部屋に通され、水と薬を飲み、それでもヨハンはしばらく、ひとりで体を抱えて、震えていた。
 落ち着いたのは、もう、時計の針が頂点を過ぎて、しばらくが過ぎてからだった。
 彼女のことを知り尽くしていて、何も言わずに待っていてくれたジムは、やがてバスルームから出てきたヨハンに、咎めるようなことも、聞くようなことも、何も言わなかった。ただ、足を引きずるようにして歩いてきて、ベットに腰掛けたヨハンに、「何か飲むか」と聞く。
「……」
「ジンジャエールでいいか。好きだっただろう?」
 立ち上がり、足の高いフルートグラスに、よく冷やされた金色の飲み物を注いでくれる。細かな泡が間接照明にぼんやりと光った。ヨハンは、足を引き寄せて、ベットの腕に膝を抱える。
「また、失敗しちまったな、オレ……」
「そんなことないさ」
 ジムの声は、やわらかくてやさしい。
「今日は、お前は、きちんとホテルまで来られた。お兄さんとお姉さんに会えたし、《ごめんなさい》が言えた」
 ゆっくりと、歩いてくる。その顔立ちが、ぼんやりと、光にふちどられていた。
「それにお前は、《何もしなかった》だろう?」
「……」
「ヨハン」
 ヨハンは、グラスを受け取った。―――受け取ろうとした。
 だが、触れた瞬間、鋭い音が、響いた。
 薄いグラスに、ひびが、走った。
「……!!」
 ジムは、何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ、悲しそうな顔をした。
 唇を硬く咬み、うつむくと、血の味がする。いまさらのようにこぼれた雫が、カーペットにしみをつける。ヨハンはいつのまにか手を上げて、顔の右側を強く抑えていた。目がゆれていた。
 昔、そこには、耳があった。貝のように白い耳が。
 生まれたときから、認識票のつけられていた、耳が。
「帰り、たい」
 ヨハンの声が震えていた。
「逢いたい…… 十代に、逢いたいよ」
 今は何もない、ただ、無残な傷跡だけが残る場所を押さえて、ヨハンは声を震わせる。ジムは何も言わなかった。ただ、ひびの入ってしまったグラスをちかくのテーブルに置くと、「わかった」と静かにささやきかける。
「明日の朝まで、我慢できそうか、ヨハン」
「むり、だよ……」
「分かった。じゃあ、明日の朝いちばんには、《ネヴァーランド》へ帰れるから」
 うん、とヨハンは頷いた。ジムはポケットからゴムの管と小さなケースとを取り出し、アンプルの透明な液体を注射器に入れる。腕をまくり、血管の場所を、アルコールで拭う。銀色の針が腕にささり、薬液が、体に注入される。
 ヨハンはただ唇を噛んで耐えていた。ジムは、ささやいた。
「おやすみ、ヨハン。……よく、頑張ったな」
「……」
 ヨハンは、何かを言おうとした。声にならなかった。
 ―――まるでカメラのシャッターを落とすように、少女の意識は、音もなく、闇に落ちた。




 昔、ひとりの、少女がいた。
 彼女には家族がなく、代わりに、ひとつの共通項の元であつめられた兄弟たちと共に、大きくて白い家で暮らしていた。彼女はその中でも《とくべつ》な子だったけれど、皆に愛されて、しあわせに育った。日に透かした若葉のような髪と、きらめく浅い海のような眼を持った子どもは、無垢な魂と、輝くような心のまま、美しい少女へと成長していった。
 彼女は確かにただ人とは違っていたけれど、それでも、彼女は愛されはぐくまれて、しあわせな大人になれるはずだった。
 事件に、出会うことがなければ。



「……あの子、ずっときれいになってたわ」
 ―――誰もいないラウンジで、薄紫色の目をした娘は、哀しみをにじませて、つぶやいた。
 蒼い目をした男は、窓際にたった妹を、黙って見上げる。そして、ジムのほうへと振り返った。精悍な、誠実そうな青年だ。そして二人の右の耳には、同じ意匠の、ちいさな機械が嵌っている。風変わりなデザインの耳飾に、見えなくも無いものが。
 彼は、ため息をついて、手にしていた書類を封筒に戻す…… そこに描かれた報告書は、何度読んでも内容が変わることはない。そこには、妹の状態が安定しているということ、けれども外へと適応させるにはまだ早いということ、それだけが書かれている。そしてそれは、今日、目の当たりにしたものとまったく同じものだ。
「あの子は、ヨハンは、なんと言っていたんですか、クック先生」
 黙って二人に向かい合っていたジムは、やっと、口を開いた。
「同じことです。あなた方の姿が、ひとに見えない…… 天馬と、山猫とに、見えると」
「……」
 青年は、黙り込む。青い眼がゆれていた。その表情は、血のつながりもないのに、ヨハンの表情に良く似ていた。青い眼の、白い天馬――― それは自分には見えないだけで、真実なのだ、とジムは思った。
 三年前、北欧のとある国で、ひとつの事件が起こった。
 14歳の少女が、少年たちのグループに拉致され、廃墟の一室に監禁され、暴行を受けた。彼らはドラッグを常用している不良グループであり、同じような犯行を今までにも何度も繰り返していた。少女には、何の罪も無かった。ただ彼女は、同い年の少女たちの平均よりもはるかに愛らしく、また、街角のあまり人気の無い場所を、たまたまあるいていたというだけだった。
 それだけだったなら、《よくある悲劇》で終わっただろう――― 
 少女が、《ただの人間》だったなら。
「ご承知の通り、モニターされている限り、ヨハンの状態は安定しています。装置を受け入れれば、すぐにでも、《治療島》を出られるという判断もあるが……」
「それは、だめだ」
 青年が、語気を強めた。
「私たち兄弟が許しません。あの子には、もう二度と、この装置を付けさせない」
 ジムは目を上げる。青年の右の耳で、耳飾りにも、補聴器にも似た装置、その出力を示す小さな光源が、うっすらと光を強めている。
「あの子があの子自身を護れるか、私たちの手で護れるかのどちらか、です。さもなければ……」
「分かりました」
 ジムは、軽く笑みを浮かべて、両手を挙げる。軽く視線を動かすと、おなじく、薄紫の目をした娘も、きつい目でこちらをにらんでいた。
「オレはあなた方の要望にこたえるだけです。それに、ヨハンの望みにも」
「……ありがとう。あの子も、クック先生のことは信頼しているようです。あなたを、信じます」
 ジムは、肩をすくめた。
「あなた方の前で誠実になれないくらいだったら、オレは、おとなしく八つ裂きになるほうを選びますよ」
 そのやや皮肉めいた言い方に、紫の目の娘が、軽く片眉を吊り上げる。青い眼の青年が、「アメジスト」と静かに妹を制した。
 ジムは二人を見る。今は、普段、片目を覆っている眼帯を、外している。
 ジムは、ヨハンほど、《目》がよくない…… けれど、二人の若者の体を覆っている、あわい光のような、《力》は見えた。それは矢車菊のような青玉の色と、かつて神が白い石に葡萄酒を注いだと伝説に言われる紫水晶の色を押している。もしもジムがさらに精緻な目をもっているのなら、なるほど、そこには幻獣の姿が見えたかもしれない。白い翼を持つ天馬と、しなやかな体と長い尾をした山猫。
 彼らは、《人獣》と呼ばれる人々だった。
 あるいは《ベナンダンディ(神の猟犬)》《ライカンスロープ(獣憑き)》と。彼らのことを語る伝承は、古来、数多い。彼らは人ならぬもう一つの姿をもつものたち。かつて神より、人を超えた力を与えられたものたちだった。
 さらに簡単な言い方をすれば、彼らは、一種のエスパーだということになるのだろう。他人の精神に働きかけて、己の姿をより強いもの、幻獣の姿をしたもの、と錯覚させる。だが、ただの錯覚に留まらせないのが、はるか北の地に住まう、彼らの力だった。
 彼らは、自らの望むとき、この世ならぬ獣へと姿を変える―――
 あるいは、怒りが、哀しみが、恐怖が、その心を支配したときに。その心が、原始の衝動に、支配されたときに。
 かつて彼ら一族は、恐れられ、狩り立てられたことがあった。それはもう数百年も昔のことで、彼らの仲間が容赦なく暴き立てられ、火刑台の上に縛り付けられて、あるいは無数の石に打たれ、矢を射られて死んでいったのは、若い彼らが知る由もなく昔のことであるはずだ。だが、それでも彼らの恐怖は、また、彼らに対する恐怖は、ヨーロッパという古き地においては、不思議と変わることがなかった。今は彼らは幼い頃から見つけ出され、その力を制御するための《装置》を付けられて生涯の大半をすごす。彼らがそれを外すことを赦されるのは、十分に成熟し、その力を制御できるようになったと認められてからだ。
 だが、本来、己の身を護るために備わった力は、ときに、そのような小細工を、赦さない。
 三年前、己の身を引き裂いた恐怖と絶望に、己の装置を、体の一部ごと、破壊してしまったヨハンのように。
 少女の魂に付けられた傷は、今も、癒えてはいない。なくなってしまった耳と、顔の一部に残った、傷のように。
 青い眼の青年は、しばし、ジムを見つめていた。やがて、ふっ、と表情を緩めると、懐から何かを取り出した。そっと、テーブルに進める。
「これを……」
 ジムは見た。細い白いリボンがかけられた、手のひらに収まるほどの黒い包み。
「渡してもらえませんか。17の誕生日祝いに、私たちからと」
 ピアスなんです、と彼は言った。
「あの子が昔欲しがっていてね、シルバーの小さなベルですが、ひどく高価なもので」
「それは……」
 彼は目を細めた。
「まだ小さかったから、あのころは、まだ早いと叱ってしまいました。だが、あの子は…… ヨハンは、とてもきれいになった。ヨハンがこれの似合うようなうつくしい少女になってくれて、私たち兄弟は、皆、同じように嬉しい」
 なれない言葉にどことなくぎこちない風に言って、けれど、彼の表情は、妹をいとおしむ色に満ちていた。
「クック先生、あたしたちが、誕生日おめでとうって言っていたと、伝えてください」
 紫の目の娘が言う。ジムは二人の若者を見て、そして、頷く。
「分かりました」
 ちいさな包みは、見た目よりも、重かった。ジムがヨハンに渡したピアスと、同じように。




 薬で眠りに落ちたまま、眼を覚ませば船の中、ということを、ジムは決してやらない。ヨハンは頼りないながらも自らの足で歩き、船に乗った。半ば以上を乗員に手伝われてとはいえ。
 《ネヴァーランド》の住人の多くは、大なり小なりヨハンと同じような理由で、船に乗るその瞬間までを見送るということを認められないことが多い。だがヨハンは、朦朧とした意識の中で、ひとりの青年が船着場に立ち、無言で船を見送っているのを見た。青年というのか、少年というべきか。古い銅のような青緑色の髪と目をした彼のことを、ヨハンは、確かに知っているような気がした。そして、出て行ったときと同じ黒い、けれど、違うデザインのワンピースを着ている万丈目が、なぜだか泣きはらしたような赤い目をしているのにも気づいていた。
 気づいていたが、何も、出来なかった。
 大量の鎮静剤を渡されていたが、けれど、意識を無くすのはあきらかに危険だった。自分の意識がないと、力を制御できない。できなければ、何が起きてしまうか分からない。ヨハンはそれを知っている。自分の正体を。それは、《けもの》だ。この上もなくうつくしく、しなやかで、そして、澄んだ声で歌う《けもの》。だが、その体に秘められた力のあまりの巨きさと、その研ぎ澄まされた爪の凶暴さが、ヨハンのことを怯えさせた。
 兄や姉たちに、会いたくなかったというと、うそになる。
 だが、兄や姉は、ヨハンとおなじ《けもの》で、その姿を見るだけで、いやおうがなしに、自分の中にいる《けもの》に気づかされてしまう。気づけば、すべては、まるでドミノ倒しのように、ぱたぱたと連鎖して、あっさりと、何十にも鍵をかけて封印しているはずのドアを、開けてしまう。ヨハンの中の小さなドア。その向こうから、じわりと、赤黒いものがにじみ出てくる。
 その正体は、恐怖と、怒りと、絶望と、そして、あまりにも原始的な、屈辱、という感情だ。
 キャビンのいちばん奥、プラスチックの箱のような小さな部屋の奥で、ただ、毛布に包まって、高熱に浮かされるように、体をふるわせる。がちがちと歯がぶつかりあう音が耳に響く。目を硬く硬く閉じて、その上から、ほとんど眼球を押しつぶすようにして、目をふさいだ。怖い。だが、自分のちいさな手に秘められた力が、もっと怖い。この手は、その気になれば、たやすく自分の耳を引きちぎり、さらに、人間の体をばらばらに解体してしまうだけの力をもっている。
《憶えている―――》
 そんなことしたいと思ったことなんて、ない。ないはずなのに。
《笑いながら服が引き裂かれる。カッターで切られた腹や胸が真っ赤になる》
 二度と、誰かのことを傷つけたりなんてしない。兄や姉たちに約束した。ジムにもした。もう、誰かを傷つけるようなことはしないって。
《髪がつかまれている。体の中に何かがつっこまれる。内臓をごりごりとえぐられる。肉が裂ける。誰かの笑い声》
 約束したんだ。オレは、
《みんな笑ってる、オレのことをみて、笑ってる悲鳴を上げる殴られる嘔吐する壊れる笑ってる髪が燃える臭い笑ってる》

「おい、ヨハン、ヨハン!?」
 声がする。それは、異変に気づいて、船室のドアをぶちやぶってきた万丈目だ。ヨハンが顔を上げてそちらを見た。その顔に…… 万丈目の顔を、ゾッとしたような、怯えの色が走った。
 見開かれた目。瞳孔が開いていた。何も見えていない。
 だが、万丈目を恐れさせたものは、そんなものではなかった。
 ヨハンの目が、まるで、黄昏のような、奇妙に鮮やかな橙色に、変色している。
「こい、つ……!?」
 
《怖いよ怖い怖い痛い怖いやめて誰か助けて殺される殺される》

 漏れ出す思考もまた、まるで、紅を腐食させたような色をしている。万丈目は一瞬呆然として、すぐに、己を取り戻した。なんということだ。思わず唇をかみ締める。誰かが船室を覗き込もうとする。とっさに、「来るな!」と叫んだ。
「ばかやろう! 簡単に、元に戻りやがって……!!」
 じりじりと侵食してくる腐食した紅。ぱりり、とスパークしたその欠片が体に触れた瞬間、思わず、声が洩れる。
「ッ!?」
 増幅された恐怖と痛みのイメージが、瞬間、脳裏にスパークした。
《やめてやめて痛いやめて殺される壊れる殺す殺す壊す殺す》
 これは、ダメだ。
 万丈目は、腕で体を庇いながら、そう悟らざるを得なかった。
 ヨハンは今は何も出来ない――― どれだけ絶望し、恐怖し、狂ったところで、一人の人間の中にある思念は、所詮、一人の人間の思念に過ぎない。これに汚染されて危険なのは、何らかの形で素質を持っている人間だけだ。だが、最悪なことに、今この船に乗っているものの大半は、《ネヴァーランド》の住人…… つまり、素質を持つもの、しかも、年若い少女ばかり。汚染されれば簡単に最悪へと自体は転がっていってしまうだろう。
「くそっ」
 歯噛みをする。そんなことはやりたくなかった。だが、医者に、麻酔銃を持ってくるように言わなければ。壁に備えられたコールボタンを押して、サイレンを鳴らす。医者はすぐに来るはずだ。だが、誰かが来るまでは自分がここにいて、見届けないとならない……
 だが。
 ドアが開く音がして、けれど、現れたのは、医者ではなかった。
 瞬間、息が止まった。
「じゅう、だ」
「―――ヨハン!!」
 まっしぐらに、こちらへと、かけてくる。
 避ける暇も無い。ほぼ真正面からぶつかったはずで、けれど、その少女は、まるでまぼろしでもすりぬけるように、万丈目の体を、すりぬけた。
「……ッ!?」
「ヨハン、おいヨハン!! 大丈夫かよ、しっかりしろ!!」
 駆けつけた十代は、何のためらいもなくオレンジ色の闇の中へと飛び込んで、ヨハンの元へと駆け寄った。抱き寄せる。震える指を、体を、しっかりと、その両の腕で、強く抱いた。
「じゅう、だい」
「ヨハン」
「こわい、おれ」
「大丈夫。大丈夫だから」
 すがるように腕を伸ばすヨハンを、ぎゅうと抱きしめる十代は、けれど、そちらのほうが泣き出しそうな声をしていた。背中からだ。何も見えない。だが、万丈目には、全てが分かる気がした。
 ゆっくりと、痛んだ紅が、息づく。触れれば魂をも汚染する思念に全身を浸して、栗色の髪の少女は、もう一人の少女を、ただ、抱きしめている。
「大丈夫だよ、ヨハン。もうひとりの、……」
 万丈目は、ふいに、ドアの外を駆けてくる足音を聞いた。白衣のスタッフ。だが万丈目は、とっさに手を広げた。彼らをさえぎるために。
「大丈夫か!? 患者は……」
「撃つな。……もう、平気だ」
 万丈目は、肩越しに、ちらりとそちらを見る。二人の少女の姿。
 だが、スタッフの目には、困惑の色が浮かぶ。彼らに見えているものが分かる気がした。ただ、顔をゆがめて涙をこぼしながら、虚空を抱いて、独り言を言っている少女。
 彼らには、何も――― 見えない。
 当たり前だ。この船は、洋上にある。島へとたどりつくまで、まだ、一時間以上ある。絶海に浮かぶ小船に、どうして、乗せてもいない乗客が、乗っていることができるというのだ?
「ほうっておいてやってくれ」
 万丈目は言う。奇妙に苦い思いで。
「だが、しかし……」
「もう安全だ! だから!!」
 だが、しかし、《安全》とは、誰に対して、誰が、なんだろうか?
 言いながら、たかがその程度のことすら分からない自分が、はがゆい。
 万丈目は、ただ奥歯で、そんな思いを、噛み潰す。




 ―――ヨハンが、はじめて十代と出会ったのは、すべてが白い部屋でのことだった。
 部屋の壁には、体をぶつけても平気なように詰め物がされていて、患者が汚物で汚しても平気なように、すべてがつるつるとした頑丈なビニールで覆われていた。だが、果たしてそこまでの防備をする必要がほんとうにあったのかどうか。二重三重に拘束具をつけられた患者は、ほとんど芋虫と同じような姿で、動かそうにも、寝台から転げ落ちることすらできなかった。
 ヨハンは、ベットに拘束されて、手足どころか首までも動かせないようにされたまま、悲鳴を、上げ続けた。朝も、昼も、夜も。窓が無い、いつも薄明るい部屋の中で、時間の感覚がなくなっても。
 口をふさがれていても、精神は、悲鳴を上げ続けた。誰もヨハンに触ることができなかった。完全に精神の声にたいして鈍感な人間で、しかも、ほんの短時間のうちに体の介護をすませていても、後々には皆がひどい頭痛や吐き気などの症状に悩まされていたと後で聞いた。
 だが、それでもヨハンは、叫びをとめることが出来なかった。
 さもなくば、《装置》を使って、今度こそ完全に、力を奪われてしまっただろう。 
 だが、ヨハンは、自らの中の獣が、傷つけられた体と魂に怯え、見境をなくしていることを知っていた。けものは、おびえていた。二度力をなくせば、今度こそ、何の爪も牙も無い人間の体で、己の命を奪おうとするものたち、己を引き裂き、その血と苦痛を啜って喜ぶものたちのまえに、投げ出されてしまう。そんな思いに囚われて、ヨハンの精神は、絶叫し続けていた。
 ……だが、少女との出会いは、唐突に訪れた。
 何の前触れも無かった。気が付くと、そこに、《彼女》がいた。
 栗色の髪の、細い手足の。
 彼女は無感情にヨハンを見ていた。そして、手を伸ばすと、涙と汗と、そしてよだれと吐しゃ物で汚れた顔に、キスをした。そして言った。
「ねえ、《これ》を、分けてくれないか?」
 《これ》が、ヨハンの傷そのものだということを、何故だかヨハンは、たやすく悟った。
「そしたら、おれを、あげるから」
 彼女は悪魔なのか、それとも天使なのか、ヨハンには分からなかった。
 思うことは一つだけだった。
 この苦痛をぬぐって欲しい。
 薄めて欲しい。
 だからヨハンは、とぎれない悲鳴の中で、《是》とこたえた。
 少女はすこしも表情を変えなかった。ただ、こくんと頷いただけ―――
 だが、彼女は、言ったとおりに、《それ》を喰った。
 どうやったのかを、正確に、口で説明は出来ない。だが彼女は、ひとくち、ひとくち、まるで、切り分けられたパイでも食べるように、ヨハンの《力》と《苦痛》を食べた。
 それから彼女は、ずっと、ヨハンの傍にいる。
 世界でたったひとり、ヨハンのことを抱きしめてくれる、存在として。







「《ネヴァーランド》が見えてきたよ」
 細い指で髪を梳きながら、十代がささやくころには、ヨハンは、ようやく落ち着きを取り戻し始めていた。
「分かる?」
「……ああ」
「へいき?」
「うん……」
 それでも、子どものように膝枕をしてもらっている膝の温かさから、離れる気がしなくて、ヨハンは十代の腿に頬を擦り付ける。草のにおいがした。真夏の草の、無数に咲いた花の、どこか粉っぽい花粉の匂いと、青臭く甘い匂い。
 少し笑っている顔は、やっぱり、なんだか子どもみたいに見えた。ふと、声がする。ぶっきらぼうな調子。
「おい、落ち着いたか。ヨハンと、そこの無断乗車」
「おー?」
 十代が、びっくりしたように手を持ち上げると、胸の辺りでカルピスとミネラルウォーターのボトルが受け取られる。ぱちくりと目を瞬く。
 乱暴に投げてきた万丈目は、けれど、幾分かなれた顔だ。ヨハンのかたわらにどっかと座り、足を組むものだから、骨っぽい足に長めのソックスがあわされているのが良く見えた。
「ああいう無断乗車はやめろ。《ふつうの》乗員が驚くじゃないか」
「でもさぁー、ヨハンのためだもん」
「もんとかいうなもんとか。お前には常識とかそういう言葉は無いのか」
 頭の上で交わされる言葉を聞きながら、ふとヨハンは、十代の膝に頬を乗せたまま、船の中を見る。そこには、《ネヴァーランド》の子どもたちの、いつもの光景が帰ってきていた。
 けっして多くは無い乗客たち。13から18までの少女たち。
 誰もが、その身の回りに、それぞれの大切な《友人》や《使い魔》や、《妖精》を、つれている。
 髪から無数の白い花を咲かせて、ようやくほっとした子どものような顔で、居眠りをしている娘がいる。
 ちりちりと音を立てるこまかいガラスの骨組みで作られた動物たちが、いまにも壊れそうなあやういバランスで、チョコチョコと船内を横切る。
 中には、船が島に近づくにつれて、少しづつ姿の代わっていったものもいた。ガリガリにやせこけた少女は、2リットルのボトルに詰まった水を何本も何本も飲むうちに、体全体が見事に膨れ上がり、気が付いたら水風船で作った動物のような、グロテスクさと愛らしさの交じり合ったマスコットに代わっていた。そして、その透き通ったゴムの頬ごしに見ると、中で、ちいさな貝殻によりかかった少女自身が、親指姫ほどの大きさの人魚になり、いささか災難を逃れた、という顔をしていたりするのだった。
 ああいうものは、あからさまに、フィジカルな意味での《現実》ではないと、分かる―――
 だが、ヨハンが目を上げると、「ん?」と首をかしげる十代は、いつからそこにいるのか、分からないほどに自然な存在だ。ヨハンは腿のあたりを覆っているデニムの生地を撫でた。ダメージ加工を施された硬い生地。
「これ、結局履いてるんだ」
「ん? うん。吹雪さんがさ、これでつっとけって。着たらヨハンが喜ぶって」
 ヨハンの私物である、チープな金ラメのサスペンダーの下に指を突っ込んで、十代はなんともモノが分かっていない風に首をかしげる。万丈目がうめく。
「派手なファッションセンスの二乗……」
「お前も吹雪さんに見立ててもらったらどうだ?」
「いらんわっ」
 あはは、と屈託なく笑っている十代は、サイズの合わないデニムとサスペンダーのほかには、子ども服のブランドのものをミニマムサイズで着ているTシャツ、という格好だ。かたちのいいへそが見えていた。脂肪の無い、ぺたんこの腹。どことなく発達途上の風に見える小さめの胸。
 十代の履いているこのデニムは、自分の私物だ、とヨハンは思う。
 だったらこれは、《フィジカル》な現実だ。リアルな、身体的な、現実に依存した、実在。
 なら、十代はどちらだ。途中までは、十代の姿は、船員には見えていなかったはずだ。同じように、《メンタル》な現実を共有している、万丈目たちのような同窓生たちにとってすら、十代の存在は、いつであってもリアリティのあるもの、と決まったものではない。
 考えると、不安になる。
「……あれ、どしたんだ、ヨハン」
 まだおちつかない? と不安げな声が頭上から降ってくる。頬の辺りを指が撫でた。ヨハンは唇にふれた指をちろりと舐めた。かすかに塩辛い味。
「調子が悪そうだな。今回は、どうしたんだ」
 万丈目も、軽く眉を寄せて、顔を覗き込んでくる。
「やっぱり無茶をしたか? 《島》を出るのは……」
「そんなこと、ないんだ」
 ヨハンは、いやいやをするように首を振った。十代の膝に顔をうずめる。
「そんなんじゃ……」
「誰かを呼ぶか」
「やめてくれっ」
 押しころした小さな声は、しかし、そのかすれた風がほとんど悲鳴だ。万丈目の表情に不安の色が浮かんだ。十代を見る。十代は静かに考えていた。けれど。
「うん…… 大丈夫。おれがなんとかできる」
「……おまえ」
 指先が、まるでピアノを弾くように、ヨハンの髪を、頬の辺りを、奏でるようにかるくタップする。その指先に塗られたあざやかなオレンジ色のネイル。顔を上げた十代は、少し、痛いのをこらえるように笑う。
「おれさ、《これ》が、好きだから」
「……」
 万丈目は、しばらく息を詰めて、二人をにらんでいた。やがて肩の力が抜けて、「勝手にしろ」と言い放つ。乱暴に足をぐいと組みなおし、二人のために持ってきてやったミネラルウォーターを開けてしまった。だが、離れていかないあたり、彼にはきちんとした心配の気持ちがあるのだ。ただ、それが上手に外に出て行かないというだけだ。
 まるで奏でるように、ちいさく髪をなでられていると、息が落ち着いてくる。
「なあ、万丈目。お前も、《これ》が、ほしいか……?」
 そんなヨハンを見下ろしながら、ふと、十代が問う。万丈目は盛大に顔をしかめた。
「まさか!」
「……まあ、そうだよなあ」
 あはは、と十代は笑う。その声がちっとも実際にそぐわなくて、万丈目は、なんとも苦い顔をした。
「あとちょっとだぜ。もうじき島に着くから」
 うん、と膝の上で、ヨハンがあごを引いた。十代はその髪をそっと指に絡め、また、解いた。







 



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