これはきっとゆめなんだろう。
 スコールは、そう思っていた。

 すねて、ひとりで外に出て行って、ひとりぼっちのくせにかくれんぼみたいに森の中へ入っていって。そうして歩いているうちに自分がどこにいるのかを見失ってしまって、そして、疲れて寝てしまった。その結果こんなことになったりするんだ。
 だからスコールは目の前に現れた見知らぬ子どものことも自分の夢の中のものだと思ったし、だから、奇妙な服装や髪の色を不思議に思うことも無かった。だって、これは全部夢なんだ。何が起こったって不思議じゃない。目が覚めれば全部消えてしまう。そういうものなのだ。
 冷たい泥の穴からスコールを引っ張り出してくれると、その子は、心配そうに「大丈夫かよ」と言ってくれた。泥の上に半分壊れて浮かんでいる足場のようなものがあって、その上に座ると沈んでしまう心配も無い。ちょっとだけ高い場所に出たら、周りに広がる広い広い草原が一面に見渡すことができた。
「えっと、お前、スコール」
「……うん」
「何してたの、ここで?」
 ―――絵本に出てくる妖精みたいだ。
 髪が草みたいな茶色がかった緑色をしていて、月の光があたった場所だけがねこやなぎのような銀色に見える。肌は白い。大きな目はきらきらした薄茶色だった。見たことも無い服装。いろんな石をビーズみたいにつなげた耳飾や腕輪。
「わかんない」
 たぶん、スコールよりもふたつ三つ年上だろう。おねえちゃんより年下だ、とスコールは思った。
「わかんないって、迷子?」
「違うよ、これ、夢だから」
「夢?」
「……僕の見てる夢だよ、たぶん、全部」
 膝をかかえて、顔をうずめる。灰色の泥でかたまった髪や肌がぱりぱりした。泥は、何故か焦がしたような香りがする。知らない土地、水、におい。
 その子はしばらくめんくらったような顔をしてスコールを見ていたが、やがて、「そっか、夢か」となんだか納得したようにひとりごちた。
「おれはね、バッツだよ」
「そう」
「お前、これが夢だとしてさ、なんでこんなとこに来たわけ」
 指先で草をむしる。バッツの指は草の汁で緑色に染まっている。指先で器用に皮を剥いていくバッツを横目にしながら、スコールは、「ひとりになりたかったから」と答えた。
「ひとり。なんで?」
「……みんなといると怖いから」
「……」
「みんなと一緒にいたら、はぐれそうで怖いから」
 脈絡のない、舌っ足らずなしゃべり方だというのは承知の上だった。でも、いいんだ。これは夢なんだから。どうせ相手だって人間じゃなくてお化けかなんかなんだから、分からなくたっていい。わかってもらえなくてもなんの問題も無い。
 草色の髪のバッツは、皮を剥いた茎を咥える。「はぐれるか」とつぶやいた。そしてスコールの方にも同じ草を差し出した。目をぱちくりさせるスコールに、ちょっと笑う。
「すっぱいよ。喉、渇いてるだろ?」
「うん……」
 舐めてみると、顔がくしゃくしゃになるくらい酸っぱかった。目を白黒させるスコールに、バッツはちょっと笑う。味まであるなんて変な夢だ。
「ひとりが怖いからバイバイするんだ。お前、実はチィチィなんじゃないの?」
「チィチィって、誰」
「ヤギ。もう、お爺ちゃん」
 バッツは草をかみながら、目を上げる。広い草原を見渡して、遠いところを見るような目をした。
「おれの、幼馴染のうちのヤギだった。でも居なくなっちゃってさ、ラグーナのどこかにいるんじゃないかと思ったけど…… もう見つからないかも」
「どうして居なくなったの?」
「年寄りだから。もう、死ぬんだと思う、チィチィは」
 胸の中で、小さな心臓がコトンと跳ねた。びっくりしたように目をまたたくスコールに、バッツは、ちょっとだけ笑った。
「動物って死にたくなると一人になりたがるんだ。そういうやつって多いんだよ。飼われてるやつだと、柵とか杭とかに捕まってて独りになれないやつも多いけど」
「そうなの?」
「スコール、何かの動物と暮らしたこと、無いのか?」
 無いわけじゃない。でも、そんな細かいことは考えたことも無かった。ためらいながらも首を横に振ると、バッツは、「そうなんだよ」と答える。
「父さんは、他の生き物に捕まらないように隠れるんだ、って言ってたけど、おれは違うと思う。やっぱりみんなと別れるのが辛いから逃げるんじゃないかな。チィチィはそうだった」
「動物の考えてることなんて、分からないよ」
「分かるよ」
 バッツは言った。思いのほか強い口調でびっくりした。振り返った目はやっぱりきらきらした薄茶色だ。スコールが驚いているのを見て、すぐに、「ごめん」と苦笑まじりに謝る。
「でも、ほんとだよ。動物はこっちが言葉が分かると思ってないから、いつも独り言だけど。チィチィは最近よく言ってた。《もう死ぬのか》《死ぬのは嫌だな》《お別れってほんとに嫌なものだよ》……って」
 他の誰かが言ったことなら、たぶん、信じなかった。でも相手は夢の中の人で、人間ではない。だからスコールは黙って聞いていた。バッツはどこか寂しそうにつぶやく。
「《いやだなあお別れなんて》《私が死ぬときにみんなが泣くのは嫌なものだよ》《どこへ行こうか》《遠くへ行ってしまおうか》……」
 ―――本当に、それは、年老いたヤギのつぶやきだったのだろうか?
 スコールはぎゅっと手を握り締めた。口の端から咥えていた草が音も無く落ちた。まずい、と思う。でも止められない。こみあげてきたものが目の端からぼろりとこぼれた。一滴が落ちると止まらなくなる。バッツが、驚いたように振り返った。ぽろぽろぽろ、スコールの泥だらけの頬に、おおつぶの涙がこぼれる。
「どうしたの」
「ひとりは、やだ」
 スコールは、ひしゃげた声でつぶやく。喉が熱くて、痛い。
「ばいばいなんて、きらいだ……」
 誰かと逢うと、その後にはさよならが待っている。だったら一緒に居るのは嫌だ。さよならが見えるのに、誰かと一緒にいるのは、とても怖い、恐ろしい、寂しいことなのに。
 そんなことを言ったら怒られるのは分かっていた。スコールはその程度には聡い子どもだった。けれど、一度流れ出した涙は止まらない。涙と一緒に喉から声が漏れてしまう。それは押しつぶされてひしゃげた、こんがらがった、けれど、間違いなく本当の気持ちばっかりだった。
「お父さんだって、お母さんだって、いなくなるんだ。おねえちゃんもみんなも、いなくなるんだ。みんなみんな」
「……」
「どうせバイバイするんだ。死んじゃったら誰もいないもん。ぼくも、死んじゃうんだ。そしたら一人ぼっちになっちゃう」
「……」
「最初から、死んじゃってればよかったのに」
「……そうだね」
 スコールは目を上げた。
 隣に座っている草色の髪の子ども、子どもの形をした妖精は、寂しそうな顔で、こっちを見ていた。薄い茶色の目は、葦の根元を流れる水の色。日向で温まった浅い水の色だった。
「怖いよな。生まれてきたら必ず死ぬ。どっかでぜんぶとお別れになるんだ」
「……っ」
「おれのほかにも、そう思ってるやつって、いたんだ」
 子どもはふとスコールのほうを振り返ると、急に口をへの字にした。我慢していたらしい涙が、けれど、目の端からぽろりと一粒だけ流れる。それをこぶしでこすって、「へへっ」と子どもは笑った。くしゃくしゃな笑顔になる。
「お前って、やっぱりチィチィじゃないの? 寂しがり屋で独り好きなんだ」
「……違うよ。ぼく、人間だよ」
「わかんないじゃんか」
 風も無くて、遠くで水の流れる音がした。星は空に貼った黒い紙を、針でめちゃくちゃにつっついたみたいだった。月は見えなかった。虫が少しだけ鳴いていた。
 水の匂いがした。夜の匂いと泥の匂いも。
 独りじゃなくて、夢の中の妖精の前で流す涙は、塩辛いけれど、どこかあたたかで柔らかい感じがするものだった。スコールはしばらく泣いて、何かをつぶやいて、それから、また涙を流した。草色の髪のバッツは、黙ってそれを聞いていた。そのくせ、ときおりぽつりと漏らす言葉は、柔らかい泥に差し入れた手のように、スコールの胸のなかの深いところにうずまった。理由は分からなかった。これも、《ぜんぶ夢》だったのかもしれなかったけれど。
 ふと、バッツが手を伸ばす。指先でスコールの頬をぬぐった。その指を口に入れる。ちょっと笑った。スコールは赤くなる。頬にふれると少しかさかさした感覚が残っていた。見知らぬ、草色の髪の、夢の中の子どもの指。その感触。
「サヨナラのない誰かさんって、ほんとにいるのかな」
 バッツはつぶやいた。何の返事ともなく。
「世界の果てまで探しにいったら、そういうやつって見つかるのかな?」



 ……。



 月が、幕の下りる合図をしてくれた。
 まるで空をナイフで切ったみたいだった月が、山の端っこに落ちていくころになって、バッツが、「そろそろ帰る」と立ち上がった。スコールはぼうっとその姿をみていた。月が作る影は銀色で、長く延びた影が、灰色にくたびれた木のはしけに落ちていた。
「行っちゃうの」
「うん」
「……」
 はしけから降りると、灰色の泥に足が埋もれた。スコールはぼうっとその姿を見ていた。ずっと泣いていたせいか眠気が差していた。ぬるい水につかるような心地よいだるさ。
 夢の中で寝たら、どこにいくんだろう。やっぱり夢の中の夢は、《ほんとう》なんだろうか。でも自分がここで眠りに落ちれば、この《夢》は終わるのだろう、という変な確信があった。スコールはこぶしで目をこすりこすり、泥の中を歩いていくバッツを見ていた。ふと唐突に、草色の髪がゆれ、バッツが振り返る。
「な、スコール」
「なに……」
「お前、《魔女》って信じる?」
 バッツの目は、月の光の明るさに、浅い水面みたいにきらきらして見えた。やっぱりとうてい現実とは思えない姿だと、スコールは思う。
「《魔女》って何」
「このラグーナに棲んでるっていうんだ。怖い妖精みたいなものだって。名前を教えたら、ずっと付いてくるようになるらしい。そいつの影の中に棲んで、ずうっと、死ぬまで付いてくるんだって」
「……きっと嘘だよ、そんなの」
 スコールがつぶやくと、バッツは、複雑な表情になる。いろんなものがその表情をよぎった。スコールには分からないようなものが。
 ぱしゃん、と音がする。何の音だろう、鳥が飛び立ったのか。少しだけ目が覚める。不思議そうに振り返るスコールに、声が聞こえた。夢の中で出会った、現実じゃない子どもの声が。
「そうかもしれない」
「……バッツ?」
「嘘かもしれない。おとぎ話かも。でもさ、もしかしたら、嘘なのは、おれたちのほうかもしれない」
 不思議な言葉に振り返る。草の間にバッツはまだ居た。耳飾が、やわらかい草の髪が、ひとみが、まるで《嘘》のようだった。現実のものとはとても思えない姿。目の前にいるのに一枚の幕で隔てられたように、どうしようもなく現実感の欠如した姿。
 まるで絵本の登場人物のようなバッツは、けれど、絵本のようでなく笑った。痛みに充ちて、哀しい、さみしそうな笑みだった。
「でも、嘘だと思えば怖くないだろ?」
「……」
「さよならも、出会いも、全部嘘なんだ。嘘だから怖くない。でも、楽しいのやうれしいのはホンモノなんだ。……それなら怖くない、だろ?」
 胸のどこかが、チリリと痛んだ。草の葉を掴んだとき、その端で、指を切ってしまったように。
 スコールが急に立ち上がろうとすると、べこん、とはしけのどこかで音がした。びっくりして身じろぎする。立ち上がれない。けれど、スコールは言った。大きな声で。
「でも、それって違うよ」
 草の間に立っている。見知らぬ子ども。異界の子ども。その、どこか寂しそうな姿。他人が自分を見たとき、そこに見つけるだろう寄る辺無さを、鏡にそのまま映したような姿。
「ぜんぶ嘘じゃ…… 寂しいよ?」
 バッツは驚いたような顔をした。きらきらした茶色い目が、ぶたれたようにこっちを見た。時間が止まったようだった。透き通るような色。浅い水を除いたような色。日向の、あたたかかい水たまりの、その、やわらかい温度。
「―――そっか」
 ふいに、その顔がくしゃりと崩れる。笑みになる。どこかいたいところを我慢しているみたいな顔で、バッツは笑った。
「じゃあ、お前は、嘘じゃないものが見つかるよ」
「バッツ?」
「ばいばい、草のお化け。ありがとな。……チィチィを見つけたら、優しくしてあげてくれよ!」
 それだけ言って、ひらりと手を振って、走り出す。「バッツ!」と声を上げて、あわてて、追いすがろうとした。けれどまたはしけがギイと音を立ててきしんだ。だから追いかけられない。スコールは呆然とその後を見送った。
 草が揺れて、水音がした。草色の子どもは枯れかける草原の向こうへと消えていった。それでもしばらくは揺れる草でその姿を見分けられたけれど、それも、やがて消えた。後のラグーナには、草の海を渡る風が、かすかにかさかさと囁いているだけだった。







 ―――バッツ。
 ―――ひとりでラグーナに行っちゃだめよ。お化けが出るから。
 母さん、でも平気だよ。おれは一人でも火も起こせるし、大人も歩けない森の道だって歩ける。魚釣りも野営場所探しも、誰よりも上手だ。
 ―――そうかもね。バッツは、お父さんに似ているかも。でもダメよ。お化けはとても怖いから。
 ―――お化けがこわいうちは、あなたも、人でいられる。だからお化けを探しに行っちゃだめなの。
 ―――本当にひとりぼっちが平気になってしまったらね、あなたがお化けになっちゃうのよ。
 ―――ほんとのほんとはね、お化けよりも、それが一番怖いことなのよ……
 



 ……バッツが村に帰った頃には、もう、月が中天を通り越しかけていた。
「バッツ!」
 泥だらけになったまま村の正面まで戻ってくると、どうやら、バッツを探しまわっていたらしい村の大人たちの姿が見える。いちばんにバッツを見つけてくれたのは、幼馴染の母親だった。駆け寄ってきてぎゅうと抱きしめられる。丸々と太った腕に抱きしめられて、バッツは、くすぐったさにちょっと目を細めた。
「何やってたんだい、泥だらけになって、そんな、ああ……」
「おばさん、おれ、チィチィを探しにいってたの。ラグーナに」
「ラグーナだって!?」
 大人たちがお互いに呼び合い、おおい、いたぞう、などと声を掛け合っているのが聞こえてきた。みんなの持ったたいまつがちらつくのが、地面に降りた星みたいだ。バッツは目を閉じる。あたたかくてパンの匂いがする胸に、ぎゅっと顔をうずめた。
「あんたにまで何かあったら、ドルガンさんになんていったらいいの。ステラに顔向けできないじゃないか、ああ、本当に、もう……」
「ごめんね、おばさん」
 あたたかい胸に草色の髪をあずける。バッツはひっそりと胸の中でつぶやく。ごめんね、おばさん。心配かけてごめんね。でもおれ、ラグーナのお化けのことが、分かったよ。あれっておれにはぜんぜん怖くなんてないものだったんだ。
 草のゆれる真夜中の潟海。深く積もった泥のやわらかい感触。水の匂い。孤独。鳥の声。月。
 ラグーナにゆらめく影は、さみしい子どもの夢の影。ひとりぼっちの子どもの夢の中にだけ現れ、ゆらめき、遠くから呼ぶ。

 おいで、草の海へおいで、さみしいのなら、眠ろう。泥の中にうずもれ、草を聞きながら、永久に眠ろう……

 あの子にとっての魔女はおれだった。だったら、おれにとってのあの子は魔女だったの?
 けれどバッツはこうやって村に帰ってきた。きっとあの子も。たぶんもう、ラグーナはバッツを二度と呼ばないだろう。あれは、あまりに哀しすぎるから。どんな大人にでも決して聞かせてはいけない、見せてはいけない、ひとりの夜に毛布の中で夢見るつめたい夢だ。
 あの子もきっとすぐに気付くだろう。これは、ただの夢だったって。あの子はいまごろどこだろう? きっと誰かの腕の中だろう。本当に帰る場所ではないにしろ、優しくしてくれる誰か大人の腕の中、おれのことはただの夢だったってかみ締めているころだろう。
「おばさん、チィチィは見つかんなかった。ごめんね」
「そんなこと…… 莫迦な子だよ、バッツは、本当にもう!」
「えへへ……」
 ちょっと笑って、ふくよかな胸に頬をうずめる。それでもバッツの耳は聞いていた。遠い風の音。ラグーナに高く茂った草を揺らす夜の風を。



 その後、草色の髪の子どもは、夜のラグーナへと迷いだすことはなかった。だからあの寂しそうなるり色の目をみることもなかった。もう二度と。
 ―――昔の話である。






魔女魔女といいながら、思い出していたのは妖精物語の1パターン、【子ども部屋のボギー】でした。
子どもが悪いことをしないように出てくる「悪いことするとお化けがでるよ!」の「お化け」のことです。
【緑の歯のジェニー】とかね。さだめし日本だとひとさらいってところでしょうか。
なんだかなつかしいお話です。