/灰の乙女



 ―――あれ?
 ここは、どこでございましょう?


 ふわり、闇に火の粉が舞った。それが意識の覚醒を促す。ぼんやりと闇にただよっていただけの想いが、覚醒と共に形を成し、自らが何者であるかを思い出す。
 蒼い髪、蒼い瞳。まつげの長い、色の白い、端正に整った面差しの少女。額に抱いた星のほか、何も身に付けてはいない。闇は温い水のようで、ゆらゆらと漂う意識は、己が何者であるかも自覚しないまま、彼岸に流れる。
 辺りに漂うのは、ただ、闇。
 未生の闇にも似たそれは、やわらかなぬくもりを伴い、ともすれば意識すらもあいまいになる。寝覚めの夢にも似たあたたかなぬくもり。安らぎ。想いの糸もともすれば途切れがちで、散漫な意識は元のように闇へと溶けていこうとする。
 かすかに音を立て、空気の泡が頬を撫でる。体の輪郭を撫でていく。それでかろうじて自分の体を自覚する。けれども、出口らしきものはどこに見つからない。
 ああ、でも、構わないかもしれない。
 この心地よさ、この穏やかさ。この平穏に何が勝ろうか。やわらかい闇に抱かれて、自分が溶けていく感触は、食虫植物のなかで甘く溶けていく快感にも似る。自我の拡散。その堕落の味は、いまだかつて味わったことの無い甘い香りがした。
 このまま静かに闇に溶け、未生のままに消え果る。存在すらその闇の深さに比すれば虚構。それは、それほど温かい闇だった。
 ―――けれど、それでは、いけない気がする。
 半ば眠ったまま、それでも、手を握ってみる。自分の指の形を、少女らしく華奢な、けれど、剣を握るための手を自覚する。その手を上に向けた。力を込める。
 ……蛍火のように、温度の無い光が、点った。
 小さな星。それは己の力の結晶。自分が力持つ存在であると自覚すると同時に、徐々に記憶が戻ってくる。己の名。己の過去。己の記憶。

 わたくしは、ミネルンバ。
 じゃあ、なんでわたくしはここにいるの? ……ここは、どこ?

「ここは、どこでございましょう?」

 声に出してつぶやいてみると、それは、存外に大きく響いた。
 前後の記憶がはっきりしない。額に手を当てて、軽く頭を振った。辺りを見回す。闇、それと小さな泡沫。それ以外に何も見えない。
 上も下も無い。自分が上がっているのかも、下がっているのかも分からない。ただ感じるのは心地よい温度と、体を溶かしていきそうな甘いぬくもり。自分の記憶にあるわけではないけれど、もしや、母の胎内というのはこのような場所か、とすら錯覚する。
 
「みんなー?」

 呼びかけた声に、返事は無い。
 ひとりひとり、順番に、名前を呼んだ。けれど、返事は無い。心当たりのあるほかの人々の名も呼んでみた。やはり、返事は無い。
 ……さすがに不安がこみ上げてきた。
 明かりは手の中にある、自ら生み出した星のたよりない灯だけだ。これ以上の明かりを作るには道具が必要、けれど、今は一糸とて身に付けてはいない。誰もいないから羞恥心は感じないが、少しばかり心もとない。そして、ふと思いついて、水に強い仲間の名を思い出してみる。

「メルクリン…… メル、いませんの?」

 呼びかけてみた。
 ……すると、ふと、何かが頬をかすめた。
 ちり、と頬が痛んだ。眼を瞬く。なんだろう。……火の粉?
 なぜこのような水の中に火があるのか。それは、間違いなくただの炎ではありえない。眼を凝らし、その後をたどる。すると、遠くに何かが見えた。うすぼんやりと光る、縦に長い窓のようなもの。暗い硝子の板。
 出口? それとも、何かの罠? 警戒する。だが、とにかくもあれより他に、頼りは無い。
 もしもあそこの外に、誰か見知らぬ殿方がいらっしゃったら、困るでございますね。
 なんとなく場にそぐわないことは自覚済みで、ずれたことを考えながら、しかたなくも少女は闇に泳ぎだす。暗い、硝子の窓に向かって。




 部屋には、誰も、いない。
 窓を厚いカーテンで覆って、乙女は一人、暗い部屋の中にうずくまる。
 体を蝕む光の力はなお強く、確かに、外に出ることを許されたとしても、何を出来る身体でもなかった。最期、出撃の前に見舞ってくれた彼の人は、彼女の髪を撫でて、こう言った。

 ……ゆっくり休め。

 今では変わり果てたその姿、けれど、変わらないのはその手の持つぶっきらぼうな優しさ。
 けれど、状況がそれを許すわけが無いということくらい、知っている。自分ひとりがこうして閉じこもっているうちに、こちらでは千の手勢が消耗する。もとより主君たる人を除けば、仲間内で随一の魔力を誇る彼女だ、雑兵数千に勝るその力が戦場から失われれば、どれほどの不利となるのかくらい、彼女自身にも分かっていた。動かぬ手足がもどかしい。自由に空を舞うことも適わぬ体が呪わしい。
 けれど。

 ……ゆっくり休め。

 その言葉が何を意味していたのか、頭が混乱して、分からない。
「……アリババの、バカ」
 ぽつん、呟いた。その瞬間だった。
 ふいに、部屋の向こう側にある大鏡に、何かの影がひらめいた。
 きらめく、光。
 何?
 部屋にはそれらしき光源などない。うすぼんやりと部屋の中を照らし出す天井の明かりは錆にも似た赤に滲んでいる。では、あの清冽な蒼はなんだろう。
 ゆっくりと乙女は身を起こす。身体が悲鳴を上げる。
 包帯を巻いただけの素裸で立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。身にまとうのは他には己の長い髪ばかり。足を引きずりながら、やっとの思いでたどり着いて、鏡の表に手を当てた。
 ―――乙女は目を見開いた。
 そこに、自分の姿が、映らない。
 そこにうつっているのは、自分よりも幾らかも年若の――― けれど、確かに己の面影を持った、蒼い髪、蒼い瞳の、年若い少女だった。




 硝子の向こうに現れた姿を見て、少女は、目を瞬いた。
 これは、誰だろう?
 魔性の乙女。それも、凄まじいほどに、美しい。
 背が高く、ほっそりと痩せている。しなやかな手足と細い腰。蒼白な肌と、それと対比するような真紅の髪。顔立ちは名工の手になる彫像さながらの端正さ。天のみが与えることを許される、欠けることのない美。けれどその美貌には、どこかしら見るものを脅かすような所がある。たとえるならば触れれば骨まで焼き焦がす灼炎の美。あるいは触れれば指が凍りつき、砕け落ちてしまうほどの、絶対零度の美。
 だが、それも今は痛々しい。身体のそこかしこに分厚く包帯が巻かれ、満足に立つことも出来ないのか、苦しげにわき腹を押さえていた。やがて、彼女はがくりと座り込む。少女はあわてて自らも身をかがめた。そして、硝子越しに顔を近づけて、初めて気付く。―――乙女の面差しは、姉妹と紛うほど、己と似ている。
 だが、見たことのない顔だ。悪魔、それも、これほどの力を持つ悪魔になど、係累はない。硝子越しであり力は読めなかったが、相手は相当に高位の力を持つ存在と見えた。それほどの推測能力だったら、自分にも存在する。
「大丈夫でございますか?」
 苦しげに息をつく乙女を、とりあえずは気遣う。乙女は顔を上げ、戸惑ったような顔をした。
『あなた、誰?』
 ―――鏡越しに響くその声音も、どこかしら、自分に似ている。
 乙女は端正な唇を、皮肉な笑みに吊り上げた。攻撃的な表情。小さくとがった牙がかすかに覗く。
『もしかして、どこかしらかの刺客かな』
 いまのあたしだったら、簡単に殺せるものね、と乙女は自虐的に呟く。少女はあわてて否定した。
「ち、違いますわ!」
 敵でもない相手をいきなり攻撃する意思などない。それどころか、相手は怪我人だ。うすくぼやけた背後には寝台が見えた。そこから這い出してきたのか。できることなら肩をささえてそこまで戻してやりたいくらいだったが、あいにく、少女は硝子を超えることが出来ない。
「大丈夫でございますの? ずいぶん、苦しそうでございますが……」
『……平気よ』
 乙女は、投げやりに呟いた。
『あなたも、どうせ幻覚でしょう。あたしもどうやらヤキが回ったみたいね』
 こんなものが見えるなんてね、と呟く。少女は少々ムッとした。
「わたくしは幻覚などではございません!」
 ……そして、少々不安げに付け加えた。
「たぶん」
 乙女が眼を丸くする。そして、ややあって、小さく吹き出した。
『自分が幻覚じゃない、って主張する幻覚なんて、はじめて見たわ』
 だから違うというのに。少女は頬を膨らませた。




 『幻』の名を冠するのは、伊達ではない。数千、数万年の輪廻を越えてなお消えぬ、それは、彼女の力の源泉なのだから。
 だからこそ、『幻』と出会うことも珍しいことではない。心が惑い、身体が弱っているのならばなおさらだ。おそらくこの少女もその類だろう。ひとまずはそう結論付けて、乙女は鏡に身体を持たせかけ、座り込む。
『ひどい怪我でございますね……』
 不安そうに少女が呟く。くすりと乙女は笑った。
「変ね、なんで幻覚があたしの心配をしてるの」
『だから幻覚ではございません!』
「分かったわよ。……それに、平気」
 たいした傷じゃない、とつぶやいて、わき腹を押さえた。最も深手だったその傷ですら、魔力の治癒を持ってすれば、ふさぐことが出来るような傷でしかなかった。肩が砕けた片腕は、元通りに動くようになるまで、もう少しばかり時間がかかるか。
「相手が莫迦だったからね。手心を加えられた剣なんかで、死ぬようなあたしじゃない」
『てごころ……?』
「知り合いだったの」
 どうせ幻覚だ。何を言ってもいいだろう。乙女はうっすらと笑みを浮かべた。
「あのね、あたし、古い知り合いを殺したの」
『ころ、した?』
 少女の蒼い目が、見開かれた。
 その表情が可笑しくて、また、くすくすと笑う。かすかに感じる自虐的な快感。乙女は膝を抱き寄せた。
「そう、殺したの。敵だったから。でも、あいつは敵だなんて思ってなかったみたい。最期の最期まで、本当に莫迦だった」
 少女の大きな目に不安がゆらめく。その不安は自分がはるか過去に捨てたもの。この少女は自分の捨てたものを持っているらしい。
 ならば、……ことも、出来るのだろうか?
 ふいにそう思う。
 誰にも言えぬ、誰にも許されぬ懺悔であっても、このような幻覚風情にならば、聞かせてもいいか。相手は所詮は幻影、これもただの独り言。何を言おうが誰も聞くまい。乙女は、独り語りに、ゆっくりと語り始める。
「あたしが殺したのはね…… 一本釣って男」
 歌うように、囁くように、独り呟く。許されざる己の罪を。
「信じるべきものを信じていて、まっすぐで、ためらうことのない、莫迦な男。最期まであたしを信じてた。今生であたしを取り戻して、再び手を携えることができると信じていた、とても、おろかな男よ」



 少女は、呆然と、乙女の詠う物語を聞いた。
 それは、長い、長い――― 数千、数万の輪廻を越えた物語。
 はるか過去、今は消え去った世界で出会い、共に楽園への旅路を辿る。その果てに己の命さえ捨て去り、光の中へと消える。生まれ変わった命は少女となり、新たな世界に礎を築き、その果てに更なる彼方への旅路を目指す。最果ての地にて、終には敵としてお互いに出会い、長い時を友として信じあった相手の命を奪うまでの、長い、長い物語。
 少女はかるい目眩を覚え、膝を折った。しゃがみこむ。奇妙な既視感。
 その物語の中には、自分、が存在してはいなかったか?
「あなた…… 一体誰でございますの?」
 震える声で、少女は問いかける。乙女は嗜虐と自虐の笑みのままで、答えた。
『あたしの幻覚だったなら、知ってるはずじゃない』
「違う……」
『まぁ、名乗るのも悪くないかな。あたしの名前は、バンプ・ピーター』
 既視感が強くなる。強い目眩。かすかな吐き気。
 ピーター。
 ……その名は、あるいは、己の名ではなかったか?
 その奇妙な錯覚を打ち消すために、少女は、震える声で名前を名乗った。
「わたくしは、ミネルンバと申します」
『あら、幻覚に名前があるんだ。変なの。それに、どこかで聞いた名前みたい』
「どうして、殺したのでございますか……」
 一本釣、と呼んだ。
 その男を、少女は、知らなかった。
 けれど、知っているような気がした。潮焼けした髪、日焼けした肌、明るい笑顔、そして、まっすぐに何かを信じる強い眼を。
 仮に知らなくとも、乙女の言葉の中で、その男は生き生きと生きていた。闊達で鷹揚で、挫けることを知らない男。最後の最後まで仲間である乙女を信じ、その魂を救おうとした男。
 乙女は笑った。虚ろな笑み。
『だって、敵だったんだもの』
「敵だなんて……!!」
 そんなものは、言い訳にすら、ならない。
「だって、その方はあなたを救おうとされていたんでございましょう!? なぜ、話し合おうとしませんでしたの!」
『話し合えば、何かが解決できた?』
 笑う笑う。虚ろな笑み。何か、決定的なものを、自らの手から失ったものの笑み。
 乙女はそっと手をもたげる。指をわずかに広げる。その隙間から、砂をこぼすように。
『あたしたちはね、二つに、分かたれた』
 落ちる落ちる。見えない砂が落ちていく。銀色に光る定めの砂が。
『それが神の意思だった。あたしたちを駒にして、戦わせることがね。ゲームにはもう慣れてる。思ってみれば、あいつと初めて出会ったときから、あたしたちはずっと誰かの駒だった』
 それでもあたしは恵まれていた、と乙女は虚ろに呟いた。
『この遊戯盤の上にたどり着くまで、ずっと、信じるものを定められていた。初めは楽園を目指せば、次は宝石をつかめば、何か、すばらしい世界が訪れると思わされていた。それがあたしたちを駒に使った神々のゲームだった。あたしたちはていのいい駒に過ぎなかったの。そして、駒には意思なんてないわ』
「そんな……」
『でも、あたしほどには恵まれていなかった子もいたの』
 アリババ、と乙女は呟いた。
『可哀想なアリババ。あんなに一生懸命で…… 忠実なだけだったのに』
 その名も、少女は、知らなかった。
 けれど、なぜだか、胸が掻き毟られるように痛んだ。何か大切なことを忘れている。そんな予感に駆られて胸をきつく押さえる。そんな少女を見下ろして、乙女は訥々と呟く。
『あたしには次のゲームが見える。次に用意された遊戯盤は二枚。でも、そのゲームもいずれは終わるの。一枚の板は最期には粉々に叩き割られて、もう一枚は争いに踊らされる』
「見える、って」
 乙女はかすかに笑った。何故だか、とても哀しそうに。
『あたしには、まぼろしが見えるの。まだ起こっていないことのまぼろしが』
 手を上に向ける。何かを支えるように。そこに見えるのはまぼろしの遊戯盤。その上には無数の天使や悪魔、無数の命たち。それが無造作にかきあつめられ、遊戯盤の上に羅列されて、やがて、整然とゲームを始める。
 駒を動かすのは見えざる神の手。神の定めるのは残酷なルール。いらなくなった駒は速やかに遊戯盤から排除される。お気に入りの駒は繰り返し、繰り返し盤の上に載せられて、ときに手を携えあい、ときに争いあい……
『最期には、こう』
 乙女の手が無造作に裏返されて、少女は、はっと我に帰った。
 すべての駒が地面に落ちて、硝子細工のように砕け散る。それは錯覚。見えざる幻に過ぎない。
『ね? すべてはゲームに過ぎないの。だから、嘆くことなんてない。あたしはもうこのゲームは見捨てたの』
「どういう、こと……」
『あたしたちを敵同士にするなんて、悪趣味な趣向。神様は楽しいかもしれないけれど、もう、うんざりなの。駒には駒の生き方がある。自分の踊る遊戯盤くらい、選ばせて貰うわ』
「……」
 乙女は微笑む。嫣然と、まどろむように。
『あのね、次の遊戯盤の一枚が、あたしにはうっすらと見えたの。あたしたちはまたゲームの中。でも、その盤の上からは、ひとつの駒が排除される』 
 ほっそりとした指先が翻る。
『それはね、アリババなの』
 見えない駒を、優雅に、摘み上げる。
『神はね、アリババの今まで辿ってきた道を、『罪』だと言うの。ていのいい話よね。裏切らせて、傷つけて、勝手に攫ってきて、最期には仲間と争わせて。自分の意思で思うがままに操って、その末に薄汚れてしまった駒はゲームから除外する。ねえ、なんだったの? アリババの…… あたしたちの生きてきた意味って、いったい、なあに?』
 残酷な宣言。その、意味は。
『無意味だったの』
 見えない手が、見えない駒を、そっと抱きしめる。自らの胸に。傷ついた胸に。
『ただのゲーム。無意味な命。無意味な苦痛、無意味な哀しみ。そんなものはもういらない。あたしが欲しいのは、ただ、幸せな未来。遊戯盤の上でなんて、もう、躍りたくない。七人みんなで、幸せに暮らしたい。一人も欠けちゃいけないの。たとえそれがあたしを含めたほかの皆にとって幸福な盤でも…… アリババのいない盤なんて、いらない。あたしはこの遊戯盤でのゲームを終わらせて、みんなでまた笑いあえるかもしれない、もう一枚の盤を選ぶだけ』
 少女は、呆然とした。
 それが真実だとしたら、この乙女の生きている意味とは、一体、なんなのだろう?
 他の何とも比べがたい仲間たちが、二つに分けられて、ひとつの秤に載せられた。答えを出すことを強要された。いや、強要すらされていないのかもしれない。もとより彼女の手には選択権など無い。魔性として生き、己のかつての友を屠る。その比類なき魔力で大地を焼き、この地を滅びへと導く。
 唯一つ選択する余地があるとしたら――― 彼女の言うところの、『次の遊戯盤』を選ぶことだけ。
 けれども、それは……

 少女の手元に、涙が落ちた。

『そんなの…… ただの、誤魔化しでございますわ』
 震える声で少女が呟く。乙女は眼を上げる。そのふっくらとした唇がかみ締められ、蒼い瞳がみるまに潤む。涙は白い頬を伝い、水晶の雫が闇へと落ちる。
 乙女は静かにその様を見つめた。少女はキッと顔を上げた。乙女の顔を睨みつけた。
『そんな莫迦な話なんてございませんわ! その、一本釣さんも、アリババさんも、可哀想でございます!!』
「……」
『なんで貴女は初めからすべてをあきらめているんでございますの? ヒトは駒なんかじゃございませんわ。駒じゃないから苦しむんでしょう。駒じゃないから哀しむんでしょう。貴女だって、貴女に殺された一本釣さんだって、大切なヒトと殺しあって、そんな苦しくって哀しいことってございませんわ!』
 少女は固く手を握り締め、まるで、切り裂かれるように哀しい声で、叫んだ。
『無意味なことなんてございません! ヒトの苦しみにも、哀しみにも、意味がないなんてわけない! 今の貴女は確かに貴女自身なんでございます! 次にまた命があるからって、それは貴女自身じゃなくて別の誰かですわ! 貴女は自分の生を生きることをあきらめているだけじゃございませんか!!』
 涙が、落ちる。
 星のように光り、氷のように透き通った涙が。
 乙女はしずかにそれを見つめる。許されることなら、手を伸ばし、その涙を手に受けたかった。けれど、少女と乙女とは冷たい硝子に隔てられて、触れることすら許されない。
 ―――ああ。
 乙女は硝子に頬を寄せ、静かに眼を閉じる。
 少女はやみくもに硝子をたたきはじめる。硝子を叩き割り、乙女の元へとたどり着こうとする。だが、どのような剣であっても貫くことの出来ぬものが二人の間を隔てていた。おそらく少女も悟っているだろう。乙女がとうに悟っているように。
 それは、『時』。
 二人の間には、既に過ぎてしまった『時』という、絶対の障壁が聳え立っている。
『……! ……っ!!』
 もはや、声は言葉にならなかった。少女は硝子に身を寄せて、涙を流す。背中を震わせて嗚咽する。その肩のやわらかい丸みを乙女は見た。まだ伸びきらぬ手足の瑞々しさを乙女は見た。
 乙女が失ったものが、すべて、そこにあった。
 仲間を愛し、未来を信じ、歩み続ける力、すべてが。
 乙女もまた、そっと硝子に身を寄せる。冷たかった。そのひやりとした冷たい拒絶が、彼女に思い出させる。友を屠ったそのときの、冷たい痛みを。
 何一つとして変わっていなかった、彼。
 帰って来い、と乙女に叫んだ。
 信じていたのだろうか? 帰ることが出来ると。乙女は既に魔性だった。
 それを知ってすら、彼は、躊躇わなかった。
 それどころか笑って言ったのだ。悪魔であっても、お前は、お前だと。
 どんなに変わってしまっても、今のお前を、俺は、受け入れる―――
 ……莫迦だ。
 なんて莫迦な男なんだろう。
「ねえ、ミネルンバ」
 乙女は、そっと硝子に指を沿わせた。
「あたしはね、もう、泣けないの」
 少女は、ハッとしたように顔を上げた。
 乙女の顔には、限りない哀しみがある。哀しみすら燃え尽きて、今は、灰すらも吹き散らされた後の、虚しい微笑みだけがそこにある。微笑むほか無い――― 泣くこともすでに許されないなら、微笑むほか、何が出来るだろう。
 魔性として生きることを強いられ、その定めと向き合ったとき、乙女は、選んでしまった。
 更なる力を得るために、己の魂を炎にささげることを。
 それはひとたび自らの身体を焼き尽くすこと。本来、氷の性に生まれた身体を焼き尽くして、炎は、乙女の身体に一滴の血すら残さなかった。今や身体の中に燃え盛るは魔性の炎のみ。ほんの一滴の涙すら、乙女の身体には残されなかった。
 運命を呪って涙することも、哀し友を悼み涙することも…… 己が罪を懺悔し、信じた人の死を哀しんで泣くことすらも許されないなら、微笑みのほかに何が残されるのか。
「泣きたい、よ」
 声が零れる。涙のように。
 だが、涙は無い。その眼が潤むことすらない。そこにはただ、罪深き哀しみすらも灰に還ってしまったあとの、虚しい微笑みだけがある。
『バンプ・ピーター……』
「あいつはあたしを信じた。あの方を信じてた。思い出を信じてた。そして、未来を信じてた。あたしには何も無い。みんな燃えてしまったの。……最期に残ったあいつの想いまで、燃やし尽くしてしまったの」
 乙女は腕を伸ばす。硝子の中の、少女の虚像を、抱こうとするように。
 けれど、炎の戦乙女の抱擁は、死の抱擁。
 さながら虚空に浮かび燃え盛る星のように、伸ばした腕で抱いたものは等しく灰に還る。そして、彼女の周りを包むのは、すべてが燃え尽きた後の真空の闇だけだ。
「莫迦だ、あいつ」
 ぽつり、呟きが、零れた。
「あたしなんかのために、死ぬなんて」
 涙すら流せぬ、灰の女のために、命を落とすなんて。
 指先が、冷たい硝子をそっとなぞる。少女の涙をなぞろうとするように。
「泣きたい。……ねえ、あたし、一本釣のために、泣きたいの」
 そう言いながら、彼女は、笑った。かすかに、声すら上げて。……己自身を、笑うように。
 


 少女は見た。
 とめどなく涙を流しながら、硝子に両手を当て、間近に見た。
 乙女は肩をかすかに震わせながら、小さく、くすくすと笑い声を立てて、笑っていた。少女は胸につんざくような痛みを感じた。両手を拳に固めて、強く、硝子をたたいた。
「バンプ・ピーター!」
 伝えたかった。泣けないからといって、哀しみまで燃え尽きたわけではないと。
 乙女は十分に悼んでいる。哀しんでいる。己の罪を悔やんでいる。
 だが、彼女は己の生を否定している――― 己自身を駒と定め、その意味すらも完全に否定したならば、何がそこに残るだろう?
 何も残りはしない。神々のゲームの駒という、虚しい定めのほかには。
 けれど、己の今生を意味のあるものと認めたならば、乙女の手に残されるのは、ただ神々の意思のまま、己が最愛の友の一人を屠ったという残酷な真実だ。
 絶望が少女の小さな胸を満たし、涙となって零れ落ちた。ただただ、哀しかった。泣くことすら許さず、嘆くことすら許されぬ、灰の乙女が。
 せめて手を伸ばし、肩を抱き、自らの涙を分けてやりたかった。だがそれすらも適わない。二人を隔てるのは暗い硝子、『過ぎ去った時』という絶対の障壁だ。
 それでも、少女は、歯を食いしばり、硝子をたたいた。あまりの力に拳の骨がきしむ。血が滲む。
「なんで…… なんで割れないんでございますの……!!」
 所詮、少女は、ただの天使。
 『時の障壁』を超えることなど、適うはずも無い。
「このっ……!!」
 少女は、歯を食いしばり、全身の力を拳に集める。
 本来、武器がなければ不可能なこと。己の理力を用いて打撃を増し、この硝子を打ち破る。理力が結集し、手にほのかな光が点る。空気が凍りつき、かすかなきらめきが――― ダイヤモンド・ダストが生じる。
 だが。
 その拳を打ち下ろすことは、適わなかった。
「やめてください、ミネルンバ」
 ふっ、と明かりを消すように、目の前の硝子が、消えた。
「!?」
 誰かの手が、己の手を柔らかくつかんでいる。
 少女は振り返った。そして見た。そこに立つ少年の姿を。
 真っ赤な長い髪にターバンを巻き、マスクで口元を覆った、静かな眼の少年。
 見覚えがあった。出会ったはごく僅かだったはず、けれど、その名は確かに唇から零れた。
「ペガ・アリババ……?」
「迎えに来ました。姫様の願いで」
 気付けば、自分は、いつものような白い衣をまとっている。ブーツとグローブに、被り物。一体何が起こったというのか。少女は呆然とする。
 ハッ、とする。慌てて振り返り、周囲を見回した。だが、硝子は見えない。暗い空間に、彼の乙女の姿を映し出していた窓の姿は、消えうせていた。
「ど、どういうことでございますの!?」
「ここは、次元の狭間です」
 姿は少女とさほどかわらぬ少年――― だが、その眼は年若い少年ならばありえない静けさに満ちている。
「あなたは超聖水の流れに巻き込まれて、次元の狭間に流されたのです。ここは新河系の果て――― 時間と空間が無くなる場所のほど近く」
「……時間と、空間?」
「私にも詳しくは分からないのです。けれど、あなたが何か幻でも見ていたかもしれないと、姫様が」
 彼が姫と呼ぶのはただ一人、異聖メディアの愛娘、オリン姫だ。超聖神と異聖女神の間に生まれたという彼女ならば、なるほど、ただの天使には適わぬほどの異能を持っていても不思議は無い。その眼を持って少女を見つけ出し、己の騎士を救い手として遣わしたのか。
 少年は、手を差し出した。
「さあ、行きましょう。ここは危ない。次元の狭間へ巻き込まれたら、何か、見てはならぬものを見てしまうかもしれません」
「見てはならない……」
 ただ鸚鵡返しに繰り返す少女に、ふっ、と少年の目元が揺らいだ。かすかに笑った? マスクのせいで表情は定かではない。けれど、その手が伸びて、少女の目元から涙をぬぐった。
「泣いていたんですね」
「……」
「忘れるんです。ここで見るものは、すべて、ただの夢まぼろしです」
 そんな、と少女は呟こうとした。
 自分まで忘れてしまったら、誰が彼女のために嘆くのか。
 ―――だが、少女は、ふいに、気付いてしまう。
 『彼女』とは一体誰だったのか、もはや、思い出すことすら出来ない。
「行きましょう」
 カッ、と音がする。蹄の音。そして少女は少年の伸ばした腕に抱きとられる。横様に抱かれても、抵抗も、出来なかった。
 何を見たのか。何故泣いたのか。何故哀しんだのか?
 思い出せない。ほんの僅か前のことであるはずなのに。あれほどまでに、哀しい、と思ったはずなのに。
 少年の背に、翼が羽ばたく。その力が闇を裂く。道が開けていく。天地が生まれ、頭上に潤む太陽が見える。懐かしい、新河系。長い旅路のすえにたどり着いた、平和な故郷。
 涙がこぼれる。いつしか、少女は、少年の胸にしがみついて、しゃくりあげて泣いていた。その腕が優しく少女を抱き返した。

「……俺たちのために、泣いてくれて、ありがとう」 

 ちいさなその呟きすら、まぶしい光の中に、とけて―――