《6》



 ―――とうてい、寮に戻る気分には、なれなかった。
 食欲もなく、夕食をとることもできなかった。フリオニールはふと目に付いたコーヒーショップへとふらりと入り込み、味の分からないコーヒーを一杯頼み、そしてそのまま、何時間もそのコーヒーを冷めておくままにほうっておいていた。
 気がつけば、窓際のスツールの周りの客たちは、それぞれにコーヒーを飲み、新聞や書類を読み、あるいはタバコを何本か吸い終わっては、入れ替わっていく。席を立たないのはフリオニールだけだった。夜が更けていく。ヒトが行き過ぎる。傘をひろげた人々が目の前の通りを歩きすぎる。コールガールや、おそらくはギャングスタだろう少年の風貌をした若者たちも。
『……同じ』
 あの時もそうだった、とフリオニールは思う。
 たくさんの人々が通り過ぎていくけれど、自分だけが、ぽつんと固い椅子の上に取り残されて。
『……起こったことを信じたくなくて、俺だけ、ずっと同じ場所にいる』
 あのとき、目の前をあわただしく過ぎていったのは、州警の人々やさもなくば神羅の私兵、ニュースをききつけた記者や、近隣の住人たちだった。
 村にいる知り合いを心配してやってきた人々もいれば、事件の真相を知りたいと封鎖線を張った警備隊と押し問答をする人々もいた。田舎の町では何十年に一度という騒ぎだった。けれどフリオニールは何も思わなかった。
 思えなかったのだ。
『……こうやって座っていれば、誰かが、迎えに来てくれると思っていた』
 誰も、迎えに来てはくれなかった。
 実際には、二週間ほども町役場の待合室に立ち往生していたフリオニールのことをニュースで知って、マリアたちの両親が迎えに来てくれた。けれど、それは自分の望んでいたような『迎え』ではなかったのだと今になって痛いほどに思い知らされる。フリオニールが、心の中で迎えに来てくれることを望んでいたのは、きっと、あの弱気だけれど兄のようだった幼馴染…… クラウドだったのだ。
 どれだけ、自分にだけ都合のいい期待をしていたのか。
 迎えに来られるはずがなかった。5年をすぎて再開した幼馴染は、あんなにも無残な姿に成り果てていた。行方の分からなかった間、どれだけ過酷な体験をしてきていたのか。その間自分は、ただ漫然と待ち続けていただけだった。自分ひとりだけ無事でいたくせに、都合よく幼馴染が迎えに来てはくれないかなんて、そんな甘い想像までして。
『ばかだ、俺は』
『……本当に、どうしようもない……』
 ビニール張りのスツールは硬く、これだけ長い時間座り続けていても、少しも暖かくはならない。身体が軋む。けれど。
「お客さま」
 ふいに、後ろから声をかけられる。フリオニールは振りかえる。バイトらしいウエイトレスが不機嫌な顔をして立っていた。
「申し訳ありませんが、閉店のお時間です」
 最後に残っていた数人の客と一緒に、店内から追い出される。路上に出ると雨の匂いを感じた。アスファルトの匂い、こぼれたガソリンの匂い、都会の匂い。バックの中に折り畳み傘があったと機械的な仕草で取り出し、傘を差そうとした。けれどその瞬間。
「痛っ」
 ぱちん、と音がして、鋭い痛みが指に走った。
 音を立てて、足元の水溜りに傘が落ちた。フリオニールは手を見た。どうやら、傘のばねに指を挟んだらしい。褐色の指に血の玉が紅くもりあがっていた。見る間に雫となって指をしたたる。じんじんと指が痛んだ。急に、笑いがこみあげてきた。
「……はは」
 乾いた笑いが漏れる。指を口に入れると鉄錆の味がする。俺には、この程度の傷がふさわしいってことか。びしょぬれになった傘を拾う気にもなれず、フリオニールはそのまま、コーヒーショップの庇の下に立ち尽くしていた。けれど。
 ふいに誰かの影が、視界に差した。
 霧のような銀色。
『……霧の色』
 一瞬、心が止まる。まったくの無感動のままに、フリオニールの眼だけが、その姿を見る。
 黒い服を着ていた。まるで葬儀屋のようだった。しゃがみこみ、水溜りの中からびしょぬれになった傘をひろいあげる。黒いスーツの袖からカフスが覗いていた。シンプルな意匠の、水晶のカフスピン。
 彼は…… そう、男性だった…… 袖が濡れるのにも構わず、フリオニールの傘を拾い上げる。パン、と音を立てて傘をひらいた。薄い色の傘に、街角のネオンが薄い暈となって滲んだ。
「君の傘だろう」
 こちらを見下ろす双眸。位置が高かった。長身で、屈強な体つきをしているフリオニールよりも、さらに一段と背が高い。両目の色が薄い。
『……霧の色と、焔の色』
 霧のような銀色の髪が、肩を滑っていた。不吉な黒尽くめとは裏腹の、聖画の天使のように典雅な姿がそこにはあった。青ざめた大理石のような肌。水晶のような瞳。顎が細く、鼻梁の高く通った貴族的な面差しだった。二つの瞳は焔のようで、無感情に、けれど、たしかに傘を差し出して、フリオニールを見下ろしている。
「ア」
「指を挟んだのか。……そろそろ移動したほうがいい。追い出されてしまう」
 声は低く、けれど、古い楽器のように美しい張りを持っている。けれど、話しかけられてようやく、フリオニールは我に返る。背後でふっとコーヒーショップの看板が暗くなる。
「す、すいません!」
「いや、いい。向こうの通りを渡れば地下鉄の駅があるが、君は?」
「……俺は」
「もし同じなら、傘を貸してもらいたい。濡れてもいい距離だと思ったのだが」
 その言葉の意味を図りかねて、彼の横顔を見上げる。空を見上げる横顔が、一瞬、彫像のように美しくこわばったものに見える。
「君も同じ方向なら、傘に入れてもらえないか」
 その言葉で、ようやく、彼の言う意味を、理解した。
 銀の髪の彼が言うとおり、ほんの数十メートルも歩けば、そこには地下への階段が口をあけていた。地下鉄特有の強い風が吹き、乾いた空気が頬を切った。歩いたことと、その風のおかげで、鈍くなっていた精神がようやく覚醒しはじめる。地下鉄の階段を下りると、彼はきっちりと折り畳み傘を畳み、フリオニールに返してくれた。「ありがとう」と淡々とした口調で礼まで添えて。
「いえ、お礼を言うのは俺のほうです」
「何故だ?」
「……傘を差してくださって、ありがとうございました」
 ようやく、意識が覚醒し始めていた。ただぼんやりと立ちすくんでいた自分に声をかけてくれた人への感謝の気持ちが浮かぶと同時に、わけのわからない感覚が胸にこみ上げて、フリオニールが作ろうとした笑顔は泣き笑いのようなものに歪んでしまう。目頭が熱くなりかけた。
 黒い服を着た青年は、フリオニールのことを、不思議そうに見下ろしていた。当たり前だろう。ただコーヒーショップの入り口でぼうっとしていたかと思えば、礼を言うと同時に、急に泣き出すのだ。何者だと思われているんだろう。失恋したところ、とでも思われているのかな、とフリオニールはむりやりの冗談で自分を笑いとばそうとする。
「傘程度はたいしたことではないと思うのだがな」
「俺にとってはそうじゃなかったんです」
「……そうか」
 淡々としてそっけない返事が、逆に、ありがたかった。誰だかはわからないが、親切な人に声をかけてもらえてよかった。顔を上げて、あらためてきちんと彼の顔を見ようとして、そして、ふと気付く。彼が水晶のカフスをつけた袖口を見つめている。
 そこに、小さく、赤いしみがついている。
「!」
 フリオニールはあわてて自分の手を見た。血で汚れた指。
「す、すいません!」
「いや。……怪我をしていたのか」
「いや、ちょっと傘で挟んだだけで…… クリーニング代はちゃんと払います。その、大丈夫ですか?」
 傘を受け渡したときに汚してしまったのだろう。血の汚れは落ちにくい。だが、彼は慌てるフリオニールを、しげしげと見下ろしているだけだった。やがてふっと唇がほころびる。今まで、彫刻のように引き結ばれていた、薄い唇が。
「……2月の、枯れたいばら」
 フリオニールは、口に仕掛けていた言葉を、失う。
「錆びた鉄と…… 落ち葉と、雨の匂い」
 記憶の中にあった情景。
 ―――まるで絵のように静止して、誰の姿も無かったから、傷一つ無く残されていた、唯一の記憶。
 その情景が言葉になり、ゆっくりとつむぎだされる。フリオニールは、ただ呆然と見上げていることしかできない。彼はゆっくりと、白い袖をくちびるに寄せる。まるで、貴婦人のロザリオへの口付けを許されたかのような、うやうやしい仕草だった。
 そっと口付けをして、そして、眼を上げる。
「冬ばらのつぼみの匂いがする」
「……あ」
「いや、つぼみのまま摘みとられ、朽ちていく、冬ばら……?」
 水晶の両目がフリオニールを見下ろした。美しい双眸は、雪華石膏のランプ越しに、焔を見るかのようだった。彼は問いかけた。
「これで、正しいだろうか?」
 何故、誰にも話したことのない光景を、知られているのか。
 何故、名前も知らない人が、その光景を口にするのか。
 だが、霧と焔の色をした人に言葉として紡がれて、フリオニールの中で、色あせていた記憶が急激に蘇る。まるで、打ち棄てられていた絵画から、年月という汚れと埃を拭い去ったかのようだった。生き生きと、細部まで全てを、思い出す。懐かしい記憶。故郷。
 教会の裏にあった古い墓地。いばらの茂み。土の匂い、冬の匂い、雨の匂い。
 摘み取られ、土に埋められた、ばらの匂い。
「……は、い……」
 そうだ。
 何故忘れていたのだろう。教会のばらの世話をしていたのは、村の女たちだった。幼馴染の母親はとりわけ熱心で、クラウドもまた、よくその手伝いをしていたじゃないか。
 冬の間、四季咲きのばらが付けたつぼみは、すべて摘み取られ、他の病葉や落ち葉と共に、教会の裏に埋められていた。
 ふさわしくない季節に花を咲かせてしまったら、木全体が弱ってしまうから。だから冬のばらはつぼみのままですべて摘まれ、あの場所へと、葬られていたのだ。
 つぼみを弔う土は、甘い匂いがした。
 フリオニールは、それが好きだった。
「……ッ!」
 思い出した瞬間、涙がこみ上げた。もう、こらえようがなかった。奥歯を硬くかみ締め、フリオニールは、漏れそうになるうめき声を必死でこらえた。涙は後から後から頬を伝った。
「……ッ、……う―――ッ…!!」
 哀しい。寂しい。辛い。怖い。
 痛みを忘れ去ろうとしても、傷の存在を消しさることは出来ない。心から愛し、そして、愛していることにすら気付かぬほどに傍にあったものたちを、突然に奪い取られたあの痛み。
 泣いても仕方が無い。泣いても誰も助けてくれない。泣く資格も無い。そう思っていたのに、一度堰を切ってあふれだした涙は、止めようがなかった。膝がささえられなくなり、そのままずるずるとしゃがみこむ。目の奥が熱くて痛い。
 ぼろぼろと血のようにとめどなく、涙が頬を伝う。けれどふいに、その頬に手が当てられた。ひんやりとした手だった。フリオニールは眼を上げた。霧と焔の眼がそこにある。
「泣かせてしまったようだな」
「……っ」
「すまない」
 痛いほどの悲しみで胸がぐちゃぐちゃだった。彼が言った言葉の意味を明確に理解できなかった。けれど、何も分からなくても、フリオニールは言葉も無いまま、必死で首を横に降った。すまない、などと言われる理由は無い。俺はずっと、本当は、泣きたかった。……そして、初めてそれを許してくれたのが、ただの通りすがりで名前も知らない、この人だったのだから。
 ふいに目元にくちびるを寄せられる。わずかに唇から舌が覗き、熱く苦い涙を、うやうやしく受けた。大理石造りのように青ざめた面差しなのに、その舌だけは、血のように、紅薔薇のように紅く、熱かった。白く尖った歯がかすかに覗いた。
 座り込んだフリオニールを、彼は、抱きしめるようにして両腕でささえてくれる。腕はひんやりとしている。まるで、ばらのつぼみを埋めた、あの土のように。そしてかすかに芳しい香りがした。乾かした、古い、薔薇のつぼみの匂いだった。
「―――私が探していたのは、どうやら、君だったようだ」
 奇妙なことを、彼はつぶやいた。そしてまた、真紅の舌先でフリオニールの目元をなぞる。
 口付けだけは熱病のように熱い。そして、わずかに血の匂いがした。

 

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