/JAM



 結局のところどういう経緯だったのかはよく覚えていなくて、今、思い出すことが出来るのは、あの蓋に錆の浮いていた古いジャムの瓶のことだけ。

 オレたちがそこまでひもじい思いをする理由というのもなかったはずなのだけれど、とにかく、あのときのオレたちに食べられるものは一瓶のジャムだけしかなく、そして、パンもクラッカーもなしに、指で直接すくってそれを舐めるという行儀の悪い行為に及ぶ程度には、オレたちは、飢えていた。その飢えはひどく切迫したもので、胸の奥のどこかがぎゅうぎゅうと引き絞られるような痛みをおぼえている。そしてそれを埋める方法を他にしらなかったオレたちは、ほかのなにもかもを棚上げにして、一瓶の古いストロベリージャムを舐めあうという動物じみた行動に及ばざるを得なかったのだ。
 蓋からはブリキの錆がわずかに落ちて、指ですくいとって舐めたジャムからは、かすかに金臭い臭いがした。普段だったらとても食べないだろうと思ったのは一瞬で、大胆に指を突っ込んでジャムをすくいとった十代が、べたべたになった指を口元に運んでいた。赤い着色料の色、わずかにまじった種のぶつぶつとした感じ。なにか奇妙にせかされる感じがして、オレも同じように手を突っ込み、ジャムをすくい、舐めた。甘かった。乾いていた咽がますます渇くような、ひどい甘さだった。
 おかしな話なのだけれど、オレたちは特に話もせず、お互いの愚行を冗談の種にすることもせず、奇妙に真剣な気分で、奪い合うようにしてジャムを舐めた。美味いとは思わなかった。ただ、舐めれば舐めるほど咽がかわき、それを癒すためにさらにべたべたとした甘いジャムを欲した。行儀も何もなかった。オレの手はあっというまにべたべたになり、唇も、頬も、まだフォークをつかえない子どもが食事をした後みたいに甘ったるく汚れた。ジャムがぼたぼたと床にこぼれて、それを開きっぱなしの冷蔵庫がつめたい光で照らしていた。
 食べても食べても、ジャムはなくならない。オレたちは無言でガラスの瓶に指をつっこんでは、それを、口に運ぶ。それは何か奇妙に儀式めいていて、その行動にどちらかが意味をあたえるのを、オレと十代は、まるで根競べのように待ち続けていた。そして、先にその我慢比べに負けたのは、オレの方だった。
 十代がぐいとジャムに手をつっこみ、指の付け根までがべたべたとした甘いものにまみれる。その手首をぐいとつかんだのはオレだった。とび色の眼に驚いたような色が浮かんだ。オレはつかみとった十代の手をそのまま口に運んだ。その指、オレのものよりいくらか骨ばって、無骨な印象の指を、舐めた。
「なんだよ」
 はじめて、十代が、言葉を発した。
「美味いかと思って」
 いいながらオレは、上手い返事じゃないな、と思っていた。
 ジャムはジャムだ。あまったるくてべたべたした味は、何も変わらない。だが、代わりにそこにはかすかな別の味が混じっていた。もしかしたら唾液の味なのかもしれないし、手のひらにかいた汗の味だったのかもしれなかった。オレは十代の指を菓子でもかじるように咀嚼した。爪のあいだ、指の関節、指と指のあいだ。すべてに舌を這わせ、そこにある甘みらしきものを、残らず舐め取った。もしかしたら、それよりもさらに何かを求めていたのかもしれないけれど、それがなんなのかなんて見当もつかなかった。
 十代は怒ったような顔で、オレの口元から、じぶんの手を奪い返す。そうして、ふたたび乱暴に瓶に指を突っ込み、ジャムをすくいとった。もう意図は分かっていた。オレはその手をふたたび乱暴に掴み取ると、自分の口元へと運んだ。
 十代もオレの手をつかんでいた。べたべたのジャムにまみれた手を。そして、指の付け根を強く噛んだ。痛かった。不思議なことに、痛みすら甘かった。指と指とのあいだの部分にぬめりとした舌が這うと、ぞくりと背中に何かがこみあげた。ジャムの瓶は気づいたらほとんど空になっていた。食べるものは、もう、お互いしかなくなっていた。
 それぞれの手をくまなく嘗め回し、手首まで唾液でべたべたにすると、あとは、もう、お互いの顔に残った分しかなかった。どちらが先に顔を寄せ合ったのかなんて分からない。十代の粒がそろった白い歯がオレの頬の頬を噛み、オレは甘いものにまみれた十代の唇を舐めた。べたべたとまとわりつく、甘ったるいジャムの味。ところどころに異物のようにまじった種の違和感。
 一瓶ものジャムを、二人で食べたのだ。唾液もなにもやりきれないほどに甘くなっていて、お互いの味をむさぼるということは、同時に、それだけあの甘ったるさを押し広げるということに他ならなかった。それは抱擁の無様な真似事だった。オレたちは、お互いの指を、手を、頬を、くちびるを、飢えた幼獣のように、むさぼりあった。
 頬のみならず、まぶたにも、咽にも、甘みにまみれた唾液がぬりたくられて、べたべたとした甘みは、どこからどこまでがジャムの味で、どこからどこまでがお互いの唾液の味なのか、わからなくなった。オレは十代のまぶたを舐め、十代はオレの唇を執拗に噛んだ。ぎり、と指が咽の辺りをつかんだ。制止のつもりだったのかもしれない。けれどその指もまたやりきれないほどの甘ったるさにまみれていて、それすらもお互いの抑制の効かない欲望を押し広げていく意味しか持たないのだった。 
 互いの唇を舐め、口腔に残ったほんのわずかな味まで奪い合おうと粘膜同士をこすりあわせると、気づけばそれは口付けという行為にひどく似たものになっている。違う、とオレは思った。これはそんなものじゃない。ただお互いから、少しでも自分の糧を奪い合おうということ。何かを分かち合うのではなく、お互いから、お互いを奪い合おうという、ひどく貪婪な行為でしかない、ということ。
 唾液が滴り、空になった瓶がどちらの手からとも知れず転がり落ち、鈍い音を立てて床に転がり、どことも知れない暗がりのほうへと転がっていった。あまりに息が苦しくなり、わずかに身を離すと、お互いの息が、まるで獣のように乱れている。薄暗がりの中で、オレはふと、十代のとび色の眼が、欝金のような色に底光りするのを見た気がした。
 手首をつかまれる。舐められる。手のひらから下へと。手首よりも、さらに下へ。そんなところにまでべたべたと甘ったるい唾液を塗りこめながら、十代がオレの腕の内側を舐めた。薄くて敏感な皮膚がざわつくのを感じた。それは不快感にも快感にも似ていた。十代の唇がひらいて、歯が見える。白く粒のそろった歯は丈夫そうで、力を込めてかみ締めれば、オレの皮膚がやぶれ、そこから熱く塩辛い血潮があふれだすだろう、とオレはしびれるような頭のどこかで思った。
 ただ、貪られているつもりはなかった。オレは乱暴に腕を奪い返し、代わりにべたべたになった顎からその下を、咽の辺りを舐め、しゃぶり、つよく噛んだ。うめき声が聞こえた。それがひどく性的なニュアンスを持ったものに聞こえて、ぎょっとしたオレは、一瞬、動きを止めた。
「ヨハン」
 十代の声がきこえた。普段なら、とうてい聞くはずもない、掠れて急いた声が。
 そのつぶやきはほとんど声にもならず、けれど、オレの耳は、たしかにそれを聞いた。十代の言葉。

 オレハ、オマエヲ、……食ベテシマイタイ。

「―――いいよ」
 オレは、なぜ、そう答えたのか。
 けれど、自分の耳で捕らえたその声は、己のものだとは思えないほど、熱に浮かされた、悦楽に酔った響きを帯びていた。
「オレを喰えよ、十代」
 オレは微笑った。ひどく、淫蕩な笑みだと自分で理解した。そのときの言葉は、口にするまで自分でも思いも寄らないものだったのに、言葉にしてみると、すんなりと納得が行った。そう、オレは、食べられてしまいたい。―――さもなくば、食べてしまいたかった。目の前にいる、遊城十代、という人間を。
 口の中の甘ったるさに味蕾が麻痺して、オレは、舌の上にもうひとつの味を幻想していた。それは熱く苦く、そして塩辛い味だった。おそらくオレが、あるいは十代が、欲望に任せてお互いの咽に歯を立てたとき、皮膚が裂け、肉を千切り、あふれ出してくるだろう味だった。
 食べてしまいたかった。食べられてしまいたかった。
 ―――そして、それは、決してかなうはずのない、欲望だった。
 
 オレたちの未熟な欲望には、どこにも、行く先が無い。

 言ったのはそちらだったはずなのに、十代は、ひどく傷ついたような顔をしてオレを見た。泣かないか、とオレは思った。脊髄の中をあわ立つ炭酸水が流れるような奇妙な感触。欲情。オレの舌の上にびっしりとひしめきあう味蕾のひとつひとつが、漿液で膨れ上がったすべての細胞が、欲している味がある。それは。
 とび色の眼の表面から、塩辛い水の膜が生じる。潤み、臨界を過ぎ、こぼれる。一筋の涙が、十代の頬を伝った。
 オレはうやうやしく唇を寄せ、まるで聖水を受けるように、それを舌で受けた。熱かった。苦く、鹹く、また、甘かった。けれど、その味はオレの渇きにわずかな雫を注ぐ代わりに、オレの中にある渇いた虚無の大きさを、残酷なまでに浮き彫りにした。
「……っく、……う……っ」
 十代が泣く。目をぎゅっと閉じて、顔をくしゃくしゃとゆがめて。
 涙が流れる。オレは、うやうやしくそれを受ける。けれど、飲んでも飲んでも、足りなかった。おそらくはそれをわかって十代は涙を流していた。オレたちはきっと、お互いのことをほんとうにほしがっているくせに、お互いの与えきれるだけのものでは、とうてい我慢できないほどに、渇ききり、飢えきってしまっていた。

 食ベテシマイタイ。

 その欲望をこらえるために、オレは、十代を抱きしめ、背中に爪を立てる。服の生地越しにでも、肉に食い込むほどに。青黒くあざを残すほどに。
 この、餓鬼のような欲望は、なんだろう。お互いのことをこんなにほしがりながら、その皮膚を食い破り、肉を貪り、血で咽を潤して、相手を完全に破壊してしまうことを望むなんて。
 オレたちの欲望は未熟なくせにあまりにむごたらしく、はしたなくて、きっと、成就することなんて、ありえなかった。
「ヨハン」
 十代のくちびるが、あえぐように、言葉を紡ぐ。
 行く先をなくした腕が、空をさまよい、やがて、オレの体を見つける。ぎゅう、と爪が立てられた。甘ったるいジャムと、そして唾液にまみれた手が、オレのうなじに、首の後ろに、爪を立てる。熱にうかされたようなささやきが、耳元をくすぐった。
「ヨハン、……すき。だいすき」

 ―――アイ、シテイル。

 オレは返事をしなかった。代わりに、力を込めて、十代の唇を噛んだ。あふれ出す血潮は温かく苦く鹹い。それを飲む。飲み干そうとする。その滋味。決して充たされない渇きに注ぐ、甘露にも似たその味わい。
 決して成就を赦されないオレたちの欲望を思い、絶望に満ちたその甘美さに、ひとときオレは、陶然とした。





けだものが二匹。
完遂されない欲望。あまりにあからさまなセックスの隠喩。



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