とある少年の人生
息せき切らせて駆けつけた境内では、すでに、祭りは半ば以上片付けられてしまっていた。灯を消され、畳まれたテント。鉄柱や天幕が無造作に積み上げられ、残り香はザラメやソースを焦がした匂い。水の匂いをたっぷりと含んだ夜の木立の下、ほんの片隅の方には、まだ、アセチレンランプの蒼い灯を燈している屋台が残っていないわけではないけれど。
石段を登りきったそのままの場所で、少年は、ただ、呆然と立ち尽くした。薄い胸は荒い息に激しく上下し、パーカーの背中は汗でびっしょりと濡れている。それだけ急いで走ってきた、けれど、間に合わなかった。薄いゴム底越しの足底が痛い。
あやうく鼻の奥がつんと金臭くなるが、少年は、慌ててそれをぐっと飲み込んだ。諦めるにはまだ早い。もしかしたら、まだ、一軒くらいは残っているかもしれない。
ポケットの中に小銭を握り締めて、少年は、ゆっくりと歩き出した。屋台を出た香具師たちの中にはビールの缶片手の物もいて、愛想よく客あしらいをしているときとは別人のように粗野に見える。互いに大声を交わしあい、汗ばんだ筋肉を赤銅色に光らせているものもいる。そんなさなかを、少年は、左右を見ながらゆっくりと歩く。探している店は。
参道もすでに端に近いところで、少年は、ようやく目的の店を見つけ出した。店主らしいのは胡麻塩頭にハチマキをした初老の男。段ボール箱に蓋をするのに忙しいらしい男に、少年は、おそるおそる声をかける。
「あの……」
「ん? なんだい?」
男はいかにも面倒くさそうに顔を上げた。
「あの…… ここって、人生を売ってるお店ですよね?」
「ああ、確かにウチはそうだけど…… 悪いが、もう店じまいの時間なんだよ。モノもあらかた売れちまったしねぇ」
悪ぃな坊や、と投げやりな口調で言って、男はふたたび箱の方へと向き直った。そのまま振り返る気配も無い。少年はぐっと喉の奥がつまるのを感じたが、それを隠すように、ぺこりと深く頭を下げた。
再び歩き出す、さきほど同じ文字を染め付けた屋台を探す。しかし、見つける店、見つける店、すでにほとんど店じまいを終えてしまっているか、そうでなくとも品物が売切れてしまっている店ばかり。それほど、人生は子ども達によく売れるのだ。
走りすぎた足が鉛のように重くなる。途中でぶつけた脛が痛い。次第に砂利でも詰め込んだようになっていく胸の重さに、半泣きになりながら、俯いたまま歩いていると……
ふと、誰かに、肩をつかまれる。
目を上げると、そこには。
「……お兄ちゃん」
「帰るぞ」
削ったガラスのような色の眼の少年は、そっけない口調で、そう言った。
「馬鹿だろ、お前。とっくに祭りなんて終わってるに決まってんだろ」
「だって……」
先に歩いていく兄の足は速い。泣き出しそうなのをこらえて俯いて、少年は必死の早足でついていく。
「母さん、心配してたぞ」
「だって……」
口ごもり、何かを言いかけた瞬間、ふと、傍らを誰かが横切った。子ども。少年は一瞬、身体を硬くする。そんな様子にも気付かぬように、子どもは歓声をあげ、一散に傍らを駆けすぎていく。
走っていく先には、路上に止められたままの乗用車。カーランプを点けた車内で年かさの女性が子どもの名を呼ぶ。兄は目を上げた。瞬いた。聞き覚えのある名だったのだ。
はぁい、と答えて乗り込む子どもの腕には、なにやら、ぬいぐるみのような生き物が抱かれていた。小狐のような、仔犬のような。つややかな銀の毛皮に長い尾。はしはしに散りばめた星が、血潮のように赤くきらめく。
間もなく車の扉は閉じ、エンジンをかけて、走り出した。その間、少年はずっと俯いていた。兄は去っていくテールランプを見送っていた。
車は闇に沈んだ木立を巡る。すぐに見えなくなる。聞こえてくるのは、日暮の声と、境内の出店を片付ける声ばかりになる。
「……お前、今日、学校から帰ってくるのも遅かったもんな」
ぽつり、兄がつぶやいた。とたん、目の奥がじわりと熱くなる。目の端から零れた雫が、ぽたん、と音を立てて、まだ熱いアスファルトに落ちた。
……だって、仕方なかったんだ。
……みんなが、ぼくに仕事を押し付けてくから。
……引っ張り出されて放り投げられた図書館の本。一人で腕に積み上げた図書の重さ。
……ぼく一人だけ、お祭りに行けないように、むりやり学校に残るようにしてったから。
胸がぎゅうと苦しくなる。ひっく、としゃくりあげると、止まらなくなった。流れる涙が熱い。両手の拳で握っても、ひっきりなしに流れ出していく。
「……っ、だってっ、みんなが、……っ!」
「……」
「ぼ、ぼくも、お祭り、行きたかったのに……っ」
電気菓子、ガラス飴、のばし蛍火、星金細工。燈された提灯のとりどりの煌きと、心を熱くするようなお囃子の響き。不思議なお面をつけた人々や、巡回サーカスの猫人間や鳥子供たち。
―――なかでも、一番欲しかったのは、『人生』だったのに。
思い出す。ついさっき、傍らを走りすぎて行った子どもの横顔。彼は少年に気付きもしなかった。自分が図書館に閉じ込めて、笑って扉を閉めて行った旧友のことなど、恐らく、すでにすっかり忘れてしまっていたのに違いなかった。
彼の腕に抱かれていたもの。小狐のような、仔犬のような不思議な生き物。紅いビー玉のようなきれいな目。彼の『未来』を具現した姿。じんせい、という名で呼ばれる、不思議な、不思議な夜の生き物。
……それは、縁日のアセチレンランプの下でのみ商われる、とても不思議な生き物だった。
復活祭の日に教会で配られるような、さまざまな彩りに塗られた小さな卵。それを手のひらで孵すと生まれる、その人の未来の『人生』を、ちいさな生き物の形に変えた不思議な存在。
どの手のひらで生まれた人生も、それぞれまるで、違った姿をしていた。空色の小鳥の姿をしたもの、金銀の縞を持った長い尾の猫、宙にあざやかな鰭を揺らめかせる金魚や、まだ稚い鬣を燃え立たせる狼獅子の幼獣。
しゃくりあげながらの少年の訴えを聞き、兄は、いかにも不快げに眉を寄せた。「バカか」とそっけない口調で言う。
「あんなもん、ただの子供だましだ。色塗ったネズミだのヒヨコだのだろ。騙されてんじゃねぇよ」
「そんなことないよぅ」
「明日になったらみんな忘れてるんだよ。大体、『人生』なんてもんが、そんな可愛い格好なんてしてるもんか」
冷たい口調に思わずむっとするが、叫び返そうとした言葉は、おかしな具合のしゃっくりになって消えてしまった。また、じわりと涙が涌いてきた。俯くと頬からぽたぽたと垂れる。アスファルトに染みをつける。
「だって……」
「……」
「……っ、みんなの、ジンセイって、すごいカッコよかったり、キレイだったりして……っ」
「……泣くなよ」
「ぼく、っ、なんて、弱虫だから、変なのしか生まれないだろう、って。……だから、お前には、タマゴなんていらないだろう、って……!!」
兄は細い眉根を寄せた。寂しげな顔をしたらしかった。ぽん、と髪の上に手が置かれる。汗ばんだ髪に涼しい手の冷たさ。
兄の手のひらの冷たさを感じながら、しばし、少年は泣きじゃくっていることしか出来なかった。
弱虫だというのは本当で、いくじなしだというのも本当だ。そうでなければ、一人で、夕方になるまで残されて、泣きながら掃除をさせられるような羽目になることもなかったはずだ。閉じられる重たい扉の向こうから、きらきらと笑い声が背中に降って来たことを思い出す。ガラスのカケラのように背中に食い込み、まだチクチクと痛むあの笑い声。
兄は何かを言いかけ、しかし、また、口を閉じた。と、薄い唇を、強く引き結んだ。弟の手をぐいと取った。
「来い」
「……えっ?」
「お前、人生が欲しいんだろ?」
何、と言いかけるまもなく、兄は、弟の手をぐいぐいと引っ張って、暗闇に沈んだ木立の方へと連れて行く。道脇の草に踏み込むと、とたん、草木の匂いが濃くなった。むせ返るほどの夜の気配。
「お、兄ちゃん?」
すぐに漆でふさいだようになる闇の中、兄は、ためらいのない足取りで歩いていく。途惑いながらも少年は従うしかない。やがて、ふと、向こうに一つの灯が見えてくる。……アセチレンランプを一つ、燈した屋台。
こんな場所に、どうして?
少年がたじろぐよりも早く、兄は、屋台の前にたどり着いてしまっていた。おそらくは森を突っ切ったらしい。下はいつのまにか砂利の道になっていた。屋台の向こうで煙管を吸っているのは恐らくはまだ若い男。おそらく、と言うのは、男の顔は白狐の仮面で覆われ、相貌すらも定かではなかったからだ。
「いらっしゃい」
愛想よく呼びかける声は、奇妙に甲高く、聞けばますます年の頃合も分からなくなる。訝る少年に対し、兄は、冷静な眼で並べられた品物を検分した。そこに並べられているのは、どれも、奇妙にふるぼけた印象の作り物のタマゴばかり。
「これ、一個」
「はい、毎度。……アンタの分はどうすんだい旦那ァ?」
「要らない」
「そりゃ残念」
男は器用な手つきで卵を渋紙で包む。竜のひげでくるくると包むと、「はい」と兄に手渡した。兄はポケットから出した小銭を男に渡す。ちいさなタマゴの包みを、ぽい、と弟に投げて寄越した。
「お、お兄ちゃん……?」
「人生。欲しかったんだろ」
兄は一際に無愛想な口調で答えた――― 屋台の向こうで、狐面の男が、おかしそうにくすくすと笑った。
「弟思いだねェ旦那ァ。……坊やァ。そりゃホンモノの人生だよ。大事にしておくれな」
少年は、ただ、真ん丸く目を見開いた。手元に抱いた小包を見下ろす。……これが、『人生』のタマゴだって?
お兄ちゃん、と呼びかけて見上げると、兄は、ただそっけなく向こうを向いただけだった。狐面の男がまた哂う。煙管の先から昇る煙が、濡れ濡れとした闇に、薄ぼんやりと光っている。
「ほんとに旦那はいらねェんですかい? いやさ、お代なんざァ頂かねェよ」
「うるさい。……さっさと帰るぞっ。母さんに怒られるだろ」
すげなくぷいとそっぽを向くと、兄はぐいと少年の手を掴んだ。貝殻のようにひやりと乾いた手のひら。そのまま再びぐいぐいと手を引っ張って歩き出す。あやうく包みを落としそうになって、あっ、と弟は声を上げた。
「ほんと、残念だねェ」
俺にも本当の一角獣が拝める時が来たのかと思ったのにねェ。呟きの後からすぐに、笑い声が追ってくる。それもすぐに遠のいた。全ては元のように闇に沈み出す。
目の前にも周りにもただ闇。背後にぽつりと提灯の灯が灯るばかり。けれど、兄の白い手ばかりはほの白く浮かび上がるよう。見上げると陶器めいて白いうなじがあり、乱暴に草を踏みしだいていく足音が夜に響く。
無愛想で意地悪な兄。大きくて賢くて冷たくて。けれど、少年にとっては、確かにたった一人の兄であって。
「お兄ちゃん……」
いつの間にか、涙は乾いていた。少年は、自分の顔一杯に笑みが浮かんでいくのを感じた。抱きつきたいと思っても、兄はあんまり早足だから、追いついていくのだけで精一杯だったのだけれど。
「お兄ちゃん、ありがとうっ!」
精一杯の気持ちを込めてそう言っても、兄は、こちらを振り返りすらしなかった。ただ、前を睨んだままの白いうなじで、馬鹿、と小さくつぶやいた。
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