身につけてはいなかった。凍りついた空が寒そうで、ぽつんと立った女の子の体を覆ってくれるのは、やわらかそうな栗色の髪だけだったのだった。そこはなぜだか荒れ果てた荒野で、腰まで伸びた草も灰色に枯れていた。どんなにか寒いだろう。乳白色の肌がぼんやりと暗がりにうかびあがって、女の子は、いのるみたいに手を組んで、じっと空を見上げていた。
 けれどヨハンは、最後のページを見ることが、できなかった。
「ごめんなさいね、ヨハン! さあ、早く行きましょう。電車が出てしまうわ」
 帰ってきた母が、そういって、ヨハンの手から、絵本を取り上げたのだ。
 母は、本をいそいで絵本のラックに突っ込んだ。雑然とならんだ絵本の束にまざって、すぐにタイトルもわからなくなった。母が、「ごめんね、ちゃんとすぐりのジャムのサンドイッチも買ってきたからね」といったから、ヨハンはとたんに絵本のこともわすれてしまった。

 それでも、ヨハンの中には、ずっと、その女の子の姿が残っていた。
 ぽつんとひとりぼっちで、栗色の長い髪だけにおおわれた素裸で、灰色に枯れた野原に立っている女の子の姿が、ずっと。









「グリム童話って、あんがい、怖い話がおおいっスよねー」
 図書館で、みんなで資料を集めていると、いきなりそんな風に翔がぼやく。みんなの手元には童話の本が山積みだ。いつもの面子であつまり、それぞれ、童話やら民話やらの本を読んでいる最中。なんともいえずげんなりした顔をしている翔に、「どうしたの?」と吹雪が問いかける。
「だって、なんか今読んだ話が、ものすごくどーしよーもないっていうか……」
 ねえ見てくださいっスよこれ、と翔が本を差し出す。そこには、『子どもたちが屠殺ごっこをした話』というタイトルが書かれていた。
「あ、それ有名だよね」
 吹雪が言う。
「あれでしょう、兄弟がちいさな弟を相手に屠殺ごっこをしてさ、弟を殺しちゃって、そのせいで云々という話」
「あー、それっス、それそれ」
「なんだ、それは!?」
 万丈目がせいだいに顔をしかめる。
 ―――アカデミアには、ほんとうに、いろいろな種類のカリキュラムがある。
 それもこれも通常の高校で使うような教科書を採用していないせいで、通常の学校よりも授業時間数がかなり長い分、気づけば選択性の授業でふつうの高校ではまずやらないような授業があったりする。今回、彼らが頭をつき合わせる結果になったのもソレだ。いちおう扱いとしては国語。《フォークロアと神話伝承》というテーマの授業である。
 カードになっているモンスターの由来についてさまざま学び、そして云々、という趣旨の授業らしいのだが…… わけがわからない、といえばわからない。将来、カードデザイナーを目指そうという生徒たちには人気があろうというのはよくわかるのだが。
「えーっとねえ、それ、具体的に言うと少年犯罪の話? 遊び半分で弟を殺しちゃった子どもたちがうんぬんって話で、いちおうオチは二パターンあるみたい」
「へえ?」
 思わず身を乗り出すヨハンの横で、十代が、本を枕にぐっすりと寝ていた。こんなに面白いんだから聞けば良いのに。
「まず、片方は、その子どもたちを罰するかどうか決めるって話。長老が金貨とオレンジを差し出して、金貨を取ったら死刑にして、オレンジを取ったら無罪。で、オレンジを取ったから結局罪になりませんでした、ってのが一パターン」
「なるほど…… たしかに理にかなってるな」
「そう思うでしょ? で、ぜんぜん理にかなってないのがもう片方。それに動揺した母親が兄のほうもぶちころして、その間にお風呂に入れてた赤ちゃんが溺死して、ショックのあまり母親が首をつって、帰ってきてそれを知った父親が悲しみのあまり死んじゃうってのがもう一パターン」
「……」
 ぜんぜん、理にかなっていなかった。
 黙りこむ万丈目の横で、翔は、げんなりした顔で、「あー、怖い怖い」と本のページに付箋をつける。
「グリム童話って、もっとこう、ハートフルな感じだと思ってたんっスけど……」
「いやあ、甘い甘い。怖い話はてんこもりだよ。ほら、日本の民話とかでも、怖い話はやまほどあるし」
 たとえばね、といいながら嬉々として本の山をひっくり返す吹雪。この人は本当に、何をやりたいのかわからない。ヨハンはため息をついてペンを置くと、「おい十代」と隣の十代をゆすぶり起こそうとする。
「んー、あー、なんだよぉ……」
「お前、次回の課題はオレらが同じ班で発表だろ! 一人だけ寝るな!」
「だっておれ、本とか苦手だもん……」
「そういう問題じゃないだろうが、ちゃんと責任とって勉強しろ、こら!」
 ぐう、とまた寝てしまう十代。「無駄だ」と万丈目があきれたような声を出す。
「そいつ、ほんとうにデュエルの授業以外だと、まともに受けてることがない」
「いいのか、それで……」
「起こしても起こしても寝るからあきらめた」
 そういうことを言いながら、きちんと十代のテストの面倒は見てやるのだ。万丈目は親切だなあ、といぎたなくよだれまでたらしている十代を見下ろしながら、ヨハンは嘆息する。
「万丈目って、なんだか……」
「なんだよ」
「十代の母親みたいだよな」
「僕もそう思うなあ」
「あ、ボクも」
「……」
 みんなから言われたとたん、万丈目はがたんと立ち上がり、十代の背後に立つ。いきなり肩をひっつかんで、がっくんがっくんと十代を揺さぶり始めた。起きろこのグズ! などと大騒ぎをしている二人を置いておいて、ヨハンと翔と吹雪、三人は本へと向き直る。
「じゃあさ、テーマはグリム童話の中での残酷テーマっていうことにしちゃうかい? いっそ」
「えー…… なんか途中でイヤになりそうっスよ」
「でも翔くん、さっきから嬉々として選んでるじゃないか、そういうのばっかり」
 たぶん楽しいんじゃないの? とにっこりと笑う吹雪。翔はほっぺたを膨らませた。
「目立つからついつい見ちゃうだけっスよ!」
 二人がやいのやいのと言い合っている中、ヨハンは分厚い本をぱらぱらめくる。絵本で読んだのとはずいぶん違うなあ、というのが、正直な感想だった。
 シンデレラだと、義理の姉は足のかかととつまさきを切り落とし、兄が鹿になってしまったお妃は、皇后の嫉妬で殺され、ばらばらにされて捨てられてしまう。血なまぐさい。というよりも、理不尽な残酷さのほうが前に立つ。はじめから勝利の決まっているキャラクターに対しては奇跡や神の恵みがついて回るが、そうじゃないキャラクターに待っているものは無残な最期ばっかりだ。世の中、最初からハッピーエンドに決まっているキャラクターと、そうじゃないキャラクターが決まってしまっている。……夢も希望も無い。
「そうだ、吹雪さん、こんな話もなかったっけ」
「ん?」
 翔と言い合いをしていた吹雪に、ふと思いついて、ヨハンは問いかけた。
「何の話?」
「いや、大昔にさ、絵本で読んだ記憶があるんだ。不幸な女の子の話なんだけど」
 ―――思い出したのは、もう、10年ぶりくらいかなあ、とヨハンは我ながらと感心する。
 たまたま母と外出したとき、駅のちいさな雑貨屋で手に取り、立ち読みをしただけの古い古い絵本。そんなものをちゃんと覚えている自分は、やっぱり、それだけインパクトが強かったということなのか。
 覚えていたストーリーをだいたい説明して、さらに、これこれこういうタッチの挿絵で、と話をする。吹雪は顎に手を当てた。
「あ、それはたぶん、『星の銀貨』だね」
「星の銀貨?」
「れっきとしたグリム童話で…… ちょっと待ってて。たしかその絵本、あったよ、日本語訳のが」
「マジか!?」
 おもわず驚くヨハンと翔。むちうちになりそうなくらい振り回されていた十代と、それを振り回していた万丈目も顔を上げる。吹雪は席を立った。
「えーと、ちょっと待ってね。たしか書庫にあったと思うから」
 そのまま立ち上がり、ぱたぱたと早足で歩いていく。その後姿に、翔が、「うわぁー」と感心の声を漏らした。
「なんていうか、吹雪さんって…… すごいっすね。なんでこんなに図書館の蔵書を把握してるんだろ」
「そりゃあ、年長さんだからじゃないか?」
「……」
 万丈目の冷静な一言。黙る翔。
 ようやくある程度目を覚ましたらしい十代が、「そういやあの人何歳だっけ?」と、誰も言ってはいけないと思っていたことを、口にした。
 
 10分もしないうちに、吹雪は帰ってきた。その間に、また十代は、眠ってしまっていた。もはや万丈目も起こすことをあきらめたらしい。
「ほら、これじゃないかな。アーサー・ラッカムのグリム童話シリーズ」
「あ、これだ!!」
 吹雪が差し出したのは、背表紙のはがれかけた、ひどく古い絵本だった。
 精緻な線と、どことなく懐かしい色の彩色。書き込まれた植物のモチーフも写実的なタッチで、それが逆に、どことなく幻想的な雰囲気を作り出す。覗き込んでくる年下たちに、吹雪は、ぺらぺらとページをめくってみせる。
「アーサー・ラッカムっていうのはね、20世紀頭あたりのイギリスの挿絵画家。妖精の絵が有名だけど、当時、いろいろと書いてたみたいだねー。『不思議の国のアリス』とかも手がけてたし。ファンが多いから、今でもよく復刊されてるんだ」
 でも高いよ、と吹雪は言う。
「愛蔵版になっちゃうから、やっぱりねー。なかなか子どもの手には渡らないんだ」
「あ、そっか、じゃああのとき、オレが買ってもらえなかったのって……」
「たぶんそれだね。安い本だったら、子どもが熱中して読んでて旅行前、買わないはずが無いよね。たぶんヨハンくんが手にしてたのは、大人向けの愛蔵版だったんだろう」
 はい、と手渡されて、ヨハンはどきどきしながらページをめくった。現れたのははるか記憶の中に残っていた、栗色の髪の少女の姿だった。
 ヒースが伸び、潅木が葉を落とした、さみしい草原。そこを、パンを手にした一人の少女が、とぼとぼと歩いていく。
 はじめのページでパンを渡し、次は上着をやってしまう。そして次には帽子を、次にはブラウスを。
「きれいな絵っスねえ」
 翔が、感心したような声を上げた。
 やがて、ヨハンは、自分が昔見たページへと、たどり着いた。
 星がきらめく空の下、素裸になって立っている少女。あまりに寒そうな場所なのに、体を覆っているのは長い髪だけだ。手が祈りの形に組まれていた。上を見上げる咽の辺りが無防備で、ああ、これがずっと記憶に残っていたんだなあ、とヨハンは思わず手を止める。
「初恋の人、もしかして、この子かい?」
 吹雪が、テーブルに頬杖を着いて、にこにこと笑う。
「別にそんなんじゃ……」
 ヨハンは思わず赤面した。
 けれど、もう、10年以上も前なのに、ここまでしっかりと覚えていたことが驚きだった。たしかにこれがあのときに見た絵だ。ひとりぼっちで、ヒースの野に立ち尽くす少女。その、よるべのない姿が。
 この後、この子はどうなってしまうんだろう。そう思ったのだ。
 ヨハンは、ページをめくった。
 そうしたら。
「……あれ」
 そこに書かれていたのは、前のページとは、まったく違う絵だった。
「『星の銀貨』はねー、残酷のほうには入らないんじゃないかな? ハッピーエンドだから」
 吹雪が言う。そして、そこに書かれていた文字を読み上げた。
「『さて、それまでしてやって、それこそ、ないといって、きれいさっぱりなくなってしまったとき、たちまち、たかい空の上から、お星さまがばらばらおちて来ました。しかも、それがまったくの、ちかちかと白銀色(はくぎんいろ)をした、ターレル銀貨でありました。そのうえ、ついいましがた、肌着をぬいでやってしまったばかりなのに、女の子は、いつのまにか新しい肌着をきていて、しかもそれは、この上なくしなやかな麻(あさ)の肌着でありました。
 女の子は、銀貨をひろいあつめて、それで一しょうゆたかにくらしました。』」
 銀貨をひろいあつめた少女は、そのページでは、天使が着るような、白いドレスを身にまとっていた。
 星が光り、それが銀貨となってこぼれおちて、彼女はしあわせそうに笑っている。頬にかすかな桜色が差していた。ハッピーエンドにふさわしい、幸せな図柄だ。万丈目が気の無い調子で言う。
「よかったじゃないか」
「ちゃんとハッピーエンドなんっすねー。グリム童話なのに」
「翔くん、だからね、別にグリム童話は残酷な話の物語集じゃないんだから」
 口々に友人たちが言っているのを、ヨハンは、なぜだかなんとも納得のいかない調子で聞く。最後のページを見てから、もう一度、前のページを見た。寒い灰色の草原に立ち尽くしている少女。
 んんー、となどと傍らから寝ぼけた声が聞こえる。十代が起き上がってきた。子どもっぽく手で目をこすりながら、「なに騒いでるんだ……」という。
「あ、アニキ。ヨハンがね、ずうっと昔からラストが気になってた本が、図書館にあったんっすよ」
「へえ? よかったじゃん」
 ふわあ、と大口を開けてあくびをした十代は、「おれにも見せてー」と手を伸ばしてくる。ヨハンは素直に手渡した。十代はぱらぱらとページをめくり始める。
「あ、この話、おれも知ってる。昔本で読んだよ」
「『星の金貨』じゃなかったんだな……」
「万丈目くん、それはドラマのほうっすよ」
 ヨハンはどうして自分が納得がいかないのかわからず、しきりに首をひねる。吹雪が「どうしたの?」と問いかけてきた。ヨハンは、「うーん」となんとも説明しがたく、あいまいな声を出すことしかできなかった。




 夜になれば、南の空に、星が輝く。
 昼間のうちに、それぞれに発表の分担を決めて、結局は翔の言った『グリム童話における残酷表現』でまとめることに話が決まった。あちこちの本をひっくりかえして分担を決め、今度はもうちょっと専門的な本を探しておくよと吹雪が請合った。そのまま一緒に夕食を食べて、あとはそれぞれ部屋に帰る。その前に十代が甘いものを食べて帰りたいと言ったから、あとはヨハンと十代だけが、購買で買ったアイスを持って、景色のいいアカデミアの屋上へと上った。
 初夏の割にくもりもなく、その日の夜空はきれいだった。西の空にまだ消え残った宵の明星が光っている。二人並んで、まだ昼間の熱気を残してあたたかいコンクリートにすわり、アイスクリームを食べる。日本のアイスはあまくなくて物足りない、と日々愚痴っているヨハンだったが、十代に選んでもらった夏みかんのシャーベットは、思ったよりも美味しかった。
「星がいっぱいあるなあー」
 十代はアイスのふたを開けながら、うれしそうに言う。
「……普通じゃないか?」
「え、普通じゃないよ。だってさ、アカデミアじゃないと、星ってせいぜい10個とかそれくらいしか見えないだろ?」
「オレの育ったあたりだと、これくらいが普通だったけどなあ」
「どこだったんだ、ヨハンん家」
「田舎だよ。スウェーデンのド田舎」
 いいなあ、と十代がぼやく。
「おれ、ずうっと街育ちだからさ、星なんてプラネタリウムでしか見ないよ」
「オレはプラネタリウムって行ったことないなあ」
「本物が見えるなら、行かなくてもいいと思うぜ」
 ヨハンの膝のあたりで、さっきから、ルビーがうるさくじゃれついてくる。ヨハンはアイスクリームのふたをルビーに舐めさせてやった。一生懸命ふたを舐めているルビーを見て、くすり、と十代が笑った。
「星が銀貨になって降ってくる、ねえ……」
 ふいに、ぽつりと十代がつぶやく。ヨハンは、胸の中で、コトリと心臓が跳ねるのを感じた。
 十代は後ろに手をつき、頭上を見上げた。満天の星を。
「あの話、おれ、なんか納得いかないんだよな」
「―――え、十代も?」
「あ、ヨハンも納得がいかないって言ってたなあ」
「うん。うーん」
 おれら、考え方が似てるからなあ、と十代は笑った。
「初めて読んだときさ、あれ、絶ってーに嘘だな、と思った」
 コトリ。また心臓が動く。
「嘘、って?」
 んーと、と十代は首をひねる。
「まずさ、星が銀貨になって降ってくるとか、そういうことってありえないじゃん。……あ、ほらファンタジーだからとかそういうんじゃなくてさ、誰かのために持ってるものを全部あげちゃって、それが帰ってくるって、なんかおかしくないか? 別に銀貨がほしいから人になんかをあげてるわけじゃないだろ?」
 それともう一個、と十代は言う。
「それに、仮にそういう風に銀貨がもらえましたー、ってなってさあ、それから『一生ゆたかにくらしました』ってなるかあ?」
 コトリ、コトリ。
 ヨハンは思わず胸を押さえる。空を見ている十代は気づいていない。
 ―――ヨハンは、問いかけた。
「じゃあ、十代だったら、あの話のラストはどうなると思う?」
「ん? んー」
 十代は小首をかしげた。それから、振り返る。すこし笑った。

「『女の子は、また誰かにあげることができるものができて、とてもしあわせでした』」

 ……コトリ、コトリ、コトリ。
 心臓が、鳴っていた。
 ヨハンはようやく思い出した。あの日、人が行きかう灰色の駅、ストックホルムの片隅で、絵本を読みながら自分が何を思っていたのか。
 自分ですら何も持っていないのに、誰かに会えば、すべてをあげてしまう女の子が、哀しかったのだ。
 自分がもしも彼女に会ったなら、持っているものを、全部あげたかった。お気に入りの草色のマフラーも、祖母に編んでもらったミトンも、下ろしたてのコートも、スグリのジャムが入った大好きなサンドイッチも。
 でも、あの子はきっと、ヨハンから、何ももらってくれなかった。誰かにあげるだけで、それが幸せだと笑って、何も受け取ってはくれないだろうと思ったのだ。
 灰色の草原に、たったひとりぼっちで立って。
 栗色の髪だけを体にまとって、手を祈りの形に組んで。
「……あ、これじゃまずいかな?」
 だまるヨハンに、十代が困ったように小首をかしげる。ヨハンは我に返った。
「それじゃあ話がうまく終わらないか。うーん」
 十代はヨハンが何を考えているのかなんて、まったくわかっていないんだろう。困り笑顔で頬をカリカリと掻く。
「やっぱおれ、童話をつくる才能とか、ぜーんぜんだなあ」
 あはは、と笑う。そしてヨハンは、そんな十代の髪が、絵本の少女とよく似た、きれいな栗色をしていることに気がついた。
「なあ十代」
「ん?」
「おまえは、あの星が銀貨になって降ってきたら、どうする?」
 十代は、きょとんと目を瞬いた。何を言い出したのか、と思ったのだろう。けれどすぐに笑顔になる。「そしたらなあ」と言った。
「みんなで分ける! 吹雪さんとか、明日香とか、きれいなものが好きだから、きっとほしがるぜ。それに、おちてきた星なんて、すっげえじゃん。あとはな、万丈目と、三沢と、翔と、剣山と、それからエドと、カイザーにもあげたいし……」
 指折り数える。大切な人たちの名前を。
「ジムとな、オブライエンとな、えーっと、アモンはもらってくれるかな。それからレイとかマルタンとか」
 大事な人の数を数えるのに熱中している十代を、ヨハンは、静かに見ている。そんなヨハンに気づいて振り返った十代は、満面の笑顔で言った。
「あと、当然ヨハンにも! ヨハンは特別だから、いちばんいっぱいやるよ!」
 コトリ、コトリ、コトリ。
 ヨハンは手を伸ばして、十代の手をおさえた。十代は目を瞬いた。
「そんなこと、起こるわけないだろ?」
 笑うヨハンに、十代はきょとんとする。それから、「なんだよ」と子どもっぽく頬を膨らませる。
「お前が聞いたから、言ったんじゃないか」
「はは、ごめん、ごめん。……でもさ、星は空にあるのが一番だ。そうだろ?」
 笑うヨハンに、十代も、すぐに笑顔になった。
「ま、そりゃそうだ」
 
 本当は、全部あげたかった。
 お気に入りの草色のマフラーも、祖母に編んでもらったミトンも、下ろしたてのコートも、スグリのジャムが入ったサンドイッチも。
 でも、受け取ってもらえないと思った。受け取ってくれても、ありがとうと笑って、けれど、こごえて腹をすかせた誰かを見つけたら、すぐにすべて捧げてしまうだろうと、思ったのだ。

「空にあれば、こうやって、いつでも二人で見られるもんな。誰かのものになっちまうなんて、つまらない」
「ヨハンって…… ロマンチストだよなぁ」
「あれ、知ってただろ?」
 二人で顔を見合わせる。十代はくすくすと可笑しそうに笑っている。ヨハンはその笑顔を、幸せな気持ちで、どこかひどく切ない気持ちで、見つめている。


 星は銀貨になっておちてくる様子も無く、ただ、静かな銀色に、藍色の空に輝いている。







アーサー・ラッカムの絵はこちら
ただし、ほんとに『星の銀貨』を書いてるかどうかはしりません。
これ、吾妻ひでおが書いたひどいパロディがあって、それを読んでからずーっとこういうネタを考えていたんだよなあ…… 十代は自分のもってるものをなんでも人にあげすぎだと思います。



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