―――最近、なんだか奇妙な二人連れが、よく、『いづな屋』にやってくる。
 片方は白杖を持った青年で、どうやら視力が酷く悪いらしい。視覚障害者なのだろうか。そして、もう片方は小柄な老女だ。短く切った銀髪と、品のいい雰囲気の服装をいつもしているけれど、言動などをみるといささか雰囲気があやしい。おそらくは痴呆が進んでいる、あるいは、それに近い状態にあるのだろう。
 眼の悪いらしい青年は、それでも、いつも楽しそうにしている。うれしそうに話しかけ、ときに、髪を撫でてみたり、手を握ってみたり。老婆のほうも青年の世話をかいがいしく焼く。メニューを読んでやり、茶を手渡してやり、手狭な店の中を歩くときには卓や椅子に足をひっかけないように気を払ってやる。祖母と孫だろうか。年齢的にはそれくらいのようにみえた。みえる、と祐樹は思っていた。
 けれど。
 ある日、青年がひとりで店にやってくる。いかにもたよりない様子で白杖を操り、入り口のあたりを探っているのに、祐樹はどうしても目をとられた。だから気付いてしまった。青年のポケットから、何か、ちいさな包みのようなものが落ちて、音を立てたことに。
「わ」
 青年は声を上げ、あわてて地面を探り始める。
 だが、あいにく、彼の手が探っている方向はまるで見当違いだった。斜め背後のあたりに落ちた包みを、彼はあやうく踏み潰しそうになる。おもわず祐樹は青年に声をかける。
「あの、落としましたよ?」
 青年は慌てて振り返った。
「あれ、マジですか。うわどうもすいません」
 拾ってやった包みは、何が入っているのか、あまり大きなものではなかった。けれども青年はあわてて包みをひっくりかえし、ためすすがめつ品物を弄繰り回す。しかし触ったところで何も分かるまい。祐樹は控えめに声をかける。
「たぶん無事だと思いますよ…… 変な音もしなかったし」
「うーん、だといいんだけどなぁー。困ったなぁ、うっかりしてた」
「中身、なんなんですか?」
「オルゴールなんですよ。ちくしょー、落としちゃまずいよなあ」
 青年はガリガリと頭をかいた。
「せっかく探してきたのになあー俺のバカバカバカー、せっかくの『野ばら』のオルゴール……」
「それ、お祖母さんへの贈り物ですか?」
 今頃は敬老の日だったっけ、と祐樹は考える。けれども、それを聞いた青年は、一瞬、きょとんとしたような顔をした。
 そして、それからなんともいえず独特のニュアンスをこめて、にやりと笑った。
「違いますよ」
 声はどことなく飄々としていた。誇るように…… あるいは、挑むように。
「実はですね、露路さんは、俺の彼女なんですよ」


 世の中には、いろいろな人がいるものだ。


「ねえ、尾崎さん、世の中って僕が思っていたより、ずっと複雑に出来てるんだね……」
「なに言ってんの?」
「だって、いつもこのお店に来てるお客様がいるじゃない。お婆さんと、あと、眼の悪い男の人……」
 あの二人ってカップルなんだって、と祐樹が嘆息すると、トミノはいかにもバカにしたように鼻を鳴らした。
「気付いてもいなかったの?」
「え!?」
「鈍感ね。バッカじゃないの」
 祐樹は思わず卓につっぷした。トミノの眼力はすごすぎる。何をどう考えれば、あれがカップルだと気付くというのだ。
「尾崎さん、すごい……」
「あれだけいちゃいちゃしてるのを見て、ただのばあさんと孫だと思うほうがどうかしてると思うよ、あたしは」
 老女と青年は、今日は待ち合わせをしていただけらしい。話を聞くと青年はこのあと二人で落語の寄席を聞きにいくんだ、といかにも嬉しそうに言っていた。デートなんですよ、付き合いだして半年記念の、と彼は言っていたが、『20代前半の盲目の青年』と、『痴呆の進みつつある70から80程度の老女』のカップル、というものはあきらかに祐樹の想像の範疇を超えていた。
 一体何をどうすれば、そういう組み合わせが出来上がるものか。そして、そこに『恋愛関係』というものが成立しうるものなのだろうか。
 ―――夕方、『いづな屋』は、早々に暖簾を下げる。
 『いづな屋』のバイトは主に近所の主婦たちで、水場の片づけを終えると、夕食を作るくらいの時間にはもう店を出てしまっている。最近、それくらいの時間になると、『いづな屋』へとやってきて、尾崎トミノ、そしてその祖父と一緒に軽食をつまむのが、水島祐樹にとってのちょっとした楽しみとなっていた。
 無論、祐樹はきちんと料金は払うし、場合によっては自分で食べるものを持ち込んでくることもある。今日の場合は後者だ。祐樹の手にはちかくのスーパーで買った寿司の折り詰めがあり、その中にはちゃんといなり寿司も入っている。ちかくのスーパー、というかデパートの地下食品店街…… そこの某店で作っている海鮮いなりは、どうもトミノの好物らしく、礼の一つを言ったこともないにしろ、いつでもさっさと、祐樹の分も残さずに、きれいにすべてたいらげてしまう。
「まあ、ほほえましいものですよ、老いらくの恋というものは」
 店にはすでに『閉店しました』の札をさげ、今はトミノ、その祖父、祐樹の三人。ちいさな卓を囲み合ってお寿司をつまむ。自分は燗をつけた日本酒を美味そうになめながら、トミノの祖父はしみじみと言った。
「人間、恋に差はありません。いくつになろうが、人を好きになれば嬉しいものです。それが仮にちょっとばかり人目から見て変わっていても、まあ、たいした問題ではないじゃありませんか」
「そういうものでしょうか」
「そういうものです。……祐樹くん、あなたは映画の『ベニスに死す』を見たことがありますか? 他には『アマルコルド』や、最近の似たテーマなら『マレーナ』とか」
「すいません、ヴィスコンティは『地獄に落ちた勇者たち』しか……」
「うむ。どちらもなかなかの傑作です。あとは『昼顔』もいい。ぜひ、見てください」
 どれも、道ならぬ恋を描いた作品ばかり。だがあいにく、トミノは文藝にも、文芸映画にもさっぱり興味が無い。二人の会話を聞きながら、一言ぼそりと「古臭い」と発言をした。
「尾崎さん、本は読まないの?」
「嫌い。頭、痛くなるもん」
 すっぱりと言い切るのが、耳がピアスだらけ、髪は派手な狐色のトミノだと、逆にある意味爽快だなぁと祐樹はしみじみと思う。しかし、祖父のほうはそうもいかないらしく、なんとも悲しそうに眉毛を下げる。
「物語の世界を知らないというのは人生の損失だよ、トミノ。映画にしろ本にしろ、物語というのは良いものだ」
「本フェチにいわれても説得力感じないよ、じいちゃん」
 それに、とトミノは言った。
「恋愛ってなんかバッカみたい。あたし、一生そんなのに興味ないから」
 切り口上で言い放つと、トミノはイクラの載った海鮮いなりを口に放り込み、席を立つ。そのまま両手にお盆をかかえ、店の奥の狭い階段のほうへ、すたすたと歩いていった。
 足の細いきれいな後姿は、薄暗がりへとさっさと消えてしまう。祐樹はなんだか不思議な気持ちでそれを見送った。
「『恋愛って、なんか、バッカみたい』……」
「まあ、あの子にとっては、そういうことなんでしょうなぁ」
 老人はつぶやき、熱い茶をひとくち啜った。なんともいえず複雑な気持ちで、祐樹は階段の上の暗がり、そして、老人の顔との間に、かわるがわるに視線を移す。
 どうにも、私的なことになると口に出すのがはばかられる。困り顔でミョウガをつつきまわしている祐樹に、老人が、ぽつんと言った。
「不思議でしょうなあ。トミノはあれだけ火遊びの激しい子なのに、『恋愛』には興味が無いという」
「……」
 不品行な子、性的な自制心の壊れた子、とトミノが裏でささやかれているということは、祐樹も知っていた。
 トミノは声をかけた相手となら、誰とでも寝る、と言われている。祐樹もトミノと仲良くしているせいで、自分にもあらぬ噂が立てられているということも知っていた。そしてそれは事実らしい、ということも、祐樹にとっては分かっていることだった。
 どう思えば良いのか分からなくなる。まだ、たったの14歳の自分と、その同級生であるトミノ。年よりも大人びて見えるにしても、どう見ても10代より上には見えないトミノ。老人は、なんとも複雑なニュアンスを込めて、微苦笑を浮かべた。
「江戸やそれ以前の昔のころには、ですよ。私らの仲間の中には、傀儡子のたぐい、白拍子のたぐい、辻君のたぐいをしているものも少なくはありませんでした」
 それのどれもが、『春をひさぐ女』を意味するのだと、一拍ほどたって、祐樹は理解する。軽く困った顔をする祐樹に、「水島さんにはまだ早いですかなあ」と、老人はニヤリと笑った。
「だがしかし、私らにはそれも当たり前のことで…… 狐は精を吸う。意味がお分かりでしょうかな?」
 狐はそもそも陰陽の気でいうのなら、陰気の獣であるという、と老人は言った。
「すなわち、『狐は五十歳にして、能く変化して婦人と為る。百歳にして美女と為り、神巫と為る。或いは丈夫と為り女人と交接す。能く千里の外の事を知り、蠱魅を善くし、人をして迷惑し智を失わしむ。千歳にして即ち天と通じ、天狐と為る』と中国の古典の文献にありまして」
 ひどく難しい内容をすらすらと言って、それから老人はわかりやすく付けくわえる。
「つまり、男は陽、女は陰の気を持つため、陰気の強い狐が天仙を目指すには、主に男性と交接し陽の気を得る必要がある、と……」
「ほ、本当なんですか!?」
 思わず祐樹は仰天するが、しかし、老人はにっこり笑うだけで答えなかった。また茶を一口啜る。
「とかくまあ、狐というのは陽気を吸うものでしてな、陽気というのは今の言葉で言うと『元気』というか、『活力』というか…… トミノが実際にどこまでなにをしているか知りませんが、相手の方の健康がいささか心配ではありますな」
「……」
 祐樹は心底複雑な表情になった。それをみて老人は可笑しそうに笑い、そして、鮭の入った海鮮いなりをぱくつく。
 なじみになってしまうと意識をしないが、やはり、この老人に、それにトミノは…… 妖怪なのであった。
『実在の妖怪……』
 実際のところ、祐樹はトミノが尻尾を出しているところを見たことは一回しかない。けれども、そのときに同時に、この老人がそれは大きな銀毛の狐、それも尾が二つに分かれた狐になっていたのを目撃している。
 狐が実在するってことは、タヌキも化けるんだろうか。ネコが化けて、手ぬぐいをかぶって踊ったりするんだろうか。まして、カッパや天狗といったものも実在するんだろうか。ろくろ首や一反もめんや、砂かけババアとか、ネズミ男もいるんだろうか? 思わず黙り込む祐樹に、老人は、可笑しそうに笑った。祐樹は情けない声を上げる。
「笑わないでくださいー」
「いやいや、水島さんはほんとうにかあいらしい」
 老人は笑いやむと、ふと、黙る。その眼がしみじみと自分の顔を見るのに、祐樹は、やや怪訝そうな顔をする。
「……ごはんつぶでも、ついてますか?」
「あ、いやいや」
 老人はあわててぱたぱたと手を横に振った。
「ただ…… いや、少しばかり、『似ている』と思いましてなあ」
「?」
 ふと、さびしさのようなものが老人の面差しに差す。祐樹はためらいながら、そろりと問いかけた。
「僕、誰かに似ているんですか?」
「……」
 老人はため息をつく。やれやれと寂しそうに笑い、湯飲みを手に取った。
「昔の人にね…… 少し似ているんですよ」



 トミノは、暗い部屋で、一人、部屋の端にたたんである布団へと倒れこむ。ぼふん、とやわらかい感触で、布団はトミノの細い身体を、受け止めてくれた。
 階下には明かりがある。たぶん、祐樹は今日も祖父と話しこんで長居をするんだろう。勘弁して欲しい。さっさと出て行って欲しい。いつもはそう思うわけじゃない。でも、せめて、今日だけは。
 トミノは薄い唇を噛んだ。ぎゅっと枕を抱きしめる。
 思い出させるな。思い出したくない。恋の話なんてしたくない。狐はただの『けもの』だ。『けもの』が『人』に恋をするなんて、滑稽以外の何者でもない。それは不幸しか産まない。今は自分の元にいない母が、半端ものの自分のような半妖を産んでしまったように。そして…… 彼が、おろかな末路を辿ったように。
 思い出させないで。思い出したくない。
 けれど、トミノは思い出す。
 かすかな水仙の香りと共に。
 あれは早春――― まだ、霜が降りる季節。
 思い出す、白い頬をした少年を。そして傍らに並んだ、どこか皮肉を滲ませた、けれど、明るい笑顔の少年を。
 朱塗りの櫛で髪を梳いてくれた、華奢な手を思い出す。同じ髪を撫でてくれても、くしゃくしゃと乱暴だった手も思い出す。
 肩を寄せ合うようにして、額をあわせるようにして、笑いあう二人の少年の影。夕日に照らされて、寄り添い合い、長く長く伸びた影。その光景に寂寞とした切なさを感じてしまうのは、トミノがもう、その恋の顛末を知ってしまっているから。
 幸せだったのか、不幸せだったのか。わからない。ただもう、あそこには誰も居ない。花が香ることも、泰西の古い恋歌を聴くことも無い。残されたのは、トミノだけ。あのときはまだ幼かった自分だけだ。
 ―――ただ、思い出すのは、とろりとした緑色に染んだ水辺に咲く、白い水仙。その甘い香り。
 トミノの白い手が、きゅ、と羽の枕を抱きしめる。
「にぃ……」
 かすかな呟きが、夜に零れた。


 気付くと、もう、寿司を載せていた皿は、空になっていた。
 老人のために、祐樹は、もう手馴れてしまった台所で熱い茶を入れる。老人はもらいものと思しい最中を開けてくれる。そして、茶を啜りながら、呟くように語り出した。
「もう、何年も前の話になりますかな。尾崎辰砂、という狐がいたのです」
「しんしゃ、ですか……?」
 性別の分かりにくい名前。とまどう祐樹に、老人は「少年でしたよ」と少し微笑む。
「ただ、年だったら少年かというと、いささかばかり怪しい。私よりは若かったが、人間ならば老いて死んでいてもおかしくない年だったでしょう。それでも辰砂は心も見た目も若者だった。奔放で、ふざけるのが好きで、いつも冗談を言ったり、笑ったり、歌ったり。美しく身を飾ることや、楽しいこと、気持ちの悦いことばかりを考えていて、ほかのことなんてひとつも頭にない」
 そこで、老人は短く言葉を切った。
「けれど、やさしい子だった」
「尾崎さんの……」
 祐樹はひかえめに問いかける。老人はうなずいた。
「父親は違うが、兄妹だった……」
「……」
 黙る祐樹に、老人は、穏やかに続けた。
「あの子には、何人も異父兄姉がいるのですよ。あれの母親はずいぶんと長く生きていますから。けれど、トミノと親しく暮らしていたのは、辰砂くらいのものでしょう。ほかの兄姉とは滅多に顔をあわせることも無い。けれど辰砂はあれに良くしてくれた。……トミノは父親がおらんでしょう。そうして、人の多すぎる場所というのは、幼い狐にはあまり暮らしやすくない。だから幼い頃のトミノは、もうすこし奥まったほうへ暮らしていたのですよ」
 そう言って老人があげた地名は、たしかに、閑静な古都として知られている街の名だった。寺社が多く、歴史が古く、そして、同じくらい人々の気性もおだやかな街。
「私は週の半ばは『いづな屋』を開いていて、終わりにはいつもトミノをたずねていきましてな。辰砂の父親はちかくの稲荷神社の鎮護だったから、古い屋敷に暮らしておりましたよ。もっとも、あれははしゃびまわるのが好きな性質だったから、よく、都会のほうへと遊びに行ってもいたようですがね。今、トミノが派手ななりをしているのは、おそらく、辰砂の影響が大きいでしょうよ。トミノがまだちいさい時分から、おもしろがってさまざまな装身具をつけさせたり、派手な成りをさせたりと、遊んでいたようでしたから」
 辰砂。
 祐樹は思い浮かべた。自分に少し似ているという若者。おそらくは、自分よりいくぶんか年長の外見だったのだろう、若者の姿を。
 トミノと似た風貌をしているという話だから、おそらくは、脱色が過ぎて狐色になった髪。切れ長な目元が涼しく、磁器のように白い頬。手足が長く細身の体つき。重たい銀のアクセサリーを細い指や手首にじゃらじゃらと飾り、耳にはピアス、流行の身なり。渋谷や池袋あたりになら、いくらでもいそうな風情の若者だ。青春の日々を、騒ぎまわることだけで費やそうと、自堕落にも明朗に、享楽的に生きる若者たちのひとり。
 そこで、ふと、祐樹は嫌なことに思い当たる。そろり、と問いかけてみた。
「……やっぱりその人も、人の精を吸うような…… 化け狐というか……」
 老人は苦笑した。
「辰砂には、いまひとつ、人間を玩具じゃなければ、菓子のたぐいとしてしかみないところがありましたからなぁ……」
 女でも男でも構わず、引っ掛けては、精を味わって。相手が憔悴しきって味わいが失われたのなら、簡単にぽいと捨ててしまう。
「そういう意味では、たいへん妖狐らしい妖狐、とでもいえたところでしょうなぁ」
 老人は言って、けれど、少しばかり哀しそうに、付け加える。
「まあ、そればかり、という若者でもなかったのですがね」
 さっきも言ったけれど、辰砂はやさしい若者だったから、と言う。
「きまぐれに人に親切にしたり、あるいは、心傷ついたものに対しては、ひどく篤かった。だからトミノのことも、あれだけ可愛がってくれたのでしょう。トミノは不憫な子だった。二親が居なかったのだから、ずいぶん寂しい思いもするはずだったでしょう。それが辰砂にはずいぶんと救われていたところもあったはずです」
 そして、と老人は言った。
「辰砂には、心から愛した人がひとりいた。彼に、あなたは少し似ているんですよ」
「彼…… ですか?」
「ええ」
 老人は目をわずかに細くする。
「理解しがたいですかな。ですが、私らはそもそも『ひと』じゃない。ほんとうに人間を好くのなら、そもそもそれは道に外れた恋です。この上性別などにこだわる必要も無い。私たちにも生まれついた雌雄は当然ありますが、男に恋すれば雌になり、女に恋すれば雄になる狐もいる。私はそういう狐をいくらか知っています」
「……そういうものなんですか」
「ええ。そして辰砂にとっての大切な人は、女ではなかった。けれど、きれいな少年でしたよ。色が白く、真っ黒な眼をして、どこかひっそりとした風情をしていた」
 祐樹は黙った。軽く目線を動かすと、夕暮れの過ぎた藍色の空の下、窓のガラスが鏡のように祐樹の面差しを映す。
 気弱い、おとなしい、14歳の少年。本ばかり読んでいて、人目から隠れ、物陰に隠れるように生きているから、日に当たらない肌の色はひどく白い。そしてたしかに言われたとおり、自分の目は夜のように真っ黒い色をしているのだ、とふと思う。
 さきほどから、と祐樹は思う。
 老人は、『辰砂』という若者に対して、そして、その『思い人』に対してすべて、過ぎ去ったことを語るように、語っている。
 祐樹はためらう。けれど、そろり、と伺うように口に出してしまう。
「その方は、その、『辰砂』さんとぼくに似ているっていう人は、今、どうなさっているんですか……?」
 老人は短く答えた。
「死にました。トミノが8つの年のときに」
 予想通りの、答え。
 黙る祐樹に、老人はふっと寂しそうな眼をする。少し笑った。
「長い話ですよ。それも、道を違えた、愚かで、哀れな恋の話だ」
「……」
「聞きたいか…… と、いまさら言うのも可笑しいのでしょうなあ」
 老人は苦笑する。
「これだけ話してしまったんだ。私が聞いてもらいたいのでしょう。聞いてくれませんか、水島さん」
 そして、老人は言う。
「聞いてくれませんか。……」
 
 哀れで愚かな、狐の恋わずらいの話を―――
 





 ―――辰砂が初めて『ダミア』という名前を聞いたのは、いつものように通っている、アンダーグラウンドなクラブでのことだった。

 視界を擾乱するカラフルな光の乱舞。何重にもワイプのかかった映像がスクリーンに踊り、鼓膜を引っかくような合成音が人間の指では到底不可能な速さのビートを刻む。慣れた光景。それぞれに派手な格好をした若者たちが、まるで何かの宗教の法悦のしぐさをまねるように身体をうごめかしている。彼らの身に付けたフレグランスや化粧品の臭い、汗の匂いや髪の匂い。そして、普通の人間だったなら感じることも出来ないだろう、アドレナリンの匂いや精の匂いすら、辰砂にとっては『食欲』をそそるためのアベリティフとなるだけ。
 今日は誰がいいだろう。黒いミラーのカウンターにもたれたまま、辰砂はのんびりとフロアを見回していた。これ見よがしにむき出しにした肌に、蝶の鱗粉のようなパウダーをきらめかせる女たち。派手な色の髪に、耳にはピアスを光らせた男たち。いずれも若い。その若さを象徴するかのような匂いがひどく心地良い。眼を細めてグラスを舐める辰砂に、ふと、傍らから声がかけられる。
「ハイ、辰砂」
「ん? ……誰だ?」
 返事代わりに、笑いながら軽く頬を叩かれる。それはぴったりとした細身のパンツを身に付け、上半身には反対にゆったりとした金色のトーガを合わせた若者だった。小柄で、白金になるまで脱色した短い髪。細身のシルエットでは性別はなんとも判別しかねる。腕にも腹にも盛大に這ったタトゥのカラフルさが、彼、あるいは彼女の一番のトレードマークだと言えるだろう。
 トカゲ、と辰砂は彼、あるいは彼女を呼ぶ。果たして本名なのか、あるいは彼が男なのか女なのかな、どの道誰も気にすまい。だから辰砂も気楽にひらひらと手を振って答えた。
「久しぶりだなぁ。お前、どこいってたの?」
「お仕事。場所はヒミツ。あててみて」
「ん……?」
 辰砂はへらへらと軽く笑う。そして、軽くトカゲの喉元に鼻を近づける。喉をくすぐる香りの種類。それを嗅ぎ分け、辰砂は言った。
「んー、何処だ? ……なんだこりゃ。外人ぽい匂いがするんだけど。血の匂い。アメリカあたり? 何、なんの仕事? 彫り? それともピアスのほう?」
「わ、すっごい」
 トカゲは目をまたたき、ぱちぱちと手を叩いた。
「大当たり。ロスでねー、BME(身体改造)系のおっきなイベントがあってねー、なんで向こうの人ってあんなに漢字が好きなんだろ。ブース作ってその場で即興で入れてきた。あと、全身和彫りしたいって人がいたから、日本来たら紹介してあげるって言ってきた」
「へー。即興の漢字って何?」
「『女狐』って入れた」
 真顔で言うトカゲに、辰砂は思わず吹き出した。
「へえ!」
 けらけらと笑い転げながら、バーテンを呼び寄せ、カクテルをオーダーする。
「あーもーマジ笑える。それ、相手意味分かってんの?」
「いちお、説明したけど。えーとなんていうか、ジャパニーズ・ヴァンプ的な? 日本語でサキュバスの意味ですっぽく?」
「うんナイス、すげーグッジョブ。あー、えーと『カミカゼ』作ってー。スピリタス入れたやつ! このヒトの帰還祝い!」
 無論、トカゲは何も知るまい。辰砂のことをどう思っているかもしらない。付き合い始めてから一年少し過ぎたくらいだろうか。辰砂が相手のことを詮索しないくらい、自分のことを詮索してこない気のいいトカゲは、こういったクラブで顔を合わすたびに冗談話に盛り上がれるような気のいい仲間だ。
 ふと眼を動かすと、カウンターのガラスに自分の顔が映っている。すこし長くなった髪は狐色に脱色されている。耳には耳殻にまでいくつものピアスが派手に光り、黒いレザーのパンツを腰で履いた辰砂は、周りから見ればどういった風に見えるのか。切れ長な目元に引いた紅は、辰砂なりのちょっとした冗談のつもりだった。無論、派手に宣伝するつもりは無い。けれども誰かに正体を聞かれたのなら、辰砂は素直に答えている。
 自分は狐だと。
 ……誰も信じない。それが、いいのだ。
「あーあ、今日誰か引っ掛けて帰るつもりだったのに、どーしてくれんのよ。お前の話聞いてたら、一晩つぶれちゃうじゃん」
「あたし、明日もヒマよぉ。あたしじゃだめー?」
「若い子がいいの、オレは」
 トカゲはまた笑いながら辰砂の頬を叩いた。
「あんたいくつよ」
「95歳。渋いっしょ。大人の魅力っしょ」
「あっそ。じゃあ、あのへんのでも誘ったら? 80くらい年下のやつ」
 バーテンがステアされたカクテルをまわしてくる。ライムを搾った透明なグラス。トカゲがアルコール度の高いカクテルを舐めている間、辰砂はもう一度、のんびりとフロアを見回した。
 男にしろ、女にしろ。ここにくる若者たちは皆、若々しく、精気に満ちている。はしたない欲望を垂れ流しにして、盛りのついた犬のような匂いを撒き散らしている。そんな雰囲気が、辰砂は好きだった。獣じみた匂いをさせた『人間』という生き物。
 辰砂が『ひと』という生き物に混じって暮らすようになってから、もう、どれくらい過ぎただろう。
 辰砂が生まれたときには、もう、彼らの一族の住処は野には無かった。父母の世代までさかのぼれば昔を恋しがるものもいるけれど、辰砂の意見はやや別だ。もしも自分が野山の広がる昔に暮らしていたとしても、やはり、人間という生き物の香り恋しさに町へとさまよい出ていただろう。人間という生き物はこいつに似ていると、辰砂は半ば無意識にグラスをゆらす。ガラスと氷が触れ合って、涼しい音を立てた。
 何種類もの欲望を混ぜ合わせて、愛だとか恋だとかで少しばかり香りを付ける。フロアで踊り狂う若者たちが、汗の匂いにフレグランスを混ぜて、濃密な匂いを身にまとうように。その味わいはカクテルに似ている。切れ長な眼を細め、テーブルに並べられた美食の皿を眺める眼でフロアを見回していた辰砂は…… ふと、場違いな姿を見つけて、眼を瞬いた。
 フロアの隅、紫色のフェイクファーを敷かれたソファ。
 そこに、無感情な顔をした少年が、ぽつり、座っている。
 辰砂は、思わず、眼を瞬いた。
 品のいい服装の、線の細い、おとなしそうな少年―――
 黒いスラックスと、黒い革靴。仕立てのいい白いシャツは袖までぴったりと腕を覆い、襟には細く黒いタイ。そのレトロで上品な服装が、この空間にあっては、逆に信じられないほどに異質だった。髪も瞳も、同じように、まるで闇のような漆黒。顔と手しか露出しない肌は、おそらく化粧一つ施さないだろうに、この場にいる誰よりも白く、ほとんど静脈が薄青く浮き出して見えそうだった。細い銀のふちの眼鏡の向こうから、醒めた眼が、フロアを見回している。
 自分の目が美食を見るような眼だとしたら、少年の目は、そう、まるで、まるで水槽の中の魚でも見るよう。
 あるいはその逆だろうか、と辰砂は思った。
 分厚いガラスの向こうから、無感情な眼で人間たちを眺める、銀の鱗の魚の目……
「辰砂、誰見てるの」
 隣のトカゲが、珍しく、とがった声を出した。
 驚いて振り返る。トカゲを見ると、目元を真っ黒にしたゴシックな化粧の下で、その眼が酷く真剣な色を浮かべていた。珍しい、という以上だ。こんな顔なんて見たことが無い。
「何? あの子、知ってんの?」
「……」
 トカゲは、困ったように眉を寄せる。そして、軽く辰砂を手招きすると、ピアスだらけの耳に、口を寄せた。
「あれ、『ダミア』よ」
「……は?」
 一瞬、何を聞いたのか、と思った。
「『ダミア』って…… アレ? 『暗い日曜日』とか、『人の気も知らないで』とか?」
 古いシャンソンの歌手の歌声を、とっさに思い出す。しわがれた、老いたカラスのような不吉な歌声。聞いた人間を自殺へと導くと言われた歌を歌った伝説の歌手だ。だが、その名前は今の時代にはあまりに古い。トカゲの反応ははかばかしくない。
「何それ。とにかく、あれはそういう名前で通ってんの。あんたが知らないほうが驚きだわ」
「場違いだよなあ」
 素直な感想だった。育ちのよさそうな少年がぽつんとひとり、紫色のファーの上。誰かに無理やり連れてこられたのか、とも思う。だが、トカゲの反応は違った。
「あれと関わるとろくなことにならないわよ」
「……?」
 不思議そうな顔をする辰砂に、トカゲは、小さくため息をつく。そして辰砂の耳元に、小声で囁いた。
「あれはバイヤーなの。それも、そうとう性質の悪い」
 その言葉で、辰砂は、ようやくトカゲの言う意味を悟る。
 バイヤー。
 ……つまり、あの少年は、ドラッグの売人なのだ。
 いくらアンダーグラウンドに見えても、このクラブも、そしてトカゲも、きちんとした法の下に存在している。
 トカゲはたしかにボディピアッシングやタトゥなどの施術を生業にしているらしいが、それとて、『違法』という意味ではそれほど大きな問題ではない。ピアッシングは医療に携わらないものが施術するという時点ですでに違法な行為だが、トカゲは本人なりには技術を磨き、なるべく良心的な技術者たるべくを意識しているらしいということが分かる。
 それにしても、こういう世界で暮らしているのなら、ドラッグなどと触れ合う機会も少なくはなかろうに。それがあえてここまで顔をしかめる理由が、辰砂にはわからない。
「そこまでヤバいの? っつーか、そういうのこの辺にはいっぱいいるじゃん」
「……」
 トカゲはしばらく黙っていた。そして、やおらまだ半分は残ったカクテルを一息に飲み干すと、ストゥールから立ち上がる。
「行きましょ。飲みなおそう」
「はぁ?」
「あたしがおごってあげるから!」
 トカゲの言葉には、何か、有無を言わさぬ響きがあった。辰砂も無理やりに立ち上がらされる。トカゲはそのまま、思いもよらぬ強い力で、ぐいぐいと辰砂を引っ張っていく。有無を言わさずフロアを横切らされる。
 抵抗する気はすでになくなっていた。何か言いたいことがあるんだろう、と思うと、そちらのほうが面白い。けれど辰砂は最後まで少年の方から視線を離さなかった。
 蒼いほど白い肌、漆黒の髪と瞳、銀縁の細い眼鏡、無感情な眼……
 その髪から覗く耳に、ピアス一つほどこされていないということに、辰砂は驚く。代わりに、シャツのカフスには、銀のカフスピンが止められていた。それが何のモチーフなのかを見分けるよりも先に、トカゲに引きずられた辰砂は、そのまま爆音と光の交差するフロアから、地上の世界へと上がっていった。
 

 ―――真夜中の町は、深海魚の世界。
 ネオンがきらめき、雑居ビルの中に小さな店が無数に詰め込まれている。派手なファッションの若者たちが歩き、ショーウインドウ越しに光がきらめく大通りを離れ、裏道へ。もうトカゲは手を離していた。けれどもおとなしく後を付いていくと、トカゲはひとつの雑居ビルに足を踏み入れる。壊れそうなエレベーターに乗って上へと上がると、そこには、小さなバーがあった。おそらく監獄を模したのだろうものものしい様子のドアに、辰砂は思わず口笛を吹くが、なれた様子で足を踏み入れるトカゲにはまったくためらいは無い。
 店に入ると、トカゲは、黒いエナメルのフレンチメイド姿の女に耳打ちをする。彼女は奥の小さなスペースに二人を通してくれた。黒いガラスのシャンデリア。鏡で出来たちいさなテーブルと、ビニール製のシート。
 なるほど、ここは。
「へえ……」
 思わず感心する辰砂に、トカゲはようやく息をついた。
「なにここ。ハプバー?」
「そんなもんね。オーナーが知り合いなの。ここなら人に話を聞かれないからね」
 ハプニング・バー。お互いに顔も見知らぬ男女、あるいは同性同士が出会い、一夜の戯れを愉しむという趣旨の店。清潔に保ちやすいという目的のためだろう、つるつるした黒いビニールのシートを、感心しながら辰砂は撫でる。
「あのさ、でもオレ、今晩お前となんかするつもりは無いって言ったと思うんだけど?」
「する気もないわよ」
 ため息をついて、トカゲはポケットから煙草を取り出した。銀色のジッポで火をつける。
「……ダミアの話の続きなんだけどね」
 ふうっ、と吐き出された煙は奇妙に甘い。どこの国のものだろうか、と辰砂は思う。
「うん、あのコがどうしたって?」
「バイヤーだって言ったわよね。主にチーズとかエクスタシーとか、あと、最近だとトリミックスってヤツとかね。他にはお医者でくれる系のものを売ってる」
 へえ、と辰砂は声を漏らした。
 辰砂自身はそこまで熱心にドラッグを使ったことは無い。そもそも体質で効きが悪いのだから、辰砂にとってドラッグは『おもしろくない遊び』だ。だから上げられた名前の中身はかろうじて分かる程度だった。
 『チーズ』というのは質が悪く安いコカインの俗名で、『トリミックス』と呼ばれるものが、LSDやコカインなどに、バイアグラを加えたという新手のセックスドラッグだという話は聞いたことがある。医者でくれる、というのは精神科で処方される向精神薬の類のことだろう。そういった薬の類の中にはドラッグとしての効果を発揮するものもある。
「なんかバックについてんの?」
「聞かないわね」
「えぇ? じゃあ、どっから薬を入手してるわけ?」
「知らない。それに、ダミアはコカインとかヘロインとか、そういうヘビィなのは扱わないからね。あと葉っぱもナシ。大人は手出しをしないようなケミカルで『ライト』なのを売ってる。しかも、『良心的』な価格でね」
 皮肉っぽく強調された言葉に、辰砂は、その裏の真意をうっすらと悟った。
「……ガキ狙い?」
「そ。ハードショップなんかには絶対に行かない、っていうか、行き方がそもそもわかんないようなのがあれのターゲット。しかも、同じ相手には一定量だけ渡して、そっから先は一切連絡なし」
 ハードショップ、というのはいわゆるドラッグをあつかう店の隠語だ。ニーズがあれば、それに答えるのが世の中の仕組み。ドラッグを使用したがる人間は世の中には決して少なくない。
 だが、治安のいい日本という国では、そもそもドラッグを入手するためのハードルは、高い。
 大人になり、『悪い遊び』を覚えれば、知り合いをつてにドラッグを入手することも出来るだろう。だが、それにはそれなりの行動力が必要だ。人と知り合う行動力、あるいは熱心に情報を収集する行動力。その結果バイヤーとであって初めて、ドラッグの世界への道が開かれる。
 ―――通常ならば、裏に犯罪組織の付いたバイヤーが、その入り口となるはずなのだが。
「普通のバイヤーだったら、きちんと金さえ出せば、モノを渡してくれる。そっからさきには道が出来てる。地獄行きの道かもしれないけどね」
 そりゃ、そいつだって問題よ、とトカゲは言った。
「あれで人生台無しにするヤツも多いからね。でもあたしの意見だと、そんなの、本人の自由ってもんよ」
 これと同じ、とトカゲは自分の腕に這うタトゥを示す。
「リスクとリターンを把握しとけば、その人の人生はその人のもん。どこで踏み外そうが勝手。あたしは友達には変な目にあってもらいたくないし、そこらへんは良心的なの」
「へーぇ?」
「……でも、あれはその逆だからね」
 トカゲは苦々しく言った。
「何を考えてんだかさっぱりわかんない。金儲けのためじゃないみたいだし、かといって、面白がってるっていう感じでもない」
「本人はジャンキーなの?」
 トカゲは首をかしげた。「どうかしらね」とつぶやく。
「でも、あれってきっと自分自身はリスクを把握して、絶対に踏み外さないようにやってるわ。ああいうやり方は、人を地雷原に放り出して、そっから先は勝手にしてください、っていうようなもんだと思うのよ」
「悪趣味だって?」
 トカゲはうなずいた。苦虫を噛み潰したような顔で。
「あークソ、胸糞悪い。……ねえ、なんか頂戴!」
 トカゲは大声でウエイトレスを呼ぶ。辰砂は爪を噛みながら、鏡面になった小さなテーブルを見下ろし、つくづくと思い出した。
 ダミア、と呼ばれている少年。
 白い頬。闇のように真っ黒な、無関心な眼。白いシャツに細いタイ、黒いスラックス。
 ―――ふいに気付く。
 あの少年からは、『匂い』がしなかった。



 終電を乗り過ごして、翌朝。
 ……派手な格好に向けられる怪訝そうな目を気にもせず、電車を乗り継ぎ、バスに乗り、古都も奥まった土地にある家へと帰る。まだ早春。革製の長いコートを着ていても寒いものは寒い。さくさくと踏み潰す霜柱の向こうで、まだ登り初めた朝日がぼんやりと空を金色に照らしている。
 ゆるい坂を上り、石段をあがる。そうすると、そこにあるのは実に鄙びた風情の日本家屋だ。庭に水仙が咲いていた。かすかに飯を炊く匂い、味噌汁の匂いがする。立ち止まるとあくびがでた。ふわぁ、と大きくあくびをする辰砂に気付いたのか、縁側のほうから、「にぃ!」という声が聞こえてきた。
「お、トミノー」
 ぱたぱたと、走ってくる、走ってくる。それはいまどき古風な絣を、兵児帯で結わえた女の子だ。可愛らしい柄の綿入れ、木綿の足袋。けれど、なによりも目立つのは、色の薄い髪の間からぴんと立った耳と、着物の尻のあたりでふわふわとゆれている大きな金色の尻尾だった。
「にぃ、おかえりー!」
「たっだいまー」
 駆けてきたトミノを軽々と抱き上げて、辰砂は自分の額を、すべすべとしたトミノの額とくっつける。やわらかそうな頬がぶうと膨らむ。
「にぃ、遅い! どこ行ってたの?」
「あー、ごめん、遊びにいってたんだわー」
 肩の下のあたりまで伸びた髪から出た耳は、金茶色の毛に覆われて、三角形に尖っている。彼女の憤慨をあらわすようにぴくぴくと動いている耳をなだめるようにちいさく噛んで、辰砂はのんびりと家の玄関へと歩き出す。
 飯を炊いてくれたのは、おそらく、この下の神社の神主の妻だろう。これでもいちおう、辰砂はこの下の稲荷神社の鎮護の息子、だということになっている。実際のところ父親が何をしているのかは良く分からないが、とにかく、小さなトミノ、そして、辰砂をやしなうというのはこの下の神社の代々の勤めだった。
 ぴくぴくと鼻を動かすと、春らしくふきの入っているのだろう味噌汁の匂い。昨晩煮たまま寝かされて、よく味の沁みた笹竹の子と蒟蒻の煮物。それに、油揚げ。
「ああ、つっかれたあ」
「にぃ、あんまり今日は人間くさくないね?」
「ん。昨日は知り合いと飲み明かしてたからな」
 かわりに酒くさいだろ、と息をふうっと吹きかけてやると、腕の中でトミノがぶうっと頬を膨らませる。笑いながら玄関に上がりこむ。靴を脱ぎ捨て、奥の部屋へ。古い日本家屋は暖房が効きにくく、家の中にもひんやりとした空気が満ちていた。
 トミノがいつも生活しているあたりの部屋を見ると、絵本やおはじき、お手玉のたぐいが散乱している。ずいぶんと退屈をしていたんだろう。辰砂は腕からおろしたトミノに、「ほれ」といって、ポケットから出したちいさな包みをほうってやる。
「なあに?」
「土産」
 わあ、と歓声を上げてトミノが包みを空けている間、辰砂は台所に立つ。味噌汁と冷めた煮物。そして、油揚げ。かるくフライパンにごま油を敷いて、油揚げを焼く。こんがりとしたあがりで醤油をかけると、ばりばりと大きな音がした。
「にぃ、似合うー!?」
 走ってきたトミノが、辰砂の腰の辺りにとびつく。釣り目がちの目がきらきらと嬉しそうに光っていた。その髪の毛をゆわえているのが、辰砂のもって帰った『お土産』だった。……派手な化粧を施したマスコット人形の頭。それだけを、いくつもくっつけた髪飾り。いささかブラックジョーク風のヘアアクセサリー。
「うんうん、似合う似合う。んー、でも、服を考えないとなぁー」
「じゃあ、着替えっこする?」
「ごめん、オレ眠い…… 飯食ったら寝るわ。それからにしよ。な?」
「うー」
「ほら、あぶらげ。冷めないうちにさっさと食え」
 陶板の皿に油揚げを載せてやると、トミノは素直にとことことちゃぶ台のほうへと歩いていく。味噌汁を沸かしなおし、煮物は冷めたままで椀に盛る。飯を小さな茶碗と大きな茶碗とに盛った。ふわぁ、とまた大きなあくびをしながら、すべてをお盆に載せ、もう片手に焙じ茶を入れた茶瓶を器用にぶらさげて、辰砂は卓のほうへと向かった。
「いただきまーす!」
 大きな声で両手を合わせる。そんなトミノを、徹夜明けのぼんやりとした頭で、辰砂はほのぼのと眺めた。
 ぴくぴくと動く敏感な耳。ふわふわの大きな尻尾。トミノの姿は、どこからどう見ても、人間ではない。いまだ若くて自分の姿を隠すことを知らないトミノは、辰砂の、軽く一世紀近くは年の離れた小さな妹だった。
 無論、父親は違う。お稲荷様に使える神狐の血を引く辰砂と違い、トミノの父親はただの人間だという。実際、トミノは上手に化けることもできず、狐とも人間ともつかないこの中途半端な姿が本来の姿。四足で駆けることもしらず、狐火を吹くことも、人をたぶらかすことも決して上手くはない。だが、その稚さが逆に辰砂には面白い。可愛い妹だった。
「にぃ、食べないの?」
「んーあー?」
 にっ、と辰砂は目を細めた。
「トミノが可愛いから見とれてた」
「ぶー」
 トミノは頬を膨らませる。可愛い。
 下品に飯に味噌汁をかけてかっ込み、煮物をつつき、油揚げを二口で食べてしまう。そして、それから焙じ茶を飲むと、腹がいっぱいになる。逆に眠くなってきた。ふわあ、と大きくあくびをする。耐え難い眠気だ。
「うー、寝るー……」
「にぃ、つけてるの外して! ちゃんと寝巻き着て! 髪の毛にひっかかって痛いもん」
「はいはい」
 ピアスやチェーン、指輪やバングルを外して卓の上に放り出す。奥の部屋へ行って服を着替えている間に、トミノが卓のうえを片付けてくれた。くたびれてやわらかくなった木綿の浴衣を着込み、敷かれたままの布団のなかにもぐりこむ。派手な友禅に白い覆いをつけた布団。それをひっかぶったあたりで、小さな足音が駆け寄ってくる。そして、布団の中にもそもそともぐりこむ。尻尾の毛が鼻をくすぐり、辰砂はおもわずくしゃみをした。隣に入り込んだトミノは、「えへへ」と嬉しそうに笑う。ほんの少しだけ八重歯が見えた。
 可愛いトミノ。辰砂も思わず顔をほころばせる。そして、軽く手を伸ばすと小さい体を抱き寄せ、金毛に覆われた耳をかるく噛んだ。
「ん……」
 ぴくん、と耳が動く。トミノの喉から、甘える小獣のような声が漏れた。
 辰砂は、その味を愉しむ。獣臭い匂い、乳臭い子どもの匂い、そして、まだ熟れない石榴の、青臭い匂い。
 同族喰いを、辰砂は、好まない。
 ましてトミノはまだ子どもだ。ただ、舐める程度。獣がお互いの顔を舐めるように、ただ、その味わいを軽く愉しむだけ。それでも、そんなスキンシップだけでも、この可愛らしい半妖の仔狐が、どんな素質を持っているのかが分かる。
 まだ穢れない青い匂い。けれど、その酸い香りは、熟れはぜたそのときに滴るだろう汁の甘さを予感させる。その香りはどことなく母狐のそれに似ていた。
 匂いと、味。
 たとえ何者であっても、匂いも味も無いものは無い、と辰砂は思った。
 辰砂は、ずいぶんと長く生きていた。妖狐としても短すぎるということは無い。その生涯の大半を、辰砂は人の間に混じって生きた。あちらこちらと果実を摘むように、浮気な蝶が蜜から蜜へと飛ぶように、人から人へ、その快楽と欲望の味を愉しむためだけに生きた。
 淫奔で浮気と責める声もあろう。だが、辰砂は同族からそのそしりを受けたことは無い。狐、という浮気な生き物にあっては、貞節、というのはただの気の弱さを表す言葉にすぎない。
 辰砂は、男も女も好きだ。抱くことも抱かれることも、同じくらい好きだ。そして、その行為のもたらす快楽以上に、精気を貪る悦びのほうを愛していた。
 だが、古い伝承のように、誰かを取り殺したことはない。それほど誰かに執着することも無い。摘んで一口かじった後は、すぐに飽きて放り出す。そんなことを繰り返し、繰り返し。もう、何十年も続けてきた。
 けれど――― どこかに、自分の魂をも虜にするような、至上の美味というものがあるのだろうか。
 恋情に殉ずるくらいなら、悦びに殉じたほうがいっそ潔い。そろそろ100年に近づこうかというほどの長さを若さに生きて、自分はそろそろ倦怠を知りつつあるのだろうか、とふと思う。
 昨日の少年。
 ダミア、と呼ばれた少年。
 なんの匂いもしなかった。真っ白な頬と、闇色の髪。細い銀縁の眼鏡の向こうから、魚のように無感情に、フロアを見ていたあの瞳。
 ああ、あれは無感動というものだったのだ、といまさらのように辰砂は気付いた。
 あの目にあった虚無、あれは、ありとあらゆるものへの無関心と無感動、というものだ。おかしなことだ。どうみても、まだ10代半ばにしか見えない、すべらかな頬の少年――― それが、辰砂が一世紀近く生きて、ようやく知ろうとしたものを知っているとは。
 おもしろい。
 ……『欲望も持たぬもの』というのは、どのような味わいを持つのだろう?
 そんな興味が、とろとろと眠気にとかされていく意識の表面に小さく浮かび、そして、消える。とろとろと溶けるような眠気の中で辰砂は決める。

 そうだ、次は、あの子に決めた。
 白い野花を摘むように、あの少年を、摘み取ろう。

 そう気安く心に決めた辰砂の腕の中では、ちいさなトミノが、とうに、健やかな寝息をたてはじめていた。





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