スピンクスの死




 スピンクスとはローマの古代にテーベの城壁に棲んだと言われている怪物である。頭部と胸は女性であり、身体は獅子であり、双肩には鷲の翼を持っていた。スピンクスはテーベの城壁を越えるものたちへと謎をかけ、答えることのできなかったものを喰らったため、テーベに住む人々、ことに若い青年たちの父親と母親の嘆き悲しみははなただしいものであった。あるときオイディプスがスピンクスの問いに答え、それによってスピンクスは崖へと身を投げて姿を消し、以来、テーベを行きかう若者たちがこの怪物によって命を落とすことはなくなった。
 スピンクスとは、すなわち、謎そのものである。うつくしい女の貌と胸が若者の情欲と恋情を掻き立てるがごとく、謎はそれを解かんとするものを魅了する。だが、スピンクスの獅子の肢体はその魅力に囚われたものへととびかかり、やすやすとその体と命を引き裂く。賢いものたちが問いに答えることによってスピンクスを殺そうと企てるも、スピンクスの肩からはたくましい鷲の翼が生え、スピンクスはすべてのものたちの企てをあざ笑いながら、やすやすと天空へと逃げさっていく。
 すべての若いキリスト教者よ、スピンクスとは、異教徒が問うことによってその生涯をむなしくするという、けっして解かれることのない謎を表している。したがってキリストへと従うすべてのものたちは、スピンクスのごとき謎に惑わされることなく、信仰の道を護るよう心がけるべきである。
《聖ベネディクトの書簡 第32 6節より》



 ぱちぱちと音を立てて、火の中に古タイヤの爆ぜる音がした。
 ぽかりと月の浮いた空へと登っていく煙は黒く、おそらくは、あれではまともに傍に寄る事もできまいに、いったい何をしているというのか。ぼやけた頭でそう思いかけて、すぐに、その答えに気づいた。あの火はおそらくは夜にまぎれて人間を襲う野獣を避けるためのものであり、また、彼らがそれだけの力を持っていると顕示するためのものでもある。泥の中に半ば顔がうずまって、口の中にじゃりじゃりという砂の味がした。縛られた手が体の下敷きになり、ひどく痛い。
 防水シートのうえに放り出された何丁もの銃。その大半が粗いつくりのAKMであり、火の回りで酒を呷っているものたちが腰に帯びている拳銃のたぐいも、正規品とはとうてい思われないマカロフのたぐいばかりだった。意識が覚醒してくる。喉が渇き、足がひどく痛んだ。彼は、呻いた。火を囲んだ男たちは気づいていない。彼は必死で首をめぐらせて、周りに仲間の姿がないかとさぐろうとする。
 ―――オレ以外の皆は、どこにいるんだ。
 この山岳地方の調査へやってきた一行のメンバー。彼と同じ大学の高名な教授や、彼と同じ若く精力的な助手たち。この地方の民族から選んだガイドたち。誰の姿も見当たらない。けれど視界の端に、彼らの様子とは不釣合いに真新しいサックを見つけて、背筋がゾッとするのを感じる。使いやすく頑丈なスイス製の登山バック。あれはたしか、同じキャンプにいた同輩のひとりが使っていたもの。
 ―――ならば、皆、殺されてしまったのか。
 ぎりぎりと奥歯をかみ締めると、泥の味に混じって、血の味が広がる。口の中を切っていたのが、傷口が開いてしまったのだろう。ゆらめく炎に浮かび上がっているのは、この山岳地方に出没するという噂を聞いていたゲリラの民兵たちだろうか。髭を濃くたくわえた男たちのなかには、まだ、ほんの子どもといっていいくらいの歳の若者も混じっているように思えた。大きな塊から肉を切り離す山刀(ククリ)が脂じみて炎に照り映えている。彼はさらにきつく歯を食いしばって、ともすれば闇の中へと没していこうとする意識を、なんとかして引き戻そうとする。
 他の皆が殺されてしまったのなら、なぜ、自分だけが残されたのだろうか。その理由を聞き、なんとか交渉を持たねば、生き残る術は無い。彼は、声を張り上げた。
「Hey!」
 ゲリラたちの動きが、一瞬、止まった。
 いくつもの目、怯えと警戒心がけだものじみた光を放つ目が、こちらをみる。彼は身をよじって身体を起こそうとする。肩が泥にうずもれ、足の傷に響いてひどい痛みをもたらしただけだったが、かえって意識が鮮明になった。
「お前たち、何者だ… オレはオーストラリア考古局のジム、ジム・C・クックだ。お前たちはこの地方の土着民か?」
 ゲリラたちがお互いに顔を見合わせて、彼には、ジムには断片的にしか理解の出来ない言葉を交し合う。ひどい訛りがあるが、この国の言葉だ。やがて一人の男が奥から出てきた。濃く髭を蓄え、分厚い野戦服を着込んでいる。彼が口を開くと、出てきた言葉は、ぎこちないとはいえ、たしかに英語だと聞き分けられた。
「お前、外国人か。わたしたち、お前たち、同じ、外国人に雇われた」
「同じだって……?」
「そう。わたしたち、雇い主、ハンター。野犬を撃つ。ブルーバックも撃つ。ブルーバックは持って帰るが、野犬はもって帰らない。お前たちも撃つ。雇い主の獲物を横取りするから」
 ……密猟者か!
 ジムが一瞬眼を見開いたのを見て、男はそれをどう取ったのか、わずかに笑った。懐の銃を出し、撃つようなそぶりをする。だが、それがただふざけているだけだというのはすぐに分かった。
「雇い主、本当は、あなたを撃つ。だが、あなたを返すという、わたしたち、お金がほしい。わかるか?」
「……オレの、身代金を、国に要求するってことか」
「国、分からない。だが、街の人々は、外国人を買う。たくさんの銃弾と、AKと引き換えに」
 自分の命運はあきらかになった。「Shit!」とジムは思わず吐き棄てる。怒りを込めて見上げる目を正面から受け止め、けれど男は、声を出さずに笑った。その目つきは、市で売り払う山羊の肉付きを確かめる遊牧民のものと、同じものだ。
「お前が生きていれば、町に売れる」
 男は立ち上がった。長い服の裾が地面をなでた。
「死んだら、それは、それでいい」
 タイヤが爆ぜる音を覆い隠すようにして、再び、若いゲリラたちが騒ぎ始めた。ジムは必死でもがき、歯を食いしばり、彼らをにらみつけるが、誰一人として振り返ろうとしない。ここで無駄に抵抗することがどれだけ危険で愚かしいことかは分かっていた。だが、喉をつんざいて怒声を放ちそうになる自分を、ジムは、半ば押さえつけることが出来なかった。
 ……かつて、地中海から小アジアにまたがるこの山岳地帯には、多くの神話と豊穣な自然とが、交じり合って存在していた。
 遊牧を主な生業とする土着民たちははるかエトルリアの血を引くとも伝えられ、少なくとも18世紀までは、はるか数千年の過去へと遡るような遊牧生活を続けていた。彼らの多くは迷信深く、また、同時に己の血と信仰とに誇りを抱いていた。少なからずイスラム教化されていたとはいえ、彼らの信仰にはいまだ古代の残滓が色濃く残り、その知恵と伝承とは、ただエキゾチックであるという以上に、非常に多くの民俗学的、文化人類学的、神話学的な豊穣さに満ちていた。
 ―――帝国主義の侵攻によって、彼らの生活基盤そのものが、根本的に破壊されるまでは。
"彼らは、百年も前だったら、それぞれの長老に従い、教育を受けている年頃の若者たちだ…"
 火の回りに座り、それぞれにアルミ箔でつくったパイプを回しのみし、酒を呷っている若者たち。笑いさんざめき、野卑な冗談を交わす彼らの中には、たくわえた髭もまだまばらな若者が少なくない。彼らの中にはまだ10代前半という若者もいるだろう。本来ならそれぞれの一族の元に留まり、己の家族と財産を護るための教養と技能を授けられているべき年頃の若者。
"だが、今じゃあこの地方には、彼らを養うだけの地盤が無い… 土壌が痩せて満足に家畜を養えず、養った家畜も十分な代価と引き換えられない。密輸や密猟に手を出したほうがずっと割がいいと考えるものも少なくない"
「何を考えている、外国人」
 地面に横に倒れ付したままのジムのところに、さきほどの男が戻ってくる。彼の手にふるぼけたペットボトルがあるのをジムは見た。彼は口元に水を寄せてくれる。痛いほどの喉の渇きを感じていたジムは、夢中でその水を啜った。泥臭い水の半分以上は地面にこぼれていったが、それでも、その半分ほどが十分に喉を潤してくれた。
 足元に布を巻きつけられる。汚れた布を見て、敗血症や破傷風の危険が頭をよぎった。だが、考えたところで無駄だろう。どちらにしろ病に倒れるよりもずっと早く、生にしろ死にしろ、彼の運命は決するのだから。
「……ずいぶん若い密猟者がいるな、と思ったんだ」
「若者であっても、己の口を養う力が無ければ、銃を持つ」
 彼は無感情に答える。その年頃は彼らの父親というほどだろうか、とふいにジムは思った。
「外国人は、たくさん金を持っている。神は持つものから持たないものへ、富を移す」
「―――そのためだけに、教授や、オレの仲間たちや、ガイドたちまで殺したっていうのか?」
 思わず声が険を帯びる。だが、その隻眼でにらみつけるジムにたいして、彼の返した視線は、奇妙な哀れみを含んだものと見受けられた。思わずジムはたじろいだ。
「外国人、運命はあるものを殺し、あるものは殺さない。その理由は分からない」
「分からない、だって?」
 分からないもなにもない。彼らは不道徳なハンターの楽しみのためにジムの仲間たち、学術調査チームのものたちを殺し、その持ち物を奪った。そのような強盗行為がどのような理由にしろ容認されるはずが無い。まして、神だの運命だのへと責任転嫁するその言動はジムの想像を超えたものだった。思わず語気を強めかけ、怒鳴りかけるジムに対して、だが、男は奇妙な言葉をつぶやく。
「*****……」
「っ?」
 その単語。英語ではない。それどころか、この国においても大半の人間は理解しないであろう言葉。
 だが、意識のどこかにそれがひっかかる。その言葉の意味するもの。無数のワードが、アルファベットパスタをばらまいたように、頭の中に乱舞する。血をたくさん流したせいか頭がはっきりしない。呻くジムの足を布でしばりあげ、男は、「弾は、外に行った」と言った。
「お前が死ぬか、死なないかは、死の天使が決めるだろう」
 天使。死の天使。天の城壁から地獄を見下ろすもの。まだらの衣を纏った王の子。ふたいろを持つ死神。
 無数のワードが頭の中を乱舞し、その中から最も適切な言葉をどうやって選び出せばいいのか、ひどい頭痛がした。ふいに、声がした。ひとり、まだほんの少年と見えるゲリラが走ってくる。男は立ち上がり、甲高いその声に低い声で答える。ジムは泥の中で呻いた。死の天使、だって?
 意識が混濁する。大声で怒鳴ると、駆けつけてきたゲリラの一人が、ジムの頭を蹴った。思わず声を上げると、それを面白がるようにさらに足蹴を加える。他の誰かが咎めるまでそれは続いた。鈍い痛みに意識が混濁し、何も考えられなくなる。
 次には、もう、目が醒めることは無いかもしれない。だが、そんな風に思ったにもかかわらず、ジムが最後に思い浮かべたのは、己の家族の顔でも、故郷の景色や殺された同胞たちの顔でもなかった。
 滑らかな毛皮。なでれば、その厚い被毛に手がうずもれるほどの。漆黒に近いとび色の中に色の違う毛がまだらを描いて混じり、光の加減によって、むしろ爬虫類のたぐいを思い起こさせるような、つづら織りにも似た紋様を浮き出させる。
 スピンクス……
 その感触を想起したのを最後に、ジムの意識は、闇へと堕ちた。


 

「スピンクス? ギリシャ神話に出てくる、あの、スフィンクスですか」
「それはあくまで伝承上の別名ですよ。山岳性の山猫の変種で、まあ、難しい学名を別にすれば、"マウンテン・バイカラー・レオパード"という呼び方をされています」
 そのとき、彼ら一行を迎えてくれた政府高官の秘書だという若者は、そのように説明をしてくれた。目の前にはローズウッドを使った分厚いテーブルがあり、足もとの絨毯は足が埋もれるほど、茶を供するテーブルセットはヴィクトリア朝イギリスのアール・デコ様式の精華をあらわしている。彼らが通されたホテルは、こちらの居心地が悪くなるほどに高価な調度を整えられ、ジムは、己の履きこんだ革靴や、決して上等とはいえないくたびれたジャケットに奇妙な違和感を感じさせられた。おそらくは皆そうだったのだろう。誰もがそれぞれ落ち着かない様子で膝を動かしたり左右を見回したり。だが、彼がなめらかな手つきでテーブルへとさしだしたファイルを見た瞬間、誰も、そんな違和感などふっとんでしまった。
 そこに移されているのは、何枚もの写真。檻に囚われた一匹の豹を撮影したものだった。
「これは…… マウンテン・バイカラー・レオパード?」
「おそらくは、まだ若い雄だと思われます。数ヶ月前に捕獲されました」
 通常、豹と呼ばれている種類よりは、いくぶん小柄だった。代わりに尾が長く、毛皮が厚い。小さな頭部と小さな耳。ふたつの大きな猫族の眼。
「おそらく、不発弾か地雷にでも接触したのでしょうね。捉えられた時点で、足を損傷していました。餌を食べず、六日後に死亡しました」
 その写真の中の一枚。うずくまった若い豹の目が、おそらくは撮影者のほうを、肉食動物特有の音の無い怒りを宿してにらみつけていた。瞳は琥珀金の純粋な金。光を反射する器官を備えているにしろ、これほど美しい眼をした動物は、一度も見たことが無かった。ジムは思わずため息を漏らす。足を一本失い、その毛皮は長い欠乏の結果みすぼらしくなっていても、その生き物は、しなやかで獰猛な美に満ち溢れている。
「この固体が捕らえられるより前に、マウンテン・バイカラー・レオパードが観察されたのは、もう30年以上も前です。ときおり目的証言らしいものはありましたが、すでに絶滅しているものだと考えられていました。だが、生き残っている固体がいるというのなら、ぜひ保護したい。これは非常に希少な生き物なのです」
「自然保護の観点から、かね?」
「ええ、とうぜんでしょう」
 若い秘書は慇懃に答えるが、しかし、ジムは側の同胞の一人と目配せを交し合った。うわべだけのやりとりに惑わされるようでは、動物学などやっていられない。
「マウンテン・バイカラー・レオパードは、私たちの国の一地方では、土着信仰に置いて非常に重要な生き物だと考えられてもいました。中にはギリシャ神話に出てくるスピンクスというのは、マウンテン・バイカラー・レオパードの伝承がフェニキア人によってギリシャ地方にもたらされた結果だと考えている者もいます」
 無論、ごく出自の疑わしい話ですがね、と若い秘書は周到に付け加える。ジムは隣にいた別の同胞からファイルを受け取った。
「サンプルは別室に。どうぞご覧になってください。この動物の毛皮は、かつて、王にのみ纏うことが許されたとも言われています。手触りは、それは、すばらしいものですよ」
「ひとつ、質問させてくれ」
 ジムが割り込むと、男は、軽く眉を吊り上げた。ジムは問いかける。
「山岳性の豹…… というのは分かる。だが、"バイカラー"というのはなんなんですか?」
 彼は、はじめてわずかに眼を揺らがせたようだった。ジムは眼を瞬いた。彼は、不正や腐敗の横行する小国の若きエリートは、わずかに眼鏡をずらし、すぐに感情の色を隠しこんだ。
「"バイカラー"というのは、眼の色のことです。……この固体は違いますが、この種の獣でもっとも典型的なものは、翠と橙、左右でふたいろに分かれた眼をもっているのですよ」




 《続く》







もはやオリジナルというかなんというか。
でも、続きます。



back