―――彼は王であった。王であったが、孤独の王であった。 だが、憎しみも喜びも、また、哀しみも涙も知らぬ王が、かつて涙したことがあることを知るものは、今は、いない。 栗色の髪、細身で小柄な体躯の、少年。 ”覇王”と呼ばれる、この世界でもっとも強い決闘者が、はるか過去に滅んだ国に住んでいるという話を聞いたのは、ほんの偶然だった。 《そいつはただのlegendってやつじゃないのか?》 だが、その話を彼へと教えてくれた占い師の老婆は、さも恐ろしそうに魔よけの印を切りながら、言った。あれは悪魔でもなく、人でもなく、地獄の天使であると。かつて最も強力な力を求めたさる王が、世界の律を破り、この世の法則から切り離された存在として生み出したものが、覇王と呼ばれる少年王であると。 だが、そのような話は、彼には――― 信じかねた。 恐怖も無く、慈悲もなく、痛みもなく、死への恐怖すらも無い。 人間が人間である以上、そのようなありようなどあるはずがない。だが、それでも覇王という名を持つ少年が魔群を率い、今は次々と多くの国を平らげ、また、滅ぼしていくとも聞く。放浪者として辺境から辺境へ、砂漠や渓谷、人のいようはずもない土地を放浪している彼にはまったく実感がなかったとはいえ、覇王という名の少年が、確実に、また、ひそやかに、彼の背に人が幻視するという黒い翼、その黒翼で持って世界を包んでいくように、この世界を蝕もうとしているというのも、また、ひとつの事実であったのだ。 「……に、したってな。これはないだろう」 彼は――― ジムは、そんなことを思い出しながら、なんともむなしくつぶやいた。ついさっきまで近くにあったはずの青い空、その空が灰色に暮れなずみながら、はるか頭上にある。今ジムは深い深い渓谷の底、入り組んだ岩の合間に、動きようもなく倒れていた。 あんな高いところから落下して、命があるだけでも幸運だった――― だが、動かそうとしても、足が動かない。体を動かそうとすると激痛が走る。たぶんどこかが折れている。ジムはあきらめにため息をついて、全身の力を抜いた。唯一無事な手で、帽子のひさしをきゅっと下ろす。 「なんてこった。まさか、こんなところで最期を迎えることになるとはなあ…」 彼は、魔石狩人(ジェム・ハンター)だった。世界のあちこちに埋もれている、力ある石、特にはるか過去の魔物が大地の底で石と化したものを集めることを仕事としていた。 仕事、という以上に、彼はそのような魔石たちを、愛していた。 はるか過去の物語を告げる、古い古い石たち。その輝きと、その孤独な物語。それを愛し、その声を聞き、それを大地に埋もれた永い眠りから掘り起こしてやること。それがジムの生涯をかけた仕事だったのだ。 そして、この水晶で閉ざされた古い古い山は、かつて、戦場であったと聞いていた。 無数の龍が、あるいは魔物が、決闘者たちが、この地で滅びを迎えたという。ならばこの地にはおそらく、多くの物語を識る石たちが埋もれておろう。そう聞いてしまえば、恐ろしい亡霊たちが徘徊していると聞こうと、あるいは世界を滅ぼしうるほどの力がそこに隠れているとささやかれようとも、足を止められるジムではない。だが――― よりにもよって、ただの落下事故で、このような情けない顛末へと陥ろうとは。 「Shit…!!」 起き上がろうとすると足が軋む。ジムは奥歯をギリギリとかみ締める。 ……そのとき、だった。 「誰か、いるのか?」 ふいに、声が、聞こえた。 目を上げる。ふいに視界をちいさな白いかけらがよぎった。雪だった。どうりで寒いはず。 そして目を上げたジムが見たのは、栗色の髪にウールのマントを羽織った、一人の少年の姿だった。 いかにも軽装な姿の少年は、目をまたたく。澄んだとび色の目。ジムを見たと思うと、びっくりしたように目が見開かれる。腕から抱えていたかごがばさりと落ちて、中にあつめられていた薬草がちらばった。 「……誰だ、お前!?」 こちらこそそれを聞きたいくらいだ。だったが。 「いや、オレはジム。魔石狩人(ジェム・ハンター)のジムだ」 「魔石狩人?」 「この山にはたくさんの魔石が埋まっていると聞いて来たんだが…」 あそこから、とジムは上を指差す。縄で編んだ橋が切れて、風に吹かれて揺れていた。 「おちちまってな。うっかり足をやられちまったらしい」 「マジか?」 「ああ」 しばらく彼は、警戒心の篭った目でジムを見ていた。なんだろう、とジムは思う。 「お前は… 覇王のことを追っているやつじゃないの?」 「What?」 「……」 彼はそれでもしばらくジムを見ていたが、やがて、ふっと表情を緩めた。 「ただの旅人か。……すっごい久しぶりだな。なんにも知らないのに、こんなとこまで来るやつなんてさ」 「お前、このあたりに住んでるのか」 「うん、まあな」 「悪いが、助けてもらえないか?」 仕方ないな、と彼は苦笑する。そして腰に手を当てる――― そこからすっと抜き放たれたものを見て、ジムは思わず、目を疑った。 「来てくれ、《星見鳥ラリス》!」 力ある光が、空間に、弾けた。 閃光が走り輪郭を描き出し、そこに、一羽のおおきな鳥を呼び出す。それは魔物だった。ジムは目を見開く。 ぴょんぴょん、と身軽に近寄ってきた少年は、ジムの体を起こした。足が痛んで思わず声を上げる。「ごめんな」と彼は済まなそうにいう。 「ちょっとおれの家、遠いんだ。そこまで行けば手当てがしてやれるから」 「お前…… 何者なんだ?」 少年はちょっと目を瞬いた。それから、にっと笑う。 「十代。遊城十代っていうんだ。よろしくな」 ―――降りだした雪が、次第に、白く視界を塗りつぶそうとしはじめていた。 十代の呼んだ精霊鳥の背に乗り、雪の空を飛ぶ。水晶の重なり合いが作り出した過酷な山嶺を通り越したとき、ふいに、眼下にひとつの建物が見えた。水晶の山にうずもれ、半ば崩れかけた古代の城塁。鳥は十代の令にしたがって、ゆっくりとその城へと降り立っていった。 「ありがとうな、ラリス!」 おおきなテラスに鳥が降り立つと、少年はカードを再びささげる。鳥はちいさく高く啼き、ふたたび光となって姿を消した。 ジムは、テラスに座らされたまま、信じられない思いでその城を見る。 ―――峻厳な水晶の山脈の奥、人などいようはずもないその土地の奥に、ひとつの城。 だが、そのすべてがごつごつとした水晶の多結晶(クラスター)でつくりされた城の中は、ただ冷たい孤独に閉ざされているのではない。むしろそこには春の陽気にも似た暖かな空気と光がある。呆然としているジムの前で、少年は再び腰からカードを抜き出した。《力ある声》によって、ふたたび、精霊に命じる。 「頼んだ、バースト・レディ!」 光がこぼれる。そして、次に現れたのは、腕を胸の前に組み、恭しく膝を屈した、精霊の女だった。 《どうしたの、十代》 「怪我をした人がいたんだ。手当てをしてやってくれないかな。あと、食べ物」 《人?》 美しい女の姿をした精霊は、わずかに眉を寄せてジムを見る。だが、警戒の色はすぐに消えた。《分かったわ》と精霊は答える。 《じゃあ、あなたは奥へ行っていなさい。もうじき”彼”が帰ってくるわ》 「ほんと!?」 《ええ。貴方を待っているんだから》 「分かった、すぐに戻るから! ありがとな、バースト・レディ!!」 たたた、とそのまま走っていく少年の姿を見送って、ジムは、なかば呆然と振り返る。精霊の女は肩越しに振り返り、《何》と言った。 「いや・・・… なんだ。お前さんは、さっきのboyの・・・・・・」 《僕よ。ただし、十代はあたしたちのことを”友だち”って呼ぶわ》 そんなわけがない、とジムは思った。 精霊を使う魔術師たち・・・… 決闘者たちは、ほとんど例外なく、戦乱の中に身をおく、苛烈な性の戦士たちだ。 そうでなくとも、精霊たちを見、操る力を持ったものたちは、例外なく見出され、戦士としての教育を受ける。ジムとて例外ではなく、己から魔石狩人としての路を選ぶ前には、戦いの場へと身をおいたことも幾度かはあった。性に合わないとさっさととんずらをしたのはけっこうな前のことで、それでもその前には、多くの悲劇や惨劇を目にせざるを得なかった。 だから、”ありえない”ことなのだ。 十代のような少年で…… しかも力のある決闘者である子どもが…… このような地へと隠遁しているということ事態が。 ふいに気がついて、折れた足が痛む。呻いて足をかばうジムに、精霊の女は、やれやれとため息をついた。 《手当てをするわ。あたしたちの仲間には、傷を癒す力のある精霊もいるから》 「……信じられないことばかりだな」 《じきに分かるわ》 ―――ジムが、その意味を知ったのは、ほんのわずか後のことだった。 「あ、ジム。もう大丈夫か!?」 「Thank`s 十代。すっかり元通りだぜ」 ジムが歩いて現れると、奥の部屋にいた十代が、目を輝かせて駆け寄ってくる。ぽふんと胸で受け止めて、ジムは真顔で、「助かったぜ」と礼を言った。 「お前が見つけてくれなかったら、野垂れ死にしていたところだった」 「いいよ、そんなの。おれ、こうやって誰かと話をするの、ほんとに久しぶりだ」 十代は、はにかんだように笑った。そうして奥を指し示して、「来いよ」という。 「ちょうど、飯にしようと思ってたんだ。一緒に喰おうぜ!」 ―――そこは、ひどく奇妙な部屋だった。 屋根が丸く弧を描いたおおきな一間。丸い天井には禿げかけたフラスコ絵が多くの精霊神たちの勲詩を描き、広い広いホールの床には色石がやはり魔法の力を込めた文様を描き出している。部屋の奥には一粒の翡翠を削りだして作られた巨大な玉座があった。 それだけを見れば、神代の時代の王の座とも思われるような部屋。だが、そこを今覆い尽くしているのは、盛装した貴族たちでも、武装した騎士たちの姿でもない。伸び放題に伸びた植物たち、それも、見たこともないような不思議な植物たちの繁茂が、壁を、床を、覆い尽くしている。 陥没し水のたまったところには蓮が咲き、丈高く草は伸び、天井へと伸びたつる草には、甘い香りを振りまく花房や果実が実っている。あきれはててたちつくすジムの前で、十代は、「こっち、こっち」と手招きをする。そこには分厚い敷物がしかれ、木の盆の上に、果物やチーズ、酵母の入らないパンなどが並べられていた。 ……いったいこれは、どういうことなのか。 「へへ、覇王以外と一緒に飯喰うのなんて、久しぶりだぜっ」 嬉しそうに笑い、十代は、透き通るような赤をした、見たこともないような果実を手に取る。 「覇王…… 覇王か」 「おれの兄弟。双子の、うーん、兄だっけ、弟だっけ?」 カリリとかじると、甘い香りと果汁が飛ぶ。ジムを手を伸ばし、おずおずと、紫色の果物を取った。指先ほどの小粒なベリー。 口にすると酸っぱい味が広がる。まったく知らない味だった。いったい、これはなんなのだろう。 「十代、お前は、ずっとここに暮らしているのか?」 「そうだよ? 生まれたときから」 「……一人で?」 「みんながいるし、それに、覇王もいるぜ。あいつはあんまり帰ってきてくれないけど…」 ちょっと寂しそうに笑う。ジムは、”覇王”というのが何者なのかを、問いだたそうとした。 そのとき、だった。 ―――轟と、風が、吹いた。 「!?」 木々の葉が揺れる。凍てつくほどに冷たい風。吹き散らされた花が、白く、赤く、花びらを散らす。同時に、強力な魔力が、空間に満ちるのを感じる。凍てつくように冷たい、同時に、まるで灼かれるように苛烈な、何者かの気配。 何者だ。 空間の奥に、ふいに、青白い火花が、走った。 縦横に走った火花が、空中に、丸い魔方陣を描き出す。それが開き、漆黒の空間が口を開ける。強すぎる力、死と絶望、そして、闇の力。 じゃり、と音がして、そこからひとつの人影が歩みだしてくる。 それは、黒曜石よりもなお黒い甲冑をまとった、ひとつの人影だった。 緋紅のマントが大きくなびき、彼は、腕でそれを軽く跳ね除ける。顔を覆った面頬で表情は分からない。ただそれは、ひどく恐ろしい、ひどく苛烈な、一人の男――― だが、ジムがそう身を硬くした瞬間、十代のほうは、顔に喜色を浮かべて、弾けるようなしぐさで、立ち上がっていた。 「―――覇王!」 走っていく、走っていく。 ジムが思わず警戒を発する前に、だが、十代は、飛びつくようにして、黒曜の少年に、抱きついていた。 「お帰りっ! 待ってたぜ―――!!」 「な」 呆然とするジムの前で、十代は、嬉しそうに黒曜の男へと頬を寄せる。邪魔な兜の面頬を勝手に開けてしまう。すると、そこから現れるのは。 「騒がしいぞ、十代」 「ごめん、ごめん。でもさ、寂しかったからさ」 ―――栗色の髪と、おおきな瞳。やや幼さの残る顔立ち。 ジムは呆然とした。 そこに現れたのは、その瞳の欝金の色を覗けば、なにひとつとして、十代と代わらぬ面差しの、一人の少年だったのだ。 ジムも知ってはいた。”覇王”の名をもって呼ばれる、一人の少年のことを。 彼は少年ではあったが、今、この世界でもっとも畏れられている決闘者でもあった。彼は魔群を率いて現れ、街を焼き、国を滅ぼし、また、多くの決闘者たちを倒した。その凍てついた黄金の瞳には感情という濁りがあらわれることは決してなく、その無慈悲さは、人間が持ちうるものというよりも、精霊たちのみが持ちうるものと言ったほうが正しい。 黒い翼の魔群の主。黄金の瞳持つ無慈悲な死神。 ―――その、はずが。 今、黒曜の鎧を脱ぎ去り、ジムの前に座っている少年は、か細い体つき、まだ未熟さとみずみずしさを感じさせる細い四肢の、少年に過ぎなかった。そして少年は一人ではなく二人――― まったく同じ顔、同じ体をもちながら、とび色の目に無垢な喜びをたたえた少年と、凍てつくような欝金の瞳の少年。 「その男は何者だ」 欝金の少年は、言う。とび色の目の少年、十代は、笑顔で「友だちだよ」と答えた。 「友、だと?」 「えーと、こいつはな、ジム。近くの山に倒れていたんだ」 「……」 こちらを見る覇王の眼は、あくまで冷たかった。背筋を冷たいものが伝うのをジムは感じた。 だが。 「こら、そんな怖い顔すんな。おれの友だちなんだからなっ」 十代が横からちゃちゃをいれて、覇王の頬をぐにっとひっぱる。そんな風にさせられても覇王はなおも無表情だ。ジムはとても微妙な気持ちになった。 「……お前の命を狙いに来たやつばらではないのか」 「違うよ。ジム、おれのことも、お前のことも、ぜんぜん知らなかったし」 「お前には警戒心が足りなさ過ぎる」 「こんな山奥にまで来るやつなんていないよ。覇王が心配性すぎるんだよ」 ジムはとても複雑な気持ちで、緑色の果実をかじる。さくさくとした果肉はあっさりとした酸味を帯びている。頭の中では繰り返す疑問。―――彼らは、どういう関係なのだろうか? 「だからさ、双子。どっちが兄だか、よくわかんないけど」 十代はごく楽天的にそう答えた。 「Bratherか…」 「うん、そう」 「じゃあ、親御さんはどうしてるんだ?」 ジムの問いかけに、十代は首をかしげる。覇王はすっと目を細めた。欝金の眼を。 「親? ……いたっけ、親なんて」 あはは、と十代は笑った。 「よくわかんないや。ずうっとおれ、覇王と二人きりだったから」 「そう、なのか?」 「別に困ったことはないな。友だちは一杯居るし、覇王がいるから」 十代は手を伸ばして、パンをとった。酵母の入らない薄いパンを二つに裂く。 「ずっと、ずっと前から、おれはここで覇王と暮らしてる」 パンの片方を、欝金の眼の少年へと、手渡す。 「うーん、それ以外の生活って、あんまり考えたことなかったな。だからジムとあえて嬉しいぜ。ええと、つまりおれにとって、ジムみたいなお客様って、とってもめずらしいんだ」 「そうなのか?」 「うん、そう」 その一連のやり取りの最中にも、覇王は、ほとんど口をさしはさまなかった。 だが、彼の欝金の瞳は、ただじっと冷たく、ジムを見ていた――― その貫き通すような澄み切った冷たさ。ジムは心ならずも、背筋を冷たい指でなぞられるような感触を、わずかな快感と共に、覚えた。 ―――けっして、ただ人の足を踏み入れるを赦さぬ、峻厳なる水晶の山脈。その最奥に奇妙な城を築き、そこへと居している双子の少年。 そろそろ休むがいい、と言われ、寝台のある部屋へと通されても、ジムの胸の中に凝った疑念は、まったく晴れることがなかった。 彼らは、十代と覇王は、いったい、何者なのか。 差し出された寝台は、やわらかな草の寝床。 たちじゃこうがやわらかく茂った寝台は薫り高く、寝心地はここ数年来味わったほどがないほどに良いものだったが、それでもジムはまったく寝付かれることができなかった。ただ、腕を枕代わりにして、ぼんやりと天井を見上げる。水晶で出来た天井を。 外には吹雪が吹き荒れている…… と思う。 だが、その切り裂くような苛烈な冷たさはこの城のなかへと届くことは無く、ただ空気は清澄な水の気配と、伸びていく木々の青い香りだけを含んで静かだ。奇妙な城だ、とジムは思う。魔法の力に満ち溢れた場所。けれど、その魔法をもたらしているものがいったい何なのかは、ジムにはとうてい理解しかねた。 二つに割れた、ひとつの結晶のような、二人の少年…… 「……」 ジムは、勢いをつけて、跳ね上がるようにして、寝台から起き上がった。 どうしても寝付かれない。どうしても落ち着かない。 とりあえず水でも飲むか、と思って、ジムは、水晶の床を、裸足で踏んだ。 植物たちの気配、精霊たちの気配だけが静かに満ちる、秘められた城。 水はそこかしこから湧き、どれをとっても氷河を溶かしたような澄んだ水が、滴り落ちている。手のひらで受けてソレを飲む。水は肘まで滴った。ぬれた口元をこぶしで拭う。そのときだった。 ……っ、あ。 「……!?」 遠くから、小さく、悲鳴のようなものが、聞こえた。 何があったのか。ジムは思わず動きを止め、身を固める。―――ふたたび、声が、聞こえた。 ぐ、ッ。……っ、覇王、はおう……!! 「じゅう、だい?」 その声はたしかに十代のものと聞こえた――― ジムは、その瞬間、はじかれるようにして、走り出していた。 あの声はなんだろう。殺されていく子羊のような悲痛な悲鳴。何が起こったのか。走り出した先は、翡翠の玉座のある間。腰まで伸びた草を乱暴に引きちぎりながら走り、玉座の間へとたどり着いたジムは、そこにある光景を見て、思わず、その場に呆然と立ち尽くした。 二人の少年が、いた。 生まれたままの姿で、翡翠の玉座へと二人ながらに腰掛けている。覇王はただ無感情に、ただ、その中にわずかな哀しみめいたものをにじませて、己が兄弟の頭を膝に抱いていた。だが十代は。 ―――己が兄弟の膝に頭をあずけたままの十代の体に、無数の茨が、絡み付いている。 「!?」 思わず立ちすくむジムに、覇王が、気づいた。表情がわずかに動く。 「貴様……?」 「じ、じゅうだ、い?」 「―――ァ、ああああ゛あ゛あ゛!!!」 血を吐くような絶叫。それと共に、ざわり、と茨がうごめいた。 棘にまみれた細い茨が、まるで鋼の線のように、軽く日焼けた肌へと、食い込んでいく。 腕に食い込んだ茨が、その棘で、膚を突き破る。血が流れる。先端がわき腹へとゆっくりと食い込んでいく。ヤドリギの根が、主の木の樹皮を破り、その根を深く食い込ませるように。 ぱた、た、と血が流れ落ちる。 真っ赤な血が。 絶叫に反った咽に、茨が食い込んだ。ぎりぎりと咽を締め付けていく。唇から舌が吐き出された。見開かれた眼は、紛れも無い苦痛と絶望の色を示し、涙がとめどなく流れ、血と交じり合い、床へとちいさく滴り落ちていく。 「な、にを……ッ!!」 呆然としていたのは、一瞬だった。 ジムは思わず駆け出した。だが、覇王がゆっくりと手をもたげ、その手がジムのほうへと向けられた瞬間、見えない衝撃波が、ジムの体を人形のように吹き飛ばした。 思わずとっさにかばった肘で、一度バウンドし、近くの花の茂みへと突っ込む。音を立てて枝が折れた。ジムは呆然と見た。茨に縛られ、茨に膚を突き破られ、茨によって犯されていく、とび色の眼の少年を。 「かはっ…… はっ、……ぅぐっ……」 「十代」 「は…… は、おう……」 欝金の眼の少年は、かぎりない愛おしさをこめて、その指で、少年の髪を撫でる。少年の目は視力をなくして宙をさまよい、血まみれになった指が己が半身を探してさまよった。腕を伸ばした覇王は、十代を抱きしめる。裸の膚と膚がふれあい、同じ色の髪と髪とが交じり合う。 「う…… あぅ……」 ぼろぼろと、十代の眼から涙が流れる。透明な涙が。 覇王はそっとその涙を唇で拭う――― まるで、触れがたいほど尊いものへと、口付けるように。 「どういうことなんだ、これは」 ―――そして、月が落ちるころ、すべてが終わった。 茨は消え、血まみれの姿になった十代を、覇王が、己のまとっていた緋紅のマントで、そっと包みこむ。疲労しきって意識をなくした十代をそっと抱く。ジムはそんな二人を、どう思っていいのかもわからず、ただ、ひどく困惑した気持ちで、見つめていた。 覇王は愛しい兄弟を抱きしめる。ぽつりとつぶやいた。 「昔、世界で最も強い決闘者を望んだものたちがいた」 「もっとも、強い……?」 「慈悲を知らず、恐怖を知らず、戦いだけを愛し、決してひるむことが無い。そういうものを、望んだものたちがいた」 その結論が、覇王と十代の、二人だった。 「痛みも無く、恐怖も無く、哀しみも無い。彼らは、そんな人間を求めた」 「……そんなものが、人間と呼べるのか」 「俺にはわからん。だが、不可能だったのは事実だ。やつらに出来たことは、ひとつの魂を、二つに割ることだけだった」 すなわち、やわらかく弱く優しい半身と、硬く孤独で苛烈な半身とに、ひとつの命を、生まれる前に分けるということ――― 「十代は俺の半身だ」 覇王の指がそっと十代の髪を撫でる。傷だらけになり、疲労しきった十代の。 「あれ、は」 「あれは本来俺のものであるべき痛みと、怒り、そして哀しみ、絶望、その全て」 まるで、鋼の茨と化したような、本来は覇王のものであるべき、すべての痛み。 「―――俺はあれらすべてを感じない」 「なら、なぜ、あんなことをする必要がある……!!」 「俺も完璧ではない。俺が俺でありつづけるためには、ときおり、すべてを《還す》ことが必要だ」 「……!!」 すなわち覇王は、己が半身に、すべての痛みと哀しみ、恐れと絶望を、還さなければいけない。 ―――戦う力を持たない、無垢な、十代へと。 「これほどまでに護られながら、俺は、十代に何もしてやることができない」 覇王はつぶやく。”感情”を持ちうることの出来ぬはずのその声に、なぜか、苦いものがにじむように、ジムには思えた。 「俺は十代の哀しみひとつに、涙を流すことすら、できない……」 「覇王……」 少年はもう、何も言わなかった。 ジムはただ立ち尽くし、そんな二人の少年を、見ていることしかできなかった。 覇王はやがて去った。そして後には十代と、そして、ジムだけが残された。 草木の茂る魔法の城のテラスから見ると、そこには、灰色の空に閉ざされた水晶山脈が一望された。これでは山を下るなど出来ようもない。しかたなく長居を決め込んでいるジムに、けれど十代はずいぶんとなついているようだった。今日も二人はテラスに並んで座り、たくさんのしょうがを入れて甘くした紅茶を、並んで飲んでいる。 「覇王は、寒くないかなあ」 しんしんと降り続ける雪を見ながら、ぽつりと十代がつぶやく。 「あいつ、風邪とか引いてないといいんだけど」 「十代……」 ジムは、アレ以来、その名を聞くとひどく複雑な気持ちになる。振り返る十代に、ジムは、問いかける。 「あいつが、憎くないのか」 「なんで?」 十代は首をかしげた。心底不思議そうに。ジムのほうが返事に給した。十代はひとくち紅茶をすすり、遠くへと目線を戻す。その表情がかすかに寂しげな笑みをたたえていた。 「戦っているのはあいつで、傷つくのもあいつで、誰かの心無い言葉をあびるのも、あいつなんだよ。おれよりもあいつのほうがずっと大変だ」 「だが……」 だが、その痛みを負うのはお前だ、とジムは言いかけた。だが。 「おれたちはもともと二人でひとつなんだよ。たまたま心がふたつあって、体が二つあるからって、関係ない。おれは覇王の一部で、覇王もおれの一部なんだ」 十代は眼を上げる。空のかなたを見た。 「あいつの代わりにおれが泣いて、あいつの代わりにおれが苦しんで、あいつの代わりにおれが痛む。……それだけしかしてやれないんだ、おれは」 「十代……」 十代は振り返り、ちょっと笑った。 「変わってるよな、おれたち。でもさ、お互いがいてくれて、すごく幸せ。これだけは本当なんだ」 信じてくれるか? と十代は言った。 「おれたちが、一緒にいられて幸せだって…… 信じてくれるか?」 ジムは返事に窮した。とてもではないが、たやすく肯定することも、また否定することも、できないような気がした。 二つの心と二つの体。そして、ひとつの魂。 「あいつも、泣けたらいいのにな」 ぽつりと十代はつぶやく。赤い水面に、その、さみしげな表情が写っていた。 「おれはあいつが可哀想だ」 ―――これは全て、真の悲劇の前の、わずかな凪の日々の物語。 やがてジムは、真の意味での涙が流される理由を知ることになるが、これはまた、別のお話。 覇王祭の茶にて公開した即興SSです。 ←back |