Step:3
丘の上には魔女の家
―――心が哀しくて眠れない夜には、薬草で入れたお茶を。リンデン、ベルベーヌ、セント・ジョンズ・ワート。そうしてもう一つのおまじない。茶色い糖蜜をたっぷりと入れて焼いたジンジャーのクッキーを一枚。
今となっては誰も信じてくれない…… そしてヨハン自身すらも信じていないことだが、小さい頃のヨハンはひどく泣き虫で、そして、いっそ虚弱体質といっていいくらいに身体の弱い子どもだった。寒くなればすぐに喘息を起こしたし、二時間も電車に載っていれば疲れで全身にじんましんが出来た。そして、なによりもやっかいだったのは、夜泣きの癖だ。
「ヨハン、お前みたいな子が生まれることは、今の時代だと、ほんとうに珍しいことだよ」
あのころ、祖母の家で暮らしていたヨハンは、真夜中に泣きながら眼を覚ますたびに、そう言われ、祖母の膝にすがりついていたものだ。そんなとき、祖母は決まって、その指でヨハンの細くやわらかい髪を撫でた。ふるさとでは短い夏にしか見ることの出来ない色彩。春先に枝の先へと萌え出る若葉を太陽に透かした彩、その、あざやかに透き通った翠の色をした髪を。
「おまえみたいにきれいな髪と目をしている子どもは、妖精がほしがるから。そうやって身体にできものが出来るのも、咽がぜいぜい言ってしまうのも、妖精たちがお前を取ろうとしている証拠なんだよ」
「おばあちゃん、妖精に連れて行かれたら、どうなってしまうの…?」
「さあねえ。大昔のお話だと、ほんのたまに、妖精につれていかれたのに、戻ってきた人たちの話もある。けれど彼らはずいぶんと様子が変わってしまって親兄弟すら誰だかわからなくなっていたり、逆に何百年も時間が過ぎてしまって、知っている人は誰一人として生き残らなかったという話もある」
ほんの、子供だましのおとぎ話だと、思う人も多いだろう。
けれど、ヨハンにとっては、祖母の話は切迫した恐怖に他ならなかった。思わずその刺繍を施したエプロンにすがりつくと、窓の外からキラキラとビーズのように光る目が、何対も、何対もこちらを見ていることが分かった。枯れ枝のような指。細かすぎる尖った歯の並んだ口や、くちばし。そして、それどころか口すらなくて、代わりに大きな根を掘り返したようなひげ根を顔の下半分に生やしているものたち。
「おばあちゃん、怖いよ…」
「しかたがないんだよ、ヨハン。お前は妖精視 を持って生まれてしまったんだから」
「あんなもの、見えないほうがいいのに…!」
「そういうことを言うのはおよし」
祖母は、ヨハンの頬を叩いた。ごく軽く、痛みを感じないほどに優しく、ではあったが。
眼いっぱいに涙を浮かべて見上げるヨハンに、祖母は、大きなマグカップで入れた薬草のお茶を移してくれる。厚い陶器でつくられたマグカップがふたつ。片方には砕いたハーブを入れて湯を注ぎ、もう片方にはただまじりけのないお湯だけを注いだ。その湯を捨て、茶漉しでこしてもう片方のカップから注ぐと、薫り高い薬草の茶が出来上がる。祖母は「お飲み」といって、カップをヨハンに渡してくれた。
「ベルベーヌは心を落ち着かせ、リンデンは精神を鎮めてくれる。そうして、セント・ジョンズ・ワートは、悪い妖精や夢を、追い払ってくれる」
「うん……」
受け取って、そっと、口をつける。かすかに埃っぽいような味と同時に、暖かな温度と、やわらかい香りが感じられた。
「幸運で不憫な子、あたしのヨハン」
祖母が、そっと、髪を撫でてくれる。皺だらけで小枝のような指には、おおつぶの赤い石の指輪がひとつ、光っている。
「お前は大人になったら、きっと、魔女 にならなくてはならないね」
「おばあちゃんみたいに?」
「あたしは足りない魔女だ。かわいいヨハン、お前はもっとすぐれた魔女になる。……ならないといけないね。さもないとお前はきっと、どこかで闇に足を取られて、妖精たちの世界へ連れて行かれてしまうよ」
ぞくり、背筋が冷たくなった。ヨハンはあわてて祖母の膝にしがみついた。
「そんなの、やだ……」
「ならば、よく学び、よく識り、よく考えることをお覚え」
祖母の手がヨハンの髪を撫でる。細くやわらかい、しなやかな髪を。
「変えられるものは変え、変えられぬものは受け入れ、そして、その二つを上手に見分けることが出来る賢い眼をおもち」
それが、と祖母が言った。
「あたしたち魔女にとって、いちばん大切なことなんだからね……」
―――そう、ヨハンは今でも、覚えている。
哀しい心で眠れない日には、リンデン、ベルベーヌ、セント・ジョンズ・ワートのお茶を。
それと、髪を撫でてくれる誰かの優しい手。それさえあれば、どれほど悪い夢も、恐ろしくは無い。
なぜなら夢は、現実の半分も、おそろしいことをすることなど、出来ないのだから。
めずらしくも真夜中、ヨハンは、自分のベットの中で、眼を覚ました。
「ん……」
眼がはれぼったくて重たい。ヨハンは拳で眼をこする。なんで眼なんて醒めたんだろう。そう思ってぼんやりと目を開けると、誰かが(何かが?)が、ぴょこたんぴょこたんと、しきりにベットの上で飛び跳ねている。真っ赤なルビーのような眼と大きくとがった耳、藍色の毛並みと、尾の先にも光る大粒のルビー。己の使い魔である、ルビー・カーバンクル。
「どうしたんだよ、ルビー……」
《るびっ、びー!!》
何がなんだかさっぱりだ。ヨハンにはルビーの言葉など、ちっとも分からない。大あくびと伸びと目元をこするのを器用に同時にやってのけ、それからヨハンは、ぴょこぴょことベットの上を走り回っているルビーの尾を、ぐいとばかりに捕まえた。
《るびびー!!》
「安眠妨害だぞー…… 何があったんだよ」
《びーっ、るびーっ》
「……っても、聞いても無駄かあ」
はあ、とため息をつくと、ヨハンはベットから起き上がる。鎧戸を閉ざしていても、その隙間から月光が入ってくる。ヨハンの部屋を照らし出す。
もともと、この部屋は、食堂になるために作られたようだった。部屋全体が妙に細長いかたちをしていて、片側にだけ並ぶ窓から白々とした月の光が降り注いでくる。照らし出されるのはベットではなく布団だ。日本へと来てはや4年ばかり、ヨハンにとっては、簡単に干したり洗ったりできるうえに、たたんで収納することが可能な布団のほうが、ベットよりもだいぶ性に合っていたらしい。
占いに使うための大きな硝子の水盆や、革で装丁された古い本。ふさわしい時期に収穫したハーブの束や、小さな瓶に入ったエッセンス。ごつごつとした原石のままの何種類もの宝石は、木枠で碁盤の目のように区切られたケースの中へと収められている。
ちょっとだけ見れば、まるで、占い師か何かが暮らしている部屋のよう。だが、枕元には安く買い叩いてきたノートパソコンがあるし、暇ついでに買ってきたインディアンジュエリーや古着の雑誌も転がっている。自分で《魔女》を自称しているからと言っても、ヨハンとて、枯れきった老人というわけではない。まだまだれっきとした、遊びたい盛りの青年なのだ。
携帯電話の時計を見ると2時だった。宵っ張りのジムだったら起きていることもあるはずの時間だが、今日はあいにくジムどころかオブライエンもいない。ひとりぼっちで留守番…… 否、十代がいるはずだ。
ふと気づいて頭上を見上げると、ぎし、ぎし、とかすかに軋むような気配がする。尻尾をつかまれぶら下げられていたルビーももがくのをやめた。ぱちくりと眼を瞬きながら、不思議そうに、頭上を見上げる。
「うーん」
ヨハンはしばらく考え、やがて、立ち上がる。そうしてパジャマの上から寒さよけに適当なジャケットを羽織ると、部屋を出た。
広い屋敷だが、一階では巨大なホールをとりまいて、ほとんどの部屋が見渡せるつくりになっている。ステンドグラス越しに赤や青に染まった月光を覗けば、明かりらしいものはひとつだけ、台所から洩れてくるものだけだった。
「十代?」
ひょいと覗き込みながら、何気なく名前を呼ぶ。だが、まったく予想をしていなかったらしい。ちいさな背中の少年は、文字通り、飛び上がって驚いた。
「ヨヨヨ、ヨハン!?」
「何やってんだよ?」
ハーフパンツと、襟の辺りがのびきってしまった古いTシャツ。そんな姿の十代は、なぜか、冷蔵庫の前にうずくまっていた。開きっぱなしのドアから冷たいオレンジ色の光が洩れている。……そして、十代の手元には、空になったヨーグルトのカップやら、半分剥かれた魚肉ソーセージの皮やらがちらばっていた。ヨハンはあきれ返ってしまう。
「腹減ったのか? 晩飯が足りなかった? だったら、言やあ良かったのに」
……まさか、こんな盗み食いのようなまねなんて、しなくっても。
十代はいささか困った顔で、手につかんだままの半欠けのソーセージを見て、そして、ヨハンを見た。それから、ぼそぼそと、言い訳とも弁解ともつかないことを言う。
「あのさ、眠れなくってさ、暇で暇で」
「だから、モノを食いにきたのかぁ?」
「う、うん」
ヨハンはあきれ返る。普通、人間は、《退屈だから》という理由で、真夜中にモノを貪り食ったりしない。
―――口にものを入れるという行為は、無意識の不安をやわらげる効果があるというが。
やれやれとため息をついて、ヨハンは、組んでいた腕を解いた。
「そんなもん食ったら、腹を壊しちまうぜ。今からパンを切ってやるから。チーズ、全部食ってないよな?」
横から十代の側をすりぬけて、冷蔵庫を覗き込む。そんなヨハンに、十代が、眼を丸くする。
「え、ヨハン、その」
「怒りゃしないよ」
あっさりとヨハンは言った。そして、自分の襟元を指して、「こいつがな」と言う。
ルビーは、その長い尻尾をヨハンの首に絡めて、肩の辺りにしがみついていた。ルビーは十代がお気に入りだ。十代を見て、《ルビっ》と、挨拶ともなんともつかない鳴き声をあげる。
「ああ、でもそっちのぽふぽふしたのとはあんまり仲良くないみたいだから。見張っててくれよ。ケンカでもはじめたら大変だからさ」
「う、うん……」
ぽふぽふしたの…… ハネクリボーは、十代の背中の後ろに隠れて、なんとも不審に満ちた目でルビーをにらんでいた。この二匹は、あったその日の翌日に、はやくもルビーがハネクリボーの羽から羽の一枚ををむしりとろうとしたときから、宿敵同士の関係なのだ。
「あと、お茶も入れるよ。普通のだと眼が醒めちまうからな」
「そ、そうなのか?」
「ああ。カフェインとか、いろいろ…… でも、安眠に効くお茶が別にある。そっちのほうがいいだろ?」
片手にパンを、もう片手にバターをつかんで、ヨハンはにっこりと笑った。十代はなんともばつが悪そうな顔で、こくんと頷いた。
もう外が真っ暗だから、ハーブを摘むわけにもいかない。だが、冷蔵庫の中にあるものだけでも、ちょっとした夜食を作るには十分だった。
ライ麦の入った黒パンを厚めに切って、そこにパセリとタラゴンをいれて作ったバターをたっぷりと塗りつける。胡桃のチップで燻製したチーズを薄く切り、そして、ジムがつまみ代わりに開けた残りのオイルサーディンも乗せてやる。それから安眠に効くお茶を入れた。リンデン、バーベイン、セント・ジョンズ・ワート、と思い返しながら。
分厚いカップにハーブティを入れて戻ると、十代がソファの上で膝を抱えている。短めのズボンから覗く膝はやせていて、足首などはヨハンなら一掴みに出来そうなくらい細かった。「ほれ食え」とサンドイッチを差し出してやると、十代は眼を丸くする。
「すげえ! これ、今作ったのか!?」
「たいしたもんじゃないぜ。本当に適当だし」
あとこっちはお茶、とマグカップを差し出す。受け取った十代はおそるおそるひとくちすすって、それから、妙な顔になった。ヨハンは思わず笑ってしまった。たしかにまったく慣れていなければ、奇妙な味だと思うだろう。笑いながら自分もソファへと腰掛けて、ヨハンは膝に頬杖をついた。
「それは安眠に効く。悪夢も追い払ってくれるんだぜ」
「そんなことも、出来るんだ……」
「うん。オレがちっちゃったころには、ばあちゃんがよく淹れてくれたなあ」
しみじみと思い出にふけるヨハンに、十代の眼が、ふと、止まる。何をみているんだろうと思って視線の先を見ると、それはヨハンの胸元だった。そこには指輪があった。祖母の形見、大きな紅い石の入った、古い古い指輪が。
「それ、何だ?」
「あ、これ。ルビーとの契約石だよ」
「契約?」
るびっ、と鳴いて、青い小動物はテーブルに飛び降りる。短い前足でくるくると耳の後ろを掃除しはじめる。猫に似ている、とヨハンは思い、すぐに打ち消した。ルビーが似ているのはルビー自身だけだ。妖精というのは、そういうものなのだ。
丈夫な革紐に通して胸につるしている指輪を持ち上げて、ヨハンは、十代の目の前にそれをかざした。おおつぶの宝石にはカットがほどこされず、ただ、ややいびつな風の丸い面を見せている。混ぜ物の多い地金は、金というよりも真鍮のような色をしていて、そして、唐草模様に周到に混ざりこませて、いくつものルーンが彫りこまれていた。
「昔、ロシアのウラルで採掘された、13カラットのルビー…… 何世紀前のものだって言ってたっけ」
「13カラット!?」
「目分量だけど。台座から外して、きっちり図ったことがないらしいから」
代々の女たちが己の指に飾っていた指輪だが、ヨハンの指にははまらない。それでも肌身離さず身につけていなければならないから、ヨハンは、丈夫な革の組み紐を指輪に通し、いつも首から下げておくようにしていた。
だからこそヨハンはルビーの姿を見ることが出来るし、ときには命令を下すことだってできる。……半人前と侮られているのか、滅多に言うことをきいてはくれないというのが、なんとも悔しい事実ではあったが。
サンドイッチをかじる手も止めて、十代は、しばらく考え込むような顔で、黙り込んでいた。なんなんだろう。そう思ってヨハンが目を瞬くと、ふいに十代が顔を上げる。そうして、ひどく聞きにくいことを聞くように、「この家って、なんか住んでるのか?」と言った。
「住んでる?」
―――まさか、ジムやオブライエン、カレンのことじゃないだろう。少し考えて、ヨハンは、答えを返す。
「うん、いるな。"善いお隣さん"たちがさ」
「"善いお隣さん"?」
「そういう風に呼ばなきゃなんないんだよ。お隣さんたちは悪口が嫌いだからな。それに、本当の名前なんて呼んじまったら、何をされるか分かんないぜ」
善いお隣さん 。それは、妖精たちのことを指す、一種の隠語だ。本来日本では流儀も呼び方も異なるが、ヨハンは、この《ジムハウス》へ入居するときに、わざわざ自分の住んでいた家に憑いていた"善いお隣さん"を日本にまで連れてきていた。それとも、付いてこられてしまった、と言ったほうが正しいだろうか。
「七竈の木や樫の木は、お隣さんたちの好む木なんだ。ここの庭にはでっかい木が何本もあるだろ? あとは、家につくお隣さんは、きれいに片付けられた家や、勤勉な主婦がいる家のことが大好きなんだ。だから、いつもきれいに家を片付けて、礼儀を尽くしておけば、お隣さんたちはいろいろな幸運を持ってきてくれたり、家事仕事を手伝ってくれたりする」
「……」
十代は、ひどく複雑な顔をしていた。ヨハンは笑った。ぽんぽん、とその栗色の髪を軽く叩く。
「知ってるだろ? 十代がいちばん最初、屋根裏に行った日。あのときだって、屋根裏にはたいして埃も積もってなかったろ」
不思議に思わなかった? と問いかけられて、十代はあいまいに、「うん」と答える。
「オレ一人だと、この家にはとうてい手が回らないからなあ。だから、お隣さんたちが居てくれて、ほんとうに助かってる。さもなきゃ一人で面倒なんて見切れないぜ、こんなでかい家……」
「ヨハンが、毎朝水と牛乳を出してるのも……?」
「ああ、あれはお礼。あの水で顔を洗って、ミルクを飲めるように、出しておいているんだ。半分、習慣みたいなもんだけどな」
あっさりと答えるヨハンに、けれども、十代の表情はいまひとつ張れなかった。やがて、ぽつりと言う。
「……そんなもの、ほんとにいるのか?」
「え?」
「妖精、なんて」
ヨハンは、まじまじと十代を見た。余りに意外な反応だったのだ。
十代には、妖精――― もっともその言い方が正しいかは分からないが――― がつねに付き従っている。茶色い毛玉につぶらな眼、爪の生えた手足と、白い羽をくっつけたような小さな妖精。ヨハンにとってのルビーのような、十代の《家族》。
……よりにもよって、その十代の口から、こんな言葉を聞くとは?
「いるか、いないかって…… そりゃ、見えてるじゃんか」
「でも、ほかの人には見えないんだろ?」
十代の口調は、妙に切迫しているように思えた。こちらを見上げるとび色の眼。ヨハンはたじろいだ。
「う、うーん、そうだけど。妖精を見られるのは、特別な眼をもった人間だけだから……」
だが、十代の次の返事に、正真正銘、ヨハンは絶句することとなった。
「誰にも見えないものが見えちゃうってさ、それって、幻覚って、言わないかな……」
ヨハンは、まじまじと眼を見開いて、十代を見る。十代は自分の顔を隠すように、大きなマグカップを傾けた。咽がこくこくと小さく動く。
はあ、とため息をついてカップを置いた十代は、指についたバターを舐めた。そうして、「ありがとうな」と、さっきまでとは別人のような笑顔を見せた。
「あ、……う、うん」
「小腹もいっぱいになったし、なんだか、今なら寝れそうな気がする。上に戻るな」
「……いいのか?」
ヨハンは思わずそう呼びかける。なんだか、今の十代は、普段とはちょっと違っている気がした。だが、その《違い》が何なのかを見分けるには、あまりに時間が足りなかった。
だが、十代は、にこりと答える。あまりに常識的過ぎて、反論のしようがないことを。
「だってさ、もうこんな時間じゃん。明日起きられないと困るだろ? ヨハン、明日も仕事なんだし」
そのとおり、だったが。
「う、うん」
ヨハンがためらいながら答えると、十代はニッと笑った。そして、大きく口を開いて、子猫みたいなピンク色の舌まで見せて、「ふわぁ」と大きなあくびをした。
「ああ、眠…… もう寝るな。おやすみ、ヨハン」
「ああ、おやすみ……」
そのまま十代は、カップと皿をまとめて、台所のほうへと運んでいった。まもなく、とん、とん、という、階段を登る足音が聞こえてくる。
ヨハンはひどく複雑な気持ちで、自分の胸元に下げられた指輪をつまむ。その焔のようなうつくしい真紅をじっと見つめ、それから、年若い同居人が登っていった二階の屋根裏のほうを、なんとも複雑な気持ちで、見上げていた。
ヨハンの勤める漢方薬局は、その名を、玉兎堂薬局と言う。《玉兎》というのが、月に見える影を兎に見立て、兎が月で臼を打ち、薬を作っているとみなす伝承によるものだと知ったのは、日本に来てからのことだ。幼い頃、月というものはブルーチーズで作られていると聞かされていたヨハンにすれば、なんともいえずエキゾチックな風合いの名前だ。そして、実際に店自体も、なんともいえずエキゾチックだといっていい。
もともとは漢方の根本思想である陰陽五行を元に藩主やらなにやらの典薬医が、のちのちには長崎の出島にくる外国人たちから買い集めた薬まで購ったというのだから、それぞれに弟子を取って受け継いできた《玉兎堂》の漢方理論は、今代の時代になっても、あたらしい理論を常に取り入れては進歩を続けている。最も、跡取り息子が医者になってしまい、今はこの《玉兎堂》にいないのだから、せっかくの理論を後世に伝えられないと、店主は毎日のように愚痴っている。それを聞くのもまた、祖母のつてをたどって、地球の裏側のような日本までやってきた、ヨハンの役割だといえるだろうが。
この薬局には、ほんとうにさまざまな人々が、やってくる。いわゆる調剤薬局ではないから、普通の処方箋は出さない。にもかかわらず、わざわざ新幹線や高速道路をつかってまで訪ねてくる患者がいる。彼らの訴えは本当に種々様々だ。軽いものでは動機やほてりなどに悩む更年期の女性や、子どものアレルギーの症状を和らげたいと願う母親。重いものになると不妊治療に通いつめる夫婦や、医者にもさじを投げられた末期がんの患者までもが訪れる。そうして、今はまだ勉強の身分で診断を行えないヨハンの主な仕事は、店主に言いつけられるがままに薬を探し、レジの番をし、使用法や服用法を説明する、といった類のものだった。
―――古い古い薬箪笥や、アルコール漬けの蛇やサソリの飾られた店内は、いつでも、少し埃臭いような、独特の空気に満ちている。
「ありがとうございました。お大事に」
わざわざ遠くから老母のリューマチの薬を買いにきた男を見送って、ヨハンはため息をついて笑顔を消し、カウンターに戻った。そうして、暇な時間はいつであっても広げている、漢方関係の書籍を取り上げる。当然のようにすべて中国語でかかれているから、辞書は必須だ。そうでなくともヨハンの母語はアジア圏のものですらない。英語くらいはは不自由が無い程度に習熟できても、日本語、中国語になると、やはり雲行きが怪しくなってくる。
縦に書かれることもある、みっしりと詰まった様子の漢字を、そもそものヨハンは嫌いではなかった。だが今日はどうにも頭に中身が入ってこない。ため息をつき、頬杖をついていると、からん、からん、と入り口につるされたベルが鳴った。
「いらっしゃい…… ん?」
それは、どうにも埃臭い薬局には、不似合いな様子の二人連れだった。
紺サージの制服はいかにもレトロなワンピースタイプで、そろいの白いブラウスと、同じロゴのはいった靴下を履いている。一人が一人を突っつき、もう一人がさらに片割れを突っつき返した。ようやくなんのお客なのかを悟る。ヨハンはやれやれと苦笑し、本を閉じた。立ち上がり、カウンターを回り込む。「いらっしゃい」と改めて声をかけると、二人は、びくりと驚いたようにヨハンを見た。
ぽかんと口が開く――― 気分は分かる。うぬぼれるつもりは毛頭無いが、ヨハンは、自分の容姿がどのように見えるのかを知っていた。極東の日本では滅多に見られることのない北欧系の青年。透き通るような翠の髪も、遠浅の海のようなきらめく瞳も、この国では滅多に見られないものだ。妖精めいた線の細い面差しは、さしずめ、古い古いおとぎ話の妖精騎士にでも見えるのだろう。
「もしかして君たち、オレのお客さんかな。それともおばあちゃんのための漢方を買いに来たの?」
「ち、違います。あの、あなたが……」
「うん、オレがヨハン・アンデルセンだよ」
ヨハンは、ニッ、と笑った。
「―――魔女 の、ヨハンだ」
そもそも、そんな話が広がったのは、どういうことがきっかけだったのか。
ヨハンはもともと、自分が祖母から受け継いだハーブ療法をさらに洗練させて、いつか、自然療法の専門家として生計を立てて行きたい、と10代も半ばのころから思い出していた。自分自身が体が虚弱で、化学薬品や西洋医学がないと生き延びられなかったにしろ、日常においては祖母が調合してくれる薬草のほうに助けられた印象のほうが強かったからだろう。痛みに耐えて身体に針やメスを入れたり、つらい副作用に耐えて何種類もの錠剤を呑むよりも、祖母が作ってくれるハーブのお茶を飲んだり、皺だらけの手が精油をたらしてマッサージを施してくれたときの香りのほうが、ヨハンにとってはずっと身体を助けてくれる気がした。無論、西洋医学が重要だということもわかっている。だが、それだけだと病人は辛いばっかりだ。特に長くにわたる病気と闘い続けるには、効き目がより穏やかで優しい自然療法を併用するほうが、ずっと楽に暮らせるというのがヨハン自身の実感だった。
とはいえ、ハーブによる治療法は多岐にわたって伝統があるといっても、それにも限界がある。そもそもの問題として、西洋におけるハーブ療法は、系統だった歴史を持たず、治療体系としてしっかりとした幹を持たないのだ。
おそらくは、薬草の伝統的な専門家である《魔女》たちが迫害された歴史や、西洋医学の発展によって、こちらのほうの医学がすみに追いやられてしまったという理由があるせいだろう。20世紀に入ってハーブ療法の研究もしっかりと始められていたとはいえ、どことなく根拠に欠ける雰囲気の理論が、ヨハンにはものたりなく感じられた。そうして代わりに目に付いたのが、西洋におけるハーブ療法とは違い、数百年、下手をすれば数千年にわたって系統だって用いられていた東洋の医学…… 漢方医学だったのだ。
いろいろとつてを伝って日本の片隅まで流れ着き、今は理論と実戦を勉強している――― とはいえ、ヨハンの意識では、やっぱり最終的には郷里に戻り、祖母から受け継いだハーブ療法と東洋医学を組み合わせることによって、辛い病気に苦しんでいる人々を救いたいと思っている。だから、今は日々が勉強だ。漢方をきっちりと学ぶ一方で、ハーブについて勉強することも忘れてはいない。
……それを、誰に話したのが、最初だったのか。
たぶん、不眠症でここに通っていた患者がきっかけだっただろう。頭痛がひどくて夜中に眠れない、とこぼす彼女に、ヨハンはほんの雑談の一環のつもりで、枕の中に何種類かのハーブをあわせたものを潜ませてはどうか、と提案した。スリーピング・ポプリ。ハーブの使い方としては非常に一般的なものだ。基本は飲んで使う漢方とは違う使い方。結果、ずいぶんと感謝をされたのだから、何が物事の役に立つか分からない。患者たちの間で噂が噂を呼び、店主もそれを面白がって、ヨハンはいつしか副業のようにして、この薬局の片隅で、《魔女業》を営むこととなった。
すなわち――― 種々の薬草の調合。占いやまじない、そして、お守り の作成だ。
「あの、聞いたんですけど、ヨハンさんが…」
「ヨハン、でいいよ。で、たしか君は、先週あたりに電話をくれたコじゃないかな」
ヨハンがにこりと笑うと、二人組みの片方、内気そうな三つ編みの子が、びっくりしたように眼を瞬いた。なんでわかったんだ、という顔だった。
分からないわけが無い。さっきからもじもじと、片割れに隠れているのは彼女のほうだ。そうして、《魔女》なんかに頼りたいと思うような少女たちは、たいがい、簡単には口に出せないようなものを、胸に秘めているものだ。
「待ってて。頼まれたもの、作っておいたから」
カウンターの裏に突っ込んでおいたバックから、ヨハンは、ちいさな布袋を取り出してくる。生成りの綿でつくったちいさな袋。「はい」と手渡すと、戸惑っている少女に、「あけてごらん」と言う。
彼女は、ためらいながら、袋を開ける。手のひらへと転がり出てきたものは、ごつごつとした原石のままの水晶に銀線をからめ、ペンダントトップのようにしたもの。ちいさな銀の車輪もゆわえつけられていた。そして、文字が書き込まれた小さな紙。
六角柱の形のままの水晶の面に、細く文字のようなものが書き込まれ、刷り込まれた顔料が色を付けていた。少女は目を大きく見開いてそれに見入っていた。ヨハンは少し笑い、「そういう見た目のほうが持ち歩きやすいだろ」と言った。
「あ、あの」
「チャームは紙で作ってもいいんだけど、それだと信じにくいだろう? 水晶は正直、ただの飾りなんだけど、そういう形のほうが、君たちには嬉しいかなって思ってさ」
砕いただけの水晶の原石に、ダイヤモンド・ポイントのついたペンでルーンを刻み、そして、紐や鎖を通せるように、銀の針金を絡めて金具を付けた。
もともとヨハンが習っていた流儀では、ふさわしい方法で選んだ石をつかうこともあるし、単純に紙や、場合によってはなめした革を使うこともある。実際、相手によってはヨハンもさまざまな方法を選んだ。
彼女は、真剣な顔で、手のひらに載せたチャームを見つめている。もう片方は顔を上げてヨハンを見た。なんだか妙に怖いような顔をしている。おやおや、とヨハンは思った。何を言うのか、聞かなくても分かりそうだ。
「―――これ、本当に効くんですか?」
「オレはそのつもりで作ったけど」
「……あなたはほんとの魔女で、作ってくれるお守りは、ただのお守りとかおまじないと違って、ほんとに効果があるって聞いたんですけど」
妙に真剣な顔をしているあたり、たぶん、彼女はもう片割れ、水晶のチャームをほしがった子の親友なのだろうな、とヨハンは思う。思ったから、自分の信念のままに、素直に答えた。
「確かにオレは本物の魔女 のつもりだし、魔法を使うときは、いつだって心から真剣にやってる」
でも、とヨハンは言った。水晶を持った少女のほうを見ながら。
「でも、この魔法は願う人が条件を充たさないと完成しない。オレはたしかにチャームを作ったけど、それがほんとに効果を発揮するかどうかは、そっちの子次第かな」
「条件…… ですか?」
彼女は不安げに答えた。ヨハンは笑った。むつかしいことじゃないよ、と言うように。
「心をおだやかに保つこと、誠実になること、それから、秘密を護ること。あとは、繰り返し信じ続けること」
仮に、誰かの病を払う術を使うとき、心が怒りに満ちていたら、それは叶うことは無い。逆も同じだ。悲しみに沈んだ心で勝利を願っても叶うことはない。
嘘をつくもの、己のために不正を行うもの、約束を守れないものには、魔法の力は宿らない。
秘密を護るというのは、すべての魔法に共通するルールだ。日本でも同じだ、ということをヨハンはこの国に来て知り、納得した。日本人だって、神社で買ったお守りの中身を覗くことは、よっぽどのことがないかぎりしないものだ。
そして。
「表に出ようか」
ヨハンは立ち上がり、周りに客がいないことを確認してから、カウンターの上に《ただいま席を外しています》という札を立てた。ミネラルウォーターのちいさなボトルを手にとって、ドアを押した。彼女たちは顔を見合わせた。つきそいで来たほうはやはり少し怒ったような顔をしていたが、三つ編みの少女は、ぎゅっと、水晶のチャームを握り締めた。
道路に面した店の裏に、おおきな桜が一本生えていて、ちょっとしたスペースがあった。車が一台駐車できるかできないか、というくらいだ。だが、今からやることには十分すぎるくらいだろう。
少女にボトルを手渡すと、ヨハンは、空を仰ぐ。上弦の月が東の空から昇り始めていた。朔の日から7日。満月と新月のちょうど中間、魔法を発動させるにはちょうどいいタイミングだ。
「これを、左回りに、自分の周りに撒くんだ。足の裏から力がゆっくりと満ちてくる、それで回りにぐるっと輪を書くことをイメージしながらね」
「は、はい……」
「それから、チャームに息を吹きかけて、そこの紙に書いてある言葉を唱える。心の中で自分がかなえたいことを強く考えながら。でも、願いの中身はオレにも言わなくていいからな」
さあ、やってごらん、とヨハンは言う。
少女はキッと唇をかみ締めた。そして、言われるとおりにボトルの封を切り、水を周囲に撒いた。地面が黒くぬれて、いびつな円を描く。そして、真剣な眼で水晶のお守りを見つめると、蝋燭を吹き消すように、そっと息を吹きかけた。
「車輪は変化、変化は車輪。死から再生へ、馬に乗って。我が行く先は、望む方へ」
一瞬、ヨハンは、眼を閉じる―――
やがて少女が、戸惑い顔で、こちらを見た。ヨハンは頷いた。そして、「じゃあ、さっきの逆だ」という。
「さっき投げた力を、紐をまきもどすみたいにたぐりかえすイメージで、右回りに回る。そうやって魔法円を回収したら、とりあえず、これで終わり」
言われたとおりに少女がやっている間、もう片方の少女は、やっぱり少し疑りぶかい目をして、ヨハンを見ていた。その反応のほうが逆に面白い。ヨハンは軽く眼を見開いて、彼女のほうを見る。
―――電話をくれたとき、三つ編みの少女が願ったこと。それは、《変化を起こすこと》だった。
臆病で人の意見に反対できない自分、惰性の友だちグループにうもれたまま、なにも変わることが出来ない自分。そんなものを変えたい、というのが、彼女の願いだった。
ヨハンが彼女にほどこしたまじないは、たしかに、《変化をもたらす》という効果をもっているはずだ。実際、ヨハンはその効果を信じている。彼女がまじないをかなえられれば、それを信じ続けられれば、彼女は変われるだろう。彼女が望むとおりに。
けれど、そんなやり方が、おそらくこの友人には、子供だましに思えるのだ。ヨハンは軽く肩をすくめて、「どうしたんだ?」と彼女へ言う。
「ねえ、ほんとに、こんなの、意味があるの?」
「そんな言い方、失礼だよ……」
「だってさ、《魔女》なんて言っちゃって、この人男の人じゃない。やっぱりちょっとおかしいよ」
迷信は信じたくない、占いやおまじないに頼るなんてバカな女の子のやることだ――― そう思っているのがありありと分かった。歳よりも背伸びをしたい、すこし頭のいい女の子なら、ありがちなことだ。
「日本語だと《魔女》としか言いようがないけど、もしもそういう言葉が嫌だったら、セイドカーって呼んでくれてもいい。オレは代々アサトルを信望する一族の生まれで、《ガルド》と《トウヴァ》と《セイド》、三つの魔術を行使するものだから。でも、そういう言い方は、ますます信じにくいだろ?」
少女は、すこしひるんだようだった。ヨハンは笑う。
「でも、オレの使う魔術の一番根本のところは、すごく単純なんだ。何があっても信じること、それだけ」
「……それだけ?」
「うん、それだけ」
ヨハンは三つ編みの娘を見た。ややためらいの残る表情で、けれど、胸にしっかりと水晶のチャームを握り締めている少女を。
「君が心の底から魔法を信じて、自分は変われる、変わることができる、って信じ続けられたら、きっとすべてがその通りになる。でも、途中で信じるのをやめてしまったら、そこでおしまいだ。そのチャームには、もう、なんの効果もなくなる」
「……!」
「難しいことじゃないぜ。ときどき信じられなくなることがあっても、そのあと、また信じなおせばいい。ようするにあきらめないのが肝心ってこと。……できそうか?」
澄んだ碧の眼で、ひたと、見据える。
少女はしばらくためらっていた――― だが、やがて、「はい」と言って、しっかりと頷いた。
ヨハンは、嬉しそうに笑った。
「じゃ、中に戻ろうか。お代も貰わないとな。あと、オマケもつけとくから。そっちの子にも」
「え、あたし?」
「ニキビに効くハーブとかほしくないか? お湯で出して、顔を洗うと、膚がきれいになる。すっげえ効くぜ」
しみひとつない乳白色の膚をしたヨハンが言うものだから、とっさに物ほしそうな顔が出てしまうのは、年頃の女の子としてはあたりまえのことだろう。ヨハンは思わず笑ってしまう。
お代、といっても原料費にちょっと色を付けたくらいのものだ。もともと自分の実戦魔術の勉強がてらにやっていることなのだから、ボランティアでもいいくらいなのだが、まったく代償を貰わないというのはこれまた魔術の理念に反してしまう。《魔女》というのも何かとやっかいなものなのだ。
そう思いながら、薬局の中へ戻る…… 戻ろうとする。
だが、金の文字が入った硝子のドアの前へと来て、ヨハンは思わず眼を瞬いた。
「―――十代?」
そこには、ハーフパンツにTシャツを着た、栗色の髪の少年が一人。
片手に大きなバックを下げた十代は、ヨハンを見て、すこしばかり後ろめたそうな顔をする。そして、なんとも居心地が悪そうな風に、「よう」と片手をあげてみせた。
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