……ふと、肌寒さを覚えて目を覚ます。
 体をぶるりと震わせ、ひじを突いて体を起こすと、そこは見知らぬ天井の下だ。檜を張った天井、欄間に彫られた虎の姿。
 なんだここは。
 どうして、こんなところにいる。
 頭がぼんやりとかすんでいるのは、おそらくは酒を呑みすぎたせいだろう。立ち上がろうとすると体がよろける。「Shit」と政宗は忌々しげに吐き捨てた。
 ようやく思い出した。ここは武田の屋敷だ。轡を並べた戦での勝利を祝い、酒宴の席が設えられたのは昨日の夕暮れあたり。ひざを立てて座ったまま外を見ると、真円の月がすでに、中天をはるかに通り過ぎている。
 そこかしこに銚子や徳利が転がり、酔いつぶれた男たちがあちこちに転がっている。無防備にも程があるだろ。政宗は思わずあきれ返るが、自分だってさっきまではたたみの上で酔いつぶれていたのだ。人のことを言える筋合いではない。
 人の声が聞こえない。かすかに遠く、誰かが琵琶を引く音が聞こえてくるばかり。庭に鳴く虫の声のほうがずっと強く耳に響く。
 頭が痛い。どうやら、少々酒が過ぎてしまったようだ。政宗は眉間にきつく皺を寄せ、こめかみを押さえて立ち上がった。
 いくらなんでも、朝までここで酔いつぶれているわけにもいかない。小十郎にまたうるさいことを言われてしまう。水が、呑みたかった。喉がひどく渇いている。
 下女でも捕まえて、水を持ってこさせよう。
 そう思って政宗は、乱れた衣の襟をかき寄せ、立ち上がった。

 今は秋。
 夜の空気は冷たい。
 満月のおかげで道には困らなかった。板張りの廊下は冷え切って、その感覚がほてった素足に心地よい。誰かいないか、と声をかけるよりも先に、板張りの廊下に人影を見つける。「おい……」と声をかけかけて、政宗は目をまたたいた。座ったままでこくりこくりと居眠りをしている青年がひとり。見覚えのある顔だ。
「真田?」
「ん……う?」
 寝ぼけたような声をあげ、こぶしで目をこすり、顔を上げる。栗色の髪、ひとみ。見慣れた容貌だ。真田幸村。
「……政宗殿? 斯様な場所に、何のようでござるろうか」
「それはこっちの台詞だ。お前、なんで廊下で寝てるんだよ」
 蘇芳の小袖に納戸色の袴を合わせ、髪を臙脂色の紐で結わえたその姿。幸村は政宗を見て、困ったような顔をする。
「無礼な行いとは思うたのですが、某、さほど酒に強い方でもなく…… お館様と政宗殿が楽しそうに酒を酌み交わしてございましたので、このように、邪魔にならぬよう、離れた場所でまっていたのでござります」
 酒を酌み交わした? ……いわれてみれば、そんなこともしていたような。
 思い出すと、また頭が痛くなる。政宗はずるずるとその場に座り込む。頭を抑え、「Kick ass……」と悪態をつく政宗に、幸村はあわてたように立ち上がった。
「政宗殿、顔色が悪うございますぞ。何事かございましたのか」
「あぁ、違う。単に呑みすぎただけだ。……畜生あのオッサン、何が自分は年寄りだよ。完全なうわばみじゃねぇか」
 ようやく思い出してくる。酒宴でどうして自分がここまでの深酒をする羽目になったのか。ひとえに全ては信玄のせい、引いてをいうなら負けず嫌いの自分のせいだ。お互いに相手の杯が空になったら負けだと途中からムキになり、どれだけの時間、お互いに杯をかけて張り合っていたのだか。
 ぶつぶつと文句を言う政宗を見て、幸村はしばらくきょとんとした顔をしていた。けれどやがて、くすっ、と可笑しそうに小さな笑みを漏らす。「なんだよ」と政宗は低い声を出す。
「いや、他意はござらぬ。お館様と酒を召された方は、たいていは政宗殿と同じ憂き目にあいます故」
「……マジか、それ」
「何でも噂に聞く限りでは、お館様と対等に酒を呑めるのは、上杉謙信公ただお一人ばかりだったとか」
 政宗はうめいた。幸村はくすくすと笑みを漏らす。と、立ち上がり、庭へと降りる。何をしているのかとぼんやりと見ていると、ちかくに設えられた手水鉢から、柄杓に水をすくってきた。
「甲斐の水は旨うござる。某、酒はあいにく口にできませぬが、これならば一献ほど差し上げることもできまする」
「……Thanks.」
 いわれたとおり、柄杓に汲まれた水は、全身に染み入るほどに冷たく、澄み切った味がした。一瞬で水を飲み干す政宗を見て、幸村は何度も庭と縁側を往復し、冷たい水を運んでくれた。何杯も飲み干してようやく落ち着き、「これでいい」と幸村を制止する。
 幸村は座り込んだ政宗のとなりに腰を下ろす。月が明るかった。何もかもがくっきりと照らし出され、虫が鳴く以外には何も聞こえない。
「静かだな」
「然様でござるな」
「……久しぶりだぜ。こういう月は」
 月。
 欠けることのない、真円の月。
「月など、月に一度は満ちるものだと思うてござったが」
「世間じゃそうだろうな。だが、こういうものをのんびりと見てるっていうのは、どうにも俺の性分にあわねえ」
「……実は、某もでござる」
「まぁ、そうだろうな……」
 幸村の隣を見ると、朱塗りの高器がひとつ、ふたつと置かれている。おそらく干菓子の類でも積んであったのだろう。親とも師匠とも慕う信玄公を政宗に取られ、ひとりで拗ねながらここで菓子をかじっていたのか。そんな幸村を想像すると思わず吹き出してしまう。幸村はきょとんとした顔で政宗を見た。
「月しか相手がいなかったのか。寂しいやつだな、お前は」
「さ、寂しくなどござらぬ! ただ某は、お館様と政宗殿の親睦を邪魔するのは、あまりに無粋と思ったまでで……」
「いや、寂しいだろそれ」
 うー、だの、あー、だのとうめきながら、幸村は下を向いてしまう。耳が赤い。まったく、子どもだ。政宗は思わず頬が笑みにゆるむのを感じた。
 幸村からは、太陽の匂いがする。
 太陽の下で生きていた命の、朝露のような、夏の青草のような、強く、生気に満ちた匂いがする。肌は日に焼け、四肢は逞しく引き締まっている。伸び放題の栗色の髪は日にさらされて金色に褪せ、月影を受けて不思議な色合いに照り映えていた。
 己とは対極のような男だ、と政宗は思った。
 誰からも愛され、人の世の闇も知らず、屈託がなく無垢なままで、己の慕うものたちのためだけに生きている。
 病に侵されて醜くなり、泥を啜り、闇に惹かれ、己の身を一振りの刀と鍛え上げてきた己という人間。この身の奥に今もどろどろと淀む暗い心のことなど、幸村にはとうてい理解できぬのだろうなと政宗は思った。それでいい、と不思議と素直に政宗は思う。それでいい。幸村には真昼の光と木々をわたる風が似合う。戦場に吹く生臭い風と鋼の刃しか愛せぬ己と、これほどまでに違う生き様を持った人間がいるということ。それが不思議と心を安らげる。奇妙な関係だと自分でも思えた。
 だから。
「幸村」
 少しだけ、こんな悪戯を、仕掛けてみたくもなる。
「何用?」
「お前、こういうもの、見たことあるか」
 政宗は、藍染の袖を、ゆっくりと捲り上げた。
 とたん、幸村が息を呑む。月光のしらじらとした光に照らされた腕。
 そのそこかしこに、むごたらしい傷跡が、痘痕が、べた一面に広がっている。
「政宗殿…… これは」
「あぁ。痘痕はまぁ、見りゃわかるだろ。右目をつぶした時の疱瘡で残った痕だ。残りはまぁ、色々だな」
 政宗の腕は剣客らしく鍛えぬかれている。肘から手首にかけてのライン、その奇跡のような均整。長い指は繊細でうつくしく、肩まで袖をまくりあげて見せただけでも、稀に見る均整と美がそこに宿っているということが分かる。
 その美しい腕を、痘痕と傷だらけの肌が、被っている。
 そのアンバランス。
 その異様な美。
 まじまじとこちらを見つめる幸村の目に、政宗は不思議な充足を感じた。寸暇ない健やかな心を持つ幸村にだからこそ、この腕を見せたかった。己の昏い想いを、見せてみたかった。
「なぁ、真田幸村」
 政宗は、帯の内側に隠しもっていた、小さな匕首を取り出す。
 研ぎ澄まされた刃。鞘を払うと、月光に、氷のように冴え冴えと光った。幸村は未だ、政宗が何をしようとしているのかが理解できないでいるらしい。ただただ呆然と声を失い、政宗の顔と、その腕とを、かわるがわるに見つめるばかり。
「何で……ござろうか」
「【心中立て】って、知ってるか」
 心中立て。
 それは、己の心を示す証を、ただひたすらに慕うものに対して、己の身をもって示す手段だ。
 惚れた相手の名を、墨で己の身に彫り込むものもいる。指を切って相手へと差し出すものもいる。後には【心中】と称するものは、己の恋しい人と共に死を選ぶまでになりもした。何れ、それは戦国の世の出来事ではないが。
 政宗は、己の腕に匕首を当てる。
 冷たい鋼の感覚に、体の皮膚がぴりりとそそけ立つような感覚を覚える。
「政宗殿…… 何を」
「なぁ幸村。俺は、お前に惚れてるらしいぜ」
 な、と声をあげて、幸村は絶句した。
 栗色の大きな目が、ただ、まじまじと政宗を見つめる。そのまなざしに昏い悦びを感じる。その感覚は殆ど、性的なものといっても良かった
。政宗は腕の上で匕首を滑らせる。冷たい鋼が皮膚をなぞる。
「何を…… 何を言うておられる」
「あんたは綺麗だ。俺とは正反対だが、そこが良い。あんたを思うと血が滾る。戦いたいとも思うし、あんたの首を欲しいとも思う……」
 政宗は短く、言葉を切った。
「それは、惚れてるってことだろう?」
 幸村は何かをいいかけたらしい。
 だが、その言葉がくちびるから出るよりも早く、政宗は、白々と月影に映える匕首を、己の腕へと、深々と埋めていた。
「ま、政宗殿!?」
「……っ」
 痛み。そして、熱。
 匕首を肉から抜くと、開いた傷口が一瞬だけ皮膚の内側の白さを見せた。まもなくひたひたと奥から血があふれ出してくる。あざやかな真紅。うつくしい赤。
「な…… な」
「痛くないな。……あぁ、こりゃ本気だったってことか」
 政宗は匕首を懐紙の上に置き、流れてくる血をなめ取った。唇が赤く染まった。血の味。塩辛く、鉄臭く、そして、熱い。
「何を……なぜそのようなことをなさる!」
「あんたに惚れてるってことを、見せてやりたかっただけだ」
「……そんな」
 恋は盲目だという。
 肉体の痛みを凌駕するほどの想いがあれば、こうして己の血を流しても、さして痛みも、恐怖も、感じはしない。そして今、政宗は己の身に埋めた刃に、ほとんど傷みを感じなかった。おそらくこれは、恋情ゆえなのだろう。
「どうやら俺は、幸村のためなら、血を流しても痛くもないらしいぜ」
 政宗は、唇をつりあげるようにして、笑った。
 己の血でそまった唇が、紅を引いたように赤くなっている。
「なぁ、幸村」
 あまりのことに、判断がついていかないのだろう。
 こわばったまま、ただ、美しく醜い腕を流れる血を、呆然と見詰めている幸村。太陽の光の匂いがする少年。
「お前は、どうなんだ?」
「……何が、」
「お前は、俺のために、こうして血を流せるか?」
 幸村が、政宗のほうを見る。
 傷ついたような色が、栗色のひとみいっぱいに、色濃く浮かんでいる。
「あんたが、俺のためにこうして、血を流すことができるんだったら…… 俺は、嬉しい。あんたが、俺のために血を流せるくらい、俺のことを思っていてくれたならな」
 幸村は何かをいいかけて、それから、むりやりに口をつぐんだ。
 くちびるを硬く噛み、うつむく。その傷ついた横顔がいとおしい、と政宗は思う。
 幸村は太陽の匂いがする。朝露の匂いが、森を渡る風の匂いがする。
 幸村は、どんな色の血を流すのだろうか。
 戦場においては赤備え、朱塗りの十字槍に赤い鉢巻。身にまとった焔の美しい紅。
 幸村は、紅だ。焔の赤、明け染めた空の赤、そして、夏の日に咲く花の短い盛りの紅だ。
 ならば、その身を流れる血も、さぞかし赤いことだろう。
 
 幸村の流す血が見たい。
 その皮膚の下を熱く流れる、血潮の赤を、見てみたい。

 ……やがて幸村は、うめく様に、言った。
「……出来ませぬ」
 政宗は、眉宇を寄せる。
「この体は某のものであり、某のものではない。この命は父母より授かったもの、さらにはお館様のもの。某のただの想い故に、この身を裂くなど、とうてい許されることにござらん」
「……」
「それに……某は、悲しゅうござる」
 か細い声で呟く。
 政宗は、幸村の表情を見て、ハッとする。
 栗色の目に、うすく涙が浮かんでいる。こぶしがひざの上で硬く握り締められていた。かすかに震えていた。どうした。なぜ泣く。何が、そんなに悲しいというのだ?
「政宗殿。非礼を先に、わびさせてくだされ」
 幸村はおずおずと手を伸ばす。政宗の腕をそっと取る。壊れ物をあつかうような、臆病なほどに慎重な手つきだった。政宗は目を見開いて、己の腕の傷口に、唇をあてる幸村を見た。
 流れ出た血をていねいにくちびるでぬぐう。
 傷口を吸う。
 顔を上げ、こぶしで口元をぬぐう。泣き出しそうな表情。その全てに、政宗は、目を奪われる。
 幸村は蘇芳の衣の袖を裂いた。政宗の傷に布を当て、きつく縛った。その腕を抱きしめるようにして、幸村はささやいた。心細げに、目を伏せたまま。
「政宗殿、あまり哀しいことを言ってくださいますな」
「……どういう意味だ?」
「某は、そのような理由があろうと、政宗殿が傷つくことは哀しゅうてなりませぬ。……臆病者と笑ってくだすってもかまいませぬ。ただ某は、政宗殿が己で己の身を裂くことが、辛くて、たまらぬ」
 幸村は、泣き出しそうな顔で、つぶやく。
「某も、政宗殿を、お慕い申しております」
 だから、と幸村は言った。
「どうか己の身を、粗末に扱ってくださいますな」
 
 政宗は、血が好きだった。流れる鮮血の赤を、愛していた。
 己のものでも良かった。誰のものでも良かった。血が見たかった。誰かが生きている証。この世に類のないうつくしい色。
 生きている命の、形を、己の手で見て、確かめたかった。
 己が確かに血潮を宿しているのだと、この身は血を流しても生きてゆかれるのだと、確かめたかった。
 何度でも。
 何度でも。

 幸村を抱き寄せ、唇を重ねた。
 己のものだろう。鉄さび臭い、塩辛い、血の味がした。
 長い時間のような気がしたが、実際には、ほんの一瞬だったのだろう。そっと舌先で唇をなぞり、離れる。抱き寄せていた腕を放した。
 背中にまわしていた腕を放すと、幸村は赤くなった頬を隠すように、そのまま俯いてしまう。ひざの上で握り締められた手が震えていた。何も知らぬ、口付けのなんたるかも知らぬ。これが幸村にとって、生まれてはじめての口付けだったのだろうと、政宗にも分かった。
「抵抗、しなかったな」
「……はい」
「敵同士だぜ、俺たちは?」
「心得てござる」
 幸村は大きく息を吸う。吐き出す。そして、顔を上げる。まっすぐに、政宗を見る。
「それがしは…… 己(おれ)は、政宗殿を、お慕い申し上げてございます」

 これが恋なのだろうか、と政宗はぼんやりと思う。
 たよりない思いだ。この乱世の世において、二人は唯、相手を思う気持ちという、細い糸だけでしか、つながることが出来ない。

「幸村」
「はい」
「お前、莫迦だな」
「そうらしい…… 分かっておりまする。しかし某は、このような莫迦者としてしか、生きられのうござる」
 政宗は大きく息を吸った。
 吐いた。
「ま、政宗殿?」
 そのまま横にごろりと寝そべると、幸村の膝に頭を乗せる。うろたえた声が頭上から降ってくる。かまうものか。
「まだ酔いがさめない。ここで寝かせろ」
「し、しかし、ここでは……」
 ためらう幸村を見上げ、政宗は、にやりと笑って見せた。
「【ここ】が、いいんだよ」
 
 政宗は、血が好きだった。
 あの赤が好きだった。一瞬で色あせ、失われるうつくしさを心の底で悼んだ。
 あんなにも美しい紅が、この世にはほんのひと時しかとどまることが出来ない。夕暮れが夜に変わるように、赤い花が日暮れにしぼむように、美しい紅は、すべて、はかなく移ろい、消え去っていく。
 紅が欲しかった。
 褪せることなく、失われることなく、鮮やかに燃えたつ、消えることのない紅が。
 
「幸村」
 政宗は、独り言のようにつぶやいた。「はい」と幸村が答える。
「お前は、死ぬな」
 あたまの下にぬくもりを感じる。生きた人間の体温を。
「……はい」
 政宗は手を伸ばし、幸村の頬に触れてみる。あたたかい。
 幸村はなぜか、泣きそうな顔をした。それでも笑った。その笑顔が、いとおしい、と政宗は思う。



 未だ、戦国の世も半ば。
 宿命が彼らを二つに分かつよりも、随分と前のことであった。





  

TOP