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 四角い石を組んだ大きな浴室には、濃厚な薬草の臭いがたちこめ、燭の薄暗い火に、濃い湯気がゆらめいていた。
 大きく四角い水槽には、何種類もの薬草が煮出された、濃い色の湯が満たされている。ゆっくりと身体を沈めると、背中が、まるで火でも押し付けたように痛んだ。
「つッ……」
 マリクは思わず顔をしかめる。もう一月もたつのに、治りきらない背中の傷。かるく背中に手を回すと、ぬるりと指が滑った。傷口から膿が生じているのだ。偶然の性ではない。傷痕が癒え、薄れてしまわないように、常に傷口の治りをさえぎるための薬を塗りこんでいるのだ。皮膚を抉り取り、刻み込んだ痕が盛り上がり、痕となり、刺青よりもさらにくっきりと、痕を残すように。
 浴室には鏡は無い。他には誰もいないから、背中の痕を見られることもなかった。そもそもイシュタール家の当主の証であるその傷は、誰にも見せてはならないことになっているものなのだ。"王"その人の望みに答えるとき以外は。
 ぬるつく湯にゆっくりと身体を沈めていく。身体をずぶずぶと飲み込んでいく湯は深く、底が見えなかった。まるで昏い闇に飲まれていくような気分。マリクはぼんやりと燭を見つめる。
 ―――この背に傷を刻み込まれたその日が、まるで、昨日のことのように思い出された。
 日で炙られた鈍いナイフ。身体を硬い木の枠に縛り付けられ、口には布を詰め込まれて、悲鳴を上げることすら適わない。ただ、裂けんばかりに眼を見開き、涙を流す息子の背を、父は、まるで悦んでいるかのような周到さで、刻み付けていった。皮膚が抉り取られ血が流れる。熱い油が注がれば、燃え上がるかのように痛む。
『お前もこれで、もう、この墓穴からは逃れられん』
 父はマリクを嘲笑った。狂気と、そして、嫉妬の昏い悦びを込めて。
『貴様もこれでこの墓穴の囚われ人となったのだ。もう永遠に、お前も、生きたままに死人として生きる定めから、逃れられんのだ……!!』
 生きたまま――― 死人として。
 痛みのあまり意識を失いそうになれば冷水をかけられ、これ以上痛くしないでと懇願すれば嘲笑われた。恐怖と絶望の余り失禁し、あるいは嘔吐したのも一度や二度ではない。地獄のような時間はどれほどの長さがあったろう。記憶は切れ切れで、最後のころには何を叫んでいたのかすら覚えていない。開放されたとき、マリクは歩くことも出来ないほどに疲れ果て、それからしばらくは満足に床から立ち上がることもできなかった。墓守の一族の当主を継ぐ儀式というのは、それほどに、辛いものだったのだ。
 ……墓守の一族の盟主、イシュタール家の長は、決して、この墳墓から出ることを許されない。
 広大な迷宮墳墓の最奥、覇王の魂を封じた呪具のありかは、代々の当主のほかには知らされない。また、この地上に存在する精霊の中で最も強い力を持つ、『神』と呼ばれる精霊のうちの一つは、イシュタール家の当主の体へと宿される。マリクは今だその精霊の力を知らないが、いずれ、ふさわしい年齢となったとき、彼にはその無比の力が与えられるのだろう。だが、そのような事実もマリクにとってはなんら慰めとはならなかった。
 生きたまま――― 死人として。
 背に手を当てれば、もう、永遠に消しようがなく刻み込まれた傷痕がある。これを追った以上、二度とは外の世界へと出ることを許されない。姉姫であるイシズや、従者あるリシドは、己の役割のためならば太陽の下へと出ることも許されよう。だが、マリクにだけは、それは許されない。彼は永遠にこの墳墓の囚われ人だ。父のように、その父のように、彼は、この暗い地下の迷宮から、逃れることが出来ない―――
 ぴたん、と音がした。暗い水面に小さな輪が描かれる。マリクは、自分が泣いていることに気が付いた。
「……っ」
 慌てて、手で眼をぬぐう。だが、涙はあとからあとから頬を伝った。青黒く濁った薬湯へと落ちていく。
 ……こんな風に、生まれたくなんて、なかった。
 この地下迷宮は、魔力を宿した水晶の明かりに、あるいは、薄暗く揺らめく燭の火に、照らされるばかりだ。夜目の効く彼ら一族には不自由などは無い。だが、マリクは忘れることが出来なかった。たった一度、禁を侵し、枯れ井戸のそこから見上げた太陽の光を。
 その暖かさ、そのまぶしさ、その生き生きとした輝かしさ。
 
 リシド、ぼくはあれがほしいよ。

 ―――なんて愚かしい、なんて馬鹿げたことを、口にしたのだろう。あのときの自分は、まだ、ほんの幼い子どもだったとはいえ。
 三千年の歴史を刻むこの神聖なる王国の、いわば、裏の王ともいえるイシュタール家の当主である者が手に入れることの出来ない、たった一つのもの。それこそが、あの太陽であったというのに。
 美酒も馳走も、あるいは美女も、望めば手に入ろう。歴史の中には己の姉妹を后として王宮へと送り込み、隠然と権力を振るった墓守の主すらいるという。それでも、彼らの中の一人として、地上に出て、その総身に太陽を浴びることだけは、許されなかった。それが墓守の一族の掟だった。

 あれがほしいよ……

 マリクは、己の膝を引き寄せた。身体が薬湯に沈みこむ。あたりを取り巻くものが、ただ、温くぬるつく闇となる。
 何故なんだろう。
 どうしてボクは、たったひとつ欲しいものだけ、手に入れることが出来ないんだろう。
 それが定めだ。分かりきっている。この背に呪わしい証の傷が刻まれた日、マリクにとっての太陽へ通じる扉は、永遠に閉ざされた。あの傷を得ることは己がこの墓の底に生きた死人として封じられることを承諾することに他ならなかったのだ。
 ―――もしも、自分がもっと強かったのなら、あの定めから、逃れることが出来たのか。
 だが、マリクは、ただの気弱い少年に過ぎなかった。生まれたときから、この昏い墳墓の王子として育てられ、他の世界のことなど何一つとして知らない。この暗い墓穴の底を抜け出したところで、いったいどうやって生きていかれただろう。己の気弱さ、力のなさなど、自分自身がもっともよく分かっている。弱いがゆえにこの墳墓の底へと封じられ、生涯、太陽を見上げることすらも許されぬままに終わる。それが彼の定めだったのだ。
 ボクがもっと強かったら……
 己に架せられた頚木を断ち切るほどに、強くなれたら……
 息が苦しくなる。吐き出した吐気が、泡となって浮かび上がる。マリクは顔を上げ、大きく息を吐いた。淡い亜麻色の髪もぐっしょりと薬湯に濡れ、肩へと落ちていた。眼を上げて、けれど、見えるのは薄暗い燭に照らされるだけの浴室の様だ。マリクは目元をこすり、ぬれてしまった髪を絞った。臭い色の雫が滴る。
 ―――そのとき、だった。
 
 ……強さが欲しいか。

 耳に、誰かの声が、響いた。
「!?」
 はっ、と驚き、辺りを見回す。誰も居ない。あたりまえだ。背の傷を見られぬよう、この浴室には禁足が命じられている。誰も居ない――― 居るはずが無い。
 なのに、気配を、感じる。
「……誰だ……」
 呟く声が、震えていた。
 マリクはせわしなく周囲を見回す。薄暗くゆらめく燭。濃くたちこめた湯気。
「誰だ!?」
 怯えた声で鋭く叫ぶ。そのとき、マリクは、背中に何かを感じた。
 身体が凍りついた。
 ―――見ている。
 誰かが、マリクを、見ている。
「……っ」
 その視線。まるで、凍りついたように冷たい。背から氷柱に身体を貫かれるよう。
 身動き一つ、出来ない。
 誰…… と思う。だが、指一本動かない。墓守の一族の子として、マリクも、常人ならぬ魔力を持つ。それゆえに、その、あまりの強大さに身体が怯え、動くことすら出来ない。全身の血が凍りつく。何かが居る。指一本、それどころか、眼差し一つでマリクの命を奪いうるほどのものが。
 怖い。
 怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い―――!!
 その、瞬間だった。
 ふいに、臨界点を超えた恐怖が、堰を、越えた。
 ……ぞわり。
 体の中で、闇が、蠢いた。
《!?》
 ふっ、と全身の感覚が、遠くなる。
 己の意志が、まるで、切り離されたように遠くなる。自分の手足がゆっくりと動き、立ち上がるのを感じた。けれど、それはマリクの意志ではなかった。誰か。別の《誰か》が、マリクの身体を使って、立ち上がろうとしている!
 全身から濃い色の雫を滴らせながら、マリクの身体は、立ち上がる。そうして振り返った。正面から、そこに居る《何か》を見つめた。声が咽から漏れた。常の自分にはありえないような、低く押し殺され、歪んだ声が。
「誰だ……」
 クク、と笑みが胸郭を振るわせる。全身から雫を滴らせながら立ち上がったマリクの手が、掲げられていた燭の一つを、無造作に掴んだ。熱に手のひらが焦げた。その熱と痛みにマリクの心が悲鳴を上げる。だが、その唇はうめき声ひとつこぼさない。
「誰だァ……? 出てきやがれッ!!」
 鋭く叫ぶと同時に、燭を、力任せに投げつける。
 がしゃん、という鋭い音と共に、燃える油が、飛び散った。蒼い火が飛沫する。破片が飛び散り、熱い油と火とが、壁に叩きつけられた。

 ……

 その気配は、しばし、マリクを見ていたようだった。だが、やがて、ふっ、と視線が途切れる。同時に凍てつく様な威圧感も、消滅する。
 ふいに、外から、ばたばたと足音がした。浴室の入り口に吊るされていた布が乱暴に跳ね除けられる。飛び込んできたのはリシドだった。呆然と立ち尽くしたマリクを見て、「マリク様!」と悲鳴を上げる。
 壁には砕け散った燭と油とが飛び散り、薄蒼い焔を上げている。マリクは自分の手を見る。手のひらが焦げていた。なぜ自分がそのような行動を取ったのか理解できない。感じていなかった痛みがなおさらのように戻ってくる。手を抱え、うめき声を上げてしゃがみこむマリクに、血相を変えたリシドが駆け寄ってくる。
「マリク様、何が……!!」
「……」
 何もいえなかった。
 なんだったのだ。あの眼は、あの凍りつくような視線は、自分自身の身体を動かした衝動は―――?
 ただ、マリクは、ぎこちなく顔を上げる。震える声を振り絞った。
「なんでもない…… ちょっと、虫がいて、驚いただけ……」
 リシドはまじまじと眼を見開いている。信じてもらえるわけが無い。だが、マリクは真っ青になった唇で笑顔を作る。どうにかして。
「なんでもないんだ…… なんでもない……」
「マリク様……」
 手のひらに、水疱が膨れ上がりはじめていた。ひどい火傷だった。リシドが気付いて驚いたような顔をする。
 それでもマリクは、その痛みよりなお――― 己の心の中に蠢いた、闇の深さ。そして、ほんの数瞬前に見たい凍て付く様な視線の鋭さのほうを、なお、強く感じていた。
 
 


 

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