2.
ドアがきしむ音がして、雨音がふいに大きくなる。ぴくん、と傍らの肩が震えたことにバッツは気付いた。ドアが閉まる。雨音はまた遠くなる。ジタンは、ベットの上で薄く目を開いていた。熱に浮かされた青緑色の目が、それでもはっきりを警戒の色を浮かべていた。
「……だ、れ?」
「俺だ」
重たい足音が響き、雨の中、水を汲みにいっていたスコールが答える。手桶を下ろし、額にはりついてる髪をうっとおしげに後ろに払う。
けれどその返事もよく聞き取れなかったらしい。「誰」ともう一度、警戒に震える声で問いかける。長いまつげが震えていた。傍らに控えていた青年は、バッツはそっと手を下ろし、ジタンの手の上に手を重ねてやる。
「大丈夫。スコールが帰ってきただけだ。ス、コー、ル。分かるか?」
「……あ、あ」
「目を覚ましちゃってごめんな」
「ん……」
スコールは水を吸って重たくなった上着を脱ぐ。思わずバッツの肩越しに急いた声をかけそうになり、けれど、くちびるに一本の指をおしあてて見せるバッツに静止された。
手まねで手桶を持っていくように示されて、汲んできた水をベットの傍らまで持っていってやる。バッツはぬるくなった布をジタンの額からのけて、新しく冷たい水で布巾を絞りなおした。ひんやりと冷たい布を額に当てられて、ジタンが、かすかに声を漏らした。心地よさそうな声だった。
「みんな、ぶじ、か?」
「ん。ジタンのおかげで休憩できてる」
「はは、オレの、おかげ、かぁ」
「まぁね、たまにはいいだろ。普段頑張ってお仕事してんだから。……気持ち悪くないか?」
「……」
返事が無い。ただ、薄くひらいた目が、すがるようにバッツを見る。バッツは少し笑う。ジタンの手を両手でつつむ。そして唱える。この世界では、ほとんどつかわれることのない魔法を。
「エスナ」
ふっ、と淡い光が生じ、光の粉を散らす。
かすかな光は淡く緑色の光芒をおびて、けれど、触れることも出来ない一瞬のうちにはかなく消え去る。けれどその瞬間、傍らからも目に見えてジタンの呼吸が楽になった。握っていた手から力が抜ける。バッツはその手をとり、丁寧な仕草で、毛布の下に戻してやった。
スコールが、「眠ったのか」と控えめに声をかけてくる。バッツはうなずくと、もう一度だけ蜂蜜色の髪をそっと撫で、それから、立ち上がった。……立ち上がろうとした。
「とと」
「おい!」
「うお、サンキュな。でも声でけーよ」
よろめいたバッツをとっさに腕でささえたスコールは、かけられた言葉に、反射的に怒鳴り返そうとしかねないような顔をする。彼らしい反応。けれど、すんででそこを耐えることもできたのも彼らしさだろう。バッツはちょっと笑うと、軽く腕をたたいて、慎重な仕草で立ち上がる。
「それじゃ、おれらも飯にしよう。スコールの服も乾かさないといけないみたいだな」
「……」
手を伸ばし、額にはりついていた鷹羽色の髪のひとすじをつまむ。
「水も滴るいいオトコ、ってやつ?」
そう言って笑う、そんなバッツはあまりにも【いつもどおり】すぎた。スコールは口をつぐむ。何を言えばいいのか分からなかったのだ。そんなスコールにちょっとだけ笑うと、バッツはまた、ぽんぽんと、肩のあたりを叩いてやった。
―――ジタンが、高熱を出して倒れた。
それから数日ばかりが過ぎて、今も三人は、倒れたジタンを背負ってようやくたどり着いた場所から、一歩も動くことができないままでいた。
びしょぬれになってしまったスコールの服を脱がせ、粗朶を焚く小さな焚き火で乾燥させる。その間、バッツは残り少なくなりかけた糧食を使って食事の準備を整えていた。近くで捕まえた鳥の足から肉をはがし、岩塩と一緒に骨をつかって出汁を取り、はがした肉は細かく刻んで灰で蒸した食べられる根と混ぜ合わせる。ぱさぱさに乾いたパンはちぎってスープに入れ、パン粥にする。
「食べられるといいんだけどなあ……」
バッツはさっきからしきりに爪を噛んでいた。表情には見えない焦燥がそこに滲んでいるのだろう。スコールはバッツの手を見る。そこに赤く滲んだものも。
「バッツ」
「んあ?」
「爪を噛みすぎだ」
「あ…… ああ」
あわてて手を離し、ぎざぎざになった爪を見て、照れたように笑う。スコールは一部始終を黙ったまま見つめていた。
「ごめんごめん。おれまでやっちまったらしょうがないもんな」
「……ジタンの傷は、よくないのか?」
「いや、傷はもうふさがってるよ。ただ毒のほうがまだ…… あとはちゃんと休ませて、ジタン自身の体力に任せるしかない」
―――ジタンがひどい熱を出したのは、こちらの戦力まで根こそぎ削られるような、ある、激しい戦闘の後だった。
ジタン自身の弁によれば、相手は、当の自分自身のイミテーションだったらしい。苦戦したよ、さすがオレ、などと軽口を叩いていられたのもはじめのうちだけで。アイテムが足らずに応急手当しか出来なかった翌朝、わき腹をえぐった傷がひどく熱を持ってうずき始め、すぐにジタンは激痛と高熱に、まともに経って歩くこともできなくなった。
おそらく、傷から入った毒が、体にまわったのだろう。その段階にいたっては簡単なアイテムを使用してもまったく効果が現れなくなっていた。バッツとスコールの二人は、苦しむジタンを背負って必死で歩き回り、なんとか、建物らしき場所に休めるベットを見つけて…… それから、足止めを受けたままですでに二日が過ぎていた。ジタンはまれに目を覚ましても意識を朦朧とさせたままで、まともに目覚める気配も無い。
「―――大丈夫なのか……」
ぽつりと、スコールが、弱弱しい声を漏らす。
「大丈夫だ!」
答えるバッツの声は、しかりつけるように強い。
「……だからまぁ、ガード役のスコールさんは、きちんと自分の体のこと考えとけ? お前まで倒れちまったら、ほんと、どうしようもなくなっちまうんだからさ。ほら」
「……」
湯気を経つカップを手渡される。中身から甘いにおいがした。香草茶だろう。スコールはその湯気の向こうから、しばらくぼうっとしたまま、手際よく立ちはたらいているバッツの様子を眺めていた。
……ぐっと唇を噛み、それから、カップの中身をぐいと飲む。火傷しそうに熱い。顔をしかめるスコールに、けれど、休むことなく手を動かし続けているバッツは、気付く様子も無かった。
普段なら率先してからかいにきそうなものなのに。
そんな、精神的な余裕もないのだろうか。
……こんな顔を見たのは初めてかもしれないと、スコールは、バッツの横顔を見ながらぼんやりと思う。
けれど、もしかしたら、自分たちがたまたま見たことがなかっただけで、バッツのこういった姿そのものは間違いなく彼の中に存在していた一面なのかもしれない。そうと思わなければ納得がいかないほどに、今回の出来事に対するバッツの対処は的確だった。
「……バッツ」
「んー?」
「そういう魔法の使い方は、どこで憶えたんだ……?」
「まほう? ああ、《エスナ》のこと」
どこでだったかな、とバッツは軽い口調で答えた。手はひとときも止まらない。
「しかたないよ、病気に魔法は効きにくい。でも体の中に悪い血がまわっちゃってるのを一瞬中和するくらいなら、出来る」
「治癒魔法じゃなくてもいいのか?」
「それは駄目」
バッツの口調は、断定的と言っていいほどに強いものだ。
「今のジタンみたいに弱ってる奴にむりやり治癒魔法をかけたら、逆に体力が削れて衰弱しちまう。下手すりゃトドメになりかねない」
……飯盒に蓋をする。ようやく、バッツは手を止める。
「よくあるんだ。戦いの中で魔法を憶えた奴だと特にね。―――最悪、体の傷を治した瞬間、そっちに一気に血が流れ込んで、熱で弱ってた心臓や肺のほうが止まっちまう。そこまでいかなくても、中には目や耳をやられちまうやつもいる」
だから、とバッツは言った。スコールのほうにふりかえる。焚き火のあかりに縁取られて、やわらかい茶色の髪が、あわい金色にふちどられていた。
「こうやって体力の回復を待ちながら、補助的に魔法を使っていくしかない。……勉強になったか?」
最後だけふいに普段のバッツらしく悪戯めかして、ニッと歯を見せて笑ってみせる。
スコールは、なんと返事をしたらいいのか分からなかった。
「……ああ……」
この幸運を、神にでも感謝すべきなのだろうか、とスコールはぼんやりと思った。
経験豊富なセシルやフリオニールだったなら、あるいは、今のバッツのような治療法をわきまえていたかもしれない。けれど自分と二人きりでいるときにジタンが倒れてしまったなら、まず確実にスコールは、今のバッツが言ったような轍を踏んでいたことだろう。想像するだけで背筋が冷たくなった。まさか治癒魔法で、仲間にとどめをさすような結果がありうるとは。
「仕方ないよ。あんまり知られた話じゃない」
そんなスコールの内心を察したかのように、ぽつりと、バッツはつぶやく。
スコールは目を上げる。バッツはちょっと笑った。いつものような、どこか悪戯っぽい、屈託の無い表情だった。
「そもそも、魔法ってのは大怪我した人にその場で使うもんだしな。病人にだったら必要なのは栄養と休養と薬。だろ?」
「……そう、だが……」
「だからおれがやってんのは邪道なの。魔法つかって病気の治療なんてさ。まぁ、白魔法をつかえるやつが病人の面倒だけみてるなんて滅多にないし、だから、知られてないんだろうな」
バッツはふたたび鍋の蓋を開ける。こげつかないように注意深くかき混ぜる。スコールはその横顔を見つめていた。やがて、ぼそりとつぶやく。
「そもそも、俺の生まれたあたりだと、”魔法”という物自体がほとんど見かけないものだったがな」
「え、そうなの?」
「ああ。寧ろ、《魔法》自体が伝説の中の存在だったようなものだ」
「そっか…… そんな場所もあるんだ。世界は広いな」
バッツはつぶやく。スコールは、ふいに立ち上がる。きょとんと見開いた目の視線で追われて、スコールは、振り向かないままで返事をした。
「俺がジタンについている」
「えっと、それは……」
「あんたのやってることくらい見ていた。まずいことがあったら呼ぶ。だから」
スコールは、短く、一拍を置いた。
「……あんたも休め。このままだと、あんたまで倒れかねない」
バッツの返事は無かった。振り返らなかったから表情も分からなかった。スコールは部屋を出ると、後ろ手にドアを閉めた。
この建造物は、正体は知れないが、おそらくは廃棄されて魔物の巣窟になったかつての街か何かなのだろう。なめらかな素材でおおわれた壁やつなぎ一つ見えない床に、スコールは、どことなく既視感のようなものを感じていた。けれど、ぴたりと記憶の中と重なるというわけでもない。おそらくはスコールのやってきた場所に《似通った》、別のどこかからきた場所なのだ。部屋に入ると、かすかにつんと鼻を突く薬の臭いがした。ジタンはベットの上にいた。
「ジタン」
はぁ、はぁ、とかすかに苦しげな息が聞こえる。声をかけても返事はなかった。見ると、額から濡らした布が滑り落ちている。スコールは拾い上げた布巾を水で絞りなおし、ひたいに浮いた脂汗をぬぐってやる。
―――普段は、闊達な印象のせいで気付きにくいけれど、小柄で未成熟な、いっそ華奢といってもよさそうな体つきが、痛々しい。
目の下に薄青く隈が浮かび、あさく開いた唇が乾いて割れていた。大丈夫だ、とスコールは自分に言い聞かせる。大丈夫だ。これでも、昨日よりはずっと、顔色だって呼吸だって、よくなってきているじゃないか。
冷たい水でしぼった布巾を額においてやる。もつれかかった蜜色の髪を枕の横にていねいに避けてやる。そのときだった。ジタンのくちびるから、うわごとのように何かがこぼれた。
「……ジタン?」
「―――り、た……」
「どうしたんだ。大丈夫か」
スコールはただ、声をかけ、髪を撫でてやることしかできない。ふせたまぶたの端、長い睫毛にふちどられた縁から、透明な雫がゆっくりと湧き出し、そして、こぼれおちるのをスコールは見る。乳色の頬に涙が流れる。
「……い、よ」
かえりたい。
……かえりたいよ。
一瞬、スコールは、自分のほうが泣き出したいような気持ちに駆られる。
ぎゅっと握り締めた己の手のひらに爪を立て、胸の内側からこみあげる衝動をこらえる。わけのわからない、そのくせ、暴力的なまでに強い感覚だった。その感覚の名前を、スコールは知っていた。
これは、郷愁、というものなのだ。
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治癒魔法の解釈についてはオリジナルです
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