/少年王の杯



 少年王の杯、と呼ばれる杯がかつて存在したという。それは一人の少年、全地を平らげし王たる少年が、己の卓へと手ずから饗した杯であったという。
 あるとき、少年王は己の晩餐の卓に、ひとつの杯を置いた。そして、少年は自ずからその杯へと白い酒を注ぐと、己の配下たちへと一つの不可解な言葉を告げた。
「俺の正面に座り、この杯を手に取ったものには、二杯の酒があたえられるだろう。一杯目は白い酒、そして、二杯目は赤い酒だ」
 そして、二杯を飲み干したものには、そのものが望みうる限り、どのようなものでも与えよう―――
 寡黙な少年王の宣下に、彼の広大なる支配下のものたち、すなわち、闇に棲まう多くの魔物たちは、それぞれにざわめきたち、困惑や不審を抱いた。少年は、苛烈にして寡黙なる王であった。彼は黙して語ることなく、漆黒の王城に住まい、ただ、純粋にして絶対なる力としてのみ、そこに存在していた。彼が求めたものは忠誠でも敬愛でもなく、ただ、隷属であった。少年は王ではあったが、孤独の王であった。誰一人としてその側に侍ることを許されず、踝下に控えることを許されるものすらも極々少数であった。そのような絶対の王が、己の杯を手に取るものには己と向き合って座することを許し、まして、彼の試しに叶ったものに対しては、その寵愛すら与えるとのたまうたのだ。
 少年の座した晩餐の卓に、手ずから注がれた白い酒をたたえて、その杯はただ、存在していた。彼の正面には銀の椅子が置かれ、血さながらの猩々緋で染め上げられた紅絹に、不死鳥の羽で詰め物をしたものが置かれていた。少年の晩餐の客が指を洗うために準備されていたものは、一点の曇りもなく透き通った水晶を絞り、そのしずくを金剛石の器にたたえたものだった。だが、豪奢を極めたその席に対し、そこに置かれた杯は、いっそ質朴と言っていいほどに質素な作りをしたものだった。かすかに光をたたえた奇妙な硝子で作られた夜光の杯。そそがれた酒は清水と見まがうほどに清らかな黄金の、白い葡萄の酒であった。
 少年は毎夜、一人で晩餐の席に座り、彼に供されるものとまったく変わらぬ皿の数々が客のための席に並べられたが、少年王の杯を手に取るほどのものは長い間現れなかった。彼の踝下にひれ伏す民草は皆、少年を怖れていた。いっそ、畏れていたといってもいいほどだった。昏い黄金のひとみ、漆黒の甲冑を身にまとった少年は、決して統治することも、支配をすることもなく、隷属だけを求める存在であった。その気まぐれか、あるいは被造物たる同胞には理解のし得ない理由によって襲い掛かる運命こそを神の定めるものと謳われるなら、少年は、まさしく神であった。彼は”破滅”の手綱を取り、蒼ざめた”死”そのものを自在に乗りこなしうる騎手であった。少年の望みがただ勝利と破壊のみを望むのなら、彼を倒しえないものたち全ては、少年に逆らうことなどできようはずもない。

 だが、どのような国にであっても、己の命を顧みないものは存在している。ある日、少年の晩餐に、一人の客人が現れた。それは純白の翼をその背に負った天空の騎士、気高き光の同胞であった。気高き騎士は白い甲冑を纏い、ひとり、少年の棲まう王城の門へと、翼持つ天馬をもって現れた。彼の背後には彼の軍勢が存在していた。騎士は、いきり立つ少年王の軍勢へと呼ばわった。
「汚れしもの、闇に染みし黄金の王よ。私は、そなたの晩餐の席へと望むため、ここへ来たのだ」
 その言葉は、一言一句違うことなく、少年へと伝えられた。おそらくは彼はその望みなど一顧にせぬだろう、と闇に棲まうものたち、少年の軍勢のものたちは思っていた。彼は、王であることよりも前に、力に渇き飢える戦士であったから。己の渇きを癒しうる力を持つものと争わぬことなどできるはずがない。彼の渇いた心が、それを望まぬはずがない。
 だが、少年の返答は、短く、また、明確なものだった。
「通せ。指一本触れてはならない。その男は、俺の客だ」
 果たして、騎士は少年へと見えることを許された。人品卑しからぬその姿、威風堂々たる佇まいに、少年のことを敬愛してやまぬ忠臣どもは、先に彼の身を按じたほどであった。少年は、己の晩餐へと、己の客を他にして、誰一人として同列することを許さなかった故に。
 だが、少年は何一つとして例外を許さなかった。騎士は彼の晩餐の席に同席することを許された。彼は己の剣を、そして甲冑を纏ったままに少年が座する卓の元へと通され、少年の姿を正面から見た。おそらくはまったく他の誰にとっても意外なことに、騎士が見たものは絶対の恐怖の担い手、死の手綱を操りうる騎手の姿ではなく、黄金の眸、白い顔をした、ひとりの少年の姿であった。
 彼は、己の客に供されるほどの豪奢も持たぬ席に座り、一人、まっすぐに己の客を待っていた。彼の前には白鉛のボウルが置かれ、同じような白鉛の皿、木の柄を持ったカテラリーがそろえられているだけであった。
 少年の前に座するとき、騎士は、奇妙な錯覚を覚えざるを得なかった――― すなわち、己が主であり、少年こそが客人である。それも、卑しく貧しい身が、己の慈悲を持って枕席を許された、力なく幼い客人である、と。
 その席において饗された饗宴がどのようなものであったかは、黙して語るものもなく、知りうる術はない。だが、おそらくは口さがないものたちが噂し、トラバドゥールたちの謳うような残忍で血塗られた卓ではなかっただろうことは分かっている。少年は決して惨劇と残虐を好みはしなかった。その意味において彼はむしろ寡黙であり、ほんのわずかな糧を持ってのみ生きるものであった。
 奇妙な晩餐は静かに進み、最後に騎士の前へと、夜光の杯が運ばれた。少年は手ずから侍童のように白い酒を注いだ。そして、彼は言った。
「これは毒杯だ」
 騎士は見た。まっすぐに己を見詰めるふたつの眸。光と輝きを持たぬ焔、欝金の双眸――
「それを取り、飲むがいい。そして、もう一杯の杯は、お前が自ら充たすのだ」
 冷たい饗宴は終わりを迎えたらしかった。少年はひとり、己の晩餐の席を離れ、彼に仕えるものが己が主人を懼れと共に迎えた。少年は己の晩餐の席、そして、その客を振り返ることなく、言った。
「あれは、俺の客では無かった」
 彼は無機質な足音を響かせ、宴席を立ち去った。そうして彼は己ただ一人の力を持って、己らが騎士を失い浮き足立つ天界の軍全てを屠った。少年王の宴席が後始末を命じられたものは、己の血の中で息絶えたかつての騎士の無残な亡骸と、空のまま卓に置かれた夜光の杯を見た、と伝えられている。

 そして、それからも少年の饗宴の客にならんと望んだものは、幾許か姿を現した。彼らのうちあるものは少年の暴虐を諌めんと望んだ聖者であり、あるものはただ少年が至純の座に取って代わらんと望んだ蛮族の勇者であった。だが、全てのものは同じ結末を持って終わることとなった。彼らは誰一人として、少年の望みうる客人となることは出来なかった
 すなわち、白い酒を飲み、その後、紅い酒を飲み干すということ。少年王の差し出す杯を、二つをもって飲み干すということが出来るものは、それ以後、長く現れることはなかったのだ。

 だがあるとき、少年の供宴から、客人のための杯は消えた。最後に彼の晩餐の席へと招かれたものは、一人の男であった。
 男は… 聖処女さながらの清らかな美貌に、毒婦じみた荒淫の色を持ち合わせたもう一人の少年は… 一人の連れも配下も持たず、ある日、少年の王城の前へと現れた。そして、まるで己が少年によって招かれた客であったとでもいうように、ぬけぬけとした口調で、「あいつに逢わせてくれ。酒を飲ませてもらいにきたんだ」と言い放った。
 今までどれだけの客を通したにしろ、これほどに身の程をわきまえぬ、無謀で愚かしいものなど存在しなかった。だが、少年は今までと同じように、その男を己の晩餐の席へと通すようにと己が従僕たちへと告げた。内心の苛立ちを押さえながら、少年のことをこよなく敬慕し、盲従するものの一人は思った。この男もまたあの方の前に倒れ、死ぬだろう。赤いくちびるから迸る真紅の血は、夜光の杯を充たすこと無く、ただ、空しく銀の椅子を、そして、猩々緋で彩られた豪奢な席を汚すこととなるだろう、と。
 果たして、少年は同じことが幾度も繰り返されたように、少年は男を迎えた。冷たい晩餐は音もなく進み、最後に夜光の杯が男へと饗された。少年はそれが毒杯であると、男に告げた―――
 男は、それを聞き、銀鈴を鳴らすような声で、高らかに笑った。そうして己が手に杯を取ると、一息に白い酒を口にした。だが、男がその次に取った行動は、今まで、他の客どもの誰も、決してとったことのないものであった。
 すなわち、男は立ち上がり、少年へと歩み寄った。そうして己の熱い指で少年の細い顎を掴み、そのくちびるへとおのれのくちびるを重ねた。男は冷たい杯に充たされた毒よりもなお美しいもの、すなわち、死と破滅を齎すものであり、同時に幼くかぼそい少年であるもの、のくちびるを、貪った。少年が抗ったか否かは誰も知らぬ。あるいは彼は己の力を持って男の手を拒もうとしたのやもしれず、あるいは、他の客人たちが決して選ぶことの無かった応えを莞爾とした笑みと共に受け入れたやもしれぬ。ただ、彼はひとみを閉じることは無かった。欝金のひとみ、光も輝きも持たぬ焔の彩をもつ双眸は、最後まで、客人にして陵辱者である男の眼を見つめていた。
 毒酒はふたつのくちびるの間からこぼれ、二人の少年のあいだに滴り落ち、膚と膚とをしとどに濡らした。少年王のくちびる、色薄い花の色をしたくちびるを舐り、味わい、たっぷりと犯しつくして、男はようやく顔を上げた。そうして、異様な輝きを帯びたひとみで欝金の双眸を見つめ、睦言のようにささやいた。
「二つ目の杯は、ここにある」
 熱い指が凍えた頬をつつみ、娼婦のように栗色の髪を愛撫した。男は少年へささやいた。
「毒を飲んだのはお前も同じ…… お前も、僕と同じ杯を飲むだろうね? さもないとお前も死ぬことになったんだから」
 ならば、紅い酒のさかずきは、ここにある。
 色薄く冷たかったはずのくちびるは、男の愛撫に熱を持って、かすかに紅く疼いていた。それは確かに美しき酒の杯であった。少年は男を見上げた。その目が湛えていたものは、屈辱であったとも、あるいは、穢されしおとめのごとき昏い恍惚であったともいう。少年は眼を伏せた。彼がその黄金のひとみを伏せたことは、今まで、一度たりともなかったことであった。
「お前は俺の客人だ」
 彼は答えた。己が屈服を認めるように。
「飲むがいい。その杯は、お前のものだ」
 男は、高らかに哂った。それは勝利の哄笑であり、陵辱者、花盗人の悦びだった。男は己の宴席の主たる少年の喉に口付け、その滑らかな膚を啜った。けれど男は最後に、もはや用済みとなった夜光杯を手にし、そして、言った。
「これはもう要らないね。僕より後に、お前に触れるものは要らないんだから」
 お前は僕のものだ、と彼はささやいた。
「これから先、お前だけが僕の杯だ。可哀想な、可愛い覇王」
 そして男は、手にした杯を床へと叩きつけた。夜光の杯は音を立てて微塵に砕けた。



 ―――それより先、二度と、誰とも知れぬ客人のための杯が用意されることは無かった。
 以後、彼の晩餐の扉は硬く閉ざされ、その内で行われた饗宴の内実は、決して誰の目にも触れなかった。
 よって、男へと饗された少年王のもてなしがどのようなものであったのか、また、彼が己が認めた唯一の客人へと捧げた杯がどのようなものであったのかを知るものは、誰もいない。









ウランガラスのワイングラスを見てて、なんとなく思いついたお話。
ベルと覇王様には、こういう、神話っぽい話が似合うと思います。



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