まだおさない少年の手のひらの中におさまるほどの、ごく、ちいさな卵だった。
褪せかけた顔料で描かれた模様。どことはなしに異国めいた意匠。重くはない。振ってみると中に何かが詰まっているという事が分かる。
いったい何が生まれてくるんだろう。どんな生き物が。
四つに折りたたんだハンカチの真ん中に卵を置いて、枕に顎をのせた少年は、どきどきするような気持ちを胸に、ちいさな卵をじっと見つめる。
てのひらに大切にあたためると、その人の、『人生』をあらわしたような生き物がうまれてくるという不思議な卵。
手に入れたのは一週間前の祭りの夜のこと。すでにどこの屋台でも売切れてしまっていた『人生』に落胆していた少年を見かねて、少年の兄が、特別に手にいれてくれた『人生』の卵だ。それ以来、少年は、毎晩のように、大切に卵を抱きしめて眠っている。どんな生き物が生まれてくるのだろうと、そればかりを楽しみにして。
夜店に出されるような子供だましだといわれればそれまでだ。けれど、少年の友人たちは、誰でも、皆、それは素敵な姿をしたそれぞれの『人生』を祭りの喧騒から連れ帰った。真っ赤な目をした蒼い子狐。火花の尾を持つ孔雀鳩。まるで蝶のような模様の羽の銀色の蝙蝠。
どんなのが生まれるのかなあ。少年はうっとりと卵を見つめながら思う。
どんな生き物が生まれるんだろう。ぼくの、『人生』からは……
少年は手を伸ばし、ハンカチ越しに、ちいさな卵を大切に包んだ。そうしてパジャマの胸元に抱き寄せる。横になって体を丸めると、今日はいつものぬいぐるみのかわりに、小さな卵を抱きしめる。少年はそっと目を閉じた……
……真夜中遅くのことだった。
「……お兄ちゃん、お兄ちぁゃん……」
ほとほと、と掌で扉を叩く。泣き出しそうな声で呼びかける。そうすると、しばらくの間を置いて、部屋の扉が、内側から開かれた。
現れたのは少年の兄。寝癖の跳ねた髪をして、不機嫌極まりない表情で、おさない弟を見下ろした。
時間はもう深夜といっても良い頃合だ。窓の外はくらく、円い月が中天よりも向こうにかかっている。なんだよ、と不機嫌な表情で吐きかけて、兄は、ふと、自分の弟が眼に一杯に涙を溜めているという事に気付いたようだった。
パジャマを着たまま、はだしのままで、冷たい夜の廊下に立っている弟。少年。少年はちいさくしゃくりあげながら、手にしていたハンカチの包みを、兄に向かって差し出した。
そこには。
少年の兄は、切れ長な目を、すっ、と細めた。
―――少年の手にしたハンカチの中には、奇妙な生き物が蹲っていた。
兎にわずかに似ている。あるいは、ネズミに似ていると言ってもいいかもしれない。どちらとも判別の付かない、ごく、ちいさな生き物。けれど、その小ささは、決して、可愛らしいと呼ばれるようなものでも、庇護欲をそそられるようなものでもない。
毛のない体には皺がより、赤剥けたピンク色の皮膚があらわになったまま。開けることの出来ない目蓋の下から白濁した眼が覗く。おそらくは盲いているのだろう。生き物は肉塊のような四肢をもぞもぞと動かし、小さな声で鳴いた。……ちぃ、ちぃ。
「……なんだ、生まれたのか」
「お、兄ちゃん!!」
声を出した瞬間、少年の大きな目からは、おおつぶの涙がこぼれおちた。
「これ、なんなの!?」
「なんなのって、お前の人生だろ。……ったく。変な時間に呼んでくるんだから」
兄は、ちいさなあくびをしてみせた。いかにも面倒くさそうに寝癖の頭をかく。
「だって、こんなの…… こんな変な生き物、見たことないよ! なんで僕の卵からはこんなのが生まれてくるの!?」
「それがお前の『人生』だからだろ」
そっけない口調でいうと、にんまりと笑ってみせる。少年はとうとう絶句した。
自分の掌の上でうごめいている生き物。生まれそこなった胎児のような無惨な姿。これが、自分だというのか。自分の人生だというのか。
「こんなの……」
ちぃ、ちぃ、と生き物が鳴いた。少年は詰まる喉を無理矢理に押し出すように、鋭い声を上げた。
「こんなのいらない! お兄ちゃんのバカ!!」
「っと!」
包んだハンカチごとに『人生』を投げつけられて、兄は、びっくりしたようにたたらをふむ。少年は後も見ずに駆け出すと、すぐに、自分の部屋の扉の向こうに飛び込んでしまった。バタン、と乱暴に扉を閉める。
残された兄は、めんどうくさそうな顔で、ガリガリと頭をかいた。
手のひらの中に残されたのは、柔らかいガーゼ地のハンカチに包まれた生き物。赤剥けてむきだしの皮膚をした無力な『人生』。
「……やれやれ」
一人ごちる。投げつけられたショックでか、怯えたように動きを止めている『人生』を、大切に手に包んでやる。苦笑交じりにきびすをかえし、廊下から部屋へと引き返した。
―――ひどいよ。なんで。
―――なんで、ぼくの『人生』だけ、あんな格好をしているの。
―――ぼくが弱虫だから? 臆病で、喋るのが下手で、みんなとおんなじようでいることが出来ないから?
悔し涙にくれながら眠った夜明けは、ひどくはれぼったい重さと共に訪れた。
泣きすぎて腫れた目蓋がうっとおしい。窓から差し込む明るい日光が眩しい。
その日は日曜日、学校が休みの日だった。。拳で目を擦りながら階下に下りると、起きる時間が遅れてしまったせいか、すでに両親の気配は家には無かった。
休日が普通とずれてしまう仕事に勤めている両親だ。日曜日には姿を見ないのはいつものことで、けれど、居間まで下りてきた少年は、兄の姿をソファにみつけて眼を瞬く。
「お兄ちゃん?」
何をしているのだろう。声をかけても振り返る気配は無い。肩越しに手元を覗きこんで――― 少年は、ハッとした。
「遅かったな、ネボスケ」
兄の手元に抱かれていたのは、赤剥けた膚をしたちいさな生き物だ。肉塊のような四肢をぴくぴくと動かしながら、それでも、安らいだ様子で兄の手に抱かれている。兄が手にしているのはビスケットのかけら。それを牛乳でふやかしては、生き物の口元に、丁寧な手つきで運んでやっている。
「お兄ちゃん……」
「お前がおれの部屋においてくからだ。面倒くさいことやらせたりして。このバカ」
口調はいつものぶっきらぼうなものだけれど、その手つきはひどく優しい。恐らくは歯が生えていないのだろう生き物の口元へと、ふやけたビスケットを運んでは、こぼれた雫を丁寧にぬぐってやる。
「ただの屋台なんかで売ってるヤツは、ニセモノばっかり、って言っただろ」
黙って見下ろしている少年のことにも気づかぬように、兄は、ひとりごちるような調子でつぶやく。
「人生なんて、本当は、ぜんぜんきれいなもんじゃないんだ。きたなかったり、危険だったり、薄汚れてたりするもんだ。誰かのことを傷つけるヤツは尖った爪を持ってるし、自分の殻に閉じこもるヤツのは、硬くてトゲトゲした殻に包まれたりしてるもんだ」
少年は兄の手元を見下ろした。赤剥けた皮膚を持つ弱々しい生き物。爪も牙も無い。他のものを傷つけることのできない、他の物から傷つけられても、その身を守ることの出来ない生き物。
けれど、少年は、ふいに気づく。その生き物の背に、ちいさく折り畳まれた、一対の翼があることに。
薄い、蝶の羽のように薄い、細かな鱗粉に包まれた羽。飛ぶことができるのかどうかも分からない。弱々しい、薄い翅だ。
それでも、その翅は、きれいだった。ミルクのような白の中に、ほのかな紅や蒼の挿した色。兄の細い指が喉首をくすぐってやるたびに、ほんのわずか、心地良さそうに、揺れ動かされる。
少年の視線に気づいた兄は、眼を上げた。削ったガラスの色の眼。
「ほら」
無造作な口調で言って、少年の手元にハンカチの包みを放ってよこす。少年は慌てて包みを捕まえた。
指先に体温がじんわりと伝わってくる。ちいさなちいさな心臓が、必死の速さで、トクトクと脈を打っているのが、指先に伝わってくる。
ちぃ、と生き物が――― 『人生』が鳴いた。
何故だか、少年は、声を出すこともできないような気持ちになる。おそるおそる手のひらをすぼめて、そっと、ちいさな生き物を包み込んだ。
そんな弟を見て、兄は、ただ、ふん、と小さく鼻を鳴らす。
「学校、遅刻するぞ」
そっけない口調でそんな風に言うと、ソファの傍らに放り出していたランドセルを取って、立ち上がった。
屋台で売り買いされる小さな生き物が大抵そうであるように、少年の『人生』も、ほんの数日が立つうちに、動きを止めて、冷たくなった。
少年は庭の片隅の百日紅の花の根元に『人生』を埋めた。少年は今でも、月の同じ日になるたびに、百日紅の木の根元には、ビスケットと、冷たいミルクとを供えている。
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