水の中の小さな太陽
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―――その白い砂浜に、波は、かぎりなく打ち寄せた。
なんら変わらぬ光景だ。透き通りすぎて、あまりに深くまでが一望される海。光の届かぬ深遠には星がきらめき、その海の底のなさを知らせるその海に、けれど、今日の彼は奇妙な心のときめきを感じる。
そう、今日こそは、『何か』をつりあげることが出来るんじゃないか? ……そんな予感が、ふと、彼の胸をときめかせた。
そう思えば、もう、止まらなかった。
「太公望鯨帝!」
がばりと起き上がるなり、浜辺で煮炊きをしていた養父に呼びかける。その名の通り鯨に似た風貌、大きな体の養父は、飛び出してきた彼を見て、眼を瞬いた。
「なんぞな、朝から」
「あっし、今から釣りに出てくるぜよ!」
「元気やのう。ほれ、弁当ぜよ」
養父は笑いながら、手にした包みを放り投げてくる。この土地だと、手に入る食材といえば海草か魚くらいしかない。中身はやっぱり魚だろう。けれども、そんな潮臭い生活もまた、彼にとっては性に合ったものではある。
浜辺に築かれたのは流木で作られた粗末な小屋。さらさらとした砂は細かく、そして、雪にも勝るほどの純白だ。足をとられながら走っていく。水面にたどり着く。わずかな泡でしか認識することの出来ない波を踏み越えて、彼の足元に、理力で作られたボードが生まれる。彼のボードは波を切って進んだ。結わえた髪が風になびき、長いマントに、日焼けした肌に、真夏の光がきらめいた。
「気をつけろな、一本釣太公!」
「おう!」
彼は、一本釣太公は笑って答えた。そして、彼のボードは、広い広い海を、まっすぐに走っていく。
自分がどこで生まれたのか知らない。けれども、一本釣太公は、記憶にある限り、養父である太公望鯨帝と暮らしていた。
父はちょっとは名の知られた釣り人だった(その名の通り!)だったから、彼はいつも父に付き従って旅をしていた。そしてここ数ヶ月ばかりはこのエリアにいる――― 今では遥か過去に名の失われた、超聖水のほとりに暮らしている。
広い広い水面はどこまでも続き、水平線は反り返って、どこか遠くでひとつとなっている。このエリアには太陽すらない。天を満たしているのはどこから訪れるのかわからない真夏の光で、夜になれば暗くなった海の底で星がきらめく、それだけだ。
どこまでも広がる潮に満たされただけのこのエリアにも、ところどころには、浮島のようなところがある。
波を切って進んだボードが浮島にたどり着き、一本釣太公はそこに飛び移る。波の打ち寄せる水面に浮かんでいるのは、うち捨てられた星屑のような岩の塊だった。フジツボや貝が表面に張り付いている。お気に入りの釣り場だ。一本釣太公はニヤリと笑うと、さっそく懐から愛用の聖フックを取り出した。
餌などいらない。勝負は魚との戦いだ。このエリアには魚は少ないけれど、ときどき、びっくりするような獲物が引っかかることがある。今日は何がかかるのだろう。それが楽しみだ。一本釣太公はさっそく釣り糸を垂れようとして――― ふと、奇妙なことに気づいた。
石塊の傍らに、ぽつんと、何かが浮かんでいる。
「ん?」
一本釣太公は、竿を置いて、そちらへとにじりよった。
「なんぜよ、これは?」
それは、指先ほどの、ちいさな星。
「……ヒトデ?」
一本釣太公は、しげしげと、それを見つめた。ちいさな、ちいさな星。手のひらに乗るほどの、冷たい、光る星。
それはおそらく氷で出来ていたんだろう。手の中であっという間に溶けて、消えてしまった。けれども見ていると、水面には点々と星が浮かんでいる。一本釣太公は首をかしげた。
澄み切った海の中にも、星の跡は、続いていた。
しばし、一本釣太公は考え込む。結論はすぐに出た。
追いかけよう。
「何かの大物の鱗かもしれんきに」
うん、と一人で頷くと、一本釣太公は水面を見た。どうやら下に星は続いている。澄み切った海の中、まるで惑星のように海草や珊瑚の群生が浮かんでいる。その中のどこかに星の源がありそうだ。一本釣太公は、ためらわずに、海に飛び込んだ。
このエリアの海には、生き物が、とても少ない。
水があまりに清すぎるのだ。超聖水の強い力の残された水は、小魚の類にはあまりに強すぎる。また、海の中で次元が歪み、ときに奇妙なところの海に繋がることもある。だからこそあまりに危険で、住人すらもほとんど無いエリア。けれども、それだからこそ、面白いものに出会うこともできるのだ。
まもなく、一本釣太公は、ちかくに浮かんだ珊瑚の塊に、何かが引っかかっているのを見つけた。
桃色の珊瑚、水色の珊瑚。絡み合った珊瑚の塊に、何かが――― いや、誰かが、引っかかっている?
「!?」
一本釣太公は、慌てて、その誰かに泳ぎ寄った。
それは――― 子どもだった。
周りに小さな透き通った星が浮かんでいた。青い髪。小さな体。濡れたマントが体にまとわりついていた。息はしているだろうか? 慌てて水面に引き上げる。
「おい、しっかりするぜよ!」
抜き手を切って、なんとか近くの足場にまで戻る。引き上げる。顔に張り付く濡れた髪をのけて、慌てて首筋に手を当てた。鼓動。生きている。
一本釣太公は、ほっと息をついた。
その瞬間、子どもが、うっすらと目を開けた。
青い、眼。
「おい、大丈夫か?」
ぺちぺちと頬を叩き、心配げに呼びかける。小さい。まだほんの子どもだ。彼の唇がうっすらと開き、声が漏れた。
「一本……釣……?」
一本釣太公は、耳を疑った。
けれど、彼の唇はもうそれ以上言葉をつむぐことがなく、再び閉ざされてしまった。一本釣太公は慌てる。とにかく、手当てをしなければ。そしてそれは自分に出来る範囲を超えたことだ。
「しっかりせえ! すぐに手当てしてやるけえ!」
ぐったりした小さな身体を抱いて、水面へと飛び降りる。足元に生まれた理力のボードが波を跳ね上げた。ボードはまっしぐらに向かった――― 養父である、太公望鯨帝の場所へと。
夢を、見ていた。
何かとても懐かしい人に出会ったような夢だ。
彼らは7人だった――― あるときは5人だったこともある。離れ離れになることもあった。敵として戦ったことすらもあった。けれど、魂はいつもいっしょだった。尊い、慕わしい人に付き従い、それこそ、世界の果てにまで旅をした。その信頼、その頼もしさ、その胸の張り裂けるほどの懐かしさ。
会いたい。
ただ、今記憶に残されているものは、それだけ――― 会いたい。
もう一度だけでいいから、彼らに、会いたい。
ふいに、眼が、覚めた。
耳をくすぐる、静かな、波音。
「ん……」
眼を薄く開く。夜だろうか。頭上に見えるのは流木を組み合わせた粗末な屋根で、建物には壁すら無かった。東屋、と言ったほうが正しいだろう。軽く身体を動かすと、体の上にかけられていたマントがすべりおちた。
「おお、眼が覚めたやか!」
彼の様子に気づいたのだろう、声がする。ぬっと姿を現したのは、鯨に良く似た風貌の、大きな頭だった。
「え…… あの……」
「おお、おお、落ち着け。まだ体が落ちついとらんがか」
言われながら、手で背中を支えられる。起き上がると軽く眩暈がした。けれども、きちんと無事でいるらしい。けれど、ここはどこだ?
彼は混乱しながら周囲を見回した。
雪のように真っ白い浜――― そして、弧を描いて上天までを覆っている海。
そこが水面である、と知らせるのは、白く騒ぐ波だけだ。それがなければ夜空に見えたろう。漆黒の海は星を透き通らせ、まるで宇宙の中心にこの汀だけが浮かんでいるかのような錯覚をももたらす。知らない土地だ。体から力が抜けた。
近くで焚き火が焚かれていた。その傍で誰か、少年らしい影が立ち上がる。こちらに歩いてきて、心配そうに顔を覗き込む。その瞬間、息が止まるかと思った。
「大丈夫がか?」
精悍な顔立ちの、日焼けした、少年だった。
黒い髪、黒い眼。ウォータークラウンにも似たモチーフの冠が髪を押さえているけれど、長い髪は背中でゆわえているようでもあった。波のモチーフが入ったマントが身体にかけられていたのは、彼のものだったらしい。おそらくは、天使属の少年。
ボクは、彼を、知っている?
けれども、そんな錯覚も一瞬で消えた。いつだって彼の直感はあいまいだった。軽い頭痛。頭を押さえると、彼と鯨の男が、心配そうに顔を覗き込んできた。
「どこぞぶつけたんか。傷はなかったようやが……」
「う、ううん、大丈夫」
自分で言うと頭がはっきりする。彼は、顔を上げた。
「あなたが助けてくれたんですか?」
「いんや、こっちの一本釣太公ぜよ。おんしを拾ってきたんじゃあ」
彼はやや警戒の目立つ顔立ちでこちらをのぞきこんでいた。年のころなら彼よりも上、もう少年と呼べる年頃だ。大柄な体つきをしているからもう幾分か年上に見えないことも無い。
「おんしゃあ…… あっしの知り合いがか?」
「え?」
「一本釣、早まるなあ。まだ落ち着いてもおらんのよ」
鯨の男が、ぽんぽんと背中を叩いてくれる。
「あっしぁ太公望鯨帝、こっちは一本釣太公。ここは『呼ばれざる』エリアじゃ」
「『呼ばれざる』……」
「昔、昔は『曼聖羅』のあった土地よ」
―――今ではもう、遠い伝説の中にしか、残らない土地。
彼はただ、ただ、眼を瞬くしかなかった。
一体何者なのだろう、と一本釣太公は、つくづくと彼を見つめた。
自分よりも年下だろう。小柄だし、ぱっと見の体型ではまだ少女か少年かも分からない。肌は雪のように白く、大きな眼を縁取るまつげが長い。髪も瞳も蒼穹の蒼、身に着けているものは縁取りのあるチュニック、赤い星のついた帽子と、やはりおおぶりなマントという姿だった。
同じ火を囲んですわり、釣った魚を鍋に入れてシチューにする。彼は膝を抱えて座っていた。太公望鯨帝が、いまだ混乱している様子の彼に、やさしく問いかけた。
「おんしゃあ、どこより来たんぜよ。なんていうん?」
「ボクは星幻子…… って言います」
あどけない声よりも、しっかりとした口調だった。
「生まれは、ええと、界極点のあたりで……」
太公望鯨帝と、一本釣太公は、思わず顔を見合わせた。
界極点といえば、方向こそ違え、この『呼ばれざる』ゾーンと同じくらいの辺境だ。いったいそれがどこをどうすれば、こんなところにまでたどり着くのか。それも、見たところ星幻子は、まだほんの子供のように見える。
けれど、と一本釣太公は思った。
なぜだか、彼は、『ただの子供』ではないように思えた。
太公望鯨帝と目配せをしあう。おそらく養父も同じ気持ちだ。どちらかというとがさつな印象の自分よりもいいだろうと先を眼で促すと、太公望鯨帝は、やさしい口調で問いかける。
「ほんで、なんでおんしゃあこんなところまで来たぜよ?」
「ボク、『星』を探して旅をしてるんです」
「『星』?」
思わず一本釣太公は眼を瞬く。星幻子はこくんと頷いた。帽子を脱ぐ。そこには、小さな赤い星が宿っていた。宝石でもかざるような具合、彼のちいさな手のひらの中にも納まってしまうような
、小さな星だった。
……見覚えが、ある?
一本釣太公は眉を寄せる。けれども、養子のそんな様子にも気づかないようで、その帽子を手渡された太公望鯨帝は、「ふうむ」と首をかしげた。
「なんぞね、これは」
―――何か、強い力が篭っているということは、分かった。
けれどもそれは『星』自身の力ではないように思える。それは何か、抜け殻のようなもの…… あるいは、何かのなごりのようなものだった。
「それ、『幻赤星』っていうんです」
星幻子は、とつとつと言った。
「ボクが生まれたときから、持ってたものなんだそうです」
「うん? おんしゃ、おとんとおかんはどうした?」
「いません」
「?」
ボクは、界極点の氷の中から生まれたんです、と星幻子は言った。
「どこから来たのかとか、そういうことはまったく分からなくて…… その『幻赤星』だけがボクの生まれをさぐる便りなんです。それで、その星は世界で唯一のものじゃないらしいって、オーロラが……」
オーロラ、というのはおそらく彼の育て主だろう。星幻子は一瞬表情を曇らせる。自分の意思に従って故郷を離れたのではないのだろうか。一本釣太公と太公望鯨帝は目を見合わせた。
「七つあるはずなんです」
なぜか、そこだけはっきりと、星幻子は言った。
「ほかに、どこかに6人、ボクと同じ星を持っている人がいるはずなんです。その人たちがボクの仲間なんだ。ボクは彼らに会いたい。だから、ずっと旅を続けているんです」
太公望鯨帝が作ったシチューを飲むと、星幻子は早々眠りに付いてしまった。表情だけを見ればあどけない子どもだ。残されて火を囲んだ父子は、寡黙に、銀河のように広がる海原を、眺めていた。
「……なんぞ、おんしに似とるのう、あの子」
「なんぞ言うね」
ぽつんと呟く太公望鯨帝に、一本釣太公は顔をしかめた。
「おんしも親はいなかろうがか」
太公望鯨帝が、滅多に口にしないことを言う。けれどもそれは自分でも思っていたことだ。一本釣太公は黙るしかない。
―――あの星幻子と同じように、自分にも、親は、いない。
大魚を求めて各地をさまよっていた太公望鯨帝が、あるとき、浜辺の大きな貝の中から拾った子どもが、自分だ。当時まだ赤子だった自分は何も覚えていない。ただ生まれたときから、この聖フックだけは持っていたと、なかば無意識に傍らに置いた竿に手を置く。
この世界――― 幻次界では、たいていの天使や悪魔は、普通に両親から生まれてくる。
はるか過去、幻次界が『次界』と呼ばれる大きな世界で、もうひとつの世界と一つだったころ、さらにその昔の英雄と神々の時代には、天使や悪魔が自然から生まれ出てくることも珍しくはなかったと聞く。今でも植物系、機械系の天使悪魔などは樹に生ったり工場で生産されたりして生まれてくる。けれども自分のように明らかに『人間型』をした天使が、何も無い場所から単に発生してくるというのは、ほとんど見られることの無くなった現象だった。
手に持っていた聖フックと、養父の名にちなんで『一本釣太公』を名乗っている彼だったが、本当のところは名前すら分からない。海の中から生まれたというのなら、彼の親は水棲の何者かなのか。だが、泳ぎは得意だが、一本釣太公は水棲の天使ではない。彼の生まれは何もかも分からないことだらけだ。
「おい、おんし、あの星幻子に協力してやらんじゃか?」
「なんであっしが?」
太公望鯨帝は、大きな口で、にやりと笑った。
「ここにはこんなに星があるだろうじゃか」
太公望鯨帝は手を広げる。たしかに周囲にはどこまでも海原が広がっている――― 水平線すらなく、天頂にいたるまで、海面に覆われた世界。
「おんしの聖フックなら、星のひとつやふたつ、吊り上げるんは造作ないぜよ」
「簡単に言いよう……」
一本釣太公は、顔をしかめた。
「あっしは魚さえつれりゃあそれでええんぜよ」
「なら、星もつれようが。それとも釣れる自信がないんか?」
「そんなことないぜよ!」
思わず言い返すと、にやり、と太公望鯨帝は笑った。
「ならば、釣ってやればええ」
「……」
ハメられた、と思ってももう遅い。一本釣太公はギリギリと歯噛みした。
「この海には普通の魚はおらんきに、星でも釣る言うのは面白かろうが。釣れ釣れ、釣ってやれ。目標が出来てええぜよ」
太公望鯨帝はのんきな口調で言う。一本釣太公はため息をつき、ガリガリと頭を掻きながら、複雑な気持ちで背後を見た。
星幻子は静かに眠っている――― その無邪気な寝顔を見て、どう思えばいいのか分からず、一本釣太公はただ困惑した。
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