「……これで ……終わり、ですか?」
「ああ」
 翠の髪の少年が、呆然とつぶやく。涅色の髪の青年は、その手から古ぼけた日記帳を受け取って、ぱたん、と音を立てて表紙を閉じた。
 少年はしばらく黙り込み、手すりを掴んだ己の手を見つめ、それから、海風に吹かれて髪を押さえている青年を見る。涅色の眼、涅色の髪、そして、白皙といっていいほどに白い肌。
 冬の海は冷たく、クルーザーの行く先で波が割れ、真っ白な航跡を後に残す。しぶきは白く、そして、苦い。その冷たさすら、おそらくは、少年の生まれた国に勝るほどではないはずなのだが。
「これが、今から8年前のこと。僕がまだ12歳で、そうして、彼が10歳だったころのこと……」
 青年はいとおしさのにじむ表情で、古ぼけた日記の表紙を撫でる。いったいどれだけの回数開かれてきたのか、日記の表紙は擦り切れて、ページはよれてめくれていた。
「キミはあのころにジュニアの大会で優勝し、史上最年少としてI2社の後ろ盾を受けた奨励生となり、後にDAのアークティック校へと進学した。そうして、オンラインデュエルで知り合った【tian】っていう少年とは、その後も親しい交流を続けた。そうだよね? ……ヨハン・アンデルセン」
「そう、ですが、……オレは」
「そんなこと想像もしていなかった。そうだよね。【tian】はそのあとも君の前に現れたのだし、お互いにライバルとして認め合い、そして、こうやって、今日という日を迎えたんだから」
 眼を細めて見下ろす先では、客船の広い甲板に、多くの乗客たちが集まっている。その中には多くの報道陣と、そして、それぞれに名の知られた決闘者たちの姿があった。ヨハンと同じようにDAの制服を着た若い決闘者たちもいれば、プロリーグから招かれたもの、アマチュアの中から予選を勝ち抜いてきたものもいる。
 世界中をクルーズしながら、プロ・アマを問わずに新進気鋭のデュエリストを見出そうという大会は、今や、決勝リーグを迎えつつある。それぞれの所属するブロックを勝ち抜き、今日ここという場所にたどり着いたものたち。彼らは皆、えりすぐりのデュエリストたちであり、その実力に置いても、誇り高さにおいても、誰一人として傑物の名に足りぬものは無い。
 青年は軽く微笑みながら、寄りかかっていた船べりから身を起こした。
「キミは、今日が、初めて彼と戦うチャンスになる」
「……は、い」
「彼はね、キミと決闘した後、話したいことがたくさんあると言っていた。キミに聞いてもらいたかったことが、とても、とてもたくさんあるのだと」
 だから、楽しみにしているといいよ、と青年は笑う。
「これからキミたちは、きっと、無二の親友になれるよ…… 彼の兄として、僕が保証する」
 じゃあまた後でね、と彼は通りすがりざまにヨハンの頭を軽く叩いていった。冷たい手だった。この寒い洋上にあってすら、冷たすぎるくらい。
 ヨハンは声もなくその背中を見送った。彼の背中、天上院吹雪の背中を。
 ―――ヨハンが、【tian】について知っていること。彼が少年期を過ごした療育センターを出た後のこと。
 決してすべてを克服したのではないにしろ、同じく、療育センターを出ることが出来るようになった吹雪は、引き取られるあてのなかった【tian】を養育してくれるようにと、彼の両親にかけあった。そうして彼らは義理の兄弟となり、そして、それからは並みの少年とまったく変わらない生活を送り、そして、成長していった。吹雪は彼の両親がおこなっていた事業を手伝うようになり、【tian】は通常とは若干異なるルートを辿りつつも、世界でも指折りといわれるほどのデュエリストへと成長していった。どのような大会にでも現れる少年、大会荒しの黒衣の決闘者。
 彼は、まぎれもなく【tian】なのだと、ヨハンは思っていた。彼は初めて会ったときから変わらぬ【tian】だと。一度も別の誰かであったことなどないのだと。
 クレバーな読みと無駄を削ぎ落とした戦術、大胆さと繊細さが共存し、そして同時に、一度見れば忘れられないほどの魅力に満ちた決闘者。初めて出会ったときから、変わらずに【tian】はそうだった。一度とてそうでないことなど無かった。
 ふと、背後に、気配を感じる。ヨハンは振り返る。そして、碧の眼を、大きく見開く。
「お前、【Johann】…… ヨハン・アンデルセンだよな?」
 そこには、ひとりの少年が立っていた。栗色の髪、琥珀のひとみ。小柄だが俊敏そうな体つき、そして、黒いジャケット。ストイックな身なりに、そこだけくっきりと鮮やかな金の縁取り。
 彼は、幼げな顔立ちと不釣合いに、どこかしら不敵な感じがする風に笑う。
「お前、まさか、【tian】?」
「ああ」
 眼を細める。その表情。どことなく、猫のような目。赤みが強い琥珀色。メイプルシロップのような艶を帯びた色。
「はじめまして…… というのも、おかしいな。これだけ長い付き合いだったんだ。なんて言えばいい?」
 まあ、どうでもいいか。彼はそうつぶやいて、可笑しそうに笑った。ヨハンはようやく我に帰った。
 目の前にいる少年。彼が、【tian】だ。画面越しになら、何度でも出会ったことがある。一度でいいから実際に会ってみたいと思っていた。実際に会って、決闘してみたいと。
「オレが、ヨハン・アンデルセンだ。ひさしぶり、それに、はじめまして」
「いいな、それ」
 彼は、軽く眼を瞬いて見せた。
「そうだな、ひさしぶり、それに、はじめまして。今日は楽しいデュエルにしようぜ」
 彼は手を伸ばす。ヨハンの手を握る。その手はあたたかく、力強い。彼は、笑う。
「オレの、名前は―――」










 オレは思い出す。あのころ、苦い海風の吹く岬で、夕暮れに見とれていたオレたちのことを。
 ぽつんと背中を寄せ合って、やせた子どもが二人、一本のマフラーを分け合って巻き、夕暮れを見ている。そのシルエットはごく普通の仲の良い兄弟に見える。空はばら色に染まり、金色と藍色を混ぜながら、暮れていく。ものすごい夕焼け。
 しかし、オレはすぐに思い当たる。あれがオレたちの姿であるのなら、こうやって後ろからその背中を見つめることなど出来るわけがない。これは、あとから捏造された記憶なのだ。
 あの頃のことを思い出そうとして、オレは、その中のどれも、後から捏造された記憶ではない、と自信を持って断言できないことに気づく。あのころオレは決してひとりで起きることはなく、ひとりで食べることも、ひとりで歩くことも、そして、ひとりで眠ることも無かった。
 たったひとつだけ、オレが信じているのは、日記の最後のページに書かれた、細い線の文字だけだ。
 いつ、書いたのだろう。あんなに苦しんで逝った十代が。オレが知ることの出来なかった苦しみを、ずっと、ひとりで抱えていたはずの十代が?
 だがしかし、オレはすぐに思う。十代が知らなかった苦しみを、オレも舐めてきたのだと。二人の人間が一つの心で生きることはできない。人間にとって分かるものは、見て、触れることのできるもの、己の心の中にあるものだけなのだ。
 アンが隠したビー玉がどこにいったのか、サリーは知らない。
 けれど、何故アンがビー玉を隠したのか、今のオレになら分かる気がする。
 好きだったから。大切だったから。だから、隠してしまいたくなった。そして、オレから十代が去り、宝物だけが残される。
 だからオレは、その宝物を、ぎゅっと抱きしめる。生きていた証を。じゅうだい、という人間が、確かにこの世界にいたという証拠を。
 そして、出来ることならば、伝えたいと思う。
 
 同じ言葉を。











しんじゃえなんてうそだった。
ごめんなさい、はおう。
だいすきだよ。








ああ、わかっている。
すまなかったな、十代。
オレもお前が、世界で一番、好きだったよ。













 /あとがき
07年の冬コミで、年度内にはいろいろとお世話になったt@gu様への寄贈のために書いたテキストです。
t@gu様に渡した分はコピー本でいろいろ工夫して装丁したので、オンライン版も若干いつもと違う形式です。
GXに奔走した07年後半もこれで〆。
みなさま、ほんとうにありがとうございました。






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