/向日葵の国 歯車の島




 サテライトは、工場の黒い煙の監獄、積み上げられたスクラップの王国、そして歯車の島。
 存在するものに、何一つとして本物は無い。
 そんなことはサテライトに来たときに痛いほどに思い知らされていたことだったはずなのに、昨日、不本意極まりない夢を、見させられてしまった。




 あてがわれたバンガローは、他のサテライト住人たちに比べればずいぶんとましな作りをしたもので、きれいな水も出れば、きちんと電気も通っている。だが、エレベーターが止まりやすく不便な高層階に住み着いているのは、ジャックが変わり者だから、他人と交流をもちたくないからなのだ、と彼を知る人々はみな思っていたらしい。本当は違う。ジャックがわざわざ生活に不便なビルの高い場所に暮らしているのは、そこが、『空に近い場所』だから、という理由によるものだった。
 サテライトでは高価なものである傷のないガラスと、汚染された空気を逃れるためのフィルター。空気清浄機がたえまなく蜂の羽音のような音を立てる中で、ジャックは、ひどく不本意な気持ちで眼を醒ます。
「……」
 菫青石のひとみを開くと、眼に写るものは漆喰塗りの天井でゆっくりと空気をかきまぜている金属製のフィンだ。かたわらに眼をやるとぬぎすてたままのコートがソファにかけられている。起き上がると身体が軋んだ。ジャックは呻き、目の辺りに違和感を感じる。指で触れるとそれは涙の痕だった。錆を噛んだような苦い思い。
「バカらしい」
 ジャックは起き上がり、エンジニアブーツに足を突っ込む…… コートを羽織る。ポケットのなかで、ブリキの薄板がふれあうような、ちいさな音がする。錆を噛むような不機嫌がひどくなった。ジャックは眉間の皺を深くする。



 サテライトでの労働は、主に、シティのほうから排出されるゴミの処分・再生にかかわるものだ。だが、おそらくは名目上だけとはいえ、ここで運営されているゴミ処分施設の大半は、民間の企業の委託によって運営されている。自由な競争は自由で平等な社会を生む、という美しいお題目。だからここの企業はそれぞれに労働条件の厳しさを競いあい、サテライトの住民たちの生活は苦しくなっていくにはしろ、楽になることは滅多に無い。そして、ここでは治安の維持さえも民間委託が基本だ。全体での治安を維持する任務を担っているのはセキュリティだが、実際にサテライトの住人たちのあいだに立ち入り、そこで発生するトラブルの仲裁や処分などを行うといった危険を伴う仕事は、大半、サテライトで暮らす住人たちの中から選りすぐられた者たちへとまかされる。
 彼らは、多くの場合『看守』という名で呼ばれる。より穏健な呼び方で彼らの反感を得たくなければ『カポー』だ。だが、その呼び方を最初に考え出したやつの皮肉を、サテライト住人の大半は理解していないらしい。
 ……カポーというのは、アウシュビッツの収容所で、同胞であるユダヤ人を監督し、抑圧するために選ばれた、いわば"裏切り者"に対してあたえられた名前だ。
『物事の真理は、地を這う虫けらの視点からは見えない。より高い場所、鳥の視点から見下ろすものにしか、真実はわからない……』
 "管理会社"への登録が認められていなければ所持すら許されない電磁ロッド、さらに、銃身を半ばで斜めに切断したショットガン。コートには防弾防刃の加工が施される。そんな重装備のいでたちで、いつものようにぼんやりと上司の訓示を聞きながら、ジャックは思った。
『ここの住人たちには、なんの真実も与えられない。何も知らないものは"知らない"というだけで簡単に死んでいく。それが、真理だ』
 簡単に巡回ルートについての説明を受けて、今日の巡回がスタートする。ジャックは腰のロッドのバッテリーを確認し、ショットガンの充填を確認すると、壁のロッカーへと近づいた。隣のロッカーの同業者はさっそく煙草に火をつけていた。煙草。このサテライトだと、たった一箱が、一日の糧以上のものを意味する物資だ。
「おいジャック、聞いてたか? 今日のルートは"診療所"らしい」
 嫌な仕事にあたっちまったな。彼は、そういってぼやいた。
「"ネズミ穴"よりはいいが…… 最近、下層の居住区で性質のわるい風邪が流行ってるらしいぜ」
「知ってる」
 ジャックは短く答えた。長い手袋に指を通し、ぎゅっぎゅっ、と音を立てて肘近くまで下ろした。
「うつされたら困るよなあ。ったく、早めにすましちまおう。実入りもなさそうだし」
「そうだな」
 愛想の悪いジャックに肩をすくめながら、彼は、指が火傷しそうなくらいまで吸った煙草を床に落とし、ぎゅっとかかとで踏みつけた。
 公社の建物を出ると、とたんに聞こえてくるのは絶え間なく動き続けるベルトコンベアーの音や、プレス機械の立てる騒音、他にもわけのわからない機械が立てるひどい騒音だ。ヘルメット代わりにもなるヘッドギアには騒音をシャットダウンするためのパッドが内臓されていたが、それでも、シティ生まれの人間がサテライトに来れば、この酷い騒音のせいで不眠症になってしまうことも珍しくはないらしい。巡回ルートにあたる工場、さらに、診療所のある場所はサテライトのほとんど反対側だった。支給品のバイクにまたがる。何台ものバイクが、次々と、音を立てて走り出す。
 もともとはゴミ処理のために作られたものではないサテライトには、今でも、ウォーターフロントとしての開発対象になっていたときの名残がいくつも残っていた。今ではすべて廃墟になってしまっているといってもいいショッピングモールや、サテライト全体の交通の便を良くしている無数の道路。誰も棲んではいない高層建築はことごとく窓が割れ、高架道路を走り抜けるときなどいかにもうら寂しい印象を受ける。空は、今日も煤煙でかすんでいた。サテライトの空は青くない。煙でにごったペール・ブルー。それがこの島の空の色だ。
 街にはまともに植物の育つ土がなく、稀にみかける草花といったらひょろひょろとした雑草くらいがせいぜい。ほかにも理由はある。公衆衛生のため、といって、ネズミの発生を防ぐための薬を定期的に散布しているのだ。そのせいでまともに植物が育たず、虫もいない。だから、この島で見かけることのできる動物は『人間』ばかりだ。
 ウォーターフロントの高架道路を迂回して、いくつかの工場を視察する。そこの工場のトップに近い人間にたいして工員たちの勤務状況についてたずね、さらに、実際に工場内を視察して労働効率をチェックする。今日は一人の管理者待遇の人間からの報告が一件。工員たちの中のグループが、労働待遇の改善を求めたという話。実際に会いにいって話を聞く。改善を求めたという話の蓋をあけると、ただの雑談の中で出た愚痴話だったらしい。だが、いちおうはチェックに値する内容。数人から聞き込みをして、誰がそんな話をしたのかを聞く。
 こういった話は、工員たちとどの程度知り合いになっているかどうかがポイントだ。監督に飲み物を飲まないか、と誘われた同業者は、年下のジャックに対して「お前がやってくれないか」とにやけた笑いで手を合わせた。
「お前のほうがサテライト育ちどもと話が通じるじゃねえか。な、頼むよ。あとで礼はするからさ」
「どんな礼なんだか…… あんたの溜め込んでるタバコ、2箱」
「おいおい、やりすぎだろう。1箱でも高すぎる」
「シティの監督官から何カートンも貰ったんだろう? これ以上は負けられない」
「ちぇっ。お前には叶わないよ、ジャック」
 ごうん、ごうん、と音を立てて仕分け用のベルトコンベアーが動いている音を聞きながら、二人の取引が終わる。顔見知りの監督官は今にも揉み手でもしそうな仕草でジャックの"相方"を奥の部屋へとつれていった。おそらく、今回の話はなんらかの裏取引だろう。酒か麻薬でも振舞うのかもしれない。ジャックはため息をつく。あとでバイクで転びでもして、骨でも折られたら面倒なんだが。
 ここの工場は廃品処理でも細かいチップなどの精密部品を主に扱う場所で、比較的、働いている工員たちも能力が高く、その分不満も少なかった。たぶんロッドを使う必要もないだろう。働いている最中の人々がジャックへと向ける視線は例外なく敵意や怯えに満ちていたが、そんなことはかけらも気にせずに、ジャックは堂々と通路を通り抜けていった。誰もが知っているはずだ。保安公社の人間はサテライト住人には許されるはずのない武器でさまざまな武装を固めている。ジャックもそれを理解しているから、腰に下げた電磁ロッドやショットガンをことさらに見せびらかす必要も感じなかった。
 流れ作業でコンベアから無事なパーツを選び出す作業所へと行き、知った顔をさがす。すぐに見つけ出した。奥のほうのライトの下で、粉砕された基盤をチェックし、再生可能なものと、金などの回収の分別作業に携わっている一団。
「おい、ナーヴはいるか」
 声をかけると、ぎくりと振り返る。そのなかの一人は頭にバンダナを巻いた若い男だった。ジャックの姿を見て、「なんだ、お前か……」と胸をなでおろす。
「聞きたい話があるんだ。奥へ来い」
「大丈夫、知り合いなんだ。お前らは続けとけ」
 ジャックにではなく同じ仕事にたずさわっていた人々に言い、彼はたちあがる。二人はコンベア室からやや離れた場所、地下の通路の途中におかれた木箱に、腰を下ろした。
「なんなんだよ、ジャック。公社の人間がこんなところまで来るなんてさ」
 何かあったのか? と彼は心配げな顔をする。「別に」とジャックは答えた。
「ただ、監督官から、お前らの誰かが集団で上に文句を言ってるんじゃないか、って話があったんだ。公社のほうだと数人をピックアップして眼を付けたいらしいな」
「おい、冗談はやめてくれよ!」
 オレたちにはそんなことやってる暇なんてない! ナーヴは声を荒げた。ジャックは軽くそれをいなした。
「わかってる。最近の風邪の流行で、労働効率が落ちてる言い訳がしたいんだろうさ。お前らのほうで話をまとめて、ポイントを落としたいやつを見つけておいてくれ。『ポイント逃れ』をやれば済む話だろう」
 『ポイント逃れ』… セキュリティに対して申告が行く前に工場をやめ、ほかの工場へと転職し、それによってマイナスの評価をうやむやにしてしまう方法だ。よく使われる手段だろう。もとから違う工場へうつりたがっている人間がやれば被害も軽微だ。「分かったよ」とナーヴが肩を落とした。
「オレが相手でよかったんじゃないのか?」
「ああ、そうだな! ……いや、すまない。お前のせいじゃないのは分かってるんだ」
 声を荒げかけて、すぐに、やめる。ジャックは複雑な気持ちをわずかに味わった。
「こっちも病人が増えてカリカリしてるんだよ。作業効率をあげろだのなんだの言われたって、無茶なのはお前にも分かってるだろ」
「サテライトで無茶じゃない要求なんてあるのか?」
 冷淡に答えるジャックに、はは、とナーヴは力なく笑った。「そのとおりだよ」と答える。
 会話がわずかに途絶え、ジャックは、長い足を組んで顔を上げた。頭上には切れかけた蛍光灯だけが点灯した暗がりがある。いちおうは相手が知り合いだと思えば、警戒を抜くこともできる。この仕事も決して楽なだけのものじゃないのだ。ジャックは腰からショットガンを外し、点検をはじめた。ナーヴ相手ならこうして銃を分解していても安心していられる。その作業を見下ろしながら、ナーヴが、なんとも複雑そうなため息をついた。
「……ジャック、その、大丈夫なのか?」
「何が」
「お前みたいにごつい格好をしてたら、その、眼を付けられるんじゃないか。シティ渡りのマーカー付きとかに」
「別に相手が思い上がっていたら、思いしらせてやればいいだけだろう」
「……」
 慣れた手つきでショットガンの銃倉を開けて、空の状態にして全体の動きを確認した。ため息。ナーヴは、ガリガリと頭をかいた。
「撃ったりしないだろうな、それ」
「さあな。必要があれば撃つかもしれない」
 ジャックは銃星を覗き込んだ。そして、ぎょっとしたような顔の知り合いを見ると、菫青石の眼で、かるく笑みを浮かべてみせる。
「オレは無駄弾を撃つようなことはしない。撃つだけの価値のある相手にしか、引き金は引かないさ」
 本来は狩猟用の銃であるショットガンの銃身を斜めに切って加工したもの。ジャックが手ずから改造したものだった。
 狩猟用のショットガンは、通常なら、遠くにいる獲物を撃つために、空中ではじけて無数の弾を打ち出すような機構になっている。だが、銃身を切ってしまうと、弾は長距離を飛ばず、銃口ではじけて無数の弾を撒き散らし、数メートルの距離にいる相手を穴だらけにする。死ななかったとしても、全身の柔らかい組織を鉛の破片でえぐりとられ、立っていられる人間はいない。マン・ストッピング・パワーでは拳銃の比ではない。おそらくは近距離においては最悪の殺傷兵器。
 なかには法を押して、違法に拳銃を所持している保安職員も多い。だが、ジャックは自分から猟銃の所持許可を取り、自分で改造するほうの道を選んだ。どちらが妥当であるかは、人によって意見が分かれるところだろう。
「本当に?」
「どういう意味だ」
「……おまえが、遊星を撃つんじゃないかって思ったって話を、聞いたんだけど」
 ジャックは黙った。ナーヴは身を乗り出す。そして、「遊星が何をしたんだ?」と問いかけてくる。真剣な眼をして。
「あいつは公社に眼を付けられるようなことをするやつじゃないだろ…… 欲がないんだよ。そりゃ、たまに変な装置を組み立てたりするさ。でも、武器なんかを作ったりなんて、絶対に……」
「そうだろうな」
 ジャックは、音を立てて弾を装填し、撃鉄を動かした。ナーヴはぎょっとして身を引く。ジャックはふたたび腰のベルトにショットガンを引っ掛けると、立ち上がった。
「くだらない玩具を作っていたから、そんなことをやっても無駄だと言ってやっただけだ。そんな大げさな話じゃないだろう」
「そ、そうだよな……」
 大げさに胸をなでおろしていながらも、彼は、ジャックに対する疑いを解いてはいないだろう。朝方のいやな胸のむかつきが、よみがえった気がして、ジャックはことさらに音を立てて、足元にころがっていた薄いパーツを踏み砕いた。
 遊星。合成サファイアの曇りのない眼。感情のない面差し。器用で繊細な指先。
「さっさと仕事にもどれ。さっきの話、たぶん今日の最後の集会で出ると思うから、根回しをしておいたほうがいい」
「わかった。……そうだ、あと、お前にも言おうと思ってたんだけど」
 遊星、あまり体調が良くなさそうだったんだ。ナーヴは心配げに言った。
「あいつの働いてる作業所に、大物が入ってきたらしい。貴重なパーツを取り出せそうな技師が遊星しかいないからって、しばらく、まともに休みも取らないで働かされてたらしいんだ」
「……」
「いつもみたいに何にも言いやしなかったけど、ほとんど寝るヒマもなかったみたいだぜ。何日か前会ったとき、ひどい熱があったみたいだってブリッツが言っててさ。でも今日も仕事で…… どっかで見かけたら、気をつけてやってくれないか?」
 ジャックは何も言わずにきびすをかえした。ナーヴが後ろから怒鳴った。ジャックが武器を携帯している保安公社の人間で、自分たちにとっては敵である、ということを完全に忘れているようだった。
「頼むよ! 悪気があるやつじゃないのは知ってるだろ? 許してやれよ!」
 何も、知りもしないくせに?
 ジャックは黙ってその場を去った。音高く、床を踏みしだきながら。 
 監督室に戻り、同業者と合流しようとすると、部屋の外に子どもがうずくまっていた。顔を上げてジャックを見ると、「お楽しみだから邪魔するなって」という。心細そうな口調だった。部屋の中からは笑い声や嬌声が聞こえてきた。どうやら、監督の持ち込んだ酒と女でお楽しみの最中らしい。ジャックは深いため息をつく。
 子どもは不安そうな顔をして、ひざを抱えている。見張りをまかされている、ということは。
「中にいるのは、お前の姉か? それとも、母親か?」
「……っ」
「鍵は受け取っているだろう。貸せ」
 泣きべそをかきながら、ポケットから出した保安公社の認識チップを受け取る。これがどう動いているかで、保安公社の社員がどこにいるかを認識するのだ。だが、これを手放して巡回ルートを離れるというのは背任行為にあたる。それがバレれば何を言われても文句は言えない。
 この男はもう終わりだな、とジャックは思った。マイナスポイントは監督官そのものにつけておいたほうがよさそうだ。
 子どもは、今にも大声で泣き出しそうなのを、必死でこらえていた。ジャックはポケットにチップをしまおうとして、ふと、そこにはいっていたものに気がつく。こんなものを持っていたのか、という忌々しさと同時に、ふと、らしくもない気まぐれな思い付きが頭を掠める。ジャックはほとんど何も考えないままに、とりだした小さな細工物を子どもの前に投げ出していた。
 かしゃん、という小さな音。子どもはびっくりしたようにそれを見て、それから、ジャックを見上げる。ジャックは視線から身をもぎはなすようにしてそこを離れた。
 うしろで子どもがそれを拾い上げる。「ちょうちょ……?」とつぶやくのが、最後に、聞こえた。



 どうして自分が遊星がそんなことをしているのを見つけたのかは知らない。いつものように、彼らが暮らしている下層居住区を訪れる途中でのことだった。
 公社勤務の『看守』相手のコネを持つことは、サテライトの住人にとっては非常に重要なことだ。彼らの気まぐれひとつで労働の条件が一気に変化することもあるし、サテライトだと入手の困難なもの…… 特に医薬品や嗜好品…… を手に入れる一番の近道は公社の人間相手に取引をすることだから。だが、遊星だけはそうではなかった。彼はジャックに対して何一つとして要求も期待もしたことがない。無感情に透き通った眼をした遊星は、ジャックにとっては理解に苦しむ人間だといってもよかった。
 若い…… いっそ幼いといっていいくらい…… ころから有能な技師であり、ときにはただの好奇心としか思えない理由で、サテライトにおいては犯罪行為に近いレベルのモノを作ったり、アクセスを行ったりもする。だが、彼自身は基本的には淡々として無欲な人間で、己の好奇心を充たすため、あるいは数は少ないけれど訥弁な遊星を愛してくれる友のため、という意外の理由で何かをしていることは少なかったように思える。
 日のあるうちは常に作業場でパーツ類と向かい合っている遊星が、ぽつんとひとりで灯りの下に座り、何かの細工物を弄っているのは、いつであっても夜だ。
 夜は工場が止まり、空気が澄む。昼に空はなくとも、夜の空には月がある。遊星は頭上の道路が裂けた元地下鉄の線路脇にすわって、いつも、なにかやくたいもないパーツの類を弄っている。役にもたたないようなものを作っている。金にもならず役にも立たない、ただの、『ジャンク』としかいいようのないものを、作っている。
 サテライト育ちでほとんと直射日光をうけたことのない遊星は、月の光の下のほうがまだ気がやすまるらしいし、薄暗くても不自由を感じないらしい。月が満ちているときには、よく、光の当たる場所にいた。その日もおそらくそうだったのだろう。ジャックがみつけたとき、遊星は、元はホームだっただろう場所に腰掛けて、手のひらの上に何かをのせていた。上を向いているのが珍しい。側には布がひろげられて、ドライバーなどの工具が並べられていた。
 何をしているんだ、とジャックは何気なく声をかけようとした。
 だが、声が喉で凍りついた。
 遊星の手の上に、この歯車の国(サテライト)に、いるはずのないものを見てしまったから。
 遊星は、水をすくうようにあわせていた手を、そっと開いた…… 何かがはたはたとそこで羽ばたいていた。つと、遊星の手を離れて、たよりなくまいあがっていく。蝶々だ、とジャックは思った。
 黒い翅に、青く光るライン。大きな翅をした夏の蝶。それが、遊星の手からわずかにまいあがりかけ、月の光に照らされていた。たよりない翅がきらめいた。そこで、遊星がこちらに気付いた。
「ジャック?」
「……ゆう、せい」
 遊星は、飛び立ちかけた蝶を、そっと手のひらで捕まえた。そうして、それを丁寧に指でつまみ、何かを止める。そのときになってジャックはようやく気付いた。それは、"蝶"ではないのだと。
 生きた、夏の蝶。ジャックがまだサテライトに来る前、もう覚えていないくらい昔に、見たことのあるものと同じものではない。
「どうしたんだ、それは」
 掠れた声でいうジャックに、遊星が、「作った」とこともなく言った。
 丁寧につくられた翅は、プラスチックの骨格に薄い皮膜を張ったもの。本体は翅をうごかすだけの簡単な機構だけが組み込まれ、極限まで軽量化がされている。生きた蝶と見紛った翅は、単にエアブラシで模様を書いただけのものだ。だが、遊星でなければ、余暇でつくれるような細工物ではない。指先に蝶々を乗せ、その機構を慎重に確認していた遊星は、ジャックの声に振り返る。
「それは、蝶か? そんなもの、いったいどうしたんだ」
「ちゃんと、蝶に見えたのか」
 遊星の返事が、一瞬、不可解だった。振り返った遊星はいつものように無感情だったが、どこか、かすかに笑っているように見えた。合成サファイアのひとみが月光を受けている。
「本物を見たことがあるのはお前だけだろう、ジャック」
「……」
「蝶が作りたい」
 遊星の言葉は、いつもの彼らしく、なんの意図もないものだっただろう。
「昔、お前が見たと、言っていたから」
 だがその言葉が、ジャックの心のどこかに、火花を散らした。
「本物だって?」
 あざけりの声。ジャックは前へと、月の光の下へと踏み出す。遊星は手を止めた。こっちを見上げた。
「くだらない。偽物は、何をやっても本物には叶わないんだ。お前はサテライトの人間だろう。遊星、お前には蝶がどんなものか分かるはずがない」
「……」
「そんなくだらないガラクタ、いくつ作っても、なんの意味もない。ただのジャンクだ」
 ばかばかしい、と言い捨てて、ジャックはきびすを返した。だが、後ろから声がした。
「お前に、本物に見える蝶を、作りたい」
 本物? この、何一つとして本当のモノのない、がらくただらけの、この場所で?
「くだらない」
 ばかげたがらくた。ばかげたジャンク。
 ―――だが、その細工物を見たときに、『夏の蝶』と錯覚してしまったのは、まぎれもなく、ジャック自身だ。
 そんな自分が赦せない気落ち。だが、後ろから「ジャック」と呼ばれて、思わず、振り返ってしまう。
「ほんものの蝶がいる場所というのは、どんなところだった?」
 本物の。
 ジャックは思わず、とっさに、自分の腰のホルダーにぶら下げていたショットガンを、手に取った。
 振り返り、顔に向かってショットガンを突きつけられても、遊星は身じろぎ一つしなかった。馬鹿らしい信頼。ジャックが決して【引き金を引かない】と、なんの根拠もなく信じている。
「外の話はするな、と言ったはずだ」
「……」
「そんなに外に出たいんだったら、自力でどうにかすればいいだろう」
「別に、オレは、興味はない」
 いつもどおりに、遊星は、恬淡としている。器用な指先が作り物の蝶に慎重に触れる。
「”外の世界”に行きたいのはお前だろう、ジャック?」
 こちらを見上げる目。透き通った青。
 ジャックは思った。引き金を引いてしまおうかと。このふたつの青い眼を、この衝動のままに、ガラス玉を地面に叩きつけるように、木っ端微塵に砕いてしまおうかと。
 そんな思いを知ってかしらずか、けれど、こちらを見上げるだけの、ふたつぶの青いコランダムの目。

 ―――。





 ―――そう。
 すべては、遊星の、言うとおりだった。
 ジャックは、ここを出て行きたかった。歯車の島を。一輪の花とてさかず、蝶の飛ぶこともない、偽物だけの国を。



【続く】






Back