/フィーヴァー・ドリーム
(吸血鬼&人獣パラレル)
……不夜城の闇。
ビルとビルの間の薄暗い隙間を縫うようにして、一人の男が走っていた。足取りは乱れ、息は荒い。より狭く入り組んだ場所へ。汚れたアスファルトに浅く溜まった水たまり。それが乱暴に踏み割られ、照り返すネオンを砕けた色ガラスのように振りまく。肩越しに、後ろを見る。追っ手の姿は見えない。だが。
頭上を、ふいに、何かがよぎった。
アンテナが、電線が、空を突き刺して複雑に陰影を描く空。そこを、影が奔った。軽やかで、楽しげですらある動き。鳥ではない。ヒトですらない。だが、その影は大人ひとりの大きさとさして変わらぬほどのサイズに見えた。男は、喉の奥から、ひゅうっ、とかすれた悲鳴を漏らす。
「ひ……!」
―――まだ、追ってくる!
分厚いジャケットの内側に手を入れ、そこから、重い拳銃を引き抜いた。ふいに目の前で隘路が途切れる。現れるのは、コンクリートで固められた小さな溝。川と呼ぶことはとてもできないようなささやかな流れ。
錆を吹いたフェンスにがしゃんと背中をぶつけて、男は、荒い息のままで拳銃を構えた。汗で視界がかすみ、がくがくと肩が震える。酔漢らしい影が遠くに見え隠れするがこちらに気付く気配はどこにもない。頭上、背後、左右。めまぐるしく視線を移動させ、影を探す。ビルとビルの隘路を跳び、戯れのように楽しげに、己を追い詰めようとした黒い影。その姿を目で捉えようとする。
落ち着け。
男は荒い呼吸を整えようと必死になりながら、残弾の少ないマガジンを、拳銃から抜き取った。
落ち着け。まだ、弾がある。純銀を鋼で覆い、先端に十字を刻んだクロス・ジャケット。やつらを狩るための必殺の武器。一撃でもあてればそこから傷口が腐って命を落とす。だが、それを知りながら、彼らを《活きたまま》捉えようとしたことが、男の、もっと言うならば彼の一党の、最大のミスだった。
力の差を見誤る。
所詮は喰らわれるものに過ぎない弱い獣が、張りぼての牙を過信し、《捕食者》へと牙を向いた。なんと愚かな過ちであることか。彼らには、男の一党の姿は、のこのこと狩場へと姿を現すウサギの群れさながらに見えたことだろう。エサがわざわざこちらを尋ねてきてくれた。それが僥倖以外のなんだというのだ。
「みぃつけ、た」
ふいに、背後から、陽気な声が響いた。
「!?」
背後は、コンクリートの断崖。身の丈を超えるフェンス。だが、男は振り返り様に、引き金を引いていた。三点バースト。跳弾がコンクリートを砕き、孔を穿った。だが声の主の姿は見えない。ほんのわずか、溝の横にあいた孔に、蜜のような金色をした《何か》がかすかにちらついた。旅人を惑わす妖精のように、きらきらと笑う声がかすかに聞こえたような気すらした。
―――やつらだ。
はあ、はあ、と荒い息が胸を鳴らす。心臓は今にも、自らの内圧で張り裂けてしまいそうだった。落ち着け、落ち着くんだ。男は眼を凝らした。相手は所詮、けだものだ。人間がけだものに負けるわけがない。まだこちらには弾が残っている。まだ、勝機は。
「―――銃を捨てろ」
だが、また違う方向から、ふいに、声が響いた。
「……っ!?」
「……銃を棄てろ。今なら、命はとらない」
弾かれたように振り返り、銃口を向ける。だが男は一瞬、あっけにとられる。予想と違っていたのだ。そこにいたのは、人間だった…… 青年、あるいは、少年だろうか? 使い込んだ革のジャケットと、銀のペンダント。ベルトのバックルが獅子を象ったデザインをしているのが、夜の暗がりに見分けられた。鷹羽の髪、瑠璃の眸。顔立ちは整っているが、どこかしら無骨で荒削りな雰囲気が、彼の美しさから女性的な面を残らずこそげ取っている。
人間だ。しかも、子どもだ。
男は唇を盛んに舐めた。こいつは何だ? この身なりを見ると、街中をうろつくストリートギャングの類か。ならば。
「お前、ガキか。この辺りを縄張りにしてる連中か」
「……」
「何だ。"バット・ケイヴ"の一党か? それとも"ダーマルパンチ"か。まぁ、いい。俺をここから連れ出してくれ。礼なら弾む。なんだってくれてやる」
「……」
少年は口をつぐんだまま答えなかった。その目がひたとこちらを見据えたまま沈黙している。あまりに硬質な青。男は、苛立ちと安堵がない交ぜになって、奇妙に嗜虐的な気持ちが胸に湧き上がるのを感じた。
「おい、答えろよ、野良犬。何が欲しいんだ。ヤクか? 女か? 今は名乗れないが、俺の上を聞いたら驚くぜ。この辺りは俺らの縄張りだ。ガキどもなんざ、いくらでも言うことを聞かせられるんだぜ。だから」
だが、男の、半ば支離滅裂な言葉をさえぎるように、ぽつりと、少年がつぶやいた。
「野良犬、か」
救えないヤツだ。
その呟きが、耳に、届いた。
すっと細められた眼が、一瞬、暁闇の空のように、深く澄み切った青にきらめいた。それを見た気がした。その瞬間、男は、頭にカッと血が上るのを感じる。
「―――てめぇッ!」
とっさに、引き金を、引こうとする。
引き金にかけた指が動き、銃の機構が作動し、そして、硝薬が弾を打ち出すまでの、ほんの数コンマの時間。だがそのわずかな時間も、彼、にとっては十分すぎるほどの長さを持っていた。男は見た。【信じがたいもの】を。
斜めに傾いたまま、道端に放置されていた、タイヤもガラスもない、棄てられた車。
少年は片手でその車の錆びたバンパーを掴んだ。音を立てて、鋼鉄のボンネットに指が食い込んだ。五本の指を爪のようにボンネットに突き立て、彼は、膝をたわめ、腕に力を込める。大きく開いた胸元で腕から肩にかけて、そして肩から首や胸にかけて繋がった筋肉の機構が、しなやかに動くのが、垣間見えた。
彼は、やすやすと、【車を持ち上げた】。
「―――!?」
銃弾は、彼の目の前に盾の様にかざされた車の腹に食い込んで、そこに、火花を上げた。男は裂けんばかりに眼を見開いた。だが、少年の一連の動きは、そこで終わりではなかった。錆び朽ちかけた車体は、沁みこんでいた雨水を滴らせながら、さらに大きく持ち上げられる。少年のモーションはためらいなく滑らかなものだった。
彼は、その巨大な鉄の塊を、すさまじい力で、【投げつけた】。
「あ、あ、あああああっ!?」
男は、とっさに、引き金を限界まで引いていた。だが銃弾は空しく錆びた車体に孔を穿つだけだった。すんでのところで転がるように横に倒れる。すさまじい音を立てて、壁に廃車が叩きつけられ、へこみ、変形し、文字通り完全な鉄屑と化す。まるで映画でも見ているような、あまりに非現実的な光景。
「あ」
その向こうで、少年が、立ち上がる。自分の手を見てわずかに顔をしかめる…… 革手袋が赤錆とオイルで汚れている。
「あ、あ」
男は、もはや半ば無意識に、引き金を引き続けた。だがもう弾はない。カチッ、カチッ、と音を立てて、機構が空しく空回りするだけだ。
少年は再びこちらを見た。その双眸。暁闇の瑠璃。あまりに鮮やか過ぎるその色彩の中で、虹彩が、【針のように縦に裂けている】。
「ア」
―――気付くのが、あまりに、遅すぎた。
少年はゆっくりと口を開く。端正な面差しに斜めの傷がよぎっているということに男は初めて気付く。何もかも遅すぎた。男と、その一党は、あまりに愚かにすぎたのだ。
「バッツ」
少年が落ち着き払って呼びかけたのと、同時。
ビルの上から、何かが、跳びかかってきた。
「ひ…あっ!?」
鋭い爪。しなやかな身体。その身体を覆うしなやかな毛皮。鞭のような尾。
闇夜にきらめく眸。
まるで遊びを楽しむように無邪気に、その獣は、男へと飛びかかってきた。四本の四肢をおおきくひろげて。一瞬にして五本の爪がびろうどのような足裏から飛び出し、胸に、肩に、食い込む。白い牙が剥きだされる。笑うようにあどけない表情。それは、猫だ。人間の膝で憩う小さな同族にあっても共通するもの、遊び好きの残忍な死神としての本性をきらめかせながら、巨大なピューマは、獲物の身体に喰らいつく。手足、爪、尾、そして全て。男が最後にあげようとした絶叫は、肺の中に溢れる血に溺れ、ごぼごぼという音となって口からあふれた。
捕食者の報い。
数万年の昔から一度たりとも変わることのない、血と肉を持って購われる、もっとも古い取引。
離れた場所からソレを見ていた少年は、わずかに眉を寄せ、血まみれの古い遊戯から眼をそむける。かしゃんと近くでフェンスが鳴った。見上げる。もう一人、少年がいる。こちらはぐっと幼い風貌。蜜のような髪ときらめく青緑の目。かしゃん、ともう一度音を立てて軽々とフェンスを乗り越える。着地の衝撃をしなやかに膝でたわめて、その仕草は一切音を立てることがない。
「これで、全員か?」
「ん。全員落としたと思う。クロスジャケットはちょっとやっかいだったけど、やっぱりちゃんと連携しとけば簡単だよな」
少年は悪戯っぽく笑い、そして、頬にこびりついている泥に気付いて顔をしかめる。大きすぎるパーカーの袖に鼻を寄せ、その臭いを確かめて、「うぇっ」と顔をしかめた。
「……誰か、手に、かけたのか」
「まさか! バッツに任せっきりだよ。こんな街中で【尻尾を出す】わけにも行かないだろ……」
でも、と彼は悪戯っぽく付け加える。
「いちばん星が少ないのはスコールな。後で罰ゲームだから」
「……」
罪のない晩餐を終えて、巨大な山猫が、ようやく顔を上げる。脂や血で汚れた鼻面を舌で舐め、前脚で顔をくるりと擦る。そして踊るように軽やかな足取りで、二人の少年の方へと舞い戻った。蜜の髪の少年は手を伸ばし、山猫の喉をごしごしと乱暴にこすってやった。山猫はごろごろと喉を鳴らし、そして、汚れた前脚を気にするように、広げた指の間をしきりに舐め始める。
瑠璃の眸のスコールは、眼を上げて、闇の向こうですでに息絶えたものを見た。相変わらず、馴れない。だが考えるのは後にしよう。ため息をつくと頭を切り替え、一人と一匹のほうへと向き直る。
「戻ろう。一度"巣"によったら、俺の家で待機だ」
「了解」
猫は眼を細め、低く鳴き、喉をごろごろと鳴らした。巨大な、それでいて膝の上の同族と同じような柔らかさとしなやかさをもった体を、スコールの足にこすり付ける。自分の身の丈と同じぐらいはゆうにある猛獣に擦り寄られて、スコールはあやうく転んでしまいそうになる。憮然と言う。
「俺の身体になすりつけるな。服が汚れる」
「あはは、風呂に入りたくないんだろ。だよな、バッツ?」
にゅう、と山猫は同意するように声を上げた。そしてふと耳をぴくんと動かし、顔を上げる。最も野生に近いその感覚が、遠く風に乗って聞こえてきた、かすかなサイレンを捉えたのだ。
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