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「ヨハン、今日は弁当作ってなかっただろ?」
 だからこれ、と言って十代が差し出すビニール袋を開けると、中には、竹の皮でつつんだおこわやら、なにやらが、タッパーの中に詰め込んである。たぶん港のあたりの惣菜屋で買ってきたんだろう。
「お、イモもち。久しぶりだなー! ありがとな、十代!」
 お前も食うよな? と言いながら、店の入り口にぶらさげた看板をひっくりかえし、《休憩中》のほうを出す。たしか常連のお客がもってきてくれた、おいしいほうじ茶があったはず。ヨハンがお湯やら湯飲みやらを引っ張り出していると、ふいに、《くり―――!!》という悲鳴が聞こえてきた。
「わっ?」
「お、おい、大丈夫かよ、相棒!!」
 どうしたんだ、と顔を出すと、ぽふぽふした茶色い毛玉が、眼を回して十代の腕の中でのびている。《るびー》と誇らしげな鳴き声が聞こえてくるので、思わずヨハンがそちらをにらむと、青い毛並みの小動物が、棚の上でいばったように尻尾を揺らしていた。
「こら、ルビー! またいたずらしたなっ!?」
《るーびっ》
「だから、ハネクリボーをいじめるなって言ってるだろ!!」
《るびるびーっ》
 ぎゃあぎゃあ言い合っている二人(?)を見ていて、眼を丸くしていた十代が、やがて、ぷっと小さく吹き出す。「いいって、いいって」とパタパタと手を振った。
「こいつ、そこにいるでっかいガマのおっちゃんに、気づかなかったんだよ。それでびっくりしたんだ」
 ただの置物だと思ったんだよなあ、と毛並みを撫でる十代に、ハネクリボーは、《くり…》と悄然と鳴いた。大きな眼でちらりと見る方向。そこには、大きな石が、ごろりと転がされている。
 ヨハンはひどく複雑な気持ちになって、十代を見た。
 それは、店主や古い客たちが、《蝦蟇石》と呼ぶ大きな大きな石だ。
 おそらくは瑪瑙だろう、とジムが言っていた。大きさは大人が一人でやっとかかえられるくらい。目の前にはちいさなとっくりと、銀の杯が置かれていて、ヨハンが毎朝掃除をするから、埃一つ積もってはいない。立派な錦の座布団の上におかれていて、ぼこぼことした感じの表面ががまがえるの背中に似ていないことも無かった。その昔にはこの石に触ると水腫が癒えるという話があり、今はそんな利益を信じる人も減ったけれど、来るたびに背中を撫でることが習いになっている客も多いから、石の表面が滑らかになっている。
 見た目がガマガエルににているから、《蝦蟇石》だと、みんなが思っている。―――本当は、違う。
 そのことに気づいたのは、ヨハンが知る限り、自分以外にはほんの数人だけだった。
「なあ、十代……」
 ヨハンは、さりげなく、話を向ける。
「そっちの兎にも気をつけろよ。また脅かされちまうかもしれないから」
「あ、うん。……え、大人しそうなのになあ」
 十代は小首をかしげて壁のほうを見る。そこには、白い翡翠を彫った器がひとつ、置かれている。割れたのをつないだ跡があり、かなり磨り減ってしまっているからわからないけれど、あれは本来はすり鉢、もっというなら乳鉢なのだ。表面に刻まれた兎の模様は、月に住んで薬草を臼でついているという兎、この店の名前の下になった玉兎をあらわしている。骨董としてかなりの価値があるとも聞いている。…・・・だが、ヨハンにとってはさして意味が無い話だった。それよりも、そこに、《玉兎》がいるということのほうが、ずっと意味がある。
 ずっしりとうずくまって、こちらを睥睨しているおおきなガマガエル。そして、ちょんと座って、小首をかしげてこちらをみている白玉の仔兎。
 腕の中でぷるぷると震えている小さな妖精を、笑いながらぽんぽんと撫でている十代のほうへと、ヨハンは椅子ごと向き直った。そして、「なあ、十代」と話しかける。
「昨日の夜、言ってたよな? ……妖精なんて、いない、とか」
「……」
 十代の手が、ぴたりと止まった。
 十代は振り返らなかった。ヨハンはひたりとそちらを見る。《妖精視》グラム・サイトと祖母に呼ばれた、魔力を持った双瞳で。
 気づく人間はごく少ない。ヨハンの眼は、その瞳孔が黒ではなく、わずか、ほんのわずかだが、夕暮れのような橙色に染まっている。魔力を持つ所以。ヨハンの同胞であるアサトルの間では、古い古い英知の神に似る、と呼ばれる特別の眼。
「でもさ十代、この店に来る客のうち、そこにその蝦蟇と、兎がいることに気づくのって、ほとんど一年に一人もいない。ここって結構繁盛してるんだけどさ」
「……」
「お前には、《見えてる》よな?」
 十代が、振り返った。
 しばらくじっとヨハンを見て、やがて、ふっと肩を落とす。笑った。14歳という年齢にはふさわしくない、ひどく、くたびれたような笑い方だった。
「うん、《見えてる》…… おれには、相棒が、ちゃんと見えてる」
 相棒はここにいる、と十代はハネクリボーの毛並みを撫でた。
「相棒はおれの家族で、いちばんの友だちだ。どこにいっても一緒にいてくれるし、おれの話だったらなんでも聞いてくれる」
「だったら、なんで、《居ない》なんて言うんだ?」
「だって、誰にも見えないんだ」
 十代がぎゅっと抱きしめると、丸っこい妖精は、いかにも哀しそうに主人の顔を見上げた。その言い方はただしくない、とヨハンはすぐに自分の考えを訂正する。ハネクリボーは十代の《僕》ではない。《家族》なのだ。
 十代は少しとほうにくれたような顔をして、「たとえばさ」と言った。
「ここにノートがあってさ…… おれがそこに、絵が描いてあるって思う。でも、ほかの人に見せても、誰もそんなもの見えない。百人がさ、見えないっていったら、やっぱりそれは何にも描いてないってことなんじゃないかな?」
 たとえ、おれに見えるとしても、と十代は言った。その言葉には揺らぎが無かった。ただ、諦めが心の水底にまで沈みこんだ、静かな確信だけがある。
 ヨハンは黙った。十代は、肩をすくめて、ちょっと可笑しそうに笑う。世の中には、ただ可笑しそうに笑うしかない哀しみというものがある、とヨハンは思う。
 ハネクリボーが、ちいさく鳴きかけて、黙り込む。ヨハンのほうを見る。真っ黒な眼は何かを訴えるようだった。
 ヨハンは少し考え込む。そして、言った。十代にとっては、棘のように痛いだろう言葉を。
「―――じゃあ、そこにいるハネクリボーも、《居ない》のか?」
「……」
 十代は答えない。ヨハンは軽く手を上げて、「ルビー」と己の使い魔を呼んだ。
 ぴょこん、と身軽に棚のうえから飛び降りてきたルビーは、伸ばされた腕を伝って身軽に走り、肩へと止まると、その尾をくるりとヨハンの首に巻きつける。またたく眼には瞳がなく、ただ、ルビーのようにうつくしく紅い。
「ルビーも、誰にも姿が見えない。オレはいろんな人を知ってるけど、世の中には、ルビーが見える人間より、見えない人間のほうが、ずっと多い」
 でも、とヨハンは言う。
「ルビーはたしかに、ここに、《居る》。……それを信じられなくなったら、オレは、《魔女》じゃなくなっちまう」
 指先を伸ばして咽を撫でてやると、ルビーは嬉しそうに小さく鳴いた。十代はやっぱりちょっと途方にくれたように笑っていた。ながい人生を見てきて、《どうしようもないこと》をいくつも知ってしまった大人ならともかく、14の子どもに、こんな顔なんてしてもらいたくない、とヨハンは思う。
「十代、さっき聞いてただろ。魔法にいちばん大切なことは、《信じること》だって」
「うん……」
「オレはさ、オレを育ててくれたばあちゃんが魔女だったから、オレも魔女になろうって決めたんだ。そんで、ばあちゃんが教えてくれた魔女にとっての一番大切なことは、《変えられるものは変え、変えられぬものは受け入れ、そして、その二つを上手に見分けることが出来る賢い眼をもつこと》だった」
 十代の顔から笑みが消え、代わりに、戸惑いの色が浮かんだ。唇がうごく。変えられるものと、変えられないもの。それは、声にはならなかった。
 ヨハンは、ちょっと笑う。それから腕を伸ばすと、襟ぐりに指を入れた。そこにはルビーの指輪がある。……けれど、もうひとつ、懐から取り出されたものをみて、十代は眼を瞬いた。
「さっきのたとえだけどさ、十代。真っ白なノートを見て、絵が描いてあるのが見えるのが一人だけだったら、それは嘘かもしれない。でも、見えるのが二人になったらどうだ?」
「え…… え?」
「ほら、見たことないかな、色盲用の検査の紙。あれって色盲の人じゃないと見えない文字が描いてある。それは、色盲じゃない人には見えなくても、たしかに《描いてある》ってことだろ? 百人に一人しか見えなかったら、そりゃ、嘘かもしれない。でも、二人に見えたら、もしかしたらその二人だけに見えるように、特別な文字が描いてあるノートだってことかもしれないじゃないか」
 ニッ、と笑って、ヨハンは懐から取り出したものを十代へ投げる。それは小さな革の袋だった。十代はとまどいに眼を瞬き、ヨハンを見る。「開けてみろよ」とヨハンは言った。
 ちょっと戸惑い顔をする。そんな十代の手元からぱたぱたと飛び立って、ハネクリボーが、ちょこんちょこんとその頭をつついた。開けてみるといい、と言っているんだろう。十代はハネクリボーと眼を見合わせ、それから、袋を開ける。
 ―――出てきたもの、それは。
「え…… これ、ブローチ?」
「ああ。こっちの指輪より、もっと古いぜ。なんでも十字軍のころに、騎士がマントを留めるために作らせたものらしいから」
 それは、十字の形をしたブローチだった。太いピンが留めつけられている。分厚い細工の黄金作りに紋章が刻まれ、そして、中央にはおおつぶの青い石がはまっている。ほとんど、碁石ほどの大きさがあるだろうか。完全な丸ではなく、どことなくいびつな形が、それが未熟な研磨技術の産物だと知らせる。四隅に刻まれた模様。牡牛、獅子、鷲、青年。
「そいつは、インドで取れた、古い古いサファイアだ。オレのもう一匹の使い魔が、そこの中に住んでる」
「え……!?」
「でも、条件がむつかしいんだ。ルビーみたいにいつでも一緒、ってわけにはいかなくってさ」
 ヨハンは笑った。そして言う。
「試してみないか、十代? お前のノートが真っ白かどうか」
「どういう、ことだよ?」
「そのサファイアの中に住んでいるやつは、普段は、オレにも見えない。今は十代にも見えないだろ」
 でも、とヨハンは言う。
「これから、次の満月までに、オレはそいつを呼べないかどうかを、試してみる。……今日が月齢7だからな。今からなら、十分に間に合うぜ」
 十代は手の中のブローチをじっと見下ろした。大粒の、真っ青な石。その色彩は深海のように深く、わずかに灰色がかかっていた。
「もしも召還に成功したら、それは、本当に妖精が《いる》って証拠になる。賭けてもいいぜ」
 ヨハンは、少しばかり挑むように言う。十代はわずかに戸惑い顔になる。
「……でも、それが、おれにどう関係があるんだよ。だって、この中にいるやつって、ヨハンの使い魔なんだろう?」
「いいや、これには十代の協力が、絶対に必要なんだ」
 ヨハンは手を伸ばし、ブローチを持つ十代の手に、手を重ねた。そして、ぱちんと片目をつぶってみせる。
「言っただろ、《信じる》ことが、魔術には一番必要なんだって。つまり、十代が《信じて》くれないと、この魔術は成功しない」
「信じる……」
「《信じて》くれるだろう?」
 十代は、ヨハンの顔をまじまじと見る。ヨハンは澄んだ碧の眼に笑みを浮かべて、ただ、自信に溢れた眼で、十代の眼を見つめ返す。








 ―――七回、太陽が昇り、沈んだ。
 そして、東の空から、丸く満ちた黄金の月が、昇ってくる。
「さぁーて、寝よ、寝よ。お休みー、オブー、ジムー」
「Good night」
「ああ、お休み」
 いつものように、まだ10時前だというのに、寝巻きに着替えたヨハンが、自分の部屋へと引っ込んでいく。それを見て、ジムに並んでテレビを見ていた十代も、なんだか落ち着かない風になってきた。ショートパンツの尻を居心地が悪そうにもぞもぞと動かす。「どうしたんだ」とオブライエンに言われ、「うん」とあいまいに答えた。
「……えーと、おれも、もう寝るな」
「What? ずいぶん早いな」
「うーん、うん。……じゃあ、おやすみっ」
 そう言って、目の前においてあった麦茶を勢いよく飲み干すと、十代はソファから立ち上がる。「行くぞ、相棒」と空中へ声をかけて、そのままぱたぱたと走って行った。二階へとあがっていく足音が、とんとんと聞こえてくる。不思議そうに二階を見あげ、それから、肩をすくめた。
「一体どうしたんだ、あの二人は」
「なんでも、賭けだそうだ」
「……かけ?」
「ヨハンは、《魔女としての誇り》がどうこうと言っていたが」
 ヒュウ、とジムは口笛を吹いた。調子はずれな音で。
「そりゃあ、すごい」
 ヨハンは、一見たおやかな青年といった風の見た目をして、その実、おそろしく気が強いところがある。言われて苦い顔をするオブライエンなどは、このジムハウスで同居を始めたばかりのころには、そのせいで何度も煮え湯を飲まされたものだ。
 やはり、世間からは胡散臭い眼で見られてあたりまえの、《魔女》などという身分を自称しているせいだろう。ヨハンは己の信念に対してはおそろしく頑固なところがある。そのヨハンが、《誇り》などという言葉を持ち出す。―――ただですむわけがない。
「おい、オブライエン。今夜はカレンと寝たらどうだ?」
「……貴様、言うに事欠いて、このオレに猛獣とひとつの部屋で寝ろと言うのか」
「ヨハンの精霊と、カレンだったら、カレンのほうが絶対に安全だと思うぜ」
 せいぜい、尻尾でビンタされて痛いくらいだろ、としれっと言う。オブライエンは思わずこめかみを揉み解した。



 屋根裏の、十代の部屋。
 今ではマットレスも毛布もきちんと買い揃えられて、街を見下ろせる小さな部屋は、たぶん、どこよりも一番居心地がいい。ほんの少しばかりの十代の荷物は床にじかに敷いたマットレスの側に放り出されている。パジャマ代わりのジャージに着替えて毛布にもぐりこんだ十代は、なんとも落ち着かない気持ちで、窓の外に上っている満月を見上げた。
 丸い月。余りに丸いから、まるで、クッキーの型でぽこりと空を抜いたようだ。おちつかない気持ちでごそごそしていると、《くり…》と鳴き声がする。ふわふわした毛皮が頬に触れた。
「相棒……」
《くり、くりー》
 ちいさな手で、よしよし、と十代の髪を撫でるハネクリボーは、心配するなと言っているのだろう。まるでぬいぐるみみたいにかわいらしい見た目をしているくせに、ハネクリボーはいつだって、十代のことを誰よりも想ってくれる存在だった。なんでも相談できる、一番大好きな、大切な家族。十代は手を伸ばして、ぎゅっとハネクリボーを抱きしめる。
「ヨハンの魔法って、なんだろう……?」
《くりー…》
「魔法とか、妖精って、ほんとに……」
 言いかけて、途中でやめる。それを言うのは、ハネクリボーがあんまりに可哀想だ。
《くり?》
「ん、なんでもない」
 ぎゅ、と頬を押し付けると、ふわふわした感触が頬にきもちがいい。ハネクリボーの毛皮の感じは、十代が知っている、ほかのどんなものとも違っていた。たとえばふわふわした兎のしっぽ、ひなたで風にゆれているたんぽぽの綿毛、夜中にぼんやりと燈った燈篭の明かりの光そのもの、そんなすべてを合わせたみたいな感じ。
 自分がこれを感じているのは、まぎれもない事実だ、と十代だって、思っていた。
 ハネクリボーは、十代の幻覚なんかじゃない。ちゃんと心と魂を持った存在だ。ただ、人に姿が見えないだけだ。でも、それを言ってもだれにも通じない。証拠がなければ、誰も、何も、信じてもらうことなんて、出来ない。
 考えていると、ハネクリボーが、心配そうに十代の顔を見ている。十代は、笑った。こういうときには笑うものだ。
「なあ、相棒。こうやって満月を見てるとさ……」
 まるで、向こう側の世界から、光が洩れてるみたいじゃないか?
「向こう側の世界って、なんなのか、よくわかんないけど。ははっ、変かなあ?」
《くり、くり〜》
 ぜんぜん変じゃない、と言うように、ハネクリボーはぷるぷると首を(というよりも、体全体を)横に振った。
 見上げる窓ガラスの向こう、藍色の空に、卵色の月が昇る。空に、金色のガラスをはめ込んだような月が。
 月は、空にはめ込まれた窓ガラスだ。もっと明るい、もっと優しい、もっと光に満ちた世界へと、繋がる窓の。
 そんな風に物思いにふけっていると、あくびが出てくる。十代は毛布を引っ張りあげて、ハネクリボーを抱くようにして、寝返りを打つ。
「ヨハン、何をしてくれるのか、な……」
 つぶやく声は、ほとんど半分寝言のようだ。ハネクリボーは少し眼を細めると、そのふわふわとした毛皮を、十代の寝顔にそっと寄せた。

 そして。

「―――だい、十代?」
 コン、コン、と音がした。まるで、誰かが外から窓を叩くような音が。
 十代は、寝惚け声を漏らしながら、寝返りを打つ。ぼんやりと眼をこすりながら見上げると、窓から降り注ぐ月の光が昼間のように明るい。満ちた月が、天の中央に昇っていた。金色の窓のような月が。
 そして、その月を、背景として。
 一頭の、美しい獣が、そこにいた。
「……う、そ」
 眠気も何も吹っ飛んだ。起き上がった十代の肩から毛布がすべりおちる。窓の下あたりからなだらかになった陶の瓦を葺いた屋根。そこに、白い、まぶしいほどに白い幻獣が、立っている。
 それは、背中に白鳥のような翼を持った、光るように白い、天馬だった。
 額に伸びる角は、透き通る青。瞳には英知の光。そしてその背からすべりおりたヨハンは、その獣の首を、したしげに叩く。
「ほら、サファイア。こいつが十代だぜ」
《なるほど、これがヨハンと同じ眼を持つ少年か》
 天馬の背から降りたヨハンは、裸足で屋根にたって、コンコンと窓を叩く。開けてくれ、というように、にっこりと笑った。
 しばし呆然としていた十代は、あわてて窓に飛びつき、開け放った。ふわりと、夜の香りをたっぷりと含んだ風が入り込んでくる。癖の強い十代の髪を揺らす。月の光にうつくしく透ける、ヨハンの、翠の髪も。
「こんばんは、十代。いい月だな」
「ヨ、ハン」
「賭けはオレの勝ち、だろ?」
 ヨハンは笑う。うれしそうに、そして、子供のようにあどけなく。
「でも、十代のおかげで、オレもひさしぶりにサファイアに会えた! すごく嬉しいぜ…… ありがとうな、十代!」
「え、え?」
 天馬は、まるで幼い弟でもみるような優しい眼で、ヨハンと十代の二人を見た。そして言う。その声は温和さと力強さを兼ね備え、どこか、古風な騎士の風情すら感じさせた。
《私の名は、サファイア・ペガサス。このヨハンの一族に仕えていた精霊獣だ》
「でも、ずうっと逢えなかった…… 実はオレも、すごく久しぶりなんだ。サファイアと会えるのは」
 ヨハンは天馬の首へとぎゅうっと抱きつき、嬉しそうに、少し懐かしそうに、笑う。そして、呆然としている十代を振り返ると、「来いよ!」と手を差し出した。
「い、行くって、なんに?」
「どうせだから、空中散歩しようぜ! サファイアだったら、月までだって、つれてってくれるぜ」
《さすがにそれは私でも無理だぞ?》
「いいじゃんか、久しぶりなんだから、あんまり硬いこというなって」
 ほら、とヨハンが手を差し出している。十代は、半ば呆然と、目の前の光景を見上げた。
 藍色の空。金色のガラス窓のような月。海の泡のように、真珠母のように、雪のように白い、青く透き通る角の天馬。
 そして、己に向かって手を差し出している、白樺の若葉のような髪、浅い海のような瞳の、妖精のような、青年。
 ―――やがて、十代の胸の奥から、湧き上がってくるものがある。
 それは、何の曇りも無い、純粋な喜びだった。
 まるで魔法のような夜。そして、そこへと招びの手を差し出されているという、その不思議なときめき。
 十代は、ヨハンの手をとった。なんのためらいもなく。
「よし、いくか!」
「うん!」
 ヨハンは十代を抱き上げると、天馬の背へと乗せる。自分もまた、十代の後ろにまたがった。天馬の銀のひづめが、カッ、と音を立てて瓦を蹴る。次の瞬間、大きな翼が風にひるがえるようにひらめいて、天馬は、空へと舞い上がっていた。
 みるみるうちに、尖った屋根が、風見鶏のドラゴンが、小さくなる。遠ざかる。木々のこずえが、ハーブが伸び放題の庭が、カレンが居眠りをしているプールが、小さくなる。見る間にミニチュアのように小さくなり、風の中で、すべての下界のものたちが、夢のように遠ざかっていく。
 中天に金の月。街は、半ば暗闇に包まれて。けれど、街灯や、駅の明かり、高速道路の水銀灯は、まるで光る箱庭のように、ちいさな町を照らし出していた。遠ざかっていく。天馬は翼を力強く羽ばたかせ、飛んでいく。淡い真珠色に輝く雲を目指し、そのさらに上へと。黄金の月へと。
「うわぁ……!!」
 歓声を上げ、街を見下ろした十代は、ふいに気づいた。小さな羽の生えた妖精もまた、羽ばたきながら、側を飛んでいる。藍色の毛皮の、紅の眼の、小さな獣も。
 慣れない十代が、鞍もない背から滑り落ちないよう、後ろからしっかりと抱きしめたヨハンの腕。そのぬくもりを感じる。ふいに、耳元に、内緒話をするように、ささやかれる。興奮を隠せない声で。
「なあ、知ってるか、十代。月ってほんとうは星じゃないんだぜ」
「え……!?」
「あれは、窓なんだ。もうひとつの世界があの向こうにあるんだ」
 驚きに振り返ると、ヨハンが笑っていた。まるで小さな子どものように、なんの混じりけもなく、ただ、嬉しそうに。
「―――《魔女》しか知らない、秘密だけどな!」
 澄んだアルトが、いたずらっぽく、また、幸福そうに、高らかに響く。胸がふいにいっぱいになって、十代もまた、笑った。こんなに笑ったのはひさしぶりな気がした。己の背に乗った子どもたちの笑い声に嬉しげに目を細め、天馬は、その白い翼をひらめかせる。さらにたかく、雲より高く、黄金の月のほうへと、まっすぐに。
 眼前には海。無限にひらめく波頭が月の光にかがやき、島々がちいさくなり、夜釣りの船が灯す明かりが、空の星よりも小さく見える。頭上にはいつしか星空が広がっている。世界中の宝石を、残らず盗み出し、ぜいたくにまきちらしたような星が。
 白い白い天馬は、二人の少年を乗せて、高く高く、藍色の空へと、翼を広げていった。高らかな、幸福な笑い声を、後に残して。





 ―――かすかに、何か大きな鳥が飛ぶような音が、聞こえた気がした。
 なんだろう、と小首を傾げ、ジムが窓から顔を出す。帽子を押さえて空を見上げると、ふと、真珠のように白い流れ星が、空をよぎるのを見たような気がする。眼を瞬く。後ろからオブライエンが、「虫が入るぞ」とあきれた声を出した。
「おっと、Sorry」
「コーヒーを入れたぞ。何を入れる?」
「ちょっとまってくれ。今、コニャックを出す。ロワイアルにしようぜ」
 やれやれ、と肩をすくめるオブライエンは、付き合う気はないらしいが、止めるつもりもないらしい。カフェ・ロワイアルは、角砂糖にコニャックをしみこませ、火をつけてアルコールを飛ばし、その後に香りだけをコーヒーへと移すという凝った飲み方をするコーヒーだ。専用のスプーンはどこだろうかと台所をかき回しているジムに、ふと、自分はブラックでコーヒーを飲んでいたオブライエンが、思いついたように言う。
「そういえばヨハンが、ひさしぶりにあのブローチを出していたな」
「ああ…… あのガラス玉のか」
 わざわざ豆を挽いて淹れるこの下宿のコーヒーは、下手な喫茶店で飲むよりも、ずっと薫り高く、また、深い味がする。凝り性のヨハンがわざわざ買ってきてくれるだけのことはある。
 ふと顔を上げたジムが、「そういえば、なんでヨハンは、ガラス玉のブローチなんて持ってるんだ?」と言った。
 それは、まるで真正品のように精巧に作られた、アンティークのブローチの、レプリカだった。おそらくは中世時代のものだろう。牡牛、獅子、鷲、そして青年。四つの福音書を記述した偉大なる福音者を配した、グランド・クロスと呼ばれるモチーフ。もしも本物だったなら、どこの国の美術館にあっても不思議は無いほどに美しい品だった。
 だが、どれほど美しくても、偽者は偽物だ。ヨハンはその生業からか宝石の類を好むが、基本的にはすべてが本物に限られていた。たとえどれだけ美しくても、合成の石には一切興味を示さず、むしろ、価値においては低い天然の水晶のたぐいを珍重するくらいだから、極め付けだろう。そんなヨハンが、ガラス玉のブローチを、宝物のように大切にしている。
 オブライエンは、ノートパソコンから顔を上げた。すこしばかり妙な顔でジムを見る。そして、「聞いていないのか?」と言った。
「あれは、ヨハンが大切にしている指輪と同じ、家に代々伝わっていた宝石の、レプリカなんだそうだ」
「レプリカ?」
「本物は、ヨハンが生まれたばかりのころに、祖母が手放してしまったらしい。……あいつの手術費を賄うためにな」
 今は、誰にも負けないくらいの健康体であるヨハンが、幼少のころはひどく虚弱な子どもだったらしいということは、ジムもオブライエンも、知っていることだ。
 それどころか、生まれつき背骨に障害があったせいで、もしかしたら生涯ベットから起き上がれないかもしれない、とまで言われていた、とヨハンはカラリと言う。まだ一歳にもならないうちに大手術を受け、その後も何度も入院して治療を受け、ようやく今のような健康な身体を手に入れることができた。その経験のせいなのだろう。ヨハンが医者を信頼しているくせにひどい病院嫌いで、よっぽどのことがないかぎり、市販の薬ですらいやがるほどなのは。
「祖母上がひとりであいつを育てたというから、大変な話だろう…… まして、年を取るごとに手術をしないとならないとはな」
「だから、あれだけおばあちゃんっ子、ってわけか」
 ジムは納得したように言い、それから、「おっ」と声を上げる。たくさんのスプーンの中から、カフェ・ロワイアル用のスプーンを見つけ出したのだ。
「だが、大変だな。あいつは本物の宝石を使わないと、使い魔を呼べないんだろう? それじゃあ、ヨハンのおばあちゃんは、ヨハンのために使い魔を手放した、ってことになるじゃないか」
「……本物も偽物も、あるのか?」
「あるに決まってるじゃないか。護符タリスマンは《魔女》の命だぜ?」
 ジムは大真面目な顔で言う。オブライエンはしばらく黙っていたが、それ以上は何も言わない。同居して長いのだから、そのあたりの折り合いは、とっくの昔についていた。
「ああ、でもヨハンが言ってたのは、そういうことかあ……」
 嬉々としてスプーンをカップに渡し、角砂糖を乗せ、コニャックの蓋を開けながら、ふと、思いついたようにジムが言う。「どういうことだ?」とオブライエンは問う。
「いや、信じるのが一番大切、って話さ」
「……?」
「大昔は、サファイアの幻獣と話が出来た、でも、あるときから会えなくなった、みたいな話を昔してたのさ。つまり、こういうことだろう。祖母が自分のためにほんとうのサファイアを手放してしまった、手元にあるのはただのガラス玉、そうなってしまって、幻獣が呼べると信じられなくなった……」
 ジムは注意深くコニャックをたらし、そして、今度は火をさがしてきょろきょろと周りを見回す。オブライエンがため息をつき、ちかくのテーブルから、マッチを出してきてくれた。
「《信じること》が、魔術の本質か……」
「そういうもんさ」
 ごく気楽にそう答えて、ジムは、マッチの火を角砂糖に近づける。うつくしく青い焔が燃え上がり、豊穣なアロマが香りたつ。ジムは満足げに笑い、そして、ふと気づいたように、ふたたび窓の外を見る。
 真珠色の流星はもう見えない。ただ、さっき窓をあけたときに入り込んできたものか、一匹のミルク色の蛾が、はたはたと、羽で窓を叩いていた。







今回はヨハンの使ってるいろんな用語について解説!

善いお隣さん《シーリー・コート》
妖精のこと。そのなかでも、人間に近しい場所に暮らしていて、悪さをしない妖精をこう呼ぶ。ただし、妖精たちの怒りをかわないため、名前を呼ばないための偽名的な部分もあるため、こう呼ばれている妖精のすべてが善良かというとそんなことはない。人間の赤ん坊や女性をさらったり、妖精を怒らせた人間をリューマチなどに罹らせたりするのもこの連中だった。ちなみに、善くないお隣さん《アンシーリー・コート》という言葉もある。

妖精視《グラム・サイト》
妖精を見ることができる特別な視力のこと。先天的なもののこともあるが、物語などでは往々にして妖精から特別な塗り薬を盗んで眼に塗ったりした結果、手に入れられる。これのない人間が妖精を見るには、穴の開いた石から覗いてみるなど、いろいろと工夫が必要だとされていた。

魔女《セイドコナ/セイドカー》
北欧神話の神々を信望するアサトルを信仰する、北欧のシャーマン。ちなみにアサトルは『アース神族に対する信仰』を意味するため、場合によってはオーディンを信仰する『ヴァナトル』、総称として『ヒースの野に住むものたちの信仰』を意味する『ヒーザニズム』と呼ばれたりと、なにかとややこしい。ちなみにヨハンはいろいろひっくるめてかなり適当なことを言っているのであんまり信頼しないほうがいい。アサトルのシャーマンは、女性の場合は《セイドコナ》、男性の場合は《セイドカー》と呼ばれる。基本は女性であり、《セイドカー》は非常に希少な存在のようだ。

お守り《チャーム》
文字通り、お守りのこと。アサトルにおいてはルーン文字を使った護符魔術、《トウヴァ》をつかって作成することが多い。ただし、例に洩れずヨハンがやってることは自己流でかなりいい加減。まねはしないように。

護符《タリスマン》
金属の板に神名や呪文を刻んで作る、チャームよりも本格的な魔道具。ヨハンの場合は使い魔を召還するために使用している宝石のこと。

ウラル(地名)
ロシアにある山脈の名前。ヨハンのもってる指輪のルビーはここで掘られた。昔は非常に多くの宝石を産出し、当時のロシア皇帝の名を付けられたアレキサンドライトなんかもここで見つかった。パーヴェル・バジョーフの『石の花』などの童話から、東欧における非キリスト教的な伝承が垣間見えて面白い。ちなみに13カラットのルビーはどう考えても一般人の入手できるものではない。

リンデン/ベルベーヌ/セント・ジョンズ・ワート
それぞれ『菩提樹の葉』、『レモン・ヴァビーナ』、『西洋オトギリソウ』のこと。前者は精神の沈静などに効く比較的おだやかなハーブだが、セント・ジョンズ・ワートは大量摂取すると中毒を起こすこともある非常に強いハーブ。ご利用はくれぐれも計画的に。

今回の資料(参考)
ハーブの辞典 北野佐久子 東京堂出版 *ハーブブーム以前の本なので、逆に記述がいちいち詳細で誠実。すごく分かりやすい。
実践 悪魔学入門 楠瀬啓 二見出版 *ひどいタイトルだけど、中身は実践から理論までひっくるめて扱う《魔女学》入門的な本。お役立ち度は高い。

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