17歳のカルテ





 自分の誕生日からちょうど二週間が経過したその日、秋のうららかな日が昇る朝、ヨハン・アンデルセンは、うら若い乙女にはあらざる形相をして、自分の部屋にある大きな姿見の前に座り込んでいた。細かくホイップしたクリームのような肌、ふっくらとしたふくらはぎ。その中間あたりで、お気に入りのダメージデニムが止まっていて……
 それ以上、あがらないのだ。
「は、は、は」
 声がひきつる。すぐ後ろ、洗面所のあたりから、寝惚け顔の同居人が、歯ぶらしを加えて顔を出す。ふわあ、と小さくあくび。
「ヨハン、なに笑ってんの?」
 笑っているわけではない。
「ジーパンが、入らないっ……!!」
 どれだけ足を押し込んでも、腿の辺りでとまってしまい、入らない。前はきつめだけどちゃんと入ったのに! まさか洗って縮んだというわけでもあるまい。ヨハンは、下着一枚という格好のまま、「あああ」と頭を抱えてしゃがみこむ。
「どーしたんだよー、ヨハンー」
 遅刻するぜーと、うしろから、口の端っこに歯磨き粉のあわをつけた十代が、心配そうに覗き込んでくる。ヨハンはがっくりと落ち込んだまま、手にしたデニムを十代に押し付けた。
「これ、やる」
「へ? なんで?」
「いいからはいてみて」
「いいけどぉ……」
 半年ぶりの外出日だから、と思って遅れを取った。くそう、ちくしょう、と半ば涙目になりながら、ヨハンはクローゼットのほうへと取って返した。白いレースのミディスカートと、タイトなラインのTシャツ、それに、柔らかいキッドレザーのカウボーイ風の上着をひっぱりだし、大急ぎで着込んだ。こっちは余裕があるからいい。あたりまえだ。普段から制服に合わせて着てるんだから。
 だが、服装を上から下までそうとっかえをすると、やっぱりアクセサリーから化粧から何から何まで変えないといけない。こんちくしょう。せっかくの予定がめちゃくちゃじゃないか! バックの中身をひっくり返し、大急ぎでリップを選びなおしているヨハンの後ろから、「よはんー」と声がする。「なんだよっ」と振り返ったヨハンの目に、足を中途半端にデニムに突っ込んで、情けない顔でよちよちと出てくる同居人の姿が見えた。
「なんかずりおちるんだけど、これ」
「……」
 まるで男の子のように細い足、ぺったんこのおなかを半ば見せて、同居人、十代はなんとも情けの無い顔をしていた。大きくて丸いとび色の目も、はしがつんつんと跳ねた茶色い髪も、まるで、小学生くらいの活発な男の子のように見える。ヨハンはむかつくよりも先にしみじみとした気持ちになって、しげしげと十代を見た。十代はデニムをひっぱりあげる。パジャマ代わりの横じまタンクトップの肩紐が、薄い肩からずりおちる。
 ヨハンは、思わず、十代を抱きしめた。
 ぎゅっ。
「あのー、ヨハン?」
「かわいい……」
「あのさあ、遅刻するぜ?」
「ううっ、かわいいぜえ、オレの十代ーっ」
「よはんー、おい、よはんー?」
 毎朝のことなので、十代は苦笑して、抱きついたままのヨハンの背中、細くてやわらかい翠緑の髪がながれる背中を叩く。誰かがドンドンとドアを叩き始めていた。たぶん、アカデミアを出る船がいっちまうぞと、同じ寮の住人が、わざわざ呼びに来てくれた音だった。

 ヨハン・アンデルセンは、今年で、17歳になる。
 ―――孤島に作られた全寮制の学校、通称、《ネヴァー・ランド》に通う、女子学生だった。

「ったく、化粧してて遅刻するとか……!!」
 同じ船着場までの道を小走りに歩きながら、となりの万丈目がぷりぷりと怒っている。こちらはごく上品な意匠の黒いワンピースとボレロのセット、黒い革の編み上げ靴、といった風袋だ。彼は島を出れば直行で家族へと会いに行くことになる。それだから、これでも構わないんだろう。あいかわらず面白みが無いなあ、とヨハンは思う。
 そんなヨハンの隣を走りながら、十代が、「ちがうぜー」とくすくす笑う。
「ヨハンな、履こうと思ってたジーパンが…… ふぐっ」
「ぎゃああっ、言うなああああ」
「……案の定、お前、なんとなく頬の辺りが」
「お前もいうなあ、このぺちゃぱい!」
「なんだとお!?」
 やっと開放された十代が、ぷはっ、と息をつく。いつもどおりの二人のやり取りに、「たはは」と苦笑した。
「出かける日まで大騒ぎしなくってもなあ?」
 大騒ぎをしていなくても、まもなく船着場だ。コンクリートが打ちっぱなしの港は、まるで漁船のようなフェリーをつなぐだけだから、ほんの小さな、ささやかなもの。かお、かお、と海鳥が鳴き、錆びだらけの倉庫のシャッターが閉まり、壊れた樽が放置されていた。港にはもう、船が着いている。波が打ちつける港の辺り、荷物を持って乗り込んでいく生徒たちに混じって、ひとり、ふたりと、見送りらしい制服の生徒たちがいた。駆けつけたヨハンたちが立ち止まると、そのひとり、涅色の髪をした吹雪が、「やあ」と陽気に片手を上げる。
「うーん、今日も可愛いねえ、ヨハンくん、万丈目くん」
「あれ、吹雪さん、行かないのか?」
「うん、留守番」
 にこにこと笑っている吹雪は、三人より年上の19歳。この《ネヴァーランド》ではほぼ最年長にあたる年長さんだが、蒼と白でデザインされた袖の無い制服を、ごく、品のよい感じで着こなしている。吹雪は、その顔と細い体つきだけを見れば、どこか儚げな風情の、その名の通り淡雪のように白い膚をした佳人だった。顔だけ見れば。
 いつものようになれた感じでヨハンの姿を上から下までみて、「うーん」とあごに手を当てた。
「……彼氏さんに合わせたの?」
「いや、そーいうわけじゃなくって」
「ジムは別にヨハンの彼氏じゃないぜー?」
「いやいや、いいんだ。隠さなくたって。愛は生きるよすがだよ」
 ぜんぜん話を聞いていない。
 顔を見合わせる後輩たちに、ぷっ、と自分で吹きだして、吹雪は可笑しそうに笑い出す。この人に何を言ったって仕方ないのは分かっている。納得の行かない顔の万丈目に引き換え、ヨハンと十代は、お互いに顔を見合わせてくすくすと笑った。
「よし、じゃあ、今日はこれをお願いしちゃおうかな」
 ぴっ、と懐から白い封筒をとりだす吹雪。いつものことなので、「はい」と、万丈目が真顔で受け取る。こんな固い顔をしなくたっていいのに、と思うヨハンに引き換え、吹雪のほうはなれたものだ。年下の万丈目の頭を撫でて、「じゃあ、亮と明日香によろしくね?」という。
「はい……」
「あ、優介!」
 言いかけたあたりで、十代が、誰かを見つけたらしい。港の向こうへと身を乗り出す。船の下には透き通った碧色の水があり、ちいさな魚影がくるくると身を翻していた。誰かの影が、向こうに見える。水藻のような緑の髪。ヨハンを見送るべきか、見つけた誰かを追うべきか、迷っているらしい十代は、振り返ってヨハンを不安そうに見る。「行ってこいよ」とヨハンは笑った。
「いいの?」
「うん。お土産待ってろよ、十代」
「うん…… 気をつけろよ」
「ああ」
 十代は、こくんと頷くと、小さな段差を身軽に飛び越えた。港の向こう、落ちた星屑みたいなテトラポットが並ぶ向こうは、防波堤となっている。そんな背中を見送っているヨハンの肩を、「船が出るよ」と吹雪が叩いた。その言葉を聞いたように、船員が、出講の時刻を知らせて、がらん、がらん、とベルを鳴らしていた。




 南の海に浮かぶ、孤島の《ネヴァー・ランド》へとヨハンがやってきたのは、もう、3年も前のことだった。
 あのころに比べれば、自分はずっと楽に息ができるようになった――― とヨハンは思う。もっと昔、《ネヴァーランド》へ行く前は、ヨハンは、いつも息が苦しかった。それはまるで回りに水があって、それが誰にも見えないくらい透き通った水で、ヨハンのことをヨハン自身にすら知らせないままに、おぼれ死にさせようとしているようなものだった。けれど、幸運なことに、ヨハンはある日、《ネヴァーランド》への切符を手に入れた。家族たちはみんなそれを哀しんだけれど、帰ることの出来ない一枚切符じゃないということは、今では十分にわかっている。なぜならヨハンはこうやって島を出るための船に乗っている。そうして、その船は、数時間の出港の後に、いつものように人々の暮らす都会へと、たどり着こうとすらしているのだ。
 港から、電車に乗り換えた。生徒たちはそれぞれに散っていく。ヨハンはいつものように家族から届いた切符を見て、予約されているホテルの場所を確かめる。
 が、先に行くのは、買い物だ。
 人の多い線をいくつも乗り継いで、たどり着いたのはひとつの駅。人の多さの割りに小さめの駅でいつものように降りて、改札口のあたりできょろきょろしていると、「Hey!」と声がする。周りの人から飛び出して、あたまひとつ大きな影が、柱のあたりで手を振っていた。
 ヨハンは、ぱっと顔を輝かせる。手足の長いひょろながい体つき。眼帯をつけた男。
「ジム!」
 駆け寄っていくヨハンに満面の笑みを浮かべて、両手を広げている男。ジム・クロコダイル・クック。
 吹雪には《彼氏》などとからかわれたが、そうは違わないだろう。《ネヴァーランド》を出るたびに、いちばんに会いに行く相手だ。白いシャツに、アンモナイトのついたループ・タイ。「ひさしぶり」と満面の笑みを浮かべるヨハンを見て、「ああ、ひさしぶり」と片方だけの目を細めた。
「元気そうだな、安心した」
「……それって、どういう意味?」
「おいおい、なんだその反応は」
「べっつにー」
 朝、お気に入りのデニムが入らなかったせいじゃない…… と思う、たぶん。
 ヨハンは、くるりとつま先で振り返る。レースをたっぷりつかった白いスカートがゆれた。半ば強引に腕を組んでやるとジムが「おいおい」と笑う。ヨハンは笑いながら、強引に、ジムを引っ張っていく。
「あのさあ、聞いてた? オレが17歳になったって!」
「ああ、聞いてたさ」
「プレゼントはある?」
「言われたとおりの、店に頼んどいたぜ」
「やっりぃ!」
 現金な少女に苦笑して、しかし、ジムとてまんざらではないという風の表情だ。信号が変わる。駅から、どっと人が吐き出される。
「さー、いっぱい買おう。秋だしさあ、着るものなくって」
「お前はあいかわらず、服のことばっかりかんがえてるんだなあ」
「いいだろ? おしゃれなのって悪いことじゃないって、言ったの、ジムじゃんか」
「まあ、そうだ」
 それにお前は何を着てもよく似合うしな、と頭をぽふぽふと叩かれる。複雑な気持ち。
「……子ども扱い……」
「ん?」
「なんでもないっ」
 ふくれっつらをしてたってしかたがない。外の世界にいられる時間は、そんなに長くないのだ。だいたい、ジムが朴念仁だってのは分かりきってる。ヨハンはその腕をひっぱって、人ごみの中を歩き出した。
 チープなアクセサリーや、流行のデザインの安い服を売っている通りでは、300円ショップを覗いて冗談みたいに馬鹿でかい安全ピンを買ったり、真っ赤なエナメルの安い靴を試着してみたり。そこを通り越すと今度は古い街並みのあちこちに個性的なメゾンが並んだあたりで、お気に入りの店を端から順繰りに覗いていく。
 もともとフリフリしたレースだのなんだのがついた服が好きなヨハンには、端から覗いていっても時間が足りないくらいだから、あちらこちらで気になった服はまとめてお買い上げにした。リボンやラインストーンがごてごてにくっついたミリタリー風のシャツや、ベビードール風のデザインのミニドレス。紐の代わりにリボンを通した、膝下のブーツとか。
 あっという間にその始末なのだから、当然、ジムのほうが根を上げる。いつも覗いているセレクトショップを出たあたりで、「そろそろ休ませてくれ」と、両手にショップバックを満載したまま、ギブアップの声を上げた。
「どれだけ買えば気が済むんだ、ヨハン!」
「うーん、あとちょっとだけ……」
「かんべんしてくれ、オレの両手が限界だ!」
「……わかった」
 しかたない、とため息をついて、店先でにらめっこをしていたミニのスカートをラックに戻す。ちょうど目の前には、喫茶店がある。時間がずれているからさほど混んでもいなかった。
「じゃあ、お茶にしよ」
「やれやれ」
 ジムが、しんそこほっとした、という風にため息をつく。ヨハンは思わず吹き出した。

 
 喫茶店のメニューを見ると、いかにもこのあたりらしい、クレープのメニューが並んでいる。ジムはさっさとコーヒー一つを頼んだが、ヨハンのほうはなかなか注文が決まらない。唸りながらメニューとにらめっこをしているヨハンに、「どうした」と不思議そうな顔をする。
 ヨハンは、店のショーケースを横目でにらんだ。クリームやチョコレートをたっぷりとつかった、夢のようなケーキたち。
「頼まないのか? 好きだっただろ。チョコバナナのクレープ」
「……食いたい、けど……」
「ん?」
「今朝さあ……
 ヨハンは、下を向いて、ぼそぼそと言った。
「履こうと思ってたジーパンが、入んなかった」
 ジムは、目を丸くした。それから、まもなく、ぶっ、と吹きだす。
「笑うなあ!」
 顔を赤くして怒鳴るヨハンに、「いや…!」と返事をするが、しかし、笑っているのは紛れも無い事実。そして、笑いをこらえながらウエイトレスを呼び寄せたジムは、「クレープ、チョコバナナの」と勝手に注文してしまう。
「クリームもチョコレートも大盛りで、頼んだぞ」
「って、勝手に頼むなよお!」
「いいじゃないか。島じゃ、こんなものは食べられないんだろう?」
 笑いながらこちらをみるジムの目の下に、ちいさなふくらみがある。それが優しい。ヨハンは真っ赤になって口ごもる。
「そりゃ、そうだけど……」
「いいんだ、いいんだ。子どもは食って大きくなるのが仕事なんだから」
「子ども扱い、するなよ」
 ぶう、と答えるヨハンに、ジムは、笑った。そして、思いついたように、「ああ、そうだ」と答える。
「誕生日プレゼントだったな、ヨハン?」
「……!!」
 とたん、顔を輝かせ、ぶんぶんと頷く。ジムは笑顔を深くして、バックの中に手を入れて、何かを引っ張り出してした。黒い革のちいさな袋。
 それをあけて、中から、小さな銀のピアスを取り出してくる。花のようなかたち。チリン、とかすかに澄んだ音がした。
 ヨハンは、思わず、目を大きくする。
「これでよかったんだろう?」
 ジムは手の中でピアスを転がした。澄んだ音。それは、どうやら新品ではないと思しい、わずかに傷がついた、小さなベルのピアスだ。ジムはそれが新品ではないということが気遣わしいらしく、「誕生日なのになあ」と少しすまなさそうな顔をする。
「友人に手を回して、探してきてもらったんだが…… ほんとうによかったのか?」
「うんうんうんうん!!」
 手渡されたヨハンは、目をかがやかせて、そのピアスを見る。澄んだ音がした。感動に声も無い、という風の少女にやれやれと笑い、ジムは、テーブルに頬杖をつく。ヨハンの、ライラック色のマニキュアを塗った指の先で、銀のベルのピアスが光った。
「付けてみるか?」
「うん……!」
 鏡ないかな、とあわててバックをひっくりかえそうとするヨハンに、「こっちに来い」とジムが言う。付けてくれるつもりなんだろう。ヨハンは、「いいよ」とあわてて身を引いた。
「いいのか?」
「う、うん」
「片方しかなくってな、驚いたんだが…… 最近のアクセサリーのことはちっとも分からん」
「……」
 首をひねっているジムは、どこまでも自分を女の子扱いしてくれない。だいたいシルバーアクセサリーは片方づつが基本で、普通のイヤリングとは違うのに。だが、そんな《ぜんぜんわかってない》ジムが可笑しくて、ヨハンはくすりと笑った。だから、こうやって二人で居て、いいのだ。指先でベルをつつくと、澄んだ音がする。
「これな、話したよね。《Hug Me with Tear Bell》っていうんだ」
「ティアベルはわかるが、《私を抱いて》?」
「うん……」
 だから欲しかったんだ、とヨハンは笑う。
「デザインがすきってのもすごくあったけど、なんていうか、十代につけてもらいたくって」
「そうか……」
 ヨハンは、窓を見る。磨いたガラスに自分の顔が映っていた。やわらかい翠緑の髪にふちどられた、ほの白い顔立ち。
 外の通りを通りかかった青年が、ふと窓ガラス越しにヨハンを見て、驚いたような顔をして、それから、すぐに目をそらす。その意味を知っているからヨハンは何も言わなかった。ただ、少し笑う。今は大丈夫。あの視線は、もう、ヨハンのことを傷つけない。誰に見られても、痛いとは思わない。
「十代は元気か?」
「うん、すごく元気。今朝もさ、オレが入らないジーパンやったらさ、ぶかぶかだよお、って言うんだ。ひっでえよなあ」
「そうだったのか?」
「むかつく。お仕置きしといてやったけど」
 主に抱きつき攻撃とか。
 ジムは可笑しそうに笑う。その笑顔に、どこかしら、ほっとする。ジムは問いかける。
「ピアスを買った、ってことは、十代もピアスを開けたのか?」
「うん…… オレが開けてやったんだ。先月くらいに」
「……」
「これ買ってくれ、って頼んだら、探しといてくれるって言ったからさ。前に外に出たときに、ニードルを買っといたんだ」
 オレが開けたよ、とヨハンは言う。ジムの笑みがわずかに曇る。ヨハンはあわてて、ぱたぱたと手を振った。
「そういう意味じゃなくってさ!! ちゃんと毎日洗って消毒してやってるし、薬も貰っといたし! きちんとホールも完成してると思うぜ。だから……」
「……ヨハン」
「……」
 ヨハンは黙る。ジムが、こちらを見る。
 片方だけの目が、ヨハンの目を、見る。
「今日は、大丈夫か?」
「……」
 とたん、咽の奥で、何かが固まる。石になる。
 胸の奥に、無数の小石がある。咽が詰まって、声が出なくなる。
「ヨハン?」
「大丈夫、だ……」
 ヨハンは顔を上げた。笑った。ジムに貰ったピアスを、握り締めて。
「うん、大丈夫。今日は、きちんと会いに行くよ。だって、オレの誕生日のこと、お祝いしてくれるつもりだったんだしさ」
 ヨハンは笑った。なかば無理やりに。何も言わず、ジムは、頷いてくれた。深く深く。





 《ネヴァーランド》への切符を手に入れたとき、家族たちは、それぞれに、違う反応をした。姉の一人はヨハンを抱きしめて泣き、兄の一人は、可愛い妹をそんな場所へやれるか、と怒った。けれど長兄だけは、冷静にヨハンを見て、「行くか」と聞いてくれた。それは、ヨハン自身がそれを望むか、それとも、という目だった。
 ほんとうのところ、そのとき、ヨハンはあまりに疲れ果てていて、そこが《ここではないどこか》であるのだったら、地獄であろうと天国であろうと、喜んで行きたい、という気持ちだった。それが家族を傷つけると知っていたから、口にしなかっただけだった。でも、みんなはちゃんと分かっていたのだった。口にしたら何もかもが壊れてしまうから、黙っていた。それだけの話だった。
「行くよ」とヨハンは言った。
「行きたい」と。
 次の日、ヨハンは、何一つとして荷物を持たずに、《ネヴァーランド》行きの船に乗った。家族の写真の一枚とて持たず、すべての想い出を振り捨てていったということは、またしても、家族の心を傷つけたかもしれなかった。だが、ヨハンには、他には路は無かったのだ。

 生きるためには。



 待ち合わせの時間に、ホテルに付いたころには、外が暗くなっていた。
 買い物した荷物は、駐車場に止めたジムの車においてきた。豪奢極まりないシティホテル。ボーイがヨハンの顔を見て一瞬奇妙に顔をこわばらせ、すぐに、慇懃な無表情に戻った。ヨハンは隣のジムの手をぎゅっと握り締める。ジムは待ち合わせの階を次げる。最上階のレストラン・ラウンジ。
 ボーイがドアを開くと、抑えた曲調のピアノが聞こえてくる。磨きぬかれた窓の向こうに宝石をばらまいたような夜景が見下ろされる。盛装した男女の姿。ジムが予約の名前を告げると、一分の隙も無い姿のボーイが、頷いた。ヨハンはジムの手を硬く硬く握り締める。
 案内された先は、やや、一目を離れた場所にあるコーナーだった。ヨハンはぎゅっと目をつぶる。声が、した。
「ヨハン!」
 澄んだ、女の、声。
「遅くなりました」
「いえ、ありがとうございます、クック先生。……ひさしぶりだな、ヨハン」
 青年の声。
 姉と、兄だ。そう自分に言い聞かせ、ヨハンは、そっと目を開ける。だが、目の前にある姿を見て、足が震えだした。だめだ。やっぱり、だめみたいだ。
「ジム……」
 声が、震えていた。指も、足も。
「……ごめん、オレ、やっぱり」
「そうか」
 ジムの大きな手が、ぎゅっと腕にしがみついたヨハンの腕に、重ねられる。ヨハンは思わずぎゅっと目をつぶり、口元を押さえた。ジムの腕が支えてくれる。ヨハンは、声を、絞り出した。
「サファイア、アメジスト、ごめん」
 息を呑む気配。
「ごめん、ごめんね……!!」
「いいんだ、ヨハン。さあ、休める場所に行こう」
 ジムが、体をささえてくれる。ボーイに何かを言った。兄の声が、何かを指示する。おそらく部屋を取っておいてくれたんだろう。妹のために。自分たちの顔を見ることすらできない、血の繋がらない妹のために。
「行くぞ。歩けるか」
 ヨハンは、何度も、頷いた。
 ……情けなさに、涙が、こぼれた。






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