《5》



 雨のにおいがした…… 濡れた去年の落ち葉の匂い、乾いて舞い上がったわずかな土ぼこりの匂い。そしてわずかに甘い香り。
 摘まれて、土の中に埋められた、咲くことのなかった薔薇の香り。

「俺たちの故郷は…… そう…… ずっと南部の田舎のほうだった。谷あいが近くて、土が痩せてて、冬が長かった。だからすごく寂れてて、棲んでるやつはみんな貧乏だったよ。俺の家は父さんが獣医だったからまだよかったけど、クラウドの父さんは早くに亡くなってたから」

 枯れたいばらと、錆びた有刺鉄線とが、お互いに絡み合い、複雑な迷路を作り上げていた。ちいさな鶫か、ひわでもなければ、とても入り込むことができないような棘だらけの茂み。その向こうに、教会の裏にある古い墓地が見えていた。雨に打たれて灰色になった大理石。
 翼をかかげたまま、折れてしまった槍を携え、それでも、石造りの面差しに静謐な表情を湛えたままの、天使の彫像。

「でも、魔晄炉が出来てから、だいぶマシになったって大人たちは言ってたな。あれは良くないものだ、って父さんなんかは言ってたけど。でもクラウドは、小さな頃からずっと、将来は神羅で働きたいって言ってた。クラウドの家がちゃんと暮らしていけてるのは、やっぱり、神羅が村に来てくれたからだったから、だったんだと思う」

 春になると、いばらが芽を吹き、みずみずしい野ばらの茂みへと姿を変える。そうなれば有刺鉄線の棘も隠れて、教会の周りは、見違えるほどに美しい場所になる。
 けれどフリオニールは、まだいばらがただの棘だらけの枝でしかない、冬枯れの時期が、ひそかに好きだった。
 ―――それ以外の時期には、あの、忘れ去られた大理石の天使は、豊かに葉を広げた木々の向こうに、隠れてしまうからだった。

「それで、実際にクラウドは13になったら村を出て都会に行って、それからしばらくは手紙でやり取りするだけだったよ。でも5年前に一度帰ってきて、オレもちゃんとやってるからな、っていろんな話を聞かせてくれて…… でも、それきりだった」

 教会の裏の墓地。冬枯れの野ばら。大理石の天使。
 遠い想い出。

「次の日に、俺は歯医者にかかんないといけないからって一度村を出てさ。帰ったらいろんな話を聞かせてもらおうって思ってた。でも、帰りのバスが出なかった。……二度と、バスは、出なかったんだ」

 フリオニールと、クラウドの故郷は、表向きには《魔晄炉の事故》を理由として、州によって閉鎖されてしまった。だからフリオニールはそれきり一度も故郷の村に戻ってはいない。家族がどうなったのかも、家は今どうなっているのかも、他の村の人たちのことも、飼っていたポニーや猫のことも、何も、何も、分からない。
 今は、故郷のことを思い出そうとしても、大事だったはずの家族や故郷のことですら、うまく思い出すことができない。最後に村へのバスが止められてしまった前後のひどい混乱のせいだった。誰もフリオニールに、何が起こったのかを教えてはくれなかった。
 構ってくれる人も満足にいない中、何日も何日も、近くの村の役場の待合室で、バスが来るのをまっていた。ビニール椅子の硬い感覚。誰かが貸してくれた薄い毛布に包まって、ただ、目をつぶることも出来ずにラジオのニュースを聞き続けていた。
 数週間ほども、そうやって、一人だったと思う。
 やがてフリオニールを迎えに来てくれたのは、学生時代に父と親しくしていたという、今の養い親、マリアたちの父だった。天涯孤独になってしまったフリオニールは、そうやって、なんとかして再び寝場所と食べるもの、そして、気にかけてくれる大切な人たちを手に入れた。
 けれど、どうにかして生き延びることは出来ても、ある日突然に何もかもを失ったときの衝撃は、消えない。
 あの日、想い出ごと何もかもを失ったときから、ある意味、フリオニールの時間は、ずっと止まったままだったのだ。







「……そんなことあったなんて、知らなかったッス」
「聞いたことなかったのか?」
「うん。そりゃ、家族がいないってのは聞いてたけど、そんな理由だったなんて…… 一回も話してくれなかったし……」
 ソファの上に膝を抱えたままでティーダがつぶやくと、キチネットから戻ってきた誰かが、目の前に、コトリとマグを置いてくれる。目を上げると、青緑色の目をしたジタンだった。手をのばして、ティーダの隣に座っていてくれたバッツの前にも、マグをおく。中身はブランデーをたらしたホットミルク。バッツは顔をしかめ、ふうふうとマグを吹き始めた。
「自分でも、思い出さないようにしてたんだろ。だからあんたにも話さなかったんじゃないかな」
「でも、大事なことだったんだろ?」
「人に話すと思い出しちまう。でも、そんなこと思い出しちまったら、生きていく元気がなくなっちまう。だから忘れようとしてた。……そういうことじゃないかな」
 ティーダは、マグの中身を一口すすった。想像していたほど熱くもなかった。ほのかに甘い。ふと気付いて、「ありがと」とつぶやくと、「どういたしまして」とジタンはちらりと小さな八重歯を見せた。
 もうずいぶん時間が過ぎていた。クラウドを取り押さえてからしばらく経ち、部屋から出てきたフリオニールは、ティーダが一度も見たことのないような顔をしていた。問われるままに訥々と過去のことを話し、帰ったほうがいい、と言われるとそのまま黙ってホテルの一室を出て行った。
 ティーダは思い出す。
 哀しいというわけでも、辛いというわけでもない。
 ただ途方に暮れて、立ちすくんでいるかのように寄る辺のない色を浮かべた、琥珀色のひとみ。
 バッツはマグに注意深く唇を近づけ、けれど、「熱っち!」とすぐに悲鳴を上げる。ぜんぜん熱くないのに。ジタンは我に返ったようだった。物思いに陥りかけていたところから戻ってきて、そして、「ティーダはどうするんだ?」と急に問いかけてくる。
「どうするって……」
「オレたちは用事があるから、しばらくしたらココ留守にするんだけど」
「え? ……えっと、あのヒト、は?」
「信頼できる医者を呼ぶって言っただろ。この際ティーダはどうしててもいいけどさ」
「フリオニールはどうするんだよ」
「どうするって、どうしようもねーよ」
 急きこむように問いかけられて、ジタンは困惑の表情を浮かべる。ガリガリと頭を掻いた。
「事情は分かるけどさ…… 事情を何にもわかってない一般人を、ココにおいとくわけにもいかないし」
 そんな、とティーダは言いかけた。けれども。
「ティーダがココにいて、それで、逢いにきたら通してやりゃいいじゃんか」
 ようやくマグの中身を冷ましたらしいバッツが、横から急に割り込んでくる。二人は顔を見合わせる。普通だったら窮屈としかおもえない姿勢でソファの上に膝をかかえたバッツは、まったく当たり前のことを言うような口調で言う。
「大事なやつをほっぽいとくなんて無理だろ、でも、大事なやつの面倒を別の友だちが見てくれてるんだったら、あいつだってちょっとは安心なんじゃないの?」
「あ……」
 つまり、ティーダがクラウドの傍についていれば、フリオニールも少しは安心できるんじゃないか、ということ。
「バッツそれは……」
「だって可哀想だろ。あんだけあのツンツンしたやつが心配そうなのにさ、ココでいきなり《お前部外者だから》ってのはひどいよ」
「そ、それは、ひどすぎるッスよ!!」
 再び急き込むティーダに、ジタンは複雑極まりない表情になる。どう返事をしたらいいのか分からない様子で爪を噛む。「血が出るぜ」とバッツがさりげなく諌める。
「いくらショックでもさ、思い出しちまったならしょうがない。それにどんな酷いことになってたって、大事なやつが消息不明生死不明、って状態よりは、きちんとやってやりたいことやってやれる状態のほうがずっとマシだし。だろ、ジタン?」
「……」
 くるりと薄い茶色の目を回して、ティーダのほうをふりかえる。バッツはニッと笑う。
「でさ、そういう間にはいった仕事をやってくれんのは、キンフォークだし」
 キンフォーク、という言葉。
 ティーダはひどく複雑な気持ちで目の前の二人を見て、そして、自分の手を見下ろす。いままで17年間、一度も途切れることなく、自分のものでありつづけたはずの身体。けれどそこに、何か、《未知なるもの》の血が流れているのだと彼らは言う。ヒトならぬ姿を本性とする彼ら、その血族。そういった人々のことをバッツは”キンフォーク”と呼んでいた。聞いたことの無い言葉だった。
「あのさ、バッツ」
「んー?」
 窮屈そうに両手でマグを持ったまま、バッツは首をかしげた。
「……アンタたちって、結局なんなんッスか?」
「ネコだよ」
 どうにもこうにも理解のしようがない返事が返ってくる。「バッツぅ」とジタンが情けない声をあげた。バッツは笑った。ちょっと歯が見える。ジタンと同じような八重歯がみえた。どこか小さな牙のようにも見えた。
「そのうち見りゃわかるって。でも今はダメ。スコールに怒られる」
「あったりまえだよ……」
 ジタンは嘆く。バッツはマグの残りを一気に飲み干す。ティーダはひどく複雑な気分になる。ふと、出て行ったフリオニールがどうしているかと思い、急に心細くなる。一点の曇りも無い大きな窓のほうへと眼をやる。
 いつのまにか、雨が降り始めていた。