草の仮面

≪1≫






 風が吹きくさはらがゆれる、月の光を受けて銀の波になり、ただ音と言えば風が草を揺らす音しか聞こえない、どこまでも、どこまでも、きっと、世界の果てまでも。

 ―――スコールは一度、そんな景色を見たことがある。
 
 もとより幼い頃の記憶のほとんどが忘却の彼方へ霞んでいる彼のこと、そんなささいなことを憶えているはずもない。それでも、彼はその光景を知っている。頭や心でなく手足を切る剣のようだった感覚で、足元に踏みしだいた草の強い香りで、髪を撫でる風の感触で、そして、息をひそめそっと微笑む誰かの吐息で。
 風吹く闇の草原。夜空にちらつくかすかな星。雲のかなたに輝き真珠色の暈を光らせる月。かくれんぼの夜。
 彼の魂は、それを知っている。







 バッツがまだ子どもの頃、故郷であるリックスの傍には、年の半分ほどは浅く広い川の一部に沈んでしまう潟湖(ラグーナ)があった。 
 春から夏にかけて、潟湖は浅いところで大人の腰ほどの深さのゆるやかな流れになり、ひとびとはそこにいかだを浮かべて家畜や作物を運んで下流や上流へと往来をする。また潟湖には太った魚が多く夏になれば毎日のように新鮮な魚が食べられた。子どもたちはそこらの貝を拾ったり脂身をもらったりして釣竿を作りざりがに釣りに夢中になる。子どもたちがあつめたざりがにもまた食卓をにぎわせる旬の食材となる。(ただあまり食べ過ぎるとおねしょをすると大人たちは言っていたけれど) 春から夏の潟湖、つまり、浅くゆるやかな河の流れは水の恵みだ。けれど夏の終わりごろになり河が干上がり始めると、とたんに、潟湖は村の人々もろくに近づかない場所へと変わってしまう。
 水がしだいに干上がりはしけを浮かすことができなくなったころから、潟湖には泥がよどみ、嫌なにおいを発し始める。草が伸び足元をふさぐ。暑い日には瘴気が発してその風に当たると家畜が病気になるといわれた。そのころになると人々は風が潟湖を村から遠ざけるように吹くことを願い始める。秋から冬にかけての潟湖はただ茫々と草が茂るだけの誰も足を踏み入れない場所だ。ところどころに泥炭がたまった深い穴があり、そこにおちて羊や子どもが死ぬことまである。
 大人たちは言う…… 水が引いたら潟湖に行ってはいけないよ。おそろしい魔女がいる。
 草を編んだ仮面を付けた魔女は、お前たちに出会ったら名前を問いかけてくる。答えてしまえば魔女はずっと追いかけてくるよ。お前の影になって、いつまでも、いつまでも、死ぬまでお前の影に住み続けるよ……

「チィチィ、どこだー? おーい、チィチィーっ!」
 夜、秋口の潟湖。ほとんど水が干上がり、重たい泥の上に草が積もったその場所を、ひとりの子どもが歩いていた。片手には長い木の枝。このあたりでは珍しくない毛織のマントに貫頭衣、革で複雑に編みこんだ胴衣、という服装。子どもは身長よりも高く伸びた草を枝でどけながら、大きな声で、名前を呼ぶ。逃げてしまったヤギの名前を。
「チィチィ! どこー? おれだよー。バッツだよー」
 けれど、呼んでも応えはなく、風が吹く音だけがびょうびょうと草原を奏でていた。ふと手を止めて、子どもは、その音に聞きほれる。風が草を鳴らす音、空が風を鳴らす音。メロディを持たぬ音楽。はじまりもなければ終わりもない歌。
 ふと片手で顔にあたる髪を避ける、その髪は高く伸びた秋の草と同じ色をしている。光をすかすと淡く緑色に透ける髪。草のような色をした髪だった。かくれんぼなどをするとき、茂みなんかに隠れると絶対に誰にもみつからなくなる。おかげでときどき羊やヤギなんかにかじられそうになったりもするけれど。草の髪を持った子どもは、高い草の間に足を止めて、ぐるりと周囲を見渡す。どこまでも斜面を吹き降ろす風の音だけが聞こえる。
「チィチィ……」
 もしかしたら、もうチィチィはいないかもしれない。ふと子どもはそう思った。
 夜中遅くに、家でヤギを飼っている幼馴染が、年寄りでぶちのチィチィの姿が見えないと泣き出したのを見た。子どもたちがその年頃特有の義理堅さを発揮し、手分けをして探すことに決めたけれど、大人たちが誰もそのことを怒らなかったというのには、やっぱり理由があったのかもしれない。
 ヤギは、年を取ると死に場所を探したがるというから。年をとった動物はみんなそうだ。人目から隠れたがるようになる。昔子どもの家の裏にすんでいた猫もあるときふいにいなくなって帰らなかった。だとしたらチィチィも、誰からも見つからない場所をさがして潟湖へと彷徨いだし、そのままどこかでひっそりと死の訪れを待っているのかもしれない。可哀想なチィチィ。
「チィチィーっ! おれと、帰ろうーっ!!」
 子どもは、口の両脇に手を当てて、大声で怒鳴る。けれど、かっきりと三度声を張り上げて、それから黙り風に耳を済ませても、何も聞こえてこなかった。やっぱりチィチィはいないのか。けれど。
「……?」
 子どもの耳が、ふいに、何かを捉えた。
 風に乗った…… 何かの物音…… 違う、誰かの声? 人間の鳴き声??
 子どもは思わず棒立ちになる。深夜の潟湖に、人の気配。誰もいるはずがない場所だ。体重の重たい大人じゃ泥に足を取られて満足に進むことも出来ないし、子どもでもよっぽど勘がよくなければ草の迷路のような潟湖に迷って帰れなくなる。そのどちらでもないのといえば、村でも、彼ぐらい。バッツくらい。じゃあ、あれは誰?
 噂に聞く、潟湖の魔女?
 そう思った瞬間、バッツは反射的に。
「誰か、いるのぉー!?」
 高く、声を張り上げていた。

 ―――魔女!

 本当にそんなものがいるんだったら、一回でいいから見てみたい。好奇心で胸がわくわくと高鳴り始めるのを感じる。バッツは、邪魔になる長い木の枝を放り出し、腕で草を分けるようにして小走りに走り出した。
 草の仮面をかぶった魔女。もしも名前を言ってしまったら、ずうっとついてくる。死ぬまで、陰に隠れてつきまとってくる。そんなお化け。潟湖の魔女。
 でも、ついてきて、それから…… それからどうするんだろう? 実は、バッツは、ずっとそれを疑問に思っていた。
 付いてくるだけだったら、別に怖くもないし、友達になればいいじゃないか。むしろ一回あってみたいくらいだった。それに《草の仮面》ってなんなのか。草で編んでつくる、あの、ふくろうみたいなお面のことか。小さな頃は怖くって泣いたけど、今のバッツはお面作りの名人だった。
 魔女を、見つけたら、友だちになってみたい。ううん、絶対になってみせる。潟湖の魔女。秋の潟湖は高く伸びた草が海のようになる場所だ。ぐずぐずとやわらかい泥炭に足をとられるから獣もほとんど近づかない。そんな場所に一人ぼっち。どんなやつなんだろう? なんでそんなことをしてるんだろう?
 ふと、沈んだ小船が腹を見せてころがっているのを見つける。バッツはその上によじ登る。風が、もろに頬にあたった。口の両脇に手のひらを当てて、バッツは、大声で叫んだ。
「だーぁーれぇーかー、いるのかー!」
 声が、響いて、草に揺らいだ。ほんの一瞬、風をふるわせた。
 風に向かって胸を張ったまま、耳と目に全ての意識を集中する。そしてふいにバッツは見つけてしまう。草の間に何か動いた。何か、四足じゃないものの動き。
 ……潟湖の魔女! 
 バッツは思わず、ぱっと顔を輝かせた。船の上から一足にとびおり、そのまま、一散に走り出す。草をふみわけなぎ倒して。誰かの見えたほう。誰かがいるほうに。けれど。
「わ…… わっ!?」
 近づいたところで、ふいに、ずぶりと足が沈み込む。バッツはあわててしりもちをついた。近くの草をがっちりとつかんで、なんとか体勢を立て直す。
 うかつだった。泥炭のたまった底なし沼。こんなものを踏みつけたらいっぱつだ。あぶなかったなぁ、とため息をつきかけて…… ふいに、その真ん中に
《誰か》を見つけて、ぱちくりと目を瞬く。
 魔女、じゃない。見たことの無い服装。見たことの無い顔。手も足も泥だらけになっていて、しかも、バッツよりも幾つもチビな子どもに見えた。それが腰まで泥に漬かって、さっきまではんべそをかいていたらしい。バッツに気付いてこっちをみる。ぱちくりとまたたく目が、花嫁が衣装にぬいつける色石のような、あざやかな瑠璃色。
「……だれ?」
 泣きべそ声で、そいつが聞いた。とっさにバッツは、問い返していた。
「お前こそ、誰だ?」
 潟湖で、誰かに名前を聞かれたら、先に名乗ってはいけない。相手が魔物だったら魂を取られてしまうから。
 ただの習慣で信じているわけじゃないけど、こんな状況で名乗るやつなんているわけない。だから、誰、と聞かれたら誰と問い返して、そのまま話を進めるつもりだった。少なくともバッツはそのつもりだった。なのに。
 そのはずなのに。
 けれど、そいつは、泥だらけのちびは、バッツの問いかけに、素直に答えた。

「……ぼくは、スコール」

 








実はパラレルじゃなく捏造設定です。
タイトル、内容は谷山浩子≪草の仮面≫より。