《2》






 【下層の街】(アンダータウン)。
 そこは、栄華を極めたこの都市の中でも、最も古く、また、貧しい場所だ。
 かつて、この街がならず者や追放者、行き場を無くした移民ばかりで構成されていたころに、その街並みはすでに形作られていたという。やがて人々はより富を蓄え、より洗練されたものを求めるようになり、泥の浅瀬を埋め立てた新しい土地や、さらに風通しのいい高台のほうへとこの居住場所を広げていった。そうしてこの都市は出来上がったのだ。だが、最も貧しい身分から抜け出すことの出来ないものや、とめどもなく外から流れ込んでくる貧しく希望に満ちた人々は、入れ替わり立ち代り、この場所へと住処を求める。そうして街が今は世界に冠たる摩天楼の都市を化しても、この場所にはいまだ、フロンティアの香りと無名さと貧しさの苦さとが、ともに濃厚に残り続けている。見方によっては、それこそがこの街の真実の姿である、と思うものもいるだろう。最も、彼の考えはそれとは違ったものなのだが。
 彼にとっては。
 貧しく無名で、それでいて、未来を信じる心を持ち合わせたままの、若いフリオニールの考えは。
 がらがらがしゃん、と音がして、鎧扉が開けられる。埃まみれのガラスから光が差し込み、薄暗かった待合室へと差し込んだ。顔に、光が当たる。待合室の黒い椅子の上でコートに包まっていた青年が、うめき声を上げた。窓が次々と開けられる。排気ガスのにおいと埃っぽさ、街角から流れてくる焼いた肉やパンの香り。
 風は冷たい。ぶるりと身を震わせると、うめき声を上げながら、フリオニールは起き上がる。手をつっぱると肩が軋む。陽気な声が聞こえてきた。
「フリオニールー、おきろー!」
「……ティーダ……」
 眼を擦りながら浮かない顔をあげると、全部の窓を開け終わった少年が、満面の笑顔でこちらを振り返ったところだった。磨いた銅貨みたいな髪…最も、脱色しているのだが…と、明るい青灰色のひとみ。まだまだ精悍さよりも子どもっぽさのが目立つ快活そうな面差し。よく日に焼けた肌色がその雰囲気を強調していた。にっ、と笑って見せた歯は白くて丈夫そうだ。
「まぶしい……」
「朝飯、持ってきてやったッスよ。どーせ寝てるだろうと思ってさ」
 何かいい匂いがすると思ったら、そういうことかと得心した。ようやく目が覚める。ティーダは手に持っていた紙袋を開けると、いつもテーブル代わりに使っている折り畳み椅子を引っ張り出してくる。まだ焼きたての香ばしい香りを残したベーグルと、ソーセージの、食欲をそそる香り。どん、と床に置かれるのはサイダーの瓶。薄緑色のガラスが朝日にきらきらする。
「んん……」
「うっわ、すげえ寝癖」
「しかたないだろ…… 昨晩はむちゃくちゃ大変だったんだから」
 とりあえず白衣だけはなんとか脱いだらしく、椅子の背中にくしゃくしゃになった青林檎色の看護服がひっかけてある。が、下半身はズボンのまま、上半身にいたっては黒いタンクトップ一枚だ。ふと自分の手を鼻に近づけてみると、消毒薬の匂いと汚物の臭いが混じって、我ながら酷い臭いがした。フリオニールは顔をしかめる。
「ちょっと顔だけ洗ってくる。先に喰ってろ」
「了解っ」
 しゅたっ、と額に手を当てて見せたのは一瞬、すぐに、薄茶色のぱりぱりした紙をはがして、ベーグルサンドに喰らいつく。本当に、ティーダは元気だ。フリオニールは苦笑しながら立ち上がり、伸びをするのとあくびをするのと頭をひっかくのを三つ同時にこなしながら、のそのそと奥の部屋へと入っていった。
 
 ここは、スープ・キッチンに付属する、小さな診療所。
 アンダータウンに何箇所か存在している、慈善組織が運営する無料診療所だ。

 週のうち6日は空いていて、今日は、医者がいなくなる休みの日。だが昨日は深夜どころか明け方あたりまで診療所を開けっ放しにしていたものだから、フリオニールはほとんど寝ることも出来なかった。無論家に帰るなんて夢のまた夢。顔を洗ってTシャツに着替え、ようやく気分だけでもさっぱりしてから、ティーダが持ってきてくれた朝食に取りかかる。年は三つばかり違っていてもフリオニールもまだまだ若い男だ。食欲はティーダと同じぐらいに旺盛だった。
「なんかー、昨晩はイロイロ騒ぎがあったって聞いたんッスけどー」
「騒ぎなんて毎日あるぞ?」
「そうじゃなくってさ! 同じカレッジの女の子が朝方大騒ぎしてたんッスよ。アンダータウンに化け物が出たって」
「化け物ぉ?」
 フリオニールは顔をしかめ、ベーグルサンドを大きくひとくち齧りとった。中身はチョリソーだった。ぴりりとした辛味が意識を覚醒させてくれる。
 瓶から直接、ひとくちのサイダーを飲んでベーグルサンドを喉の奥に流し込んでから、「女の子がアンダータウンに来るなんて、危ないぞ」と小言めいた口調で言う。
「化け物だなんて…… ドラッグは良くないぞ。そりゃ、興味があるのは仕方ないが……」
「そうじゃねぇよ!」
 ティーダは頬を膨らませた。
「聞いてないんッスか? なんか、街中でデカい猫を見たってヤツが何人もいたらしいんッスよ。あと人間がビルの間をぴょんぴょん跳んでたとか、なんか、車がひっくり返されてるのを見たとか。もぅ、映画みたいにグチャグチャにつぶれてたんだって!」
「映画ねえ……」
「あ、信じてないッスね!」
「信じるわけないだろーが」
 最も、この街には"信じがたいこと"なんて日常的に起こるものだが。チョリソーサンドの最後のひとくちを口に放り込み、椅子の上に残った最後の一個に手を伸ばすと、ティーダと指がぶつかった。二人は顔を見合わせる。一瞬、睨み合いになりかけて……
「ま、どっかのマフィアが虎でも逃がしたのかもな。そういうこともたまにはあるだろ」
 フリオニールは、ちょっとティーダに向かって笑ってやると、手に取ったベーグルを二つに千切る。片方をティーダに手渡す。年下の少年はなんだか照れくさそうな顔でそれを受け取った。
「でも、昨晩そういうやばいのが来たりしてたんじゃないかってちょっと思ってた」
「心配してくれてたのか?」
「そりゃ、するよ。当たり前ッス」
「ありがとう、ティーダ。でも別に、昨日もいつもどおりだったぜ」
 家族に恵まれないフリオニールにとって、開けっぴろげで人懐っこいティーダのこういう愛情が、なんともくすぐったく、また、嬉しく思える。大口を開けてベーグルにかじりついているティーダの顔をほのぼのとした気もちで眺めた。
 診療所に止まることになってしまったが、いちおう、今日は非番だ。寝る前に最低限の後片付けだけはしていたらしい…… 今日の夜には明日のスタッフが薬や必需品の搬入をして、次の支度をしてくれるだろう。だがそれはまた別の話。フリオニールは後は寮に帰って寝るだけだった。
 こんなことをしていると、自分がそもそも学生なのか、それとも看護士なのか、わけがわからなくなってくる。いちおうは学生であるはずだ、間違いなく。だがここ最近は奨学金を払ってもらっている慈善団体の手伝いまがいで、診療所に看護士としてつめている時間のほうがずっと長くなっている気がする。そもそもまともに稼げる若い医者なんてほとんど来てくれない診療所だと、単純な傷を縫い、搬送を待つ妊婦をなだめながら胎児の状態を確かめ、異物を飲み込んだ子どもを吐かせ、ヒイヒイ泣き喚くチンピラの腕から弾丸を摘出し、肺炎スレスレのホームレスにブドウ糖と抗生物質の注射をするのは、どうしても看護士の仕事になってしまう。法的な監査があったら一発で摘出されてしまいそうな闇医者まがいのやり口だが、根本的に人手と金が足りない以上どうしようもない話ではあるのだ。それに、元から田舎で動物の病気や怪我の面倒から、さらには獣医のところに自分の怪我や病気を見てもらいにくる地元の人々を見ていたフリオニールなら、《ただの学生》という以上に腕が確かだというのは、間違いのないところではあるのだが。
 食べ終わるとあくびが出てくる。大あくびをして伸びをする。ティーダが、「家に帰れるんッスかねえ?」とからかった。けっこう洒落にならなかった。
「いっそ、このままここで寝て帰りたい……」
「そんなことしてたら、たたき起こされるッスよ。間違いなく」
「う……」
「せんせー、急患ですー! って」
「冗談に聞こえないな……」
 実際、よくある話すぎて嫌だ。フリオニールがそう言いかけた、そのとき。
 トントン、と。
 控えめに、ドアが叩かれた。ドアに鍵をかけていなかった。ひょいとこちらを覗き込み、眼をぱちくりさせたのは、見覚えのない面差しの青年だった。年のころならフリオニールと同じくらいか。短めの髪もひとみも、透き通るような薄茶色だ。うなじの辺りでふわふわしている後れ毛を、彼は、居心地が悪そうにごしごしと手で擦る。
「あのさ」
 彼は、おもむろに言った。
「病院って、ココ?」
 ティーダとフリオニールは、思わず、顔を見合わせた。



「行き倒れって……」
「見つけちゃったから仕方ないだろー。様子がおかしい、医者に見てもらったほうがいいってスコールは言うし。ほんとは、ウィッカを頼ったほうがよかったのかもしれないけど」
「ウィッカ? って何ッスか?」
「あー、えー、うーんと、こっちの話」
 彼…… バッツ、と名乗った青年によると、彼らは昨日の夜頃、たまたま路地で行き倒れている青年を見つけたらしい。ただの酔っ払いとも思えないし様子がおかしいので近所の教会に駆け込んだが、朝方になって彼の様子が急におかしくなってきた。だから医者を探しに来た、ということらしい。
 病院自体はよく知った場所だった。慈善ミサなんかに参加したこともある。そこのシスターは、フリオニールの顔を見てすぐに通してくれた。奥の部屋に行くと、バッツの連れらしい青年と少年がいて、奥のベットに誰かが寝かされている。顔色が悪く、息が早い。一目見てすぐに不味い兆候だと分かる。
「何か、薬を与えたりした? 見つけたときはどんなだった?」
 腕をまくり、使い捨ての手袋をつけて、毛布をはがす。極端に青白い膚をした青年だった…… 服をめくろと体中に変なあざがある。手首で脈を測ると妙に早く、しかも弱い。フリオニールは眉を寄せる。壁際で立っている青年のほうは無口なたちらしく、蜂蜜色の髪をした少年のほうが、てきぱきとした口調で説明をしてくれた。
「見つけた場所は街の下水道の入り口辺り。なんか、ゴミの間につっこむみたいにして気を失ってた。ほんとに息してんのかって最初思ったよ」
「下水道……?」
「でも、でっかい怪我はしてないみたいだから、ここを頼って休ませてもらってたってわけ。でも朝方から急に苦しみだして」
「薬物中毒か……? おいティーダ、カーテン開けてくれ。暗くてよく見えない」
「あ、うん!」
 頷いて、窓のほうへとティーダが駆け寄ろうとする。だが彼を、間で、青年がさえぎった。
「窓を、開けるな」
「…ンだよ?」
「そいつには、日光が害になる可能性がある」
 急に目の前に立ちはだかられて、ティーダは露骨に機嫌を損ねた顔をした。横に、前に、なんとか間を抜けようとするが、通してもらえない。ふくれっつらになりかけるティーダをさえぎるように、少し慌てた口調で、少年のほうが言った。
「あ、スコールが言ってるの、ホントなんだよ! なんか朝になって日が昇ってから急に調子が悪くなってきたみたいだからさ」
「そんな症状、あったか……?」
「何お前、医者じゃないの?」
「医者どころか、学生だよ。ただの看護士代理だ」
「えぇー? バッツー、お前なー。医者連れて来いって言っただろー」
「え? だって医者なんだろ? 違うの?」
 きょとんとした顔で罪もなく問いかけられて、フリオニールは苦笑するしかない。救急箱まで持ってきてしまったのだから、確かに誤解されても仕方ないところだ。
「違うよ。まあ、それっぽいことはしてるけどさ。……とりあえずちゃんと検査したほうがいいな。病院に連れて行くとして、身分の分かりそうなものは持っていたか?」
「あぁ、これ」
 少年が、ポケットから何かを取り出す。認識票だろうか? 金属製のタグのようなものだった。なぜか二つある。片方は表面がえぐれていて、文字が読み取れなかった。猛片方はかろうじて無事だ。フリオニールは眉を寄せる。
「No.2094、タイプN、カテゴリ…… なんだこりゃ」
「おれに貸して。明るいところで読むッスから」
 無口で無愛想な、背の大きい青年をにらみながら、ティーダが言う。カーテンを開けない理由を納得はしても、いまだに悔しいらしい。横目でにらみつけている様子にちょっと苦笑して、フリオニールは「ほら」とタグを投げてやる。器用に空中で受け取って、するりと青年の横をすり抜けた。
「えっと……クラ……」
 フリオニールは、青年の血圧を確かめて、顔をしかめる。極端に低い。体温も冷たかった。良くない傾向だ。だが、腕をたしかめ、首を確かめて、思わず首を傾げてしまう。ためしに服を緩めて腿も確かめてみた。「どうしたんだ?」と少年に問いかけられて、「ジャンキーじゃない」とフリオニールはつぶやく。
 腕に大量に注射の痕があるのは、コカインやアンフェタミンの中毒者の特徴だ。だが、その針の痕があまりに整然と並びすぎている上に、左右で数がほとんど変わらない。自分で自分に注射をするジャンキーならば利き手には痕がつかない。誰かパートナーがいたという可能性もあるが、なんだか頭の中にひっかかるものがある。腕に瘢痕が出来て針が入らなくなると腿に打つのが常道だがこちらにはほとんど痕がない。どちらかというと、長期間入院していたかのように見える。代わりに、首に不可解な傷跡が残っている。
 ぽつんと二つ並んで、ネイルガンで釘でも打ち込まれたような、深い、けれど小さい、わずかに爛れたキズが二つ……
「やっぱり、ストリーガだろ。なぁ?」
 後ろからひょいと顔を覗かせた、最初に診療所にきた青年が、なんだか妙に聞きなれないことをいう。「余計なこと言うなよ!」と舌から顎を少年におされてちょっと不満そうな顔をする。ストリーガ。聞いたことのない異国めいた発音。フリオニールが聞き返そうとした、そのときだった。
「分かったッス、フリオニール! この人の名前、クラウドだって。クラウド・ストライフ!」 
 ティーダが嬉しそうに声を上げる。とたん、フリオニールの頭の中で、思考が止まる。クラウド? ……クラウド・ストライフ?
「……く、クラウドだって!?」
 とんでもない大声を上げてしまったフリオニールに、もみ合っていた少年と青年も、そしてティーダも、いっせいに眼を丸くした。壁際で黙っていた青年だけがすっと眼を細める。フリオニールは慌てて青年の顔に手を当て、髪をかきあげ、まじまじとその顔を見つめた。言われてみれば、確かに、面影がある。おぼろげな記憶の中の姿と、昏昏と眠る青年の姿が、一つに重なる。
 クラウド。
 クラウド・ストライフ。
「知り合いか?」
 呆然とするフリオニールに、さっきまで黙っていた青年が、短く問いかける。ようやく我に帰ったフリオニールは、いまだ信じられないような気持ちのままで、短くこたえた。
「俺の、幼馴染だ」