無頓着なニッセ




 貧困と絶望がはびこったアンダー・クラスで、誰かに何かを分け合うというのは、とても、難しい。

 一片のパン、一足の靴、一シートの抗生物質錠剤、さもなければ、まったく汚染のされていない注射器のワンセット。
 どれも、これも、ミドル・クラスよりも上に住んでいる人間だったら、簡単に手に入れられるものだっただろう。けれど、アンダー・クラスに住んでいる住人たちには、そんなささいなものを入手できるか、出来ないかが、確実にその人間の生死を分ける。
 貧しい人々がゴミ箱をあさることをいやがり、まだ食べられる賞味期限切れのパンに、ネズミを殺すための毒をかけるショップもある。破れた靴を履いていたせいで、汚染されたガラスの破片を踏んで破傷風になるやつだっている。高熱と譫妄に苦しむ妹を救うために使用済みの注射器をつかって薬をうってやった男は、その妹がエイズで死んだとき、狂気に陥ってどこかへと消えていった。まだ8つの妹がエイズになったのは、前に注射器をつかった誰かがAIDSの感染者だったせいだった。
 アンダークラスの人間は、他人を押しのけてでも、一片のパンが、一足の靴が、あたらしくて安全な注射器が、欲しいのだ。貧しい人々はおたがいに分け合い愛し合うことを知らないのです。オーロラビジョンで政府の女広報官が哀しそうに言う。彼女の耳にはプラチナのピアスが光っている。たぶんあのピアスを、彼女は、清潔で安全な病院の、滅菌されたピアスガンをつかって空けたんだろう。

 誰だって、こんな街を、出て行きたいと思っている。生きるためだ。ただ”生きる”というだけのために善意も友情も全てをすり減らしながら生きる、そんな生き方なんて、人間の生き方じゃない。

「遊星」
 ラリーは不安定な足場に苦労しながら不法投棄されたゴミの山を登る。足元で捨てられたテレビの画面が音を立てて割れ、あやうく、きりたった画面からころがりおちそうになった。ひやりとする。ラリーはもう一度顔を上げて、半分なきべそのような声で、「遊星!」と呼んだ。
 今日は空が晴れている。昨日、おとといとひどい風だったから、スモッグが吹き飛ばされてしまったんだろう。壊れた食器洗浄器や、シートのなくなった車のなかに、雨水がたまっていた。ものすごい数のぼうふらがそんな水たまりに湧くから、夏は、蚊の数がひどいのだ。
 たまった油にぎらぎら光る水たまりを踏み越えると、ようやく、目の前でゴミの山の斜面がゆるやかになる。そこに、遊星がいた。藍色の髪と頑丈なエンジニアブーツ。びっしょりと水を吸ったソファの上に座って、器用な指で、手元によりあつめたパーツをひとつづつ確認している。
 ラリーはあきれかえった。いくら着ているスーツが防水されているからって、そんな場所に座る必要なんてないのに。
「遊星っ。聞こえなかったのかよ?」
「ラリー」
 となりまで言ってソファの上に跳び乗ってやると、遊星はようやく眼を上げた。壊れたスプリングに足がめりこんであたふたしているラリーを無感情に見上げる。
「何か俺に用か」
「用がないと会いに来ちゃいけないってことないだろ。……なんかいいものあったの?」
 遊星がわざわざグローブを外して、一枚の基盤をためすすがめつ眺めている。遊星は短く、「スタビライザーだ」と言った。
「すたび… 何?」
「電子化されたバランサーの一種だ。こいつはまだ新しい。使えるかも知れない」
 遊星は基盤のどこにも割れや汚れがないことを確認して、腰につけた防塵パックのなかに、ていねいにそれをしまった。ラリーは思わずため息をついた。
 ほんとうに遊星は、機械のことしか、考えない。
 びしょぬれのソファに座ると服がよごれる。けれど、かまわずにとなりに腰掛けると、壊れたスプリングがぎしりと音を立てる。ラリーは遊星の無感情な横顔を見上げた。
「あのね遊星、伝言っていうか、お礼を言ってくれって言われてきたんだけど」
「何の話だ?」
「前、直してくれただろ。えっと、オート… なんだっけ、消毒に使う機械」
「高圧蒸気滅菌器(オートクレーブ)か?」
「そうそれ!」
 遊星は、そんなことか、という顔をしてラリーを見た。彼からすればたいしたことじゃなかったんだろう。けれど、ラリーはおもわず年下相手に諭すような口調になり、「みんなすごい助かるんだよ」と言った。
「あれを使えば、メスとか注射針のせいで、人に病気がうつることがなくなるんだって。診療所の先生も、これでたくさんの人が助かるって言ってたよ」
「そうか」
「いつでも来てくれってさ。遊星の傷や病気だったら、いつでも見てやるって」
 そうか、とまた遊星は答えた。自分がやったことがどれだけ人の役にたっているか、まるで分かっていない顔だった。ラリーはもう一度ため息をついて、「あーあ」と手足をおおきく伸ばす。
「もしも遊星がお金持ちになりたかったら、いつだってなれるのに」
「……」
「アンダー・タウンからだって、きっと出て行けるよ。遊星みたいにいろいろできたら、ミドル・タウンよりも上にだって、やといたいやつはいっぱいいるよ?」
 遊星は、しばらく何も言わなかった。さっきの基盤とはまた別の何かをちかくにならべていたパーツのあいだから取り出して、また、ていねいに指先で状態を確認する。しばらくたってから、短く言った。
「ここを出て行くつもりはない」
「……」
「ここには、俺の大事な連中が、いくらでもいる」
 大事な連中ってなんのことなのかな、とラリーは思った。じっ、と遊星の顔をみつめる。ひとみは青くて透き通っている。精密機械に使う、合成サファイアの青だ、と誰かが言っていたのを思い出す。
「ラリー?」
「なんでもないっ」
 もしかしたら遊星の『大事な連中』というのは、この積み上げられたゴミ山のジャンクたちなのかもしれない。さもなければ、今も彼の腰のデッキに納まっているカードだとか、遊星が自分の手でくみ上げたD・ホイールのことなのかもしれない。確認してがっかりするのがいやだから、ラリーは何も言わなかった。頭の後ろで手を組んで、ため息混じりに空を見上げる。
 空が青い。この街では、滅多に無いことだ。薄黒いスモッグの晴れた空。その彼方にうっすらとひろがるうろこ雲。ちらばる雲のかけら、真っ白な子羊たちの群れ。
「遊星、この街のこと、好き?」
 アンダー・タウンは、ごみ溜めのような場所だ。誰もが這い上がりたいと思っている。一片のパン、一足の靴、一セットの注射針のためには親友すら裏切らなければならない場所から、今にでも、出て行きたいと思っている。誰かから奪うのがイヤだから。奪わないと生きていけない自分が、嫌になってしまうから。
 けれど遊星は答えた。ごくあたりまえのように、シンプルに。

「ああ」

 ラリーは少し腹が立ち、そして、それよりもずっと、嬉しくなった。「へへ」と笑って肩のあたりに頭をことんと落としても、遊星は何も言わなかったし、振り返らなかった。そして、邪魔になるだろうラリーのことを、押しのけようとも、すこしもしなかった。






 ラリーが 男の子 って 本当 ですか。

 遊星は手先が器用設定のうえ、まともに機材が無くてもバイク(よりも、下手したらややこしいもの)を一台組み上げられる子なので、いろんな機械をタダで修理したり作ったりしまくってるといいなと思った。
 

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