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 自分はただ、好きなところをぶらぶらと旅暮らして、魚を釣れればそれでいい――― そんな風に、なんとなく、思っていた。
 今、幻次界はとても平和だ。『幻』の名をその頭に冠した世界は、決して広くは無い。けれども遥か過去の英雄の血をひく幻次界王に代々治められ、歴史に残る限り、戦争らしい戦争などが起こったこともほとんど無い。
 悪魔、天使、それに聖守や魔守などといった種族たちは、自然、それぞれの種族に偏った場所に暮らしているけれど、だからといって仲が悪いということは決して無かった。遥か過去、二人の超聖神の和解によって生まれたこの世界は、自然災害で二つに引き裂かれてなお、まどろみの平和の中に暮らしている。決して広くは無く、豊饒でもない世界だからこそ、天使も悪魔も力をあわせていかなければ生きていけないということもあるのかもしれない。ときに罪人が現れることがあり、ちょっとした小競り合い、それに自然災害が起こることがあっても、神の子孫に治められたこの地には、大きな戦の炎が起こることも無い。そして、その平和は、ほとんど、何千年という単位で続いているものだった。
 翌日、朝早くから一本釣太公は星幻子を連れて、海に出た。
 昼になればここは明るい。真夏の光がどこからともなくさしこみ、無限にすきとおった海を照らし出す。蒼、碧、そして青。どこまでも透明度の高い海の彼方には、ときおり、他のエリアらしきものの姿も垣間見えた。
 一本釣太公の理力のボードに一緒にのせられた星幻子は、不思議そうに海の中を見下ろしている。一本釣太公は問いかける。
「おんし、なんでここに来たんぜよ?」
 幻次界の中でも究極の辺境、天使も悪魔もほとんど住まないこの土地などに来るのは自分たちのような物好きだけだろうと思っていた。というよりも、そもそも太公望鯨帝の力を使ってエリアを移動しなければ、こんなところにも来られないだろう。それを聞かれた星幻子は、にっ、と笑った。
「ボク、エリアの移動は得意だからね」
「……ふん?」
「虹が使えるんだ。虹に乗れば、どこにでもいける。一人でも旅が出来る。まぁ、ここにきて、力を使い果たして水に落ちちゃったのはちょっと誤算だったけど」
「答えになっとらんじゃか。なんでわざわざ『呼ばれざる』エリアなんぞに来よったんかときいとるんぜよ」
「……」
 星幻子は、少し黙った。
 色の白い、女の子のような顔立ちだ。黙っていれば少女に見える。それ以前にまだ『子ども』という年頃だけれど、と一本釣太公は短いその間に思う。やがて星幻子が口を開いた。
「『曼聖羅』のあった土地に行けば、何かのヒントが見つかるかと思ったんだ」
「……」
 『曼聖羅』。
 それは、幻次界の中でも、特別な意味を持つ名だ。
 はるか過去、そこは次界を脅かす、異聖によって治められる地だった。けれども初代の次界王がこの新河系を創造したときに、その地もまた、この次界の一部となった。
 ―――けれど、いつか超聖神がこの地を去ってから、その地は、ゆるやかに滅びていった。
 初めから滅びを定められた、はかない世界だったという。豊かな水は『曼聖羅』を流れ出して次界を潤し、『曼聖羅』に暮らしていたものたちは幻次界の各地の住人となり、いつしか静かに溶け込んで、その地は争いを引き起こすことも無く静かに朽ち果てた。後はかつて蓮の花にも似た美しい世界があったという、ただ、清すぎて何者も暮らせぬ水の残された地が残った。  
 この地は広大だ。そして、清い。けれどもその清さは、滅び去った廃墟に残される、白く洗われた骨の白さだ。実際、聖守としてある程度の力を持った太公望鯨帝の力がなければ、一本釣太公ですら、この地に暮らすことは出来ないだろう。事実、他のエリアから呼び出した水に釣り糸をたらさなければ、ほとんど獲物も獲られないのだから。
 曼聖羅ルーツを持つという天使、悪魔は今では次界の各地に暮らしている。交じり合ってそのルーツすら忘れたものも多いだろう。けれども、彼らにとってここは、郷愁を誘うゆえに近づくことの出来ない禁忌の地だ。そうでなくとも、由来の分からない奇妙な現象が多発する危険地域でもある。
「おんしゃ…… 無謀じゃのう」
「そう?」
 星幻子は、可愛らしく小首を傾げて見せた。
「別に何が起こっても平気だと思ったから来たんだし…… それに」
「それに?」
 ふっ、と蒼い眼が翳った。
「……そうでもしないと、ボクのルーツは分からないとおもったから」
「……」
 ルーツ、という。
「ボク、星幻子って言うでしょう。その名の通り、こんなことができる」
 小さな手を上に向けて、すっとかざす。指先に何かがゆらめき、一本釣太公は眼をまたたく。何かが現れた。それは幻影だった。
 凍りついた、大地。
 天にはオーロラがゆらめき、氷河に覆われた大地には生き物らしき気配も無い。吹きすさぶのはただ吹雪。暗黒と氷雪に覆われた、それは、限りなく死に近い世界だった。
「ここがボクの故郷。界極点」
 幻影はあらわれたときと同じようにはかなく消えた。ふっ、と星幻子が笑った。奇妙に大人びた笑みだった。
「昔はこれがちゃんと制御できなかったんだ。だから、普通に歩き回ってるだけで変なまぼろしが自分の周りを飛び回って大変だった。でもね、そんなときには、何か、不思議なものがみえることもあったんだよ」
「不思議なもの?」
「知らない人や、知らない景色。……ボクが知ってるはずの無いもの」
 オーロラがいろいろ文献を調べてくれたよ、と星幻子はつぶやいた。
「そしたら分かったんだ。その人たちが、大昔の伝説に出てくる英雄とか、あるいは、今ではもうなくなってしまった世界の光景だったりした、ってことが。そして、ボクは自分の記憶に無いものの幻は、作れない」
 どういうことだ? 一本釣太公は眉を寄せる。星幻子はふっと笑った。
「つまり、ボクのこの頭の中には、ボクの知らない『因子の記憶』(ルーツメモリー)が眠ってる、ってことさ」
「『因子の記憶』……」
「そしたら、不安にならないかい? 自分がどこの誰かも分からなくて、なのに、勝手に哀しくなったり、寂しくなったり、懐かしくて死にそうになったりする。とっても耐えられないよ。だからボクは旅に出たのさ。自分の『ルーツ』を見つける旅にね」
「まるでおとぎ話ぜよ」
 はるか過去の英雄譚などでは聞く話がある。現在でもわずかに残っている。『因子』を受け継ぐ存在。それは、神に作られ、定めを与えられて生まれてくる存在だ。
 たとえば幻次界王などは代々聖魔の因子と曼聖羅の因子を受け継ぐという。それは現在では薄れ、表出することも少ないというが、それでも、それは幻次界王に強大な力を与えている。なればこそ、この広大な幻次界を幾多の危機から守り抜いてこれたのだ。けれどもそれは一般の天使や悪魔、あるいはお守りなどには縁の無い話。自分が何者かの因子を受け継ぐ存在だなどと、考えるだけでもおこがましい話ですらある。
「でも、証拠にボクにはこの『幻赤星』がある」
 星幻子は、自分の帽子を示した。真っ赤に輝く小さな星。
 一本釣太公は、黙って、じっとその星を見つめた。
「……おんしゃ……」
「うん?」
 首をかしげる星幻子に、一本釣太公は問いかけた。
「あっしを知っとったんか?」
「え?」
 彼を助けたとき、確かに星幻子は、『一本釣』と彼を呼んだ。
 けれども一本釣太公には、星幻子を見た記憶など無かった。無いはずだ、と記憶を反芻する。
 ―――けれど、見たことがあるような気がするのは、何故?
「あと…… おんし、ほんまに男がか?」
 それを言われた瞬間、みるみるうちに、星幻子の顔色が変わった。
「……ナニソレ!?」
 真っ赤になり、一本釣太公を突き飛ばす。あやうくボードから落ちそうになり、一本釣太公は慌てた。
「なにするぜよ!」
「こっちのセリフだよ、なんでボクが女なのさ!?」
「それは……」
 一本釣太公は、口ごもった。ちらりと彼の額の星を見る。赤い『幻赤星』を。
 赤――― 虹の最後の一色。炎の色。燃え盛る炎。滅びの色。
 見たことがあるような気がする、と思った。
 赤を纏った、戦乙女。炎と滅びの妖女を。
 けれども、実際のところ、極寒の界極点から来たという星幻子には炎など縁の無いものだろうし、事実、彼の纏う理力から感じられるのは『氷』の力だ。一本釣太公はぶるぶると首を横に振った。変なことは考えないほうがいい。どうにもこの星幻子という変な子どもにつられてしまっているらしい。
「まあ、そういうわけやったら、曼聖羅の廃墟に行ってみるかが?」
「え?」
 気を取り直した一本釣太公が言うと、星幻子は、眼を瞬いた。一本釣太公は下を示す。澄み切った水の底を。
「こんそこに沈んどる。行こうと思うたらいけんこともないぜよ。……ただ……」
 そこで口ごもると、星幻子は、軽く眼を瞬いた。
「ただ?」
「……」
 あまり、行きたくない。
 そう口にするのもはばかられるが、態度でそれを読まれたのは、明らかだった。
「危ないんじゃ。超聖水の力が残っとるし、どんな化け物がおるかもわからん」
「でも、今は曼聖羅は幻次界王様の支配下にあるはずでしょう? 化け物なんているはずないじゃないか」
 理論的にはその通りだ。けれども。
「……幻影が……」
 一本釣太公は口ごもる。星幻子は眼を瞬く。
 ―――何度か、足を運んだことが、あった。
 けれど、一本釣太公は、そのたびに恐ろしい幻影に襲われた。凶悪な悪魔に殺意をむき出しで襲い掛かられ、己の魂すら奪われそうになり、事実、自分自身が変容しかねないという恐怖すら感じたことがある。それは自分の中から何かを引きずり出される、自分ですら知らない何かを引き出されるという恐怖だった。
 自分はただの天使だ。生まれは知れないし、事実、何か奇妙な理力を持ち合わせてはいるものの、それ以上の存在になどなりたいと思ったことは無い。養父と好きな釣りをしながら世間をぶらぶらと渡っていければそれでいい。できるかぎり平和に生きたいだけだ。そして、それはこの幻次界では、ほとんどの天使や悪魔にとって、たやすくかなえることの出来る夢だ。
 けれども、そんな複雑な思いなど、この星幻子には、通じなかったらしい。
「それだよ! そこ、何かあるのかも!」
 ためらう一本釣太公にかまわずに、眼を輝かせる。
「異聖の力が残ってるんだったら、何か面白いものがあるかもしれない! ねえ、そこ、行こう!」
「……うーん」
「幻影だったらボクが壊せるよ! ねえねえ、行こう行こう!!」
 一本釣太公の服を掴んで、駄々っ子のようにねだる。一本釣太公は渋い顔になる。怖いから行きたくないとは体面があって言えない。けれども、事実、その通りなのだから仕方ない。
「いやぜよ」
 そうきっぱりと答えると。
「……うう」
 とたんに、星幻子の声のトーンが、変わった。
 ひっく、としゃくりあげる。一本釣太公はぎょっとする。慌てて見下ろすと、星幻子が、眼にいっぱい涙をためていた。
「行きたい! 行きたい行きたい行きたい!! ねえ行きたい―――!!!」
 泣きながら地団太を踏み、駄々をこねる。まるで子どもだ。いや、事実子どもなのだが。
 可愛らしい顔をゆがめて、ぼろぼろ涙をこぼしながら、ぐいぐいと一本釣太公の服を引っ張る。下手すればそのままボードから落ちかねない。一本釣太公は慌てる。
「こら泣くな! 男じゃろうが!」
「だって行きたい〜」
 混乱した頭の中で思う。……こいつ、こんなに泣き虫だったか?
 いや、『だった』もへったくれもない。昨日会ったばっかりだ。けれど、なぜだか他人の気がしないのもまた事実。困惑しきった一本釣太公は、しゃがみこんで星幻子と視線の高さをあわせる。
「なあ、星幻子……」
「うう……」
 ひっく、ひっく、としゃくりあげる。女性だったら母性本能を直撃されそうな泣き顔だったが、あいにく一本釣太公は男だった。けれどもとりあえず頭を撫でてみる。やわらかい蒼い髪。
「そんなに自分のルーツが知りたいかが?」
「知りたい……」
 ぼろぼろ流した涙が、地面に落ちると、小さな光の粒になってはじける。
 それは、小さな透き通った星に変わり、水の上にゆらゆらとゆれた。昨日見かけた星はこれだったのか、と得心が行く。同時に思う。では昨日も星幻子は泣いていたのだろうか? ……何を思って?
「なんでそんなに自分のルーツが知りたいんぜよ?」
 問いかける一本釣太公の服を掴んだまま、星幻子は、うつむいた。
「……会いたいんだ」
 一本釣太公は、声を失った。
「会いたいんだ。みんなに。会うだけでいい。せっかくこんなに平和な世界が訪れたんだ。きっとボクたちの記憶が残るのもこれが最期だ。もうすぐ全部忘れちゃう。そのまえに……」

 ……もう一度でいいから、会いたい。

 その言葉が、胸のどこかに、小さな痛みを走らせた。
 ―――自分も知らないだろうか? その痛みを。
 それが誰かも忘れてしまった誰かへの、かぎりない思慕。郷愁。忘却の痛み。
 それは自分ではない、と分かっている。自分ではない誰かの記憶だ。けれども、自分たちは確かに一緒だった。永遠に一緒にいようと誓った。けれども誓いは儚く散り、彼らはその因子の果てすら、散り散りに成り果てた。
 今、このまどろみの幻次界で、自らの『記憶』が目覚めたことは、ただの『偶然』にすぎないのだろう。奇跡ですらない。奇跡は神が望んで起こすものだ。けれども、もはや神の眼の先を離れたところにいる自分たちに、億に一つ、兆に一つの『偶然』という、二度とない機会が与えられたという、事実。
 手が、自然に動いた。ぽん、と星幻子の頭に乗った。たくましい漁師の手が。声が自然とこぼれた。
「泣くな、ピーター」
「……え?」
 星幻子が、驚いたように眼を上げた。
「なんで、ボクの名前を知ってるの?」
 はっ、と我に返り、驚いたのは一本釣太公のほうだった。
 自分は今、なんと言った? なんと呼んだ? この子どもは、自分のことを『星幻子』としか名乗っていない。なのに?
 蒼い眼が、しげしげと一本釣太公の眼を覗き込む。奇妙な共感を感じた。この感触はなんだろう、と思う。
「ボクの本当の名前は…… 『星幻子ピーター』」
 一本釣太公は、息を飲んだ。星幻子…… 星幻子ピーターは、ひたと一本釣太公の眼を見据える。
「ねえ、キミは、ボクを知っているんじゃないの?」
「なんで……」
 そのとき、星幻子ピーターの額の『幻赤星』が、赤く、光った。
「……あ」
 一条の光がきらめき、光の線となって水の底を指す。二人は瞠目した。そこに、朽ち果てたはなびらのような、巨大な建造物が沈んでいる。
「な、なんで、こんな……」
 ―――『呼ばれざる』エリアに来てから、数ヶ月。こんなものは、見たことがない。
 うろたえる一本釣太公に引き換え、星幻子ピーターは、ひどく冷静だった。自分のものより大分大きい一本釣太公の手を、ぎゅっと握り締める。
「行こう、一本釣」
 彼は、きっぱりと、言った。
「あそこに――― 記憶が、待ってる」
 真紅の光は、まっすぐに、水の底を指していた。澄み切った、深い、深い、海の果てを。




 一本釣太公の理力で、二人は、深く、水に潜った。
 星幻子ピーターの力では水にはもぐれない。必然、自分も共に行くしかない。けれども気持ちの中では恐怖のほうが勝っていた。自分は何を暴こうとしているのだ? 自分は、ただの平凡な天使ではなかったとでも言うのだろうか?
 澄み切った水は、魚すら寄せ付けない。あたりには魚影の一つも見つからなかった。水中に、崩れかけた蓮のうてなが残っていた。それにフジツボや海草が付着することすらもなく、純白の大理石で築かれた蓮のうてなは、まるで、昨日崩れたばかりであるかのような生々しい姿を残している。
 ―――異聖メディアの世には、この曼聖羅は、ひっそりと咲く蓮の花のように清らかで、美しい世界だったという。
 けれども、周囲にはもはや、曼聖羅の超聖水の名残すら感じられない。あたりを満たしているのは、何か、もっと違う世界の『水』の気配だった。純粋な『水』のエレメントの力。そんなものが何故この幻次界の存在するのか。不安はもはや恐怖にまで高まる。
 けれども、握り締めた小さく柔らかい手が、その恐怖を治めてくれる。
 傍らを見ると、星幻子ピーターが真剣なまなざしで前を見詰めていた。赤い光条は真っ直ぐに白い蓮を差している。やがて、二人は蓮のうてなへとたどり着く。
 近くで見れば、それは、『うてな』というにはあまりに巨大な建造物だった。
 一枚の花片しか残ってはいない。けれども、それ一つだけで、ちいさなエリアだったら建造できそうなほどの巨大さだ。そして誰もいない。どことなく異国的な意匠の建造物が、ひっそりと静まり返っている。
 廻廊で繋がれたいくつもの建物。東屋やテラス。破風や手すり。けれども、蒼を基調とした優美な色彩はほとんど褪せ剥がれて、残っているのは音一つない沈黙だけだった。
 思わず手に力が篭る。けれども、同じくらいの力がそれに答えてくれた。振り返ると、星幻子ピーターがにっこりと笑っていた。あどけない笑顔。なぜだか不安が軽くなった。
 光は二人を、廻廊の底へと導く。
 やがて道は螺旋階段へと変わっていった。水の中だから階段を下っていく必要はない。どこまでも続く螺旋をゆっくりと沈み降りていく。真珠のような泡が身体にまとわりつき、ときおり、上へと昇っていった。光はもはや、星幻子ピーターの額の『幻赤星』のものしか存在しない。
 けれど。
 ふいに、もう一色の光が、それに加わった。
 青。
 清らかな水の色そのものである、あざやかな、青。
『―――!?』
 深淵の底にきらめく、あざやかな色彩。
 それは水。それは流れるもの。それは満たすもの。それは押し流すもの。それは包むもの。
 この世界を満たし、潤す、大いなる力――― 水。
 その瞬間、一本釣太公の頭の中に、すさまじい勢いで、イメージの奔流が流れ込んだ。
 
 水。
 それは、異なる力。
 この世界を追放されし神の力。『異聖』の水。
 満ちよ、溢れよ、天地を浸せ。
 清らなる水の力よ、この世界に溢れよ。
 聖をも、魔をも呑みこみ、闇も光もすべてを押し流せ。
 そして、後に残るのは、未生の死にも似た、永遠の沈黙―――

『違う!!』
 その瞬間、声ではない声が、意識を、貫いた。
 それは赤。それは氷。それは炎。
 水を滅するもの。水を封じるもの。水に反するもの。
『呑まれちゃダメだ、一本釣! それはキミの『水』じゃない!!』
 自分の、水?
 そのとき、彼は、ふいに、意識した。
 自分は――― そう、自分は、海に、生まれた。
 生命に満ちた海。生み出す海。それこそが彼の命。彼の源。
 雨となって地を潤し、川となって大地を流れ、海となって打ち寄せる。許しの水。癒しの水。それこそが自分に与えられた『源』―――『因子』。

 『青』にして、『界』。

 それが彼の――― 『界』のルーツの、真実。
 彼は、一本釣太公は、眼を開いた。
 いつしか、彼らは、暗闇の底にいた。
 足元には平たい水盤がある。水はすでに溢れ出し、そこを満たしているため、水盤そのものを満たす水は無い。蓮をかたどった水盤の上に、何か、小さなものが光っていた。
 それは、青く光る、小さな星だった。
 青い光。その温かい光。懐かしかった。涙がこぼれるほどに。……あふれ出した涙は、あたりの水とは相容れず、真珠のような粒となって、ゆっくりと上へと昇って行く。
 あの光がほしい、と思った。
 けれど、同時に、恐怖もあった。
 ぎゅっと手が握り締められる。温かい。傍らを見ると、それは星幻子ピーターだった。 
 頭の中に声が響いた。
『キミが、ボクの仲間の一人だったんだね』
 静かな声だった。少年の高い声ではなかった。けれども、それが彼自身の声であることは分かった。少年の声のようでも、青年の声であるようにも――― また、少女や、乙女の声でもあるように感じられる。
『あの星こそが、キミの『因子』の欠片。遥か昔、こぼれおちて、次元の狭間を漂っていたボクたちの記憶の破片』
 今だったなら、思い出せた。
 自分は、今まで、何度も螺旋の輪廻を潜り抜けてきたのだと。
 戦いの中で果てたこともあった。風の中で光となって砕け散ったこともあった。仲間同士で刃を交えたことすらもあった。それは戦禍の中の記憶。戦うために作られたというさだめの記憶に他ならない。
 はるか時を経て、今、ここにいる自分とは、すでに、遠くはなれた記憶。
 自分は――― 『一本釣太公』としての自分は、このままならば、おそらく生涯『ルーツ』に目覚めることはあるまい。
 戦うことのない生。平和に満ちた生涯。望み続け、得ることが出来なかったもの。それが何故、再び苦く辛い定めを呼び覚ますのか。
 傍らを見た。星幻子ピーターは、静かな眼で一本釣太公を見ていた。
 その眼が語っていた。選ぶことは出来る、と。
 己の『界』の因子を呼び覚ますことなく、平凡な天使として、生涯を終えることも選べると。
 けれど。
『ピーター』
 一本釣太公――― 一本釣は、ただ、彼の名を呼んだ。
『お前と再会できて、嬉しい』
 ピーターの顔が瞬間驚きに満ち、そして、涙と笑みに歪んだ。
 一本釣は選んだ。
 すべての『記憶』を、引き受ける道を。
 


 手を伸ばす。
 青い光…… 『界青星』に、そっと触れる。
 その瞬間、青い光が、暗闇を引き裂いた。




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