/ Disposable Children
―――昔、たしかに、ふたりだったことがある。
「十代、平気か?」
夕暮れの公園でベンチに座って、泣きべそをかいている十代のすぐ傍に、彼は座っていた。心配そうな顔。夕暮れが透き通るような翠の髪に光って、紅と翠の交じり合う、世にも不思議な色彩になる。
だが、足が痛くて涙が止まらない十代は、何の返事も返せない。そこは古ぼけた団地に囲まれた、小さな小さな公園だった。さびてしまったジャングルジム。ブランコは鎖が腐って外されてしまい、今では片方しか残っていない。遠くで泣き喚く赤ん坊の声。工場が吐き出す黒い煙。
彼は、ヨハンは、心配そうに十代の足元に座り込むと、「いいか?」と顔を覗き込む。泣きべそで頬をこすりながら、こくんと十代は頷いた。
ヨハンは、靴を脱がせる。足首の辺りで赤黒くなっている絆創膏をはがす。そこには傷がある。―――ざっくりと開いた、赤黒い傷跡。
空気に触れると痛みが増した。十代は、ひっく、としゃくりあげる。ヨハンは戸惑った顔になる。「泣くなよ」と言った。
「……ひどいな」
だが、その傷跡を誰に見せようにも、ヨハンには十代を病院に連れて行ってあげることすら出来ない。そんなことをしたら、きっと聞かれるだろう。なんでこんな傷があるの、と。体中に残った青あざはなんのせいなのと。
言えるはずがない――― 義理の母親が、腹を立てるたびに、十代の足をカッターで切るのだなんて、言えるはずがない。
「泣かないでくれよ、十代」
ヨハンは戸惑い顔で言う。けれど、どうしても泣きやめない。十代は、しゃくりあげながら言う。
「だっ、てっ」
「痛いのか…?」
「…・・・」
痛くない。十代は首を横に振る。つらいのは、痛いことなんかじゃないのだ。ヨハンは戸惑った顔でしばらく十代を見ていた。けれども。
やがて、足元に再びひざまずく。そして、ちろりと舌を出すと、足首に横についた傷跡に、ゆっくりと舌を這わせた。
「……よは、ん?」
鉄さびにまみれた傷跡。かるく汗ばんだ足。それを、やわらかい舌が、ゆっくりと舐める。
足元にひざまずいた少年の表情は、信じられないくらいに真剣に見えて、十代は背筋がチリリとしびれるような感触を感じた。ヨハンはそれに気づいたんだろう。奇妙に上気している顔の義弟を見て、「もう平気か?」と少し笑う。
「うん」
「そっか。じゃ、水道で洗って、それから、家に戻ろう?」
「うん、あのさ……ヨハン」
「なんだ?」
十代は、なんとも居心地の悪い思いで、足元にひざまずいている義兄を見た。
「足とか、汚いよ…? ばい菌、入っちゃうかもしれないぜ?」
ヨハンは、きょとんと目ををまたたいた。そしてすぐに笑顔になる。なんだ、そんなことか、とでも言いたげな顔だった。立ち上がって、こつんと、十代の額に額を当てる。
「だいすきな十代なんだぜ? 汚い場所なんて、どこにもないよ」
言葉の意味はよくわからないけれど、なんだかすごくくすぐったくて、恥かしくて、なんだか顔が熱くなった。口を歪めて真っ赤な顔をしている十代の、その、涙でぐちゃぐちゃになった頬もぺろりと舐めて、舌を出したままヨハンは笑う。
「さあ、帰ろ」
立ち上がると、夕暮れが、団地の建物の間から注いでくる。熔けるような真っ赤な光が、ヨハンのきれいな翠色の髪にちらつく。手を引かれて歩きながら、十代は思っていた。自分なんかより、ヨハンのほうが、髪も目も、手足も体も、心も全部、ずっときれいだと。
―――あのころ、世界には、ふたりしかいなかった。
「……だい、おい、十代」
ふいに声をかけられて、眼を覚ます。なんだか頬の辺りがくすぐったい。目を上げると、降り注いでいたのは、まるで飴を熔かしたような真っ赤な光だった。
「う、ん……?」
「いつまで寝ているつもりだ」
頭上から声が降ってくる。なんだろうと思えば、それは同じ部活動に所属している万丈目だ。放り出されたままの学ラン。頭の下に敷いたせいでぺったんこになっているカバン。目をこすりながら顔を上げると、呆れ顔で万丈目が横にどく。体育館の隅。体操用のマットの上。
周りを見回すと、もう、誰もいなかった。どうやら皆が引き上げてしまった後らしい。「ふわぁ」と大口を開ける十代に、万丈目は、なんともあきれた顔をした。
「今日も居眠りか。気楽だな、お前は」
「だぁってさ、今日も、カイザーがこないんだもん…… つまんなくって」
「いつも家で会ってるだろう?」
「家だとぜんぜんここの話、してくんないんだよ」
なんだか汗ばんだほほの辺りが気持ち悪くて、しきりに手でこすっていると、「はやく着替えろ」と頭を小突かれる。正論だ。十代は、そのままもそもそと服を脱ぎ始めた。万丈目はなんとも複雑な顔をちらりと見せて、そっぽを向こうとする。十代はその背中に笑って声をかける。
「お前もまだシャワー浴びてないんだろ。一緒にはいろーぜー」
「……いい」
「いいから!」
後ろから襟首をひっつかむと、「うわ!」と悲鳴が聞こえる。十代は構わずに万丈目を引っ張っていく。外に出ると、フェンスが開けっ放しのプール。秋も近い季節だと当然のように空で、渇いたコンクリートに腐った落ち葉が干からびていた。シャワーのコックをひねる。冷たい水が降り注ぐ。「うわぁ!」と十代は歓声を上げた。
―――古ぼけた、廃校になった小学校の、体育館。
ここを借りているのが誰なのかを十代は明確には知らない。だが、ここの体育館には、なんとも奇妙な風の道場が、毎週のように開かれている。
集まってくるのは、近所の高校生から、あからさまに正業ではない風の金のネックレスをした男性、肉体労働風の筋肉隆々たる男、さらには謎の背広のサラリーマンまで、種々様々だ。共通点はたったひとつ。彼らが皆、格闘技というものに、魅せられている人間だということ。
高校生という身分でここに来ているのは十代と万丈目の二人だけ。さらに年少を下から数えたとき、そこには十代の兄である亮が加わる。似ない兄だ。だが彼が、両親に判事になることを嘱望されながら、この道場へと通っていることを知っているのは義弟である十代ひとりだけ。同い年の兄弟である翔も、十代を引き取ってくれた両親も、亮が学生として勉学にいそしむ裏、日々こんな場所で、それぞれの肉体を鍛え上げるということだけに熱中しているということを知らない。
「冷てーッ!!」
歓声を上げて頭から冷水を浴び、ぶるぶると顔をふって、手のひらで顔をなで上げる。そして振り返った十代は、なんだか居心地の悪そうな顔をしている万丈目を見る。そうして、「なんだよ」と笑った。
「青あざが怖いのか? お前がぶんなぐったんじゃん」
「……違うっ」
言われたことで腹を立てたのか、やけくそのように水の下に飛び込んでくる。十代はけらけらと笑った。そしてふと気づいて、自分の足を見てみる。冷たい水の雫が伝う足。細く引き締まった筋肉の、ふくらはぎのあたりが締まって、足首のあたりで細くなっている足。そのかかとのあたりから、膝にかけて、めちゃくちゃに傷のついたカッティングボードみたいに、残っている傷跡。
万丈目は、これが怖いのかな。
なんとなく、そんな風に、十代は思う。
その傷跡は、もう、ずっと昔のもの―――
まだ十代が、亮の弟になる前。父親に連れられ、義理の母親や、兄弟と、暮らしていた頃のものだった。
自分の子ども時代が不憫なものだと思われていることは知っている。だが十代は、当時のことを、あまり覚えてはいなかった。
父は女の出入りが多いタイプの人間で、よく、家には水商売をしている類の女性が転がり込んでいた。父親は女には甘かったが、子どもを愛しはしないタイプで、だから十代は、自分の父親については、こちらに向いていた背中しか覚えてはいない。十代の面倒を見てくれていたのは義理の母親、そして、兄弟たちだった。
おそらくは嫉妬だったのだろう。いちばん長く…… 2年くらいも…… 一緒に暮らしていた”母親”は、おそらくは父親のはじめての、そして、最も愛していた女の子である十代をひどく嫌っていた。腹が立つことがあると十代を捕まえて、ささいな文句をつけては、その足をカッターで切り裂いた…… らしい。当時のことは、何一つとして、思い出すことが出来ない。
だが、父親が殺人の罪を犯し、義母が実の子どもを連れて逃げ出したとき、十代は、たった一人で残されたマンションの一室に、記憶のすべてをおいてきてしまったらしい。父の弁護人となった丸藤の家へと引き取られたとき、十代はまだたったの10で、昔のことを何も覚えてはいなかった。ひとりぼっちでマンションの一室に残され、あやうく衰弱死しかけたということは知っている。だが、それが何を意味するのかというのは、いまだによく分からない。
自分の親に傷つけられ、捨てられ、死にかけた人間ってのが、たぶん、世の中のほとんどの人間にとっては、恐ろしいものなんだろう。十代はぼんやりと思う。
見上げると、真っ赤な夕暮れ。熔けて崩れていくような夕暮れを見ながら、十代は、ふいに自分の足元が、ゆるゆると融けていくような感触を感じる。自分が融けていく。真っ赤な光に、融けるようにして、無くなってしまう。
足元、打ちっぱなしの濡れたコンクリートに映る光も、また赤い。アカに融ける。自分が、無くなってしまう。
自分の中に有るものも、また、紅――― 違和感はない。
では、何故自分は、ここに熔けてしまわないのだろう?
ぼんやりとしていた十代の背中に、ふいに、「おい!」という怒鳴り声が響いた。
「あ、あれ?」
「何をぼさっとしてるんだ。体が冷えるだろうが!」
ここのシャワーはお湯が出ない。真夏ならともかく、秋ともなれば、かなり冷える。立ち尽くしている十代の横にぐいと手を伸ばし、万丈目が、シャワーのコックを絞った。水が止まり、ぽた、ぽた、と雫が落ちる。
「お前はこの時間帯は脳が停電でもするのか?」
呆れ顔で言った。
「あー、えーと、そうかも」
「なんだそれは。帰らないとまずいぞ。見つかってしまうだろうが」
「げっ!!」
《見つかる》の一言に、頭が急に覚醒する。十代はあわててタオルをひっつかみ、乱暴に髪から水を拭った。紅に溶け込むような奇妙な浮遊感は、消えずに、心のどこかに凝っていたけれども。
「……遅かったか……」
二人が急いだのもむなしく、どうやら、もう遅い時間になってしまっていたらしい。表に回ると奇妙な喧騒がそこにある。誰もいないはずの廃校の小学校、そこに、人が少しづつ集まってくる。裏の門からあつまってくるのは、背広を着たサラリーマン風の男性から、水商売風のいでたちの女性まで、幅が広い。もうここからは出られまい。ダメダメ、と十代が手を横に振ると、万丈目は頭を抱えた。
「どうしよっか……?」
「どうするもこうするもないだろう。表に出るしかない」
「げえ、見つかるぜっ?」
「仕方ないだろうがっ。ここで夜明かしするつもりか?」
二人はぐずぐずと話し合ったが、どうしようもない。表に回れば校庭をつっきらないといけないが、人が番をしている表に行くよりはまだマシだ。怒られるだけですむならいいが、金を取られてはたまらない。―――いろいろと考え込んでぶつぶつといっている万丈目を尻目に、十代は、興味津々の目でそちらのほうをみる。人々は校内へと入っていく。そこで、今夜も《ショー》が行われるのだ。
……金と体を賭けた、人と人との戦いの、ショーが。
所謂、ストリートファイトというもの。野良犬同士の縄張り争い。それにルールを定めて、古代ローマよろしく、闘技場で戦う見世物を模したもの。そういう話を、聞いていた。
つまり、この学校では、裏賭博のための、ルールなしの格闘技が見世物とされているのだ。
この体育館で格闘技を教えられているのも、もとを正せば、その格闘技でリングドクターを務めるために雇われている医者の道楽。ゆっくりと集まってくる人々は、ここの地下で繰り広げられる《ショー》を見に来る。テレビで放映されるどのような格闘技よりもさらに熾烈なルールを持つ勝負…… どのような手段をとろうと反則無し。場合によっては、リングに立つ少年たちの誰かが再起不能になろうが構わない…… 彼らが心からも体からも流す新鮮な血を求めて、彼らは、やってくる。
「なあ、今日はどんなやつがくるんだろうな?」
十代がぽつんと言うと、「はぁ!?」と万丈目が盛大に顔をしかめた。
「何言ってるんだ、お前は?」
「だってさあ、気にならないか? 毎晩毎晩、こんなところでなにやってんだ、って」
そんな十代の顔をしばらく見て、それから万丈目は、肩をすくめた。
「知るか。ルール無用の格闘技なんて、ただのケンカだ。……それに、ここに来ている連中の本当の目的を知らないわけじゃないだろう」
「そうだけど……」
ちらり、と目を向けると、校舎の中から、かすかに音が聞こえてくる。アップテンポで流される重低音。マリリン・マンソンのお手軽なゴシック。
女性が多いのにも理由はある。ここにくる少年たちの目的は一つではない。……すなわち、もう一つは、体を売ること。
ここで戦う少年たちは、金を手に入れるために、己の体と、血とを、購っている。
「男娼同士のケンカなんてみて、何が楽しいんだか」
万丈目は、吐き捨てるように言った。
「おい、暗くなったら、闇にまぎれて校庭を突っ切るぞ。《ショー》が始まれば、誰もこっちなんて見ないだろ」
「おう……」
だが、そちらの方向を見ていた十代は、ふいに、気づいてしまった。
目が、ピンで留められたように、動かなくなる。
《まただ》
そんな思考が、頭の中をよぎる―――
「ごめん、万丈目」
十代は、我知らず、そう口走っていた。万丈目がぎょっとしたように振り返る。
「な、なんだ」
「ちょっとおれ、あっち、覗いてくる」
「……!?」
なにを、とわめきかけた万丈目に、だが十代は、もう走り出していた。なぜなら見てしまったのだ。少年を。
……美しい、翠緑の髪をした、少年。
壁沿いに走っていく。建物のつくりは知っている。リングは、行動の中にある。巨大な八角形(オクタゴン)の檻が置かれ、そして――― それだけだ。投げ技を使われたときの衝撃を軽減するためのマットすら敷かれていない。
そこにテーブルが置かれ、酒が供され、少年たちが流す血を、笑いながら人々が眺める。敗者は捨てられ、あるいは売られ、勝者には金と、次の試合へのカードとが渡される。同じことを永遠に繰り返す。そして…… それだけだ。いつか負けるときまで、彼らは、その檻の中にいる。負けない限り。
いつ、彼が姿を消してしまうかと、十代は心の中で不安に思っていた。
美しい、翠緑の髪をした、一人の少年。
―――彼がここに現れたのは、数ヶ月ほど前だった。
たいていの少年たちが、ほんの一回や二回の戦いだけで消えていく中、彼だけは、ここに現れ続けていた。勝ち続けているのだろう。彼が勝ち続けることを、何故だか、心の奥底で望んでいる自分を、十代は感じていた。何故なんだろう。名前も知らないのに。知らない少年のはずなのに。
窓から窓へ。走る。彼は、次の夜には、もう現れないかもしれない。そうしたら十代には彼を見つける術はもう無い。そう思うと耐えられなかった。
ふいに、爆音がとどろく。大音響でいつものテーマがならされる。《Disposable Teens》…その選曲が皮肉なのかどうかを、十代はいつも理解しなかった。
ボンテージ風の衣装を着たウエイトレスたち。エナメルレザーやラバーのドレスに、高すぎるヒール。酒を供し、客たちの間を歩き回る。高そうな服を着た水商売風の女や、得体の知れない男たちが、それぞれに贔屓の少年たちをはべらせている。彼らの服装は思い思いだが、学生服を着ているものが多い。なにかのパロディなのだろうか? そう思うなら、この《ショー》自体が、何かの醜悪なパロディだ。
そして十代は、人々の中に、あの少年を見つけた。
翠緑の髪。白い肌。彼は、一人の男と話をしていた。黒い、高級そうな背広の男。少年はくすくすと笑いながら、男の膝に座り、その耳元に唇を寄せていた。彼は、周りの少年たちと比べて、あまりに健康にみえた。伸びた若木のようなたたずまい。何のゆがみも無い、普通の学園生活を送っている、少年のような姿。
それが、男娼のように、男の膝にもたれかかっている。ぐらり、違和感を感じた。違和感、違和感。
その、瞬間だった。
「あなた、誰?」
ふいに、背後から、声がかけられた。
「!?」
飛び上がりかけた十代の後ろから現れたのは、黒い軍服風の服の女。不思議そうに十代を見る。片方は赤、片方は青、毒々しく彩られたまぶた。
「あれ、あんたみたいなのって、いたっけ…… 今日の《ショー》の子?」
だが、十代の服装は、ありふれた学ラン姿。ここにあつまる少年たちのいでたちからするといかにも異質だ。十代は、あたふたと弁解をしようとした。そのときだった。
「―――あ、そいつ、オレがつれてきたの」
ふいに、場違いに澄んだアルトが、聞こえた。
十代は凍りつく。そこに、少年が立っている。美しい翠の髪が、背後から明かりを受けて、天使の輪のように光っていた。にこりと笑う。澄んだ様子で。
「ああ、ヨハンの」
女は、得心がいったという風に頷く。たしかにその少年と比べれば、十代のいでたちも異常ではない。だが十代は動けない。何故だかは分からなかった。けれど。
「遅かったな。待ってたぜ?」
少年は笑った。いかにも自然に、その年齢にふさわしく、あどけなく。
だが、十代はその笑顔に強烈な違和感を覚える――― 正体はすぐに分かった。少年の唇の内側。
子猫のようなピンク色の舌に、
光っている、
一粒の宝石をはめた、ピアス。
「よく来てくれたな、この血溜りの中にさ? 歓迎するぜ――― 十代」
なぜ、彼が、自分を知っているのか。十代はどうしても理解できなかった。
何がなんだかも分からないうちに、十代は、彼のいたテーブルにつれてこられる。座らされた目の前に置かれたものは酒だろう。透き通ったものの入った小さなグラスを前に、十代は、真っ白になった頭で、ただ、少年と客との交わしている会話を聞く。
「ヨハン、友だちか?」
「うん、そう。十代っていうんだ」
「よく、こんなところに連れてきたものだなあ」
「いいんだよ。オレだって、たまには人に見せたいときだってあるんだ…… もちろん、あなたにも見てもらいたいけどね」
まるで娼婦の手管のようなことをさらりと口にして、少年は、その男の首に腕を絡めた。くすくすと笑いながら、どうみても自分の父親ほどの歳がありそうな男の顔に唇を寄せる。大げさに出された舌には、やはり、ピアスが一粒光っていた。音を立てて絡める。唇というよりも、舌と舌で交わす、みだらな口付け。まるで年増女のような媚態を、どこにでもいそうな少年が演じてみせる。強烈な違和感。
十代は、ごくり、とつばを飲み下した。ちらりとこちらを振り返る眼。その、澄んだ碧色。
その、冷たい色。
「―――じゃ、十代にも、おすそ分け」
くすくすと笑いながら、少年は、テーブルに置かれたグラスを取る。くい、とグラスを干して、ぐいと襟首をつかまれた。引き寄せられて我に返る。この手つきは、素人のものじゃない、と頭の中に何かがひらめいた。だが、反応が遅れた。次の瞬間、噛み付くようにして、唇に唇が重ねられる。驚きに浅く開いた唇の間に、舌が、すばやい蛇のように滑り込んだ。カチリと歯に何かが当たる。ピアス。
だが、それを悟るよりも先に、何か、爆ぜるようなものが、咽から奥へと流し込まれた。
「―――!?」
酒。それも、まるで火のような。
あわててもがいても、もう遅い。咽の奥まで流し込まれる。噎せ返る。だが、咽元をきつく捕らえた腕は、放してはくれない。その手つきで悟る。抵抗をすれば、少年は、自分を締め落とす――― それも、ほんの数秒で、確実に!
「んぅッ……ッ、ッ!!」
喉の奥へと流し込まれる。呼吸を奪われる。その苦しさに、十代はもがいた。涙が流れた。だが、まだ開放されない。少年同士の戯れをどう思うのか、回りの人々が、笑いながらこちらを見る。
「が、げほっ!! ……ごほっ」
ようやく開放されたとき、十代は、半ば反射的に、飲まされたものを吐き出そうとした。だが、わずか過ぎる液体は、嘔吐することすら許してくれない。頭がガンガン痛んだ。さもやさしげな手つきで十代を抱き起こした少年は、その目元ににじんだ涙を、旨そうに舐め取った。
「じゃあ、そろそろオレも行くから。応援しててくれよな」
少年が立ち上がる。咳き込んでいた十代は反応が遅れた。だが、彼が去っていこうとするのを見て、とっさに思いついたことは、一つだけだった。
あわてて立ち上がる。よろめいて、無様に倒れる。くすくすと笑いが降ってくる。十代は起き上がろうとする。だが、頭が酸欠と、急に流し込まれたアルコールに、ガンガンと痛んでいた。眼を上げる。少年が立ち止まり、こちらを見ていた。―――透き通っているが、ガラスのように感情の無い眼。
体の奥に、氷を、つっこまれたような感触。
あわてて立ち上がり、追いすがる。少年は早足で歩いていく。追いつくだけで必死だ。だが、なんとかして追いつく。少年が話しかけている相手は、黒い服の女だった。ちらりと振り返る。長い長い緑の髪と、灰色の眼。
「……ええ、今日はオレは、こいつとやります」
「登録してないコ、いきなりつれてこられても困るんだけどねえ……」
「だったら、大徳寺先生に聞いてくださいよ。こいつ、あの人の教え子の一人だから。それなりにはやれるはずですよ? そこらの野良犬よりは、よっぽどましじゃないかな」
振り返る。冷たい眼。十代は、びくんと体を振るわせた。
ふうん、とつぶやいた女は、真っ赤な唇に指を当てる。下からなめ上げる眼は、人間を見るものではない。《モノ》をみる眼だった。
「まあ、あなたがそれだけ気に入ってるんだったら、ね…… 可愛くないってわけでもないし」
「ありがとう」
にこりと笑って、少年は、側に置かれていたグローブを取る。ぽんと十代へ向かって投げた。意味が分からない。呆然としている十代に、「次だから」と短く言った。
「な……っ」
「ここに来たのは、オレとやりたかったからだろ? てっとりばやいじゃないか」
少年もまた、グローブをはめる。女は向こうへと歩いていく。別の少年たち。金髪を短く固めた少年や、眉にピアスの少年。むき出しの腕にタトゥを入れているものもいた。「運がいいな」と少年は冷ややかに言う。
「いつもだったら、ああいうの、いい獲物なんだけど」
「お、まえ、……っ」
「ケンカだけやってて、それだけで勝てるって勘違いしてるのが、一番のカモなんだけどな。でも今晩は、十代の相手だけで、たぶん手一杯だから」
あいつら、無事に帰れてラッキーだよな、と言う。
「ま、十代はあいつらよりは、まだマシだよな? ……そのはずだぜ?」
「……ヨハン!!」
咽の奥から、その名を、振り絞る。
とたん、少年の言葉が、止まった。
手にはグローブをはめている。指の出るグローブは、投げ技にも、打撃にも対応する。その手つきで慣れているのだと分かった。だが、それ以外のことは分からない。何もわからないのだ。十代は、ほとんど堰を切ったようにして、まるで爆発するようにしゃべりだす。
「お前ッ、なんでこんなところにいるんだよ!? おれの名前知ってるんだよ!! いきなり戦えって何だよ!? お前はおれのなんなんだよ!! なんでおれは、おまえのこと、知って……ッ」
「……」
ふと、ヨハンの眼が、違う色を瞬かせる。十代の声が止まった。
「本当、だったんだ」
「……え」
「覚えてないって、さ」
体が、凍りついた。
手が伸ばされる。髪に触れる、と十代は思った。
「―――バカ、十代。こんなとこなんて、来なきゃ良かったのに」
「……」
知っている、という言葉が、脳裏をひらめいた。
知っていた。
十代は、彼を、
―――髪を撫でるかに見えた手が、ふいに、ひらめいた。十代の体が動いたのは、ほんの、偶然のようなものだった。
とっさに半身になって避けた中空を、爪が、よぎる。空を切る音が聞こえた錯覚。その指は、眼をえぐりぬく動きで、空をえぐりとった。
「残念」
彼は、くつくつと、笑った。
その眼には、もう、先ほどまでの懐かしい色は、無い。
「―――ッ」
「ま、来たからには、おんなじだ。あがろうぜ? ……ヤッてやるよ。ヤッてもらいたかったんだろ、オレに」
十代…… と、ささやく。
ぞくり、とうなじの毛をなで上げられたような感触。それだけを残し、少年は、側を過ぎる。
八角形の檻へと、歓声が、響いた。誰かが戦っているのだろう。何が起こっているのかわからなかった。だが、その声が、十代の意識を、現実へと引き戻す。
手の中を見ると、そこには、グローブがある。何が起こったのかはわからない。だが、一つだけ確実なことがある。選択肢は二つしかないということ。……戦うか、逃げ出すか。
逃げることなど、出来ない。出来るはずが無かった。
やるしか…… ない。
頭の芯が痺れるように熱くなる。その感触は、知ったものだった。十代は半ばあやつられるようにしてグローブに指を通す。背後から、罵声と歓声が、爆発するように、背中へと突き刺さった。
八角形の檻の中に入ると、瞬間、眼がくらむ。四方から降り注ぐカクテル光線。だが、その色は白ではなかった。紫や蒼、そして、紅。毒々しい色彩に照らし出されたリングの上に、ヨハンがいる。学生服を脱ぎすらせず、ただ、オープンフィンガーグローブを嵌め、その手首の紐を歯で噛み、き、と締め付けた。こちらを見る眼は碧。ただし、まるで血のように毒々しく赤い光に彩られて、その色彩は奇妙なまでにぎらぎらと強い光を放っていた。
音楽が、爆発するように高鳴る。誰かがマイクを持って叫んだ。ヨハンの名を呼び、そして、十代の名を呼ぶ。拍手。十代は、ふらりとリングの中へと迷い入った。
―――試合自体は、初めてでは、無い。
十代が格闘技を習いだしたのは、中学へと進学したのと同時だった。進めたのは兄である亮だ。その理由はいまだに知らない。だが、今の十代にとって、拳を固めること、相手を倒すと言う意志の元に誰かと向かい合うことは、もう一つの本性と化していると言ってもいい。
けれど、今日の相手は。
リングアナウンサーが、マイクを持って何かを叫んでいる。ほとんど耳に入ってこない。ただ、ぶんぶんという蜂のうなりのように聞こえるだけだ。そんな中、数メートルを離れて向かい合ったヨハンは、うっすらと笑みを唇に浮かべて見せた。いっそ、あどけないといっていいほどに、おさない笑みだった。
前に構えられた手が、ゆっくりと、十代を招く。来いよ、と。
来い。―――オレに、叩きのめされるために。
その瞬間、頭の奥が、カッと熱くなった。
リングサイドで、ゴング代わりなのだろう、甲高い音を立ててガラスのボトルが叩き割られる。その瞬間、十代は絶叫しながら、半ば腰溜めの高さで、目の前の敵へと突っ込んだ。地を這うようなサブマリンタックル。だが。
「ははァッ!!」
ヨハンの体は、十代の渾身の力を込めた一撃を、己も身を低くすることによって、がっちりと受け止めた。
重い!
一見、華奢に見える体躯にもかかわらず、ヨハンの体は地面に根を生やしたかのように動かない。そのままねじりこんでマウンドポジションへと持ち込もうと言う目論見が完全にはずれた。代わりに首の辺りをがっちりとつかまれる。まずい! そう直感したのは、一瞬だった。
まるで、ばね仕掛けのような速さで、ヨハンの膝が、跳ね上がった。眼前の、十代の、胸の辺りへと。
みしり、とあばらが、鳴った。
「ごふっ……!!」
近い。溜めが少ないゆえ、ダメージも極小だ。だが、ヨハンは攻撃の手を緩めなかった。二度、三度と、膝が跳ね上がる。十代の胸へと、まるで鋼のように鍛え抜かれた膝が、繰り返し、繰り返し、叩き込まれる。
息を吸う合間すらない。視界に金の火花が舞った。このままだと、まずい! 十代はたまらず組み付いた腕を放し、飛びのくようにして距離をとる。
だが、それこそが、ヨハンの思う壺だった。
わずかに距離をとった瞬間、ヨハンもまた、その左足をすばやく引いた。どちらが効き足なのか。幻惑される。それこそが、致命的な隙となる。
「つあッ!!」
すさまじい勢いで繰り出された足が、空気を薙ぐようにして、中段を見舞った。
「!?」
とっさに、腕をクロスして受け止める。だが、その瞬間、みしり、という音を聞いたかのように錯覚する。まさか! たかが一撃を受け止めた程度で、腕が折れるはずもない。だが、その一撃は、そう錯覚を覚えるほどに、重いものだったのだ。
唇が吊り上げられる。十代は、受け止めた腕の向こうに、ヨハンが、まるで豹のように獰猛な笑みを浮かべているのを見た。食い込む脛は鉄の棒で殴られたかのように重い。しかも、それが、最期の一撃ですらなかった。
中段で見舞った脛蹴りを受け、思わずよろめく。瞬間、ヨハンが体を舞うように反転させた。逃げる気か? そんな錯覚。そんなはずはない。だが、反射的な思考は、確実に十代の動きを鈍らせた。
体が、まるで舞うように、すばやく反転する。歓声。十代は知らなかった。これこそが、ヨハンの、もっとも得意とするパターンだったのだ。
まるで予想もしない方向――― 正反対の方向から、蹴撃が、見舞った。
後ろ回し蹴り!
「―――がッッッ!?」
ほとんどガードも出来ぬままに受けた十代は、ヨハンの蹴撃を、半ば無防備なままに、その肩へと、叩きつけられた。
体が吹き飛ばされる。鉄の檻へと叩きつけられる。ガシャン、という大きな音がした。歓声が、罵声が、いやましに高まる。
十代は視界が明滅するのを感じた。眼を上げようとした瞬間、肩が、まるで鑿でもねじ込まれたように傷んだ。折れたのかもしれない。だが十代は見た。そこに立ち、ただ冷然と己を見下ろしている少年を。
真紅のライトを背から受けて、翠の髪が、いわくいいがたいような美しい色彩に輝いている。瞳は燃える絶対零度の炎だった。学生服、という不自由な格好で、だが、その動作は縦横無尽。その腕に秘められたばねは、ほとんど、狂気と呼べるレベルにまで研ぎ澄まされているように思えた。
ガンガンと頭が痛んだ。十代は、口の中にたまっていた苦いものをはき捨てる。血が混じっていた。背後の檻の格子をつかみ、ゆっくりと、立ち上がる。おおっ、と歓声が響いた。
「ちく…… しょう」
なんて無様な、一方的な、戦いだ。
否、戦いなどというものではない…… これは、ケンカだ。
ルールも、スポーツマン精神も、格闘家としての誇りも、何一つとて無い。ただ相手を叩きのめし、屈服させる。それだけのためのやり取りだ。
ならば、己もそれと同じレベルに堕するほか、勝機は、一つとて、無い。
十代は、苦く血と胃液の味を含んだ口元を、乱暴に拭った。拳を握り締める。構える。拳をかたく握り締めるのではなく、指をわずかに開いて。
それを見て、どう思ったのだろうか。ヨハンの表情がわずかに動いた。
踵が退いた。ヨハンは、十代から距離をとろうとしている。ブーイングがひとつ飛んだ。だが、それが正解だ。十代が何を目論んでいるのかを知っているのなら。
そもそも十代が身につけているもの――― それは、打撃よりも、関節技をメインとした種類の格闘技だった。
無論、セオリーどおりの打撃を与える方法を身につけてはいる。だが、本来の戦術は、相手を捕らえ、そして、その関節を破壊すること。
一方ヨハンは、さっきまでのやりとりをみていて、ほとんど腕を使用していない。脛蹴りや後ろ回し蹴り。あからさまに崩れたスタイルから推測するのは間違いの元だろうが、彼が己の有利に持ち込もうと思ったときには、おそらく、足技による打撃が多用される。
だが、打撃は、かならず相手の体へと触れねばならない、という弱点を持つ。
―――その足を捕らえ、砕く。
十代は、心の中で、そう決意をする。
「……ははっ」
ふいに、ヨハンが笑った。可笑しそうに。「何が可笑しい!」と十代は反射的に言い返す。ヨハンは笑うように答えた。半ば、狂気のように。
「お前の本気が、だよ。十代…… 昔はオレに、護られるだけだったのにな」
ヨハンが軽く膝を屈する。猫足立ち。つま先だけで立つ、隙のない形。
「なあ、賭けようぜ?」
ヨハンは笑う。笑う、嗤う。
「―――負けたほうが、勝ったほうのものになる、って!」
それが、いわば、ゴングだった。
十代の視認を半ば超えた速さで、ヨハンの踏み込みが、十代の間合いへと肉薄する。さながら地を縮めたごとし。だが、不意を付かれた十代とて、ただ、されるがままになっていたわけではなかった。先ほど脛蹴りを見舞った足が引く。こちらが効き足か!? 警戒がその足を払おうとした瞬間、ヨハンの体がふいに深く沈みこみ、十代の視界から消えた。
「!?」
「ざーん、ねん」
まるで、舞踏家のようなしなやかさで沈み込んだヨハンの体に、十代の腕が、空を切った。
「オレの効き足は…… こっち、だ!!」
かろうじてつかんだのは襟。両手で捕らえたのなら、襟締めで頚動脈を閉ざすことすら出来る場所。だが、片手だった。片手では意味が無い!
十代が眼を見開いた瞬間、まるで、スローモーションのような動きで、ヨハンの体が、ゆっくりと跳ね上がるのを見た。
沈み込んだ体へと、足が跳ね上がる。それは膝。まるで豹のような柔軟性。
前傾になった十代の腹へと、その膝が、突き破るほどの勢いで、叩きつけられた。
「ぐ……――――ッ!!??」
めきり、という音を、今度こそ、十代は聞いた。
肋骨が砕ける音を。
内臓に突き刺さる打撃。痛みがインパルスとなって全身の神経を駆け巡り、脳内を真っ白にスパークさせる。
足に力が入らない。足どころじゃなかった。体中の、どこにも。
ヨハンが手を離すと、十代は、そのままがくりと前へと倒れこんだ。そして、全身を痙攣させながら、吐いた。胃液と、むりやりに飲まされた強い酒との、交じり合ったものを。
リングサイドで、誰かが、大声を上げる。
「おい、担架! 先生を呼んで来い!!」
にわかに周囲が騒がしくなる。同時に歓声も高まった。客たちの拍手。次々と新しい酒が注文され、勝者がために開かれる。あちこちでウエイトレスを呼び止めるのは、おそらく、勝者であるヨハンを指名するためなのだろう。
そしてリングの中では、自らの足元で眼を剥き、痙攣している十代を、ヨハンが、奇妙に哀しそうな表情で見下ろしていた。
涙のにじんだ眼で、十代は、弱弱しくヨハンを見上げる。吐き戻したものに汚れた唇がうごいた。
「……―――」
だがそれは、言葉にすら、ならない。
やがて、がくりと頭が垂れ、まぶたが閉ざされた。ヨハンは哀しげな表情のまま、ゆっくりと檻を出る。そこではウエイトレスが待ち構えていて、ヨハンの腕に手錠を嵌めた。ブレスレットのように華奢なデザイン。……けれどそれは、今日ばかりはたしかに、手錠に、見えた。
10/20 黒川ぽちさん宅のヨハ十チャットにて、リクエストされて書いた即興SS。
「舌ピ不良ヨハ」「ストリートファイト」「エロ」という身も蓋も無いリクエストだったんだ…ぜ…orz
でも時間が無くて、肝心の部分までたどりつきませんでした。
この後、どうするかは、不明です…
(1/22 再掲載)
ブラウザバックでお戻りください