D☆M☆A 番外編
黒翼の永い眠り




 ―――昔、はじめて太陽の存在を知ったのは、乾いた井戸の上から差し込む光を、見たときだった。
「リシド、あれはなあに」
 幼馴染の、兄のような、忠実な従者。彼は無邪気に天を指差すマリクを見て、わずかに顔を曇らせた。その曇りに気付きもしなかったマリクは、それくらい、幼かったのだ。
「あれは太陽です」
「太陽?」
 マリクは、ただ純粋に、手を伸ばした。光の中へと。
 ちらちらとかすかな埃が金色に光り、きれいだった。差し込んだ光が丸く輪を作り、そこにわずかな草が生えていた。かざした指がほのかに温かい。あかく透ける。なんてきれいなんだろう。純粋な憧憬。
「リシド、ぼくはあれが欲しいよ」
「……」
「ねえ、リシド」

 ―――それが、決してかなえられることの無い願いだということを知ったのは、それから、まもなくのことだった。


 

 
 彼らの王国には、はるか、三千年の闇に封じられた墳墓が、ある。
 遥か過去、それはすでに神話の時代だ。人々は神々と共に生き、天には天使が住み、地の底には悪魔が住んだ。そうしてそれらの全てを統べた神王がいた。天より下り、人々へと恵みを授けた神王が。
 ……だが、神王はやがて狂気へと堕ちた。
 数々の魔を操り、無数の命を奪い、大地を荒廃させた神王は、もはやその名では呼ばれなかった。"覇王"。統治することなく、いつくしむことなく、ただ、滅ぼし続けるだけの存在と成り果てた王。覇王の存在は災厄に他ならず、その手によって葬り去られた命は限り知れない。また、覇王の手によってなされた災厄の数々は、禁忌として記憶から葬り去られたにもかかわらず…… 密やかに夜の闇にささやかれるおとぎ話となり、あるいは、吟遊詩人の歌う古い古い伝承詩となって、今もこの世界へと恐怖の影を落とし続けている。
 さても恐ろしい神代の王。だが、三千年というのはあまりに長い。その存在はすでに伝承の彼方へと去った。今の世にはかつての世のような奇跡の業を持つものは少ない。記憶は時の彼方に薄れ、すべてはただの物語として葬り去られた――― そのはずだった。
 だが。
 ……手にした燭が、どこからともなく吹く風に揺れ、闇と影を揺らめかせた。
 頭上遥かに広がる闇。ここは深い深い墓穴の底だった。太い柱が並び、壁にはへきがんが刻まれ、小像が転がっている。そして、その壁に描かれ、今だその色彩を残した鮮やかさで揺れるのは、神代の王が統治した時代、この大地を充たしていた豊穣の記録だ。すべての人々の記憶から葬り去られたはずの物語。それが、ただここ、はるか墓穴の下にだけ、記録されている。
 少年だった。褐色の指と、淡い亜麻色の髪。瞳の色はライラックのような澄んだ淡紫。眦から頬にかけては眼を彩る魔よけの刺青がくっきりと刻まれている。敷き詰められた細かな白い砂の上を歩く。足首に巻かれた金の飾りが、しゃら、しゃら、とかすかな音を立てた。
 これははるか過去の物語――― と少年は思う。この深い深い墳墓の底に封印された、今は忘れ去られた物語。
 翼を持った馬に騎乗した騎士たちが、整然と列を組んで、空を進軍した。巨大な竜たちが犬のような従順さでそれに従った。魔法使いたちが、魔女たちが、呪術師たちが、各々の力を尽くして戦った。今の世のならばけっして人に従うことのない、邪悪な闇の住人たちもまた、従者さながらの恭順さで玉座に膝を屈する。けれど、その御座に座するはずの神王の姿だけが、なかった。貴石と高価な顔料、そして、金と白金を用いて描かれたモチーフの中から、神王の存在だけが削り取られている。
「マリク様」
 その、不在の王の座をじっと見つめていた少年の背に、声がかけられる。
「また、このような場所に……」
「リシド」
 振り返ると、そこには褐色の膚を持つ若い男がいる。顔の半分が包帯で覆われていた。少年は、マリクは、かすかに表情を曇らせる。彼は歩み寄ってくると、マリクの手から燭台を取った。
「ずいぶんとお探しいたしました。まだお体に障るでしょうに、あまり遠くまで出歩かれてはなりません」
「うん……」
 言われると、なおさらのように、ずきんと傷が痛んだ。背中に刻み込まれた…… 否、皮膚を抉り取られた文様の痛み。かすかに顔をゆがめる主人を見て、リシドは顔を曇らせる。
「イシズ様も心配していらっしゃいました。さあ、上へと戻りましょう」
「……」
 黙りこんだまま答えない少年に、リシドは哀しそうな顔をするが、答えはしなかった。そのまま小さな手を取ると、「行きましょう」と優しく促した。


 ―――彼らの住む国は、地下に広がる、広大な迷宮の墳墓だ。
 三千年の昔、世界を滅ぼさんと目論んだ覇王を滅した英雄王が、その宮殿をそのままに地下へと封印した巨大な墓。入り組んだ路は墓荒らしどもを飲み込むのにたやすく、迷宮そのものに下された呪いが、あるいは、鎮護獣と呼ばれる精霊獣たちが、覇王の謎を暴かんとするものどもの意思を砕く。彼ら、墓守の一族と呼ばれる人々が守るゆえ、この迷宮墳墓が破られたことはなかった。ただの一度も。
 従者であるリシドに手を引かれて、この迷宮の住人たちが暮らしているあたりに戻っていくと、暗い地下の墓穴にも、かすかな喧騒と人々の気配が現れる。白い亜麻の服を着、金のアミュレットをそれぞれに身に付けた男女の姿が散見されるようになる。彼らは一様に、マリクの姿を見ると仕事の、あるいは行き会う足を止め、恭順の礼を取ってみせた。彼らは皆、この迷宮墳墓の主であるイシュタール一族の従者なのだ。
 彼らの住居である白い石の神殿に近づくと、水盤のかたわらに座って本を読んでいた姉が、「マリク」と顔を上げる。漆黒の髪と美しいアーモンド・アイズ。美しい姉姫は、うつむきかげんに歩く弟へと歩み寄ると、「どこへ行っていたの」と少し咎めるような声を出した。
 マリクが返事をしないのを見て、リシドが、ためらいがちに答える。
「マリク様は――― 地下の、勲詩の墳墓に」
「まあ……」
 勲詩の墳墓、と名づけられるのは、覇王がかつて神王の名をもって呼ばれていたときの武勲、それを記録した壁画のあるあたりだ。―――今の世では失われた無数の秘術が描かれた地。墓守の一族であっても、その長にあたるイシュタール一族の者でなければ足を踏み入れることが許されぬ場所。
「別になんでもないよ、姉さん。どういうものがあるのか気になってただけなんだ」
 マリクは、姉が顔を曇らせるのを見て、笑顔を作った。
「せっかくボクが受け継いだんだもの。どんなものがあるのかを知りたいだろ? だから、見に行ってただけなんだ」
「そう……」
 イシズはかすかに不安げな色をちらつかせるが。
「……そうね。でも、今じゃなくってもいいでしょう。まだ傷が良くないのだから、しっかりと体力が戻ってからのほうがいいわ。ほら、少し熱があるじゃない」
 すべすべした両手で弟の頬をはさみ、イシズは、少しばかり保護者らしいことを言う。たしかになんだか身体が重たい気がする。「部屋で休みなさいよ」といわれたマリクは、「うん」と素直にうなずいた。
「薬湯を沸かせておいたから、ゆっくりと漬かるといいわ」
「うん……」
 素直に、というよりも、力なくうなずいたマリクは、そのまま奥の部屋へと入っていく。その姿を見送って、まだ年若い姉姫は、小さく、悲しそうなため息をついた。リシドは気遣わしげに声をかける。
「イシズ様……」
「……しかたがないわ。まだ、ほんの一月ほどしかたっていないのだもの。すべてを受け入れるのには、もっと、時間がかかるはず」
 墓守の一族の当主の子、マリク・イシュタール。―――まだ10歳の少年が、この墓守の一族の当主たる証を継いだのは、ほんの一月ほど前。彼が10歳の誕生日を迎えた日のことだった。
 迷宮墳墓を暴こうとするものたちの意思を砕き、時に、遥か過去世の力を用いて邪な企みをなさんとするものたちを挫く。それが、この迷宮墳墓に住まう墓守の一族の定めだ。
 3000年前の英雄王である、太陽王アテムの意志を継ぐのが表の王族の役割なら、神王にして災厄の化身たる覇王を封じるための役割を継ぐのがイシュタール家のものたちの役目。墓守の一族は強い魔力と忠誠心を持つものたちを受け入れ、夜闇にまぎれ、秘められたる役割を果たす極めつけの兵としての役割を常に果たしてきた。リシドもその中の一人だと言えるだろう。彼は本来はこの迷宮墳墓の生まれではない。だが、その強い力を見込まれて、ごくちいさな子どもであるときに墓守の一族へと迎えられ、イシュタール姉弟の側近として、影へ日向へと働いてきた。
 おそらくはイシズも後々にはそうなるのだろう…… イシュタール一族の姫巫女として、表の王への進言を、時に、戒めを行うこととなる。だが、弟のマリクは、違う。彼にはイシュタール一族の当主として、まったく異なる役割が与えられる。
 ―――けれどその定めは、わずか10歳の少年に与えられるものとして、惨いといえば、あまりに惨い。
「マリクは優しい子だわ」
 ぽつりと、イシズは呟く。
「……優しいって、辛いことね」
 リシドは答えない。
 何も、答えようがなかった。



 

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